寄木神社 / 東京都品川区

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神社情報

寄木神社(よりきじんじゃ)

御祭神:日本武尊・弟橘姫命
相殿神:西宮大神・大己貴命・少名彦尊
社格等:村社
例大祭:1月14日・5月14日
所在地:東京都品川区東品川1-35-8
最寄駅:新馬場駅
公式サイト:─

御由緒

 日本武尊東夷御征伐の砌、相模国の海中にて、南風烈しく吹き、御座船覆らんとする時、弟橘姫命、御船を救わんと海神の怒りを鎮めようと御入水さられた後日、船木等当浦に流れ寄り、此處に神靈を観請したと言ふ。兜島伝説、源義家奥州征伐の折、此處に馬を止め、当寄木神社の由来を漁人にお聞きになり、自ら神を祭り軍の勝利を祈願しました。奥州平定の帰路に再び当社に詣でられて兜を奉納した。以後この地は兜島と言われた。
 亀の甲社のいわれ。明治の末、品川浦に大海亀が迷い込み漁師大勢で捕へたが、不幸にも独り繋ぎ綱を首に巻き付けて死んだ。この甲を当時の小学生音楽隊を先頭にして上野博物館に寄贈し、此處に祠を建て靈を祭った。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/07/22

御朱印

初穂料:300円
荏原神社」社務所にて。

※御朱印は本務社「荏原神社」で拝受できる。

寄木神社

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歴史考察

南品川漁師町の鎮守

東京都品川区東品川に鎮座する神社。
旧社格は村社。
南品川にあった漁師町の鎮守。
江戸時代の頃より「荏原神社」の末社となっている。

日本武尊と弟橘姫命の伝説

社伝によると、『日本書紀』にも記されている日本武尊とその妻・弟橘媛の伝説が当社の創建にまつわると伝えられている。

以下に、『日本書紀』にも記されている伝説を現代語訳で抜粋。

さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」と言われた。ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなかった。そのとき皇子につき従っておられた妾があり名は弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。皇子に申されるのに、「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」と。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。時の人は、その海を名づけて、馳水といった。こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた。(日本書紀 上 全現代語訳より)

物語を完結にまとめると、日本武尊が東征の折、相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)へ向かうため走水の海を船で渡ろうとした。
しかし、海神の怒りによって海が大いに荒れ、船が沈没しそうになってしまう。
この時、同行してきた妻の弟橘姫が自ら海に身を投じたため、海神の怒りは鎮まり、海は穏やかになり無事に対岸の上総国へ渡る事ができた。
という内容になる。

なお、少し余談になるが、上述の日本神話の物語において、日本武尊が亡き妻である弟橘媛のお墓を築き創建したのが、千葉県茂原市にある上総国二之宮「橘樹神社」である。

当社の社伝では、この際に乗っていた船の一部が砕けて、この品川浦に流れ着いたため、その木片を当地の漁民たちが納めて祀ったのが当社の起源と伝えられている。

正直なところ、日本神話に登場する船の破片が流れ着いたという社伝は、かなり伝説的な要素が強いため荒唐無稽な話ではあるものの、漁師町であった品川の地から推測するに、自らの命で海神の怒りを沈めた弟橘媛と、その夫である日本武尊をお祀りする事で、海上安全を願ったのであろう。
それだけ海と共に暮らしていた当地の信仰を伺う事ができる。

源義家と兜島の伝説

当社の社伝には、源義家(八幡太郎)との伝説も記されている。

源義家が奥州征伐の際に当地に寄り、当社の由来を漁民より知らされる。
そこで義家は奉幣し戦勝祈願をしたとされる。
奥州平定後、再び当社に立ち寄り、兜を奉納。
こうした伝承から以後、当地は「兜島」と呼ばれた、というもの。

実際に江戸時代初期に南品川漁師町が成立するまでは、当地は兜島と呼ばれていた。
人家はほぼなかったとされており、その時代に当社があったかは不明であるが、こうした伝承が伝えられているのは興味深い。

南漁師町の成立

当社が鎮守となった南品川猟師町は、江戸時代の明暦年間(1655年-1657年)に成立したと云われている。

目黒川河口の砂洲にできた町で、洲崎(すさき)とも呼ばれた土地である。
その昔は兜島と呼ばれており、その由来は上述した伝承によるものだろう。

町名からも分かるように、漁業を生業とした正に漁師町であり、幕府に対して魚介類を納める御菜肴八ヶ浦の一つとされていた。

町としての成立、そして当社はこの漁師町の鎮守としての立場から、江戸時代初期もしくはその前あたりに創建したのではないかと推測できる。
いずれにせよ、漁業を生業とした町において、上述した日本神話の伝説にある神々をお祀りする事で、海上安全を願う信仰があったのだと思われる。

史料から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(南品川猟師町)
寄木明神社
境内年貢地八坪町の中程西側にあり、與兵衛と云者の持の内なり。本社九尺二間拝殿方九尺。所祭神日本武尊にして橘姫入水の時船の残木の浪に漂流れ寄しを、浪人等取上て祀れりと云傳ふ。橘姫の乗船と云は無稽の説なれど、異木の流れ寄しは其理なしとせず。北大森村にも同社あり。神に祀し比は漁人等未南宿三町目にありし時の事にて、則與兵衛が居地に鎮座せしを町屋と共にここに移せし時、舊に因て同人持地の内に立り、今も三町目問屋留平次が宅地に、社跡なりとて小社を建、例祭正月十四日神楽及湯華を執行せり。南品川貴布彌社神主鈴木が持。

社伝として伝わる、日本武尊と弟橘媛の伝説とその船の木片が当社の創建とされる旨はここにも触れられているものの「無稽の説」と記され一蹴されている。
やはり海上安全のために漁民たちによって祀られたと見るのがよいだろう。

こちらには、かつては現在の南品川三丁目附近に鎮座しており、当地の住民の居住地に鎮座していた邸内社であった事を記している。
その住民が住まいを現在地へ移り住んだ際に併せて当社も遷座したとある。

こうした記述からも、当地の漁民たちによって信仰された神社であった事が分かる。
漁業を生業としていた村において、大切な鎮守であったのだろう。

また現在は「荏原神社」の兼務社となっているが、この頃にも「荏原神社」の神主が兼務していたとあり、江戸時代より「荏原神社」の末社であった事が分かる。

江戸時代に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

寄木神社国立国会図書館デジタルコレクションより)

「寄木明神社」として描かれている当社。
規模としては大変小さな神社であり、こうした規模は今も変わらない。
現在よりも海が近い当地を描写した貴重な絵となっている。
街道には多くの魚売りが行き来しており、海岸に漁師船が見える他、魚を取る網や海苔養殖に使う粗朶という木の枝も描かれており、当時の漁師町の様子を見る事ができる。

明治以降と現在

明治になり神仏分離。
当社は村社に列していた。

境内は、関東大震災や第二次世界大戦といった震災・戦災を免れたとされている。
そのため小さな境内には当地の歴史を感じさせる物が多く残っている。

江戸時代の頃より「荏原神社」の末社という扱いであったが、それが現在も変わらず続いている。
現在は氏子の方が管理する形で、神職は「荏原神社」が兼務といった形態。
今も昔も当地の住人により管理されており脈々と続いているのであろう。

石蔵造りの本殿・かっぱ狛犬・境内社

南品川の細い路地裏にある当社。
どことなく漁師町として古い町並みを感じさせてくれる一角に鎮座している。
image鳥居がありその手前に手水舎。

鳥居を潜ると社殿となる。
image拝殿には見事な彫刻があり、江戸時代の社殿が現存しているとの事。
中でも特徴的なのは本殿であろう。
image石造流れ造りの本殿となっている石蔵のような形。
外壁には大谷石を使用しており、拝殿・幣殿・本殿の組み合わせが実に個性的。
大変めずらしい形であって何とも興味深い社殿である。

社殿前には狛犬が三対置かれている。
中でも特徴的なのが真ん中にある小さな狛犬である。
image画像手前の狛犬になるのだが、その頭に皿がある狛犬となっており「かっぱ狛犬」と呼ばれる。

文政十一年(1828)奉納と彫られている。
江戸時代の頃は上述した『江戸名所図会』にあるように、当社の前に海が広がっていた。
その時代には、この狛犬の皿の部分にロウソクを立てて火を灯し、灯台の代わりにしたと伝えられている。
大変小さな狛犬であるため、その灯台としての実用性は定かではないものの、皿の上に何らかの用途があったのは間違いなく、個性的な狛犬である。

境内社は二社。
社殿の右手に「稲荷社」が鎮座。
imageさらに鳥居横の参道左手に「亀の甲社」が鎮座している。
image明治の頃、品川浦に大きな海亀が迷い込み、漁師大勢で捕らえたものの、不幸にも独り繋ぎ鎖を首に巻き付けて死んでしまったという。
この海亀の甲羅を上野博物館に寄贈し、当社に祀ったものと伝わる。

御朱印は本務社である「荏原神社」にて。
当社参道右手に社務所があるのだが、こちらに氏子の方がいる時は色々とお話をきかせて頂いたり、社殿内に上がらせて頂く事もできる。
社殿内には歴史的に貴重な品々が残っている。

伊豆長八の漆喰細工(漆喰鏝絵)

当社の社殿内には大変見事な漆喰細工がある。
「鏝絵天鈿女命功績図」として品川区指定文化財となっている。

覗いていると氏子の方が戻ってきたため、社殿内に上げさせて下さった。
撮影許可もして下さったので有り難い。

石蔵造りの本殿内にある2枚の扉にある漆喰細工。
日本神話「天孫降臨」を題材にした漆喰細工となっている。
image右の扉には猿田彦命がかなり肉厚に立体化されている。
image左の扉には上部に瓊々杵命、下部に天鈿女命を配している。
漆喰鏝絵の優しい色合いが何とも素敵である。
天鈿女命は猿田彦命に乳房を見せており、まさに日本神話にある「天孫降臨」の一幕。

この漆喰細工を手がけたのは伊豆長八という左官職人である。
江戸時代末期から明治にかけて活躍した名工であり、とりわけ独特の漆喰鏝絵(しっくいこてえ)を生み出した。
漆喰鏝絵とは壁面に漆喰を鏝を用いてレリーフ状に作り、絵の具で彩色したもの。

伊豆半島南部の松崎という出で、松崎周辺には今も長八の作品は多く残っているものの、江戸(東京)には現在その作品がほとんど残っていない。
これは江戸の大火や、震災、戦災によるものであり、現在は当社のこの漆喰細工の他、足立区千住橋戸町にある「橋戸稲荷神社」のみとなっている。

社殿内には他に添浦高札も残る。
image正徳元年(1711)に町奉行から出された本高札の追加補充として、正徳二年(1712)に発せられた「浦々添高札」となっている。

社殿内には興味深い史料が大変多いため、管理されている方がいる場合は上がらせてもらうのがよいだろう。
色々と教えて頂き有り難い限りである。

所感

南品川漁師町の鎮守であった当社。
社伝の伝承などの信ぴょう性は薄いものの、かつて海が目の前にあり漁師町として発展した当地の海上安全を願うために創建されたのは間違いなく、当社が漁業で生業を立てた集落を守っていたのだろう。
現在も貴重な社殿や漆喰細工が残っているのが素晴らしい。
小さな神社ではあるが、当地の歴史と信仰を感じる事ができる神社であり、今も昔もこの地の氏子によって管理される崇敬の篤い神社である。

神社画像

[ 鳥居・参道・案内板 ]
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[ 案内板 ]
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[ 鳥居 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 鏝絵天鈿女命功績図(社殿内) ]
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[ 添浦高札(社殿内)]
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[ 狛犬 ]
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[ 稲荷社 ]
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[ 亀の甲社 ]
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[ 社務所 ]
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[ 石碑 ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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