穴八幡宮 / 東京都新宿区

神社情報

穴八幡宮(あなはちまんぐう)

御祭神:應神天皇・仲哀天皇・神功皇后
旧社格:村社
例大祭:9月15日
所在地:東京都新宿区西早稲田2-1-11
最寄駅:早稲田駅
公式サイト:─

御由緒

 康平五年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧進し、永く東北鎮護の社として祀られました。
 寛永十八年(1641)宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八幡宮と唱えられるようになりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。この頃神木の松から瑞光を放ち、色々奇瑞のあったことが、三代家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。
 慶安元年(1648)社殿再興の折りに幕府から氏子として牛込郷三十六ヶ町が定められ、翌年の慶安二年(1649)社殿を始め数々の殿舎が竣工し、八千八百余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い、以後江戸屈指の大社として重んぜられました。その後も幕府により数次にわたって造営・営繕が行われましたが、特に元禄十六年(1703)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。
 安政元年(1854)青山火事のために類焼し、幕府より造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。その後、昭和初年に旧事の盛観に復しましたが、今次大戦により社殿はことごとく罹災しました。しかし戦後はいち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志等により平成元年から慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿の造営をはじめ、平成十年の随神門竣工をもちまして往時を偲ぶ姿に復し、引き続きその他の再建、また境内地の整備に着手し今日に至っています。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/12/14

御朱印

初穂料:志納(お気持ち)
社務所にて。

※「一陽来復御守」が頒布期間中の冬至から節分までは御朱印の授与がされないため要注意。

御朱印帳

初穂料:1,000円(朱印代込)
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
シンプルで無地の緑系のデザインに、背面に牛込高田穴八幡宮と記されたもの。

※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。

授与品・頒布品

一陽来復御守
初穂料:800円(2015年時)
授与所にて。

※毎年、冬至から節分までの期間限定で頒布される。

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考察

牛込総鎮守・一陽来復御守で人気の神社

東京都新宿区西早稲田に鎮座する神社。
旧社格は村社で、「赤城神社」と共に牛込の総鎮守。
かつては「高田八幡宮」とも呼ばれていた。
八代将軍・徳川吉宗が奉納した流鏑馬は高田馬場流鏑馬として現在も続く。
冬至から節分までの間限定で頒布される「一陽来復御守」は、金銀融通の御守として人気が高く、御守を求めて大行列ができる事でも知られる。

源義家(八幡太郎)による創建

社伝によると、康平五年(1062)に源義家(八幡太郎)による創建と伝わる。

康平五年(1062)、源義家は父の頼義と共に、前九年の役にて奥州の安倍氏を滅ぼす。
奥州からの凱旋の途中、日本武尊の故事に倣い、この地に兜と太刀を納め、東北鎮護の社として八幡神を祀ったという。

源義家は、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、更に室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる人物。
山城国(京都)「石清水八幡宮」で元服した事から「八幡太郎」と称し、源氏の氏神である八幡神を篤く崇敬した人物として知られる。
関東圏にある八幡神社の御由緒に多く名を見る事ができ、当宮もそうした流れの中での御由緒によるものであろう。

以来、御神木の下に祠が祀られていたと伝わり、当時は小さな祠のみの神社で、長い間荒廃していたものと思われる。

高田馬場の由来とその鎮守

寛永十三年(1636)、三代将軍・徳川家光によって家臣の馬術の訓練や流鏑馬のための馬場・的場が造営され、当宮を守護神として祀った。

この馬場・的場を地名から「高田馬場」と呼ぶ事になり、これが高田馬場の由来である。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

こちらは『江戸名所図会』に描かれた高田馬場の様子。
流鏑馬をしており的場として使われていた事が伝わる。
こうして当宮は「高田八幡宮」と称された。

穴より神像が出現したため穴八幡宮と称される

寛永十八年(1641)、宮守の庵を造るために、南側の山裾を切り開いたところ横穴が現れ、金銅の阿弥陀如来像が出現した。
ここで云う宮守の庵とは、当社を管理するいわゆる別当寺の事であり、現在も隣接する「放生会寺」(現・放生寺)を造営する際に横穴が出現した事になる。

放生寺の公式サイト。放生寺は金銀融通の御札「一陽来福」創始のお寺。放生会、虫封じのお寺としても信仰いただいております。諸願成就の霊場「御府内八十八ヶ所」「江戸三十三観音」の札所

こうして瑞祥のあった神穴がある事から「穴八幡宮」と称されるようになった。
「放生寺」が別当寺となり、神仏習合の元で一体となり崇敬を集めた。

一説では、当宮が鎮座する小高い丘は、前方後円墳とも見られている。
古墳の上に神社が建てられる事はよくある事であり、そうした中で神像が出現したとも見る事ができるだろう。

徳川将軍家からの庇護・徳川吉宗奉納の流鏑馬

寛永十八年(1641)、こうした瑞祥があった事から、牛込西部(当地周辺)を与えられていた幕府の祐筆・大橋龍慶が社地を献上し、社殿を造営。

この頃には、神木の松から瑞光を放ち、様々な奇瑞があった事から、別当寺「放生寺」は「光松山」と云う山号で呼ばれるようになり、こうした奇瑞が三代将軍・徳川家光にまで届いたため、家光は当宮を江戸城北の総鎮護とした。

こうして将軍家祈願所となり、それ以降は歴代の徳川将軍が度々参拝し、社殿の造営なども行うなど庇護される事となった。

慶安元年(1648)、社殿再興の折りに幕府から氏子として牛込郷三十六ヶ町が定められる。
慶安二年(1649)、社殿を始め数々の殿舎が竣工。
元禄十六年(1703)、江戸権現造り社殿が造営され壮麗を極めた。

こうして幕府により多くの社殿や境内の造営・改修が行われており、約8800坪程の境内地に壮麗な建物が立ち並ぶ、江戸屈指の大社として崇敬を集めた。

享保十三年(1728)、八代将軍・徳川吉宗が、世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納。
流鏑馬はその後も徳川将軍家の世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納されるようになった。

こうした事もあり、特に蟲封じの御利益があると、江戸庶民からも信仰を集める事となる。

江戸切絵図から見る穴八幡宮

徳川将軍家の祈願所、江戸の大社として崇敬を集めた様子は、江戸の切絵図からも見て取れる。

(大久保絵図)

こちらは江戸後期の牛込・市谷周辺の切絵図。
右が北の切絵図となっており、当宮は図の右上に描かれている。

(大久保切絵図)

当宮周辺を拡大し、北を上にしたものが上図になる。
左には「高田馬場」という、流鏑馬が行われた幕府の馬場・的場が描かれている。
右手下にあるのが「穴八幡」と別当寺の「放生寺」で、当時から立派な境内であったのが伝わる。

さらに通りを挟んで北側にあるのが「水稲荷社」。
現在の「早稲田水稲荷神社」であり、当時から当宮と共に崇敬を集めた。
早稲田、甘泉園に隣接する水稲荷神社のホームページです。当神社は水と緑の鎮守、日本稲荷古社の随一と言われております。各種行事、神社の御案内、御祈願の受付、授与品など掲載しておりますのでぜひご覧ください。連絡先は03-3200-4621まで、商売繁盛、家内安全、身体健全その他御相談下さい。

江戸時代の史料から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(下戸塚村)
八幡社
穴八幡と号す。正八幡なり。神功皇后仲哀天皇を合祀す。共に大橋龍慶霊端を得て、牛込榎町の古榎樹を以て彫刻し、寛永十九年四月八日多磨郡中野宝仙寺住僧秀雄開眼せる由裏銘あり。社傳に云、此所おり八幡の小祠及ひ阿弥陀堂あり、年を経て荒廃し、神木の老松一樹残りしか。寛永十三年御持弓頭松平五新左衛門直次に属せし同心の輩[同心居宅は早稲田にあり]彼神木近き所に的場を築きしに、其松に鳩三羽つつ宿りて神霊影向の端ありければ、相謀て同十八年石清水八幡宮を勧請し良昌をして別当たらしむ。依て草庵を造営せんとて山麓を穿ちけるに、一つの穴あり人々怪しみ燈を取て内を伺へは、銅佛の阿弥陀長三寸許なるを得たり。是八幡の本地なれはとて、則神殿に安置し、今に秘佛とすと、「寛永記」「江戸雀」等に載る所も社傳と大同小異あり。同年大猶院殿御放鷹の時当社へ御立寄あり。此俊厳有院殿御誕生あらせられ、又別当良昌兼て霊夢を蒙りし次第を聞召され、殊に当社を御崇敬ありて慶安元年本社以下諸堂社に至るまで悉く御建立あり。其時当山の地形は加賀中納言利常寄進し、其余の諸侯旗本の士も当社以下を寄附せり。明る二年落成して遷宮の式を行はる。この年厳有院殿御参詣、其後社地に御舞臺を作られ、大猶院殿成らせられ、能上覧有て後に神事能興行あり。役者大蔵勤む、御名代柳生但馬守に命せらる。年経て社頭回禄の後延宝六年御再建あり。棟札の文に(中略)。
元文二年諸堂社助成のため、本所松井町にて千五百坪の町屋敷を賜ひ、延亨二年当社祭礼の時、神輿の旅所として牛込神楽坂上にて二千七百十五坪を拝借地に成給ふ。此内九百二十坪は麹町にて替地を給ひ、今神楽坂上には続に三百坪残れり。又元文三年二月九日竹千代君御降誕の事により、当社へ御報賽のため高田馬場に於て流鏑馬興行あり。それより以来御厄年及若様御降誕等には、必当社御祈祷として流鏑馬の式あり。又社傳に永承中源頼義、安倍貞任征伐之後当国豊島郡へ八幡三社鎮座の一なりとみえたれど、固より據とすへき事なければ爰にて記載せす。例祭八月十五日、昔はこの邊の三十六ヵ町より鉾練物等を出し、牛込神楽坂旅所まで、神輿を渡し、牛込御門外にて天下安全の御祈祷修行せしと云。今は廃して社地内のみ式あり。
(社宝、末社、境内などの説明も大変多く記載されているため省略)
別當。放生會寺。

下戸塚村の「八幡社」として記されている。
穴八幡と称されていた事、御神木の下に祠があった事、神穴の瑞祥などが記されている。

境内については大変詳しく記載されており、あまりに多いため、多くの説明部分は省略させて頂いたが、それぞれの項目からも徳川将軍家祈願所の大社だった事が伺える。
別当寺「放生寺」と共に、神仏習合の元で多くの境内整備がされていた事が分かる。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

3ページに渡って描かれた当宮。
こちらでは「高田八幡宮」として描かれており、「世に穴八まんといふ」と注釈もある。
広大な境内地と多くの整備された建物を見る事ができ、元禄十六年(1703)に造営された大変壮麗な社殿や、御宮、本地堂、若宮なども見ることができる。

また当宮から別当寺までの坂道には「出現地」も描かれている。
こちらは現在は「出現殿」として整備されている場所。

このように大社として徳川将軍家からの庇護だけでなく、江戸庶民からの崇敬も集めた。
「赤城神社」と共に牛込の総鎮守とされ、牛込周辺は、当宮と「赤城神社」の両社の氏子として祭礼に奉仕していたと伝わっている。

その後、安政元年(1854)、青山火事によって社殿が類焼。
幕府より社殿が再建される予定であったが、幕末の動乱もあり、仮社殿のまま明治維新を迎える事となった。

明治以降と戦後の再建

明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。

江戸屈指の大社が村社に留まったのは、上述のように幕末から仮殿で再建がしばらく成されなかった事と、徳川将軍家の祈願所として、江戸幕府の庇護のもとで崇敬を集めた神社であったため、政治的な判断や庇護を失い衰微したものと思われる。

明治十二年(1897)、当時の皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷を行う。
これは古くから蟲封じの御利益があるとされていた事によるものである。
その後、社殿の再建も行われている。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により多くの建物を焼失。

昭和三十六年(1961)、御鎮座900年事業として本殿を再建。
平成元年(1989)、慶安・元禄の設計絵図に基づいて拝殿など社殿の造営が行われた。
平成十年(1998)、随神門も再建。
平成二十七年(2015)、鼓楼も再建された。
こうして戦後の境内整備によって、往年の姿を取り戻す立派な境内となっている。

現在では特に冬至から節分に頒布される「一陽来復」御守で多くの人気を博している。

広く綺麗な境内・再建された随神門

最寄駅の早稲田駅から早稲田通りを西に進むと大きな鳥居が見えてくる。
鳥居の先には石段があり、左手には上掲した流鏑馬の像が置かれている。
その先には二之鳥居と石段が続いていく。

石段を上り二之鳥居を潜るとさらに石段が続く。
こうして小高い丘に鎮座しているのだが、前方後円墳の上に鎮座しているとも云われている。

この石段の先に立派な朱色の随神門(光寮門)。
平成十年(1998)に再建されたもので、まだ新しさを感じる。

その先に参道が続き右手にはセンサー式の手水舎があり、隣には布袋尊像の珍しい水鉢。
徳川家光が奉納したと伝わる同型の水鉢が社宝にあり、それのレプリカとして造られたもの。
本物は慶安二年(1649)に造られ、新宿区指定有形文化財となって保管されている。
このレプリカの水鉢は、布袋尊像を撫でる形も多いようで色が艶やかになっている。

再建された立派な社殿・神武天皇遙拝所・出現殿

参道を進むととても立派な社殿となる。
平成元年(1989)、慶安・元禄の設計絵図に基づいて再建された社殿。
『江戸名所図会』に描かれていた権現造りの社殿とほぼ同じ造形であり、往年の姿を偲ばせてくれる。
社殿内の撮影は禁止のため撮影はしていないが、中もとても立派な作り。

境内の左手には再建された鼓楼。
平成二十七年(2015)に造営されたばかりだが、江戸時代も同じ位置に鐘楼を見る事ができ、こうして鼓楼として再建されたものとなっている。

境内の左手には神武天皇遥拝所。
南西にある奈良県「橿原神宮」の方向を向いており遥拝できる場所となっている。
ここに置かれる狛犬は、頭に宝珠を乗せており、宝暦五年(1755)に造られた古いもの。

神武天皇遙拝所の隣から、旧別当寺「放生寺」へ続く石段がある。
この石段の右手にある玉垣に囲まれた場所が出現殿。
中に入る事はできないが、ここが「穴八幡宮」の由来となった神穴がある場所。
『江戸名所図会』にも出現地と記されている場所である。

御朱印は、拝殿の左手にある社務所にて。
「一陽来復」の力強い文字の墨書の御朱印となっている。
なお、「一陽来復御守」が頒布期間中の「冬至〜節分」までは御朱印の授与がされないため注意が必要。

金銀融通の御利益・冬至から節分までの一陽来復御守

当宮は毎年、冬至から節分まで期間限定で頒布される「一陽来復(いちようらいふく)御守」が特に有名。

金銀融通の御利益があるとされ大変な人気で、大行列になる。
境内も授与所までこうして待機列が設けられるほどであり、冬至の日などはこれでも収まりきれず境内の外まで行列ができる程。

一陽来復とは

一陽来復とは、易経での冬至を表す言葉。

易経では、6個の陰陽でその月を表している。
旧暦10月は6個が全て陰になる月で、冬至のある旧暦11月は陽が1個現れ、残り5個が陰となる。

旧暦11月に陽が1つ現れる事から「一陽」。
冬至に太陽の力が最も弱わり、その後に回復していく事から「来復」。
これが「一陽来復」。

すなわち「これよりは良い方向に向かう」というポジティブな意味合いを持った言葉である。

こうした一陽来復を金銀融通の御利益としたのが当宮の「一陽来復御守」。
元禄年間より続く風習であり、財運・金運アップ、商売繁盛として、今も多くの人気を集めている。

一陽来復御守とは

一陽来復御守は、白い紙を丸めたような円筒系の立体的な構造となっている。
中にお祓いを受けた金柑と銀杏が1個ずつ包まれている。
金柑の「金」と銀杏の「銀」で「金銀融通」の御利益があるとされる。

ポジティブな意味合いを持つ「一陽来復」を金運に特化させた御守と云えるだろう。

一陽来復御守の頒布期間

この一陽来復御守は、冬至から節分までと頒布期間が決まっている。

最新は、2016年12月21日より2017年2月3日までの頒布となる。

頒布が開始になる冬至の日は、朝5時から夜21時まで授与所が開く。
早朝から大行列となり、例年徹夜組が並ぶくらいの人気。
冬至の日は、最低でも1時間以上は並ぶと思ったほうがよいだろう。

冬至の日以降の年内は、8時から19時までの頒布。
2017年の元日から節分までは、9時から17時までの頒布との事。

一陽来復御守の祀り方

一陽来復御守には独特な祀り方が用意されている。
基本的には授与された際に、その説明書きを渡されるのでそちらを読むのがよいだろう。
毎年、祀る方角が変わるため、しっかりと読むのがよい。

冬至・大晦日・節分のいずれかの24時ちょうどに、文字を翌年の恵方に向け、恵方と反対側の高いところに貼るというもの。

24時ちょうどというのは、大晦日なら1月1日の0時という事になる。
この3日のみのいずれか、それも24時ちょうどに貼らなければならないとされている。

その年の恵方については、毎年説明書きに書いてあるのでそちらの指示に従うとよい。
なお、2016年冬至から2017年節分に頒布の一陽来復御守の恵方(翌年の恵方)は、「丁・壬の年」北北西やや右の方位角345°となっている。
そのため、一陽来復御守を貼る場所は、反対側の南南東やや左の方位角165°の高い場所となり、恵方に文字を向けて貼る必要がある。

スマートフォンのコンパスアプリなどを利用するのが望ましい。
冬至から節分までは、当宮に多くの露店が出るため、そうした露店で方位磁石の販売や、貼りやすいような台紙なども売っているので、そうしたのを利用するのもよいだろう。

なお、一度貼った御守は1年間動かさないようにする。
移転などやむを得ない場合は取り外して神棚に納めるか、神社へ納めるようにとされている。

所感

牛込の総鎮守である当宮。
江戸時代には徳川将軍家の祈願所として、江戸屈指の大社となり崇敬を集めた。
それにまつわる流鏑馬は、一時中断があったものの、今も続いている。
江戸庶民からの崇敬も篤く、蟲封じの祈祷は古くから有名であった。
そして江戸中期より続く、金銀融通の「一陽来復御守」は現在も大変な人気となっている。
冬至になるとこれを求める人々で大行列となるのは、もはや早稲田地区の風物詩であろう。
戦後に再建された境内は、江戸屈指の大社であった往年の姿を偲ばせる境内となっており、とても立派に整備された事からも当宮への崇敬の篤さを感じさせてくれる。
現在も東京を代表する良社の一社に違いない。

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神社画像

[ 一之鳥居 ]

[ 玉垣 ]

[ 流鏑馬像 ]

[ 案内板 ]

[ 参道 ]

[ 二之鳥居 ]

[ 石段 ]

[ 随神門 ]


[ 参道 ]


[ 手水舎 ]

[ 社殿 ]





[ 狛犬 ]


[ 布袋尊像・水鉢 ]


[ 神輿庫 ]

[ 一陽来復待機列 ]

[ 授与所 ]

[ 鼓楼 ]

[ 神武天皇遥拝所 ]


[ 狛犬 ]


[ 出現殿 ]


[ 南側鳥居 ]

[ 石碑 ]

[ 案内板 ]

Google Maps