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概要
落語狛犬で知られる綾瀬の五兵衛さま
東京都足立区綾瀬に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧五兵衛新田の鎮守。
江戸時代初期に金子五兵衛によって開拓された五兵衛新田の鎮守として創建。
明治から戦後しばらくは「五兵衛神社」に改称し「五兵衛さま」として信仰を集めた。
「綾瀬神社」「綾瀬北野神社」と共に「綾瀬三社」の1つに数えられ、いずれの神社も現在は当社の兼務社で、当社は綾瀬の中核神社となっている。
境内には落語家・三遊亭円丈が奉納した落語狛犬がある事で知られている。
神社情報
綾瀬稲荷神社(あやせいなりじんじゃ)
御祭神:宇迦之御魂命
相殿神:菅原道真公・水波能売神
社格等:村社
例大祭:9月13日前後の日曜(3年に1度神幸祭)
所在地:東京都足立区綾瀬4-9-9
最寄駅:綾瀬駅
公式サイト:http://www.ayaseinari.jp/
御由緒
綾瀬稲荷神社の御鎮座は、江戸時代の初め、村人が浄財を出し合い、伏見稲荷より、御分霊を勧請申し上げて西向きに祀宇をし、慶長19年(1614)正月吉日に御鎮座されました。日本史上では、豊臣氏と徳川氏とが争った「大坂冬の陣」の起こった年にあたります。江戸時代は『稲荷神社』と称し、明治7年に『五兵衛神社』、昭和42年に『綾瀬稲荷神社』と改称し、400年の長きに亘り、地域の氏神様として、崇敬されております。拝殿の奥にあるご本殿は、天保14年(1843)築造の総欅造りの建物です。現在目にする拝殿は、昭和57年の建立です。(公式サイトより)
歴史考察
江戸時代初期に五兵衛新田の鎮守として創建
社伝によると、慶長十九年(1614)に創建と伝わる。
京都の「伏見稲荷大社」より勧請されたと云う。
当地は江戸時代初期に五兵衛新田として開拓された土地。
入間郡金子村(現・埼玉県入間市)から当地へ移住してきた金子五兵衛によって開発されたため、金子五兵衛の名を取り五兵衛新田と呼ばれた。
金子家はその後、五兵衛新田の名主となっている。
明治に成立した綾瀬村(現在の綾瀬一帯)は、五兵衛新田・伊藤谷村(伊藤谷新田)・弥五郎新田・次郎左衛門新田と4つの村(新田集落)が合併してできた村。
開拓者であり名主であった金子五兵衛を中心とする村人たちによって、五兵衛新田の鎮守として創建された。
新編武蔵風土記稿に記された稲荷社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(五兵衛新田)
稲荷社
村の鎮守なり。観音寺持。
末社。天神社。
五兵衛新田の「稲荷社」と記されているのが当社。
「村の鎮守なり」とあるように五兵衛新田の鎮守であった。
末社として「天神社」が記してあり、現在は本社に合祀されている。
別当寺は現在も隣接する「観音寺」であった。
足立区綾瀬にある真言宗豊山派の寺院。
賢智上人が開山、当地を開拓した金子五兵衛が開基。
稲荷山蓮華院と号して「稲荷社」と称した当社の別当を担った。
幕末には数日間だが新選組が屯所の1つとして使用。
天保十四年(1843)、本殿を造営。
この時の本殿が覆殿に保護される形で現存。
新選組が19日間だけ屯所とした五兵衛新田
当社が鎮守した五兵衛新田は新選組との縁が残る。
幕末に活動した浪士隊。
江戸で浪士組として結成され様々な画策があった末に上京し壬生浪士組を結成。
その後「新選組」を名乗り、京都で治安維持活動や尊王志士の弾圧活動を行った。
池田屋事件などの活躍、ダンダラ模様の浅葱色の隊服、「誠」の隊旗が有名。
一方で局中法度による内部抗争や粛清も多かった。
局長・近藤勇、副長・土方歳三を始め、副長助勤は組長として10番隊まである平隊士を統率し、一番隊組長・沖田総司、二番隊組長・永倉新八、三番隊組長・斎藤一などが知られる。
慶応四年(1868)、旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が開始。
鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた新選組は、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州街道を甲府城へ進軍するが、甲州勝沼の戦いにで板垣退助率いる迅衝隊に敗れ江戸に敗走。
同年3月13日、江戸から退却した新選組が五兵衛新田に到着。
近藤勇に率いられた一隊48名は、名主見習・金子健十郎の屋敷を屯所として宿泊。
15日には土方歳三が到着し100名以上に増加、4月1日には227名に達した。
金子健十郎の屋敷では収まらず、村内の新宅・滝次郎宅・「観音寺」(当社の別当寺)の3か所へ分宿させた。
4月1日、新政府軍も千住宿まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組は夜に急遽移動を開始し流山に移動した。
明治以降の歩み・五兵衛神社へ改称・綾瀬村の成立
明治になり神仏分離。
明治七年(1874)、村社に列し「五兵衛神社」へ改称。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行によって、五兵衛新田・伊藤谷村(伊藤谷新田)・弥五郎新田・次郎左衛門新田と保木間村飛地が合併して綾瀬村が成立。
当地は綾瀬村五兵衛新田となり地域の鎮守として崇敬を集めた。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で、今も昔も鎮座地は変わらない。
綾瀬村、そして五兵衛新田といった地名も見る事ができる。
緑円で囲ったのが「綾瀬神社」、橙円で囲ったのが「綾瀬北野神社」。
綾瀬駅から近い「綾瀬稲荷神社」「綾瀬神社」「綾瀬北野神社」のを「綾瀬三社」と総称。
現在はいずれも「綾瀬稲荷神社」(当社)の兼務社となっている。
昭和七年(1932)、足立区が成立し旧五兵衛新田は足立区五兵衛町となる。
昭和十八年(1943)、綾瀬駅が開業。
戦後になり境内整備が進む。
昭和四十二年(1967)、「五兵衛神社」から現在の「綾瀬稲荷神社」へ改称。
昭和四十三年(1968)、住居表示が実施され五兵衛町は廃止、現在の綾瀬の町名となった。
昭和五十七年(1982)、拝殿を造営。
この拝殿が改修されつつ現存。
平成十二年(2000)、落語家・三遊亭円丈氏によって落語狛犬が奉納。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
綾瀬駅北側に西向きで鎮座
綾瀬駅から徒歩数分、北側の住宅街に鎮座。
昭和四十三年(1968)に建立された鳥居。
西向きに置かれていて、これは京都の「伏見稲荷大社」の方角を向いて創建されたため。
「綾瀬稲荷神社」の社号碑。
鳥居を潜って真っ直ぐの参道。
参道の右手に手水舎。
身を清める事ができる。
江戸時代後期に建立された鳥居
参道途中に二之鳥居。
文化七年(1810)建立の鳥居が現存。
補修を経ているが状態も良い。
二之鳥居を潜ると一対の神狐像。
巻物を咥えた凛々しい神狐。
宝珠を持つ神狐。
戦後造営の拝殿・江戸時代後期の本殿
参道の正面に社殿。
拝殿は昭和五十七年(1982)に造営。
権現造りの社殿。
控えめな彫刻。
本殿はガラスで覆われた覆殿の中に納められている。
光の反射で中を見る事が難しいが天保十四年(1843)の本殿が現存。
落語家・三遊亭円丈が奉納した落語狛犬
拝殿前に一対の狛犬。
平成十二年(2000)に落語家・三遊亭円丈によって奉納された狛犬。
円丈氏は狛犬研究家としても知られる。
落語協会所属の落語家で落語協会常任理事。
円丈とも圓丈とも書く。
主に新作落語を得意とする。
落語研究家としても知られ平成八年(1996)に日本参道狛犬研究会を設立。
狛犬研究家としても知られる円丈氏からの奉納狛犬。
その狛犬の造形や表情もとてもユニーク。
噺家らしい創意工夫も。
台座の上に座布団、さらにその前に扇子・手拭・茶托とまさに落語狛犬。
台座には故・5代目柳家小さんの書と狐の絵。
落語狛犬奉納についても記されている。
有形民俗文化財の富士塚などの境内社
鳥居を潜って左手に富士塚。
山包綾瀬講によって整備され五兵衛富士や綾瀬富士などと称された富士塚。
元は境内の南側にあったと云うが昭和二年(1927)に北側に移された。
現在は残念ながら登拝はできないが当時の形を残す富士塚。
山頂には浅間神社。
昭和五十八年(1983)に区の登録有形民俗文化財とされた。
富士信仰(浅間信仰)に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。
本物の富士山に登拝するのは困難でも富士塚に登って富士を拝めば霊験あらたかとされ、江戸を中心に関東圏には数多くの富士塚が築山される事となった。
鳥居を潜って右手に三峯神社。
かつては綾瀬川岸に鎮座していたと云う。
昭和四十六年(1971)に当社の境内に遷された。
その奥には小祠。
神狐と御神輿の2種類の御朱印
御朱印は2種類用意してありどちらにも「稲荷神社」の朱印。
右には「五兵衛神社」の印もあり旧社号を偲ぶ。
所感
五兵衛新田の鎮守として創建された当社。
五兵衛新田はその名の通り金子五兵衛によって開拓された土地。
幕末には新選組が僅かながら滞在していたりと知る人ぞ知る土地である。
明治には「五兵衛神社」に改称し、五兵衛さまとして親しまれた。
境内には古い鳥居や富士塚が残る他、落語狛犬は狛犬好きからしたらたまらないユニークな狛犬。
綾瀬三社と称される神社は全て当社の兼務社になっていて、まさに綾瀬の中核神社。
綾瀬の一画である五兵衛新田の歴史を伝える良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
参拝情報
参拝日:2021/05/24
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