大森春日神社 / 東京都大田区

神社情報

大森春日神社(おおもりかすがじんじゃ)

御祭神:天児屋根神・建御賀豆智神・伊波比主神
社格等:村社
例大祭:6月17日に近い土・日曜
所在地:東京都大田区中央1-14-1
最寄駅:大森駅・平和島駅
公式サイト:http://kasuga-jinja.la.coocan.jp/

御由緒

神社の由緒
春日神社の御本殿には、天児屋根神(あめのこやねのかみ)・建御賀豆智神(たけみかづちのかみ)・伊波比主神(いわいぬしのかみ)という三柱の神様がおまつりされています。全国にある春日神社の総本社であります奈良の春日大社と同じ神様で、学問と武道の神様です。
古文書などの記録が残っていないのではっきりとしたことは分かりませんが、言い伝えによると鎌倉時代に奈良の春日大社からこの地に神様をお迎えしておまつりを始めたそうです。現在の御本殿は昭和十三年に建設されたものです。鎌倉時代以来約700年近く、この地域とこの地域に住む氏子さんをお守りいただいています。
春日神社の御神域
JR大森駅から池上通りを南西に15分ほど歩いたところにある、春日神社。二方(にほう)を幹線道路が走り喧騒な場所に思われますが、道一つ入ると閑静な住宅街になります。中層アパートに囲まれつつあるものの、境内は古(いにしえ)の空気をそのままに、先人(せんじん)が守り受け継ぎ、清浄な空間を保っています。そこでは、一年を通して古式ゆかしく神が祭られています。
南西から吹く風が都会の粉塵を祓い清め、御神域は常に清浄を保っております。一歩大鳥居をくぐれば、静寂な世界につつまれ、欅(けやき)の大木に抱かれつつ参道を歩みます。
早朝や通勤前のお参り、毎月御神酒をお供えになる方等、老若男女さまざまな方が、心静かに神様を拝んでいます。
都会では限られた緑となった「鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)」。この御神域で、日常生活では感じられない「神気(しんき)」を受けて、心の再生と充実、そして日頃神様に守られていることへの感謝に思いを致し、折に触れて御参拝ください。(頒布の資料より)

参拝情報

参拝日:2018/01/15(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/11/17(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

[2018/01/15拝受]

[2016/11/17拝受]

歴史考察

大田区中央鎮座の春日神社

東京都大田区中央に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧新井宿村の鎮守。
戦前の社殿が現存しており、地域一帯の鎮守として親しまれている。
正式名称は「春日神社」だが、他との区別から「大森春日神社」とさせて頂く。
旧地名から「新井宿春日神社」、現住所から「大田区春日神社」とされる事もある。
現在は「天祖・諏訪神社」の兼務社となっている。

鎌倉時代に春日大社より勧請される

創建年代は不詳ながら、鎌倉時代の創建と伝えられる。
当地に仮寓した鎌倉の残党が、春日信仰の総本社「春日大社」の御分霊を勧請したと云う。

「春日大社(かすがたいしゃ)」は、奈良県奈良市に鎮座する神社。全国に約1,000社ある春日神社の総本社。中臣氏(後の藤原氏)の氏神を祀るために平城京に創建。世界遺産「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。

鎌倉の残党という表現から、鎌倉時代末期の創建と推測できる。
当地は古くから「新井宿(あらいじゅく)」と呼ばれており、その鎮守として崇敬を集めた。

池上道(平間街道)と呼ばれた古い街道沿いに鎮座

当社前の通りは、古くは「池上道」とも「平間街道」と呼ばれる街道であった。
現在の池上通りの北側にある旧道で、古代より駅馬が置かれていたと云う。

駅馬(えきば)とは、駅家(えきか)と呼ばれた古代日本の駅路沿いに整備された施設に置かれていた馬で、通行に供用された。

延長五年(927)に編纂された『延喜式』の巻二八・兵部省諸国伝馬条にはこう記されている。

武蔵国駅馬。店屋。小高。大井。豊島各十疋。

「大井」は、古くの大井郷を指していると見られ、大井郷にあった新井宿あたりが、この駅馬が置かれた場所であったと推測できる。

新井宿という村名も古代に置かれた駅家(宿場)が由来と思われる。

鎌倉時代になると、池上道は「下道(したのみち)」と呼ばれた街道で整備される。

下道は、鎌倉から奥州(東北)までを結ぶ道であり、それ故に大田区周辺には鎌倉幕府の御家人などの知行地も多く、鎌倉との結びつきを感じさせる神社も多い。
鎌倉の残党が当社を創建したと云うのも、そうした街道沿いにあった事に由来しているのだろう。

創建当時の氏子は9軒に過ぎなかったと伝わるが、古い街道沿いの農村だった当地の氏神として崇敬を集めた。

江戸時代の新井宿村・新井宿村の鎮守

天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
この際、遠州山名木原村の木工作事の旗本・木原七郎衛兵吉次に新井宿村の地頭職を命じた。
以後、徳川政権下では、木原家が新井宿村の領主となり治める事となる。

木原家が特に崇敬したのが、同じ新井宿村にある「荒藺ヶ崎熊野神社」と、その別当寺「善慶寺」。
「善慶寺」は当社の別当寺も務めていたため、「荒藺ヶ崎熊野神社」と共に新井宿村の鎮守として崇敬を集めた。

旧新井宿村の熊野神社。万葉集で詠まれた荒藺ヶ崎。善慶寺の山門の先にある参道。急勾配で緑が生茂る男坂。女坂にある衆善稲荷神社・義民六人衆。熊野三山を勧請して創建。「日光東照宮」の余り木を使い社殿を造営。御朱印。
当社前の古道である池上道(平間街道)は、江戸時代になると海岸沿いに新しい東海道が出来たため、平間街道は脇街道となり廃れていく。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(新井宿村)
春日社
村の南の方池上道の東側にあり。本社九尺に二間半。社前三十歩を隔て、鳥居をたつ。村内善慶寺持。
末社。天神稲荷疱瘡神合社。本社に向ひて右の方にあり。

新井宿村の「春日社」として記されているのが当社。
池上道沿いに鎮座していた事が分かり、天神稲荷疱瘡神合社が末社として鎮座していた。

村内の「善慶寺」が別当寺であり、「善慶寺」は上述したように「善慶寺」に隣接する「荒藺ヶ崎熊野神社」の別当寺も担っていて、共に新井宿村から崇敬を集めていた事が伝わる。

東京都大田区にある日蓮宗法光山善慶寺は、義民六人衆霊場・大森鬼子母神として東京都史跡・文化財に指定されている日蓮宗のお寺です。隣接する瑞雲館ではお通夜の式場としてご利用可能です。

明治以降の当社と新井宿村の歩み

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。(昭和初期に村社に昇格)

当時、新井宿村の村社とされたのは「荒藺ヶ崎熊野神社」であった。

明治二十二年(1889)、市制町村制施行に際し、新井宿村と不入斗村が合併し入新井村が成立。
当社は「荒藺ヶ崎熊野神社」と共に新井宿鎮守の一社として崇敬を集めた。

明治三十九年(1906)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、現在も変わらない。
入新井村の地名、旧村名の新井宿の文字も残されている。
現在は新井宿の地名は残っていないものの、当地周辺は古くから新井宿と呼ばれた一帯であった。

昭和十三年(1938)、現在の社殿が造営。
同年、村社に昇格。

昭和四十年(1965)、順次行われていた住居表示によって新井宿が廃止。
旧新井宿村の地名は、山王・大森北・大森西・南馬込・中央といった住所に分けられ、公式には消滅。

現在の当社の氏子区域は大田区中央周辺の6町会。

昭和五十四年(1979)、社務所が新築。
現在は「天祖・諏訪神社」の兼務社となっているが、社務所に人の常駐があり管理されている。

旧大井村濱川町(浜川町)総鎮守。東海七福神・福禄寿。天祖神社と諏訪神社の合祀によって誕生。平安時代より鎮座する天祖神社。江戸時代初期に創建の諏訪神社。江戸時代の史料から見る当社。両社の間に架かる泪橋(浜川橋)。立派な弁天池。御朱印。

境内案内

住宅街に鎮座・明治時代の狛犬や整備された境内

最寄駅は大森駅もしくは平和島駅になるが、いずれも徒歩15分ほどの距離と、やや距離があり、環七通りと池上通りの交差点近くの住宅街と商店が混在する地域に鎮座している。
昭和十三年(1938)に建てられた鳥居で、現在の社殿と共に建てられた。社号碑には「村社春日神社」の文字。

鳥居を潜った両脇には一対の狛犬。
明治二十五年(1892)奉納という古いもの。
子沢山の江戸流れ狛犬となっている。

鳥居潜り正面左に手水舎。
比較的立派な手水舎ではあるが、残念ながら水が張られていない事が多い。

鳥居から見て左手に綺麗に整備された参道が伸びていく形となっている。
とても綺麗に整備された境内と参道。
石碑などが置かれた参道右手は庭園のように綺麗に整備されている。

戦前の社殿が現存・春日造の本殿

鳥居から左手に直角に曲がった形で参道が伸びる。
その先に立派な社殿。
社殿は昭和十三年(1938)に造営されたもの。
戦火を免れた社殿で、状態もよく綺麗に管理されているのが伝わる。
拝殿の扁額には「春日宮」の文字。

本殿は境内からほぼ見る事ができない。
但し、境外の裏手から確認する事が可能。
正面から見れないので分かりにくいのだが、春日信仰らしく春日造の本殿となっている。

春日造(かすがづくり)とは、「春日大社」本殿に代表される神社建築様式の一つ。切妻造・妻入で、正面に片流れの庇 (ひさし) が接続。仏教建築の影響を受けている建築様式と云える。

境内の裏手から本殿を確認すると近くに明神橋の石碑(柱)が残る。
かつて平間街道と平行して流れた六郷用水に架かる橋で、古くから重要な街道沿いにあっただけでなく、六郷用水という村民にとって大切な用水に囲まれていた当社の歴史を伝えている。

旧本殿の用材を利用した神楽殿

現在の社殿が造営される前の旧本殿は、現在神楽殿として利用されている。
旧本殿の用材を使用したと云い、重厚感を感じさせる造り。
木鼻にも彫刻が施されており、江戸後期から明治にかけての作風となっている。

境内社は参道左手に稲荷社。
『新編武蔵風土記稿』には末社として天神稲荷疱瘡神合社の文字が見え、そのうちの稲荷社が祀られているのであろう。
この境内社も昭和十三年(1938)に造営されたと云う。

御朱印は授与所にて。
天祖・諏訪神社」の兼務社であるが、人の常駐があり書いて頂ける。
書き手がいない場合も書き置きの用意があるのでお願いすると良いだろう。
とても丁寧に対応して頂いた。

所感

旧新井宿村の鎮守の一社である当社。
古代からの大変古い歴史を持つ街道沿いに鎮座しており、地域からの崇敬を集めた。
兼務社ながら境内が綺麗に整備されているのも、氏子崇敬者からの崇敬の賜物であろう。
数年前の例大祭の際に参詣した事があったのだが、2年に1度行われる本祭では、狭い道ながら露店も多く出て、城南神輿が勢い良く渡御していく姿を見る事ができた。
現在も地域からも崇敬が篤く、この日も多くの方々が参拝に訪れていて、地域に根付いた神社なのが伝わる素敵な鎮守である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 社号碑 ]

[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]

[ 参道 ]


[ 拝殿 ]




[ 本殿 ]



[ 神楽殿 ]


[ 稲荷神社 ]


[ 倉庫 ]

[ 神輿庫 ]

[ 石碑 ]





[ 社務所 ]

[ 授与所 ]

[ 絵馬掛 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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