高輪神社 / 東京都港区

港区

概要

高輪一帯の総鎮守の高輪神社

東京都港区高輪に鎮座する神社。
旧社格は村社で、高輪一帯の総鎮守。
創建時は稲荷信仰の神社として「稲荷神社」と称されたお稲荷様。
境内には聖徳太子を祀る「太子宮」が鎮座。
現在は都営浅草線沿線の八社による「東京福めぐり」の一社となっている。
令和二年(2020)に開業した高輪ゲートウェイ駅は当社の氏子地域で、東京五輪に合わせて再開発が始まった一帯の守り神としても信仰を集めている。

神社情報

高輪神社(たかなわじんじゃ)

御祭神:宇迦御魂神
相殿神:誉田別命・猿田彦神
社格等:村社
例大祭:9月10日
所在地:東京都港区高輪2-14-18
最寄駅:高輪ゲートウェイ駅・泉岳寺駅
公式サイト:─

御由緒

 御創建は室町中期明応年中で、お稲荷様、八幡様、猿田彦様をお祀りし、境内社には聖徳太子様をお祀りして居ります。恒例の初詣、鎮火祭、節分祭、中祭、例祭、七五三詣の他、三年に一度神社大神輿の渡御が例祭日に近い日曜日に斉行されます。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2023/08/09(御朱印拝受)
参拝日:2020/04/06(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/08/03(御朱印拝受)
参拝日:2015/04/30(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:志納
社務所にて。

歴史考察

稲荷社として創建・高輪の地名由来

社伝によると、明応年間(1492年-1501年)に創建と伝わる。
稲荷信仰の神社として創建したため「稲荷社」と称された。

弘化二年(1845)の大火で古文書などが悉く焼失しているため、御由緒は江戸時代以降の地誌に頼る部分が多い。

江戸時代なると高輪村が成立。

高輪(たなかわ)の地名由来
大永四年(1524)に北条氏綱(ほうじょううじつな)と上杉朝興(うえすぎともおき)の両軍が当地周辺で衝突。
結果的にこの戦いを足がかりとして北条軍が江戸城を勝ち取り城主となった「高縄原の戦い(たかなわはらのたたかい)」が発生。
「高縄原」とは高縄手道(高台のまっすぐな道の意味)の略とされる。
この高縄原が転じて高輪原となり、現在の「高輪(たかなわ)」となった。
高輪(たかなわ)
東京都港区ホームページです。

当社は高輪村の鎮守として崇敬を集め「稲荷社」とも「高輪稲荷」とも称された。

太子堂や庚申堂の建立・当社と並ぶ形で鎮座

明暦年間(1655年-1658年)、太子堂を建立。
聖徳太子が自作したと伝えられる聖徳太子十六歳の尊像を祀ったと云う。

太子堂は現在の境内社「太子宮」。

さらに庚申堂を建立。
「四天王寺」豪範僧都の作と伝えられる青面金剛像を祀っていたとされる。

庚申堂は神仏分離後に「猿田彦神社」に改称され、現在は本殿に合祀。

当時の当社は「稲荷社」「太子堂」「庚申堂」が並ぶ形で鎮座。
神仏習合のもとで地域からの崇敬を集めた事が窺える。
現在も境内社「太子宮」の石門などに当時の面影を残す。

当社は東海道に面していたため往来する人々からの崇敬も篤かったと云う。

高輪村の東海道に面した地域は、発展と共に町奉行所の管轄へ入る事に。
一帯は芝車町・高輪町(北町・中町・南町)となり、当社はそうした町内の鎮守も担った。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「太子堂」「稲荷社」「庚申堂」と書かれているのが当社。
「稲荷社」が現在の本社となる。

目の前が東海道・その先はすぐ海
前の通りが当時の主街道である東海道(現・第一京浜)。
そのすぐ先が江戸湾(東京湾)の海になっていて、埋め立てによって現在とは海岸線の位置がかなり変わってくるのが見てとれる。
街道沿いに鎮座する当社が大いに崇敬を集めた事が伝わる一枚。

(江戸名所図会)

当社を中心に拡大したのが上図。

当時は「稲荷社」を中心として「太子堂」と「庚申堂」が両脇に鎮座していた。
境内の左手には鐘楼が描かれており、神仏習合の世の中と当地の信仰の様子を知る事ができる。
いずれも「常照寺」(現・廃寺)の管轄だったようで、当時の当社の別当寺にあたる。

『江戸名所図会』に描かれている一之鳥居は今も改修されつつ現存。
また当社の前には門前町が開かれていた事が窺える。

青山火事で社殿焼失と再建

弘化二年(1845)、青山火事によって社殿が焼失。
石門・鳥居等を残し、社殿・社宝・古文書等を悉く焼失している。

『江戸名所図会』に描かれた境内はほぼ焼失したと云ってよいと思われ、しばらくは仮殿で再建。境内の配置もかなり変わったとみられている。
青山火事(あおやまかじ)
弘化二年(1845)に発生した火事。
焼失した町126・武家屋敷400・寺社187・死者800–900人。

安政七年(1860)、土蔵造りの本殿を再建。

幣殿・拝殿が建立されるのは明治十五年(1882)まで待つ事となる。

切絵図から見る高輪周辺

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(芝高輪辺絵図)

嘉永三年(1850)の三田・芝・高輪周辺の切絵図。
右が北の地図で、当社は図の中央に描かれている。

(芝高輪辺絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社。
切絵図には「稲荷」が離れて記され、南側に「庚申堂」「太子堂」を見る事ができる。
また「来成寺」とあり別当寺「常照寺」は青山火事による焼失で廃寺になったものと思われる。

「稲荷社」「太子堂」「庚申堂」が並ぶ形で鎮座して描かれていた『江戸名所図会』と様子が違うのは、弘化二年(1845)の大火で類焼した影響によるものであろう。

神仏分離の影響・高輪神社へ改称

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、「稲荷神社」として村社に列する。

神仏分離後の太子堂と庚申堂
当社境内には『江戸名所図会』にあったように、かつて「稲荷神社」「太子堂」「庚申堂」が並んでいたが、神仏分離のため仏教色の強い「太子堂」は「耳聴神社」、「庚申堂」は「猿田彦神社」と改称し、当社の末社という形となった。

明治十年(1877)、鵜来森(現・高輪3丁目付近)に鎮座していた「八幡神社」を合祀。
明治十五年(1882)、幣殿・拝殿を建立し、幕末に再建した本殿を改修。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
高輪の地名も見る事ができ、当社は高輪一帯の総鎮守であった。

すぐ近くが海だった
注目すべきは海岸線で、芝浦が埋め立てられる前の時代。
当社の前には東海道(現・第一京浜)、その先には海が広がっていた事が分かる。
現在よりも景観のよい地であったと思われる。

昭和四年(1929)、社号を「稲荷神社」から「高輪神社」と改称。
高輪の総鎮守という意味合いでの改称であろう。

当時は当地近くを走る市電の停留場が「庚申堂前」となっており、稲荷社よりも庚申堂が最も庶民に知られていた事が窺える。

昭和五十五年(1980)、現在の社殿を造営。
この頃には「猿田彦神社(かつての庚申堂)」が本殿に合祀されている。

令和二年(2020)、山手線の新駅・高輪ゲートウェイ駅が開業。
当社は再開発されている一帯の鎮守も担う。

境内案内

最寄駅は高輪ゲートウェイ駅・第一京浜沿いに鎮座

最寄駅は山手線の新駅である高輪ゲートウェイ駅。
再開発されている一帯の鎮守も当社は担う。

JR東日本:駅構内図・バリアフリー情報(高輪ゲートウェイ駅)
JR東日本高輪ゲートウェイ駅構内・バリアフリー情報のご案内をいたします。
江戸時代や明治まで現在の高輪ゲートウェイ駅のあたりは東京湾の海であった。

徒歩数分の第一京浜沿いに当社の社号碑が立つ。
通りに面した金属製の鳥居は平成三十一年(2019)に建立。
「高輪神社」「高輪太子宮」の提灯が掲げられている。
社号碑には「高輪神社」の文字。

江戸時代前期の古い石鳥居が現存

その先が参道になっていて奥に鳥居。
石鳥居は寛文七年(1667)に奉納されたものが現存。
『江戸名所図会』に描かれていた鳥居が改修されつつ今も残っている事となる。
当社は江戸後期の大火によって境内の殆どが焼失したため、こうして現存している事が喜ばしい。
鳥居の石柱には太子講による奉納と記されており、当時の「太子堂」への崇敬の篤さが伝わる。

鳥居を潜り石段を上ると左手に手水舎。
この手水舎の水盤も古い。
文政五年(1822)に奉納されたもので現在も使用されている。

戦後に再建された社殿

参道の正面に社殿。
昭和五十五年(1980)に造営されたもの。
その後、平成に入ってから改修を経ているが、大変綺麗に維持されている。
よく晴れた日に参拝すると社殿が輝いて見え、それだけ大切にされているのが伝わる。

当社に祀られる三柱
元は稲荷社であった当社だが、明治以降に近隣の八幡神社と、境内社であった庚申堂(猿田彦神社)が合祀されたため、主祭神は稲荷神である宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)、相殿神として八幡神である誉田別命(ほんだわけのみこと)・導きの神である猿田彦神(さるたひこのかみ)が祀られ三柱となっている。

拝殿前には江戸時代中期の狛犬

社殿の前に置かれている狛犬が大変年代の古いもの。
宝永六年(1709)に奉納された銘が記されている。
『江戸名所図会』に描かれていた一之鳥居横にあった狛犬がこの狛犬であろう。
ずんぐりとした体躯。
どことなく愛らしい。

聖徳太子を祀る太子宮

社殿の左手には境内社の「太子宮」が鎮座。
聖徳太子を祀る太子宮。
かつては「太子堂」と称されていた仏堂で、神仏分離の際に「耳聴神社」に改称。

「耳聴神社」に改称されたのは聖徳太子の豊聡耳伝説によるものだろう。

戦後になり「太子宮」という呼称に改称。
かつての太子堂に置かれた聖徳太子像は太子が16歳の時に自ら作ったものと伝えられている。
江戸時代には「稲荷社(高輪神社)」「太子堂」「庚申堂」と並び鎮座していたが、現在は「庚申堂」は当社に合祀されたため、当社と「太子宮(旧・太子堂)」が並び立つ。

太子宮の前にも一対の狛犬。
こちらはかなり小ぶりの狛犬で可愛らしい。
小ぶりながら凛々しい表情。
個性的な造形となっている。

古い石門・力石・石橋など

この太子宮を囲む石門(外壁)が古い。
安政四年(1857)の文字を見る事ができる。
さらに文政十年(1827)と記してあり、幾度かの奉納や改修を経て作られた石門。
壁の裏の両脇には彫刻も施されている。
こちらも鳥居同様に太子講による奉納と思われ、当時の人々の太子堂への篤い崇敬が伝わる。

太子宮の周囲には力石なども置かれている。
江戸時代に氏子衆が力比べに使ったもの。
港区の文化財となっている。

太子堂の石門前には石碑など。
 一画が石橋になっているのが特徴。
氏子による奉納。

高輪神社の御朱印・東京福めぐりの一社

御朱印は社務所にて。
いつも丁寧に対応して下さる。

御朱印は「高輪神社」の朱印に、「高輪神社社務所之印」。
ここ十数年変わらぬ御朱印を授与している。
こちらは2023年8月に頂いた夏詣御朱印。

平成二十八年(2016)には都営浅草線沿線の八社によって「東京福めぐり」が開始。
当社はその中の一社となっている。

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所感

高輪鎮守として崇敬を集める当社。
稲荷神社として創建し、太子堂や庚申堂といった神仏習合による信仰を集めていた事が伝わる。
かつての東海道沿いに鎮座し、現在も第一京浜沿いに鎮座しているため人通りも多く、当社に立ち寄って参拝をしていく姿をよく見る事ができる。
『江戸名所図会』にも描かれた鳥居や狛犬が現存しており、歴史を感じさせつつも新しく綺麗な社殿や太子宮との融合は素晴らしい。
規模としてはこぢんまりとした神社ではあるが、地域の歴史を伝える良社である。
再開発が進む高輪ゲートウェイ駅周辺の鎮守も担うため、地域の新しい歴史も見守っていくのであろう。

Google Maps

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