薭田神社(稗田神社) / 東京都大田区

薭田神社(ひえだじんじゃ)
稗田神社(ひえだじんじゃ)

御祭神:誉田別命・天照大神・武内宿禰命・荒木田襲津彦命・春日大神
旧社格:延喜式内社(小社論社)・郷社
例大祭:9月15日前後の土・日
所在地:東京都大田区蒲田3-2-10
最寄駅:蒲田駅・京急蒲田駅・梅屋敷駅
公式サイト:http://hieda.kamatahachiman.org/

御由緒

 式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社である、平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神明帳に記載され、また『三代実録』に貞観六年(864)「武蔵国従五位下蒲田神を以て並びに官社に列す」とあるのが、この神社であろうといわれる。
社伝によれば、和銅二年(709)僧行基が天照、八幡、春日の三神体を刻んで安置し、鎌倉時代(十三世紀後半)に日蓮が村民の請いをいれて開眼したと伝えられる。江戸時代(十七〜十九世紀後半)には隣接の栄林寺が別当であったが、明治初年(十九世紀後半)の神仏分離により独立し、旧社格は郷社に定められた。

(※境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/03/21

御朱印

初穂料:300円
蒲田八幡神社」授与所にて。

※本務社の「蒲田八幡神社」で拝受できる。

薭田神社
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考察

延喜式内社・論社

大田区蒲田に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、旧北蒲田村の鎮守。
延喜式内社「薭田神社」の論社とされている。
正式名称は「薭田神社」だが、常用漢字との兼ね合いで「稗田神社」とされる事もある。
現在は「蒲田八幡神社」の兼務社となっている。

行基や日蓮の伝説

社伝によると、和銅二年(709)に僧行基がこの地に足を留め、天照大神・八幡神(応神天皇)・春日大神の三柱の御神体を刻み奉斎し創建したと伝えられている。
行基は日本で最初に大僧正になり、奈良の「東大寺」の大仏造立の実質上責任者だった人物。
行基は近畿を中心に活動していたので、この辺は創作的な伝説の面も強いかもしれない。

さらに弘安五年(1282)、日蓮宗の宗祖・日蓮が村民の請いを受けて、この三柱の御神体を開眼したという。
こちらについても伝説的な部分で実際のところは明らかではないのだが、日蓮は蒲田からほど近い池上との縁も深いため、何らかの縁があった可能性はあるかもしれない。

社伝の部分の信ぴょう性はあまりないように思うが、いずれにせよ、三柱の御神体(神像)がお祀りされていたのは事実であり、当社が古くから崇敬を集めていた神社なのは間違いない。

境内には古墳があったとされる

その証拠となるのが、当社が古くから祭祀圏、信仰の対象の地であったという事。
現在は本務社である「蒲田八幡神社」もそうであるが、境内には古墳があったとされている。

大田区に登録されている情報だと、当社が包蔵地とされ、境内からは古墳(円墳)があるとの記載がある。
古墳時代のものと推定され、古くから蒲田には人の生活があった事が分かっている。

古墳や祭祀遺構などに、後になって神社を建てるケースは全国的によく見られる。
都内でも境内から古墳が発見されるケースは多く、これらは偶然ではないと思われる。
特に多摩川下流域には古くから生活圏があったため、こうした例が多い。

古くから人々が生活をし、祭祀権・信仰の場であった場所に神社ができる。
信仰の結びつきへの想像は容易であり、自然な事に思う。
当社は、創建以前より神聖な地とされていたのは間違いないように思う。

延喜式内社「薭田神社」とは

平安時代に編纂された『日本三代実録』には、貞観六年(864)「従五位下蒲田神」とあり官社に列したことが分かる。
この事から古くは「蒲田神」をお祀りする「蒲田神社」であったのだろう。

また、延長五年(927)に完成した『延喜式神名帳』には「薭田神社」という名が残っている。
そのため当社は式内社とされている。

この『延喜式神名帳』に掲載されている「薭田神社」が当社だったのか。
それについては現在のところ不確定なのが実情であり、「薭田神社」の所在は不明となっている。
そのため当社の他に、「御田八幡神社」「鵜ノ木八幡神社」なども、比定社となっている。

それ以前の『日本三代実録』に「蒲田神」の名がある事や、蒲田の地名が古くから成立している事から、『延喜式神名帳』にある「薭田神社」は本来は「蒲田神社」の誤写であったという説も根強い。
仮に「蒲田神社」が正しかった場合は、当社が間違いなく式内社という事になる。
いずれにせよ古くから信仰が篤い古社だったのだろう。

江戸時代の資料から見る

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(北蒲田村)
八幡社
除地2段1畝10歩。海道より西の方にあり。当社は「延喜式」神名帳に載せたる薭田の神社なりといふ。それも古記録の徴とすべきことあるにもあらず、又古くより人の口碑に傳へたりといふにもあらず、近き頃住せる別当寺の僧おもへり。神名帳に当郡薭田神社のことを載せたれど、後世たえて沙汰なし。兼て郡中を捜索するに、それと覚しき大社もなし。しかるに此社の前の地を古へより神戸と唱へ、神戸橋などいへる橋もあり。是は全く後の世にたてし八幡の社につきてともおもはれず、いかさま往古より神社のありし地なるへし。よりておもふに当社この薭田神社なるべけれとて、頓て神祇管領吉田家へ其ことを告て、判を請しに、吉田家にてもさもこそあらめとて薭田の号を許されしとぞ。是は「武蔵風土記」に薭田八幡の社をのせて、神戸巫戸などあるよし見ゆれば、かく云にや。それより此社を古への神社なりと云。されど又郡内三田町八幡社、八幡塚村八幡社、及ひ鶴の木村名主五郎左衛門が宅地にある祠等皆古の薭田神社なりといへり。
かくまちまちにしてことに明證もあらざれば、いづれをそれともさだめがたし。抑薭田神社のことは、「延喜式」神名帳に、武蔵国荏原郡薭田社とありて、小社のよしを注せり。又「武蔵風土記」に薭田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、式内宿禰荒木田襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日始行神体、有神戸巫戸等と見えたり。
然るに今当社の祭神は天照太神八幡春日の三座なり。いづれも木像にてその彫刻ははなはだ古質なり。太神は鉾を逆に杖つきて巌の上に立たまふ容なり。八幡は左の御手に弓をとりたまひ、右の御手にて御はかせの柄に手をかけたまへる立像なり。二体ともに長2尺7.8寸、試に佛師をして観せしめしに、刀痕はなはだあらし、とかくに鎌倉将軍家の時代より以上のものならんといへりしとぞ。春日の像は新宿分村の時わかちて彼村の鎮守とせりとぞ。
この社傳によれば、彼「風土記」にいへる祭神
とおなしからざれば、それも疑なきにあらず。本社1間に1間半、拝殿2間半に2間。数歩をへだてて石鳥居をたつ。両柱の間2間、社地一叢の木立しげりて寂莫たり。側に小池あり。溝を設けて社地を廻らす。祭礼は年々正月15日。神楽を奏して祭る。当社古は神主金子某と云もの、社内をあづかりしに、故あって寛文の頃より栄林寺の持となれり。
寶物叟仮面一枚。龍頭一箇。鉾一本、右いづれも古物なれり。
末社
稲荷社
本社より左の方にあり、棟札に天和3年正月9日とあり、わずかなる祠なり。
稲荷社
おなじならびにあり。妙正明神社。同じならびにあり、祭神詳ならず。
稲荷社三ヶ所
いづれも小祠にて前の三祠とむかひてたてり。

この時代の当社は「八幡社」と記載されている。
創建時は、天照大神・八幡神(応神天皇)・春日大神の三柱が御神体であったが、この頃には八幡信仰の色合いが強くなり「八幡神社」の扱いとなっていた事が分かる。

さらにかなり詳しく『延喜式神名帳』にまつわる話を書いているのが興味深い。
他の比定社の事も記載してあり、その当時から「薭田神社」についての論考があったようだ。

当社が「薭田神社」を名乗るようになった事についても記載されている。
要約するとこういった形になる。

『当社の別当寺であった「栄林寺」の僧が、『延喜式神名帳』に「薭田神社」と載っているが、その情報が絶えており、荏原郡中を捜索してみるがそれらしい大社も見当たらない。色々と歴史的な面や伝承、地名などを推定してみると当社が「薭田神社」だった可能性が高いように思う。そこで、神祇管領吉田家へその事を告げて判断を仰いだところ、吉田家より「薭田」の号を名乗ることを許された。』

このように、当時から「薭田神社」という文字があるものの、それらしき大社が見当たらず色々と推論があった事が分かり、別当寺の僧が神祇管領に判断を仰ぎ、現在の「薭田神社」を名乗る事が許されたとある。
こうして見ると、やはり『延喜式神名帳』の「薭田神社」は誤写であり、『日本三代実録』にも記されていた「蒲田神社」が正解だったようにも思う。

また、御神体の三体の神像のうち一体(春日像)が、分村のおりに分祀された事も記されている。
これが現在は当社の本務社である「蒲田八幡神社」である。

神仏分離で郷社・戦争の影響

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)には郷社に列している。
蒲田周辺の神社は村社・無格社が多いため、その中でも郷社に列している事から、その当時の当社の規模の大きさを感じさせてくれる。

その後、第二次世界大戦の戦禍で社殿が焼失。
昭和二十九年(1954)に再建されている。

戦後の復興において、蒲田周辺では蒲田駅の中心に位置する「蒲田八幡神社」の力が強くなるように。
古くは当社の鎮守である北蒲田村より分村した、蒲田新宿村の鎮守であった「新宿八幡神社」であったが、蒲田の中心にあったため「蒲田八幡神社」と改称した事もあり、以後はこちらに神社の実務的な部分は移るようになったようだ。
そのため現在は当社は「蒲田八幡神社」の兼務社という形になっている。

歴史的に見ると当社のほうが古社として規模が大きかったように思うが、分村した際に当社から三神像のうちの春日像を遷し当社の分社のようにも思える「蒲田八幡神社」が、戦後は中心となり、当社の本務社となっている事に、移り変わりの面白さを感じてしまう。

兼務社ながら整備された境内

兼務社という扱いで普段は無人の神社なのだが、それでもある程度の規模を感じさせてくれ整備された境内になっている。

社号碑には「延喜式」の文字。

石鳥居は寛政十二年(1800)に奉納されたもの。

大田区指定文化財で、大田区内の鳥居では最古のものという。

社殿は平成十二年(2000)に竣工した新しい社殿。
古くは江戸時代からの社殿だったというが、第二次世界大戦によって焼失。
昭和二十九年(1954)に再建された後、さらに平成十二年(2000)に新造営された。

兼務社でありながらも、再建、さらに新築と氏子による崇敬の篤さが伝わる社殿。
新しいながらも格を感じさせてくれる立派な造りになっている。

境内社は「三十番神社」「稲荷神社」「薬祖神社」。
「三十番神社」は三十柱を祀るという神仏習合の信仰。

日蓮宗で盛んに行われていたため、別当寺であった日蓮宗「栄林寺」との関係も伺える。
「薬祖神社」は地主神だという。

他にも合祀の際の記念碑などが置かれている。
境内は綺麗に整備されていて、普段は無人とは思えない。
それだけ氏子によって大切に管理されているのだろう。

御朱印は本務社である「蒲田八幡神社」の授与所にて。
当社境内では普段無人のため拝受できない。

所感

延喜式内社の論社として歴史ある古社。
古くは蒲田周辺で最も規模が大きな神社だったのは間違いない。
現在は兼務社という形になっているが、社殿も新しくなり境内も大変綺麗。
これだけ綺麗に維持されているのは、氏子による管理や崇敬の賜物であろう。
氏子による式内社に比定される古社の意地を思わせてくれる。
とても兼務社だと思えない崇敬を感じさせてくれる良社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 鳥居 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]




[ 本殿・拝殿 ]

[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 三十番神社 ]

[ 稲荷神社 ]

[ 薬祖神社 ]

[ 石碑 ]


[ 境内 ]

[ 会館 ]

[ 案内板 ]

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