荏原神社 / 東京都品川区

品川区

神社情報

荏原神社(えばらじんじゃ)

御祭神:高龗神・天照皇大神・豊受姫之神・須佐男之尊・手力雄之尊・大鳥大神・恵比寿神
社格等:准勅祭社・郷社
例大祭:6月上旬(南の天王祭)・9月9日(例大祭)
所在地:東京都品川区北品川2-30-28
最寄駅:新馬場駅
公式サイト:http://ebarajinja.org/

御由緒

 荏原神社は元明天皇の御代、和銅2年(709年)9月9日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龗神(龍神)を勧請し、長元2年(1029年)9月16日に神明宮、宝治元年(1247年)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っています。明治元年には、准勅祭社として定められました。神祗院からは府社の由来ありとされました。現在の社殿は弘化元年(1844年)のもので、平成20年で164年を迎えました。
 往古より貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と称していましたが、明治8年、荏原神社と改称。旧荏原郡(品川、大田、目黒、世田谷)の中で最も由緒のある神社であったことから、荏原郡の名を冠した社号になりました。神殿に掲げる荏原神社の扁額は、内大臣三条実美公、貴布禰大明神の扁額は、徳川譜代大名源昌高のお染筆です。
 古より当社に祈願すれば叶わぬことは無いといわれ、勝運、学問、商売繁盛、交通安全、病気平癒、家内安全、恋等に特別の御神徳があります。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2018/11/26(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/04/19(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※以前は御朱印帳に頂ける事が多かったが、現在は書き置きが基本との事。
※案内はないが兼務社「寄木神社」の御朱印も頂ける。
※元日-1月15日まで「東海七福神」の恵比寿神の御朱印を頂ける。

[2018/11/26拝受]

[2015/04/19拝受]

歴史考察

元品川総鎮守・南の天王さん

東京都品川区北品川に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社に指定された後に郷社。
品川の元総鎮守とされ、後に南品川宿の鎮守。
通称「南の天王さん」として親しまれる神社で、品川の南を鎮守するのが当社。
一報で通称「北の天王さん」は「品川神社」で品川の北を鎮守している。
現在は東海七福神の恵比寿神も担っている。

龍神(水神)を祀る神社として創建された古社

社伝によると、和銅二年(709)に創建と云う。
大和国(奈良県)「丹生川上神社」より高龗神(龍神)を勧請して創建と伝わる。

丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)
延喜式内社(名神大社)であり、二十二社(下八社)に数えられる古社。
現在は上社・中社・下社で独立している。
いずれも古くから水神を祀るとされ、古くは祈雨・止雨の社として朝廷より信仰を集めた。
http://www.niukawakami-jinja.jp/
高龗神(たかおかみのかみ)
神産みにおいて伊邪那岐(いざなぎ)が迦具土(かぐつち)を斬り殺した際に生まれた神。
「龗」は「龍の古語であり、水や雨を司る龍【水神】として信仰を集めた。

当時は三ツ木(現・西品川3付近)と呼ばれた一画に鎮座していて、後に現在地に遷座。
旧鎮座地には、今も「品川貴船神社」と云う高龗神を御祭神とする神社が残されている。

品川貴船神社 / 東京都品川区
西品川鎮守。荏原神社の旧鎮座地。龍神(水神)を祀る神社。品川鎮守である品川神社・荏原神社との関係。戦後の再建。奥まった住宅街に鎮座。布袋像・江戸時代の道標。御朱印。

かつては「品川の龍神様」と崇敬を集め、「品川貴船社」「貴布禰大明神」など称され、水の神(龍神)を祀る神社として崇敬を集めた。
現在の社殿の屋根からも龍が姿を見せている。

「品川貴船社」「貴布禰大明神」など「貴船」と称されたのは、同じく高龗神(水神)を祀る「貴船神社」の総本社「貴船神社」(京都府京都市)からきている。貴船信仰が広まるにつれ、水神を祀る当社もそう呼ばれるようになったと思われる。

源頼義・義家(八幡太郎)の伝承・大國魂神社との関係

康平五年(1062)、前九年の役平定の際に、源頼義・義家(八幡太郎)の父子が、当社と武蔵国総社「大國魂神社」に参蘢。
この時、品川沖の海中で身を清め祈願を行ったとされている。

前九年の役
奥州の陸奥守に任命された源頼義(みなもとのよりよし)が、奥州(陸奥国)で半独立的な勢力を形成していた有力豪族・安倍氏を滅亡させた戦い。
源頼義と、その嫡男で「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」を名乗った源義家(みなもとのよしいえ)の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝が出ており、室町幕府を開いた足利尊氏も祖としたため、「前九年の役」は神話化されていく事となる。

この故事に倣い、源頼義・義家(八幡太郎)の父子から信仰の篤かった「大國魂神社」では、現在も当社との繋がりを見る事ができる。
その繋がりが顕著なのが、「大國魂神社」例祭の「くらやみ祭」。

大國魂神社(六所宮) / 東京都府中市
武蔵国総社。武蔵国の国魂神・一之宮から六之宮を祀る六所宮。くらやみ祭と淫靡な風習。国府が置かれた府中の歴史。馬場大門のケヤキ並木。広大な境内と見事な随神門・社殿。御朱印。御朱印帳。
大國魂神社の例祭・くらやみ祭
毎年5月3日-6日にかけて武蔵国総社「大國魂神社」で行われる例大祭。
武蔵国の国府祭を起源とし、長い伝統と格式を誇る、関東有数の規模のお祭り。

くらやみ祭では、祭りに先立ち、最初に品川海上禊祓式(汐盛り)と云う神事が行われる。

くらやみ祭の品川海上禊祓式
深夜に「大國魂神社」の神職が、当社から品川湊に赴き、手や口を海水で身を清め、海水を樽にいれて持ち帰る神事。
大祭期間中の朝夕潔斎時にこの海水を使用する。
くらやみ祭|大國魂神社
くらやみ祭は大國魂神社最大の例大祭で、都指定無形民俗文化財に指定されています。御神輿や大太鼓、山車行列など様々な見所がたくさんあります。
このように武蔵国総社「大國魂神社」とも繋がりが深い事からも、当社が古くから当地において重要な神社であった事が窺える。

牛頭天王を勧請・南の天王さん

長元二年(1029)、「伊勢神宮」より豊受大神・天照大神を勧請。

伊勢神宮
「お伊勢さん」と親しく呼ばれる、伊勢神宮の公式サイト。二千年の歴史を有し、内宮・外宮をはじめ125の宮社からなる日本人の心のふるさとです。ご祈祷やお神札、お参りの作法、毎月の祭典などをご紹介します。

宝治元年(1247)、「八坂神社」より牛頭天王を勧請。

後の「南の天王さん」と云う通称に繋がる事となる。
八坂神社
八坂神社 京都市東山区 祇園さんとも呼ばれています。由緒や年中行事、祇園祭について紹介。
牛頭天王(ごずてんのう)
日本における神仏習合の神。
釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされたため、牛頭天王を祀る信仰を祇園信仰(ぎおんしんこう)と称し、総本社は祇園祭でも知られる京都の「八坂神社」で、全国の「八坂神社」「天王社」など祇園信仰の神として祀られた。
神道ではスサノオと習合したため、明治の神仏分離後の神社では、御祭神は素盞鳴尊に改められたところが多い。

当社は、「品川貴船社」として水神(龍神)を祀る神社として崇敬を集めていたが、この頃からは庶民より「天王社」「天王さん」として呼ばれる事も増えていく。

徳川家康から朱印地を賜る・朱印争い

天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
東海道を通って江戸入りする際に当社に立ち寄り、愛蔵の左文字一振りを奉納。

天正十九年(1591)、家康が武運長久を祈願し、5石の朱印地を寄進。
以後、徳川将軍家からの崇敬を集めた。

荏原神社-徳川朱印
品川神社と朱印争い
徳川家康より賜った5石の朱印地だが、「品川神社」と朱印争いを起こす。
「品川大明神」に対して5石の朱印地を与えられており、結果的に2石5斗ずつ半分に分けられ、当社は南品川の2石5斗を拝領。
北品川の2石5斗は「品川神社」に与えられており、この頃から北の「品川神社」、南の「荏原神社」で品川鎮守としての南北の分断があった事が窺える。
御朱印書き替えのたびに両社の宮司が出て賜り、代わる代わる所蔵したという。
朱印争いについては文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』にも記されている。

元々は歴史の古い当社が品川総鎮守であったが、品川宿が北品川・南品川と二分するようになり、二社で品川鎮守となったのだろう。

品川宿の発展・南品川宿の鎮守

慶長六年(1601)、港町として発展していた品川湊の近くに「品川宿」が設置。
東海道五十三次の宿場の一つで、東海道の第一宿となり、江戸の玄関口として賑わった。

北品川宿と南品川宿
品川宿は、北品川宿・南品川宿に分かれていた。(後に北品川の北に歩行新宿が追加)
目黒川を境に、北が北品川宿、南が南品川宿。
現在の目黒川を基準にすると目黒川の北側に当社が位置する事になるが、江戸時代の目黒川は当社の北を流れていて、当社は目黒川の南側に鎮座していた。

この時点で、北品川宿・南品川宿の鎮守も分離したものと思われる。
北品川宿の鎮守が「品川神社」、南品川宿の鎮守が当社。
両社で品川の鎮守となり、幕府からの朱印状も「品川大明神」として両社に2分された。

こうした品川宿の様子は歌川広重の浮世絵にも描かれている。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(東海道五十三次)

歌川広重の代表作『東海道五十三次』で描いた「品川 日之出」。
御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。

東海道の品川宿は、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれたが、旅籠屋数や大名行列の通過数なども他の江戸四宿よりも多く、幕府からも重要視された。

(江戸名所之内)

同じく広重による『江戸名所之内』から「品川の駅海上」。
賑わう東海道の他に、海上にも多くの船が行き来している。
陸海両路の江戸の玄関口として賑わったのが品川宿である。

なお、品川宿は岡場所(色町・遊廓・飯盛旅籠)としても賑わい、「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として発展している。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(芝高輪辺絵図)

こちらは江戸後期の品川から芝・高輪の切絵図。
右が北の切絵図となっており、当社は左下端に描かれている。

(芝高輪辺絵図)

北を上(180度回転)して、品川宿周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社で、「天王社」と記されている。
目黒川の南側にあり、南品川の鎮守であった。
青円で囲ったのが「品川神社」で、こちらも「天王社」と記されている。

「品川貴船社」として水神(龍神)を祀る神社として創建し、江戸時代も「貴船社」と記される事も多かったが、こうして「天王社」と記されている事もあるように、この頃には「南の天王さん」と称され親しまれていた事が窺える。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(南品川宿上)
貴布彌社
除地四段七畝十二歩。天王横町の奥にあり。祭神・闇龗闇山祇闇罔象三神各深秘す。祈雨止雨の守護神なり。社傳に和銅二年九月九日、藤原伊勢人勧請して當所の鎮守とす。一説に天長年中の勧請とも云。又類聚國史を引て弘仁九年、武州荏原郡品川に鎮座と見ゆと。今按ずるに類聚國史に此文なし。日本後記、弘仁九年五月、山城國愛宕郡貴布彌神爲大社と號す。是常社にあらざること明なり。又伊勢人が山城貴船明神の夢想を得て鞍馬寺を創建せし故事あればここに彼社を勧請せしをもて附會せしならん。當社元枝郷三ツ木にありしと云。今社跡にも貴布彌社あるば舊地を存せんとて建置しなりと云。例祭九月九日。相殿の神二座あり。左神明は長元二年九月十六日勧請する所、今もこの日をもて祭る。右祇園牛頭天王は寶治元年六月十九日勧請す。此神は南品川猟師町、當所の門前地及本榮蓮長妙蓮願行海藏常行妙國品川海雲海晏等十寺の門前町屋二日五日市村の総鎮守にて、例祭六月七日神輿を氏子町に渡し、海晏寺門前より舟にて海上を廻り、漁師町より上陸して南品川一町目の假屋に駐め、十九日に至て歸社す。拝殿間口三間半、奥行二間。本社間口九尺、奥行二間、前に向拝あり。南方に一間に九尺の供所を建。續く社前に鳥居二基を立、一は木にて造、一は石にて造る、共に柱間八尺高一丈二尺。正月五月六月共に十六日、九月十一日の四度に神楽を奏せり。天正十八年、東照宮当社に御立寄ありて鎮坐の来由を御尋あり。当時旧記も存ぜしかば、時の神主鈴木正根具に言上す。又記録をも御覧ありて、故ある古社なりとて左文字の御太刀を寄附せらる。明年十一月品川郷にて五石の御朱印を寄せらる。されど此社領、昔より北品川稲荷社と中分す。故に御朱印御書替毎に両社の神主出て賜り、両社かはるかはる所蔵し、当社にては南品川の内二石五斗を領す。
寶物。東照宮御朱印一通(御朱印状の詳細略)。左文字御太刀一振り(東照宮御寄附の品なり、其圖左の如し)。素盞鳥尊假面一枚(略)。
末社。日本武尊少彦名尊八幡天神合社(間口一間奥行九尺、本社の南にあり、下の二社同じ)。天兒屋根命疱瘡神合社。三峰権現社。倉稲魂神社(本社の北にあり)。市杵島姫社(本社の西にあり、右四社皆方三尺の小社なり)。
門前町屋(略)
貴布彌旅所(略)
神主鈴木帯刀(略)

大変長くなるので一部は省略。

南品川宿の「貴布彌社」と記されているのが当社。
上述した江戸切絵図には「天王社」と記してあったが、こちらには古くからの「貴布彌社」で表記。
祭神についてや御由緒についての記載、さらには考察と大変詳しく記されている。

当時の御祭神は三柱(相殿二柱)。
中央に創建時の御祭神・高龗神、左に神明、右に祇園牛頭天王であった。

特に牛頭天王については例祭「天王祭」について詳細に記してあり、当時から規模の大きな祭りであった事が窺える。
朱印争いについての記載
注目すべきは「されど此社領、昔より北品川稲荷社と中分す。故に御朱印御書替毎に両社の神主出て賜り、両社かはるかはる所蔵し、当社にては南品川の内二石五斗を領す。」の部分で、「品川神社」と朱印争いがあり2石5斗ずつ分け合っている事が記してある。

また多くの末社が記してあり、その中の日本武尊(大鳥大神)は当社に合祀される事になる。

(新編武蔵風土記稿)

『新編武蔵風土記稿』の当社の項目で描かれた宝物。
右の宝物が徳川家康愛蔵の左文字。
当社に立ち寄った際に由緒を尋ね、この左文字一振を奉納したと云う。
左の宝物が品川沖の海面から発見された仮面で、牛頭天王(素戔嗚尊)の仮面だと云う。

現在、「天王祭」で神面をつけた神輿が海に入る「御神面海中渡御」が行われるのは、この仮面が発見された故事に由来する。

江戸名所図会で見る当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「貴舩明神社」として描かれている当社。
参道が長く設けられており、南品川の鎮守として大いに崇敬を集めた。
下に見えるのが当時の東海道・南品川宿の様子で、街道には多くの往来が見える。

(江戸名所図会)

当社周辺を拡大したのが上図。
当時の境内を知る事ができる。
立派な社殿が見えるが、この社殿はこの数年後に焼失。

境内の隣に川が流れていてこれが目黒川で、この目黒川を境に、北品川と南品川で分かれていた。なお、当時の目黒川は当社の南ではなく北を流れていた。

弘化元年(1844)、社殿が造営。
この社殿が現存している。

明治以降の歩み・准勅祭社に指定された一社

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、「品川貴船社」が准勅祭社に指定。
明治天皇は、明治元年(1868)から翌年にかけ、3度当社に行幸され、当社を内侍所としているように、皇室からの崇敬も篤かった。

准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)
明治元年(1868)、東京近郊の主だった神社を准勅祭社と定た。
明治天皇が、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社と制定した事による。
これが後に「東京十社」へと繋がっていく。
品川の准勅祭社についても、朱印争いと同様に「品川神社」とどちらが准勅祭社であったのか対立が生じており、現在はどちらも元准勅祭社を称している。なお、23区内の元准勅祭社が集まり企画された「東京十社」には「品川神社」が入り、当社は属していない。

明治三年(1870)、准勅祭社が廃止され、郷社に列した。
現在も社号碑には「郷社」の文字が残る。

明治四年(1871)、「品川貴船社」から「南品川神社」に改称。
明治八年(1875)、荏原郡の中で最も由緒のある神社という意味で「荏原神社」に改称。
改称後も氏子からは「南の天王さん」と呼ばれ親しまれている。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
南品川宿など、品川周辺の旧地名が残っていて、当社周辺を本宿と呼んだ。

注目すべきは目黒川の位置で、当時は目黒川が当社の北に流れていた事が分かる。目黒川で品川宿は南北に分かれていたので、目黒川の南に鎮座していた当社が南品川宿の鎮守であった。(現在は目黒川の付け替えが行われたため、目黒川より北に鎮座している)

戦後になり境内整備が進み現在に至る。

現在は東海七福神の恵比寿神も担っている。

東海七福神
旧東海道周辺 7つの寺社を福めぐり

東京十社である北の天王さん「品川神社」との関係

明治元年(1868)、准勅祭社に指定。
これが現在の「東京十社」へと基礎となる。

東京十社(とうきょうじっしゃ)
東京23区内の10の神社。
起源は明治維新で制定された「准勅祭社」にある。
昭和五十年(1975)に昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行い、東京23区内の准勅祭社10社を巡る「東京十社巡り」が企画され、これが現在の「東京十社」。
東京十社 御朱印一覧
東京十社の「東京十社めぐり御朱印帳」と御朱印画像一覧です。東京十社についての歴史など詳しい説明も掲載しています。
准勅祭社は十二社あったが、東京都府中市「大國魂神社」と埼玉県久喜市「鷲宮神社」は、東京23区内ではないので「東京十社」からは除外。

准勅祭社を基礎とした「東京十社」であるが、当社は「東京十社」には属していない。
代わりに属しているのが「北の天王さん」こと「品川神社」。
この件については、当社と「品川神社」のどちらが准勅祭社であったのか対立が見られる。

品川神社 / 東京都品川区
東京十社・品川鎮守。北の天王さん・北の天王祭。都内最大の高さの富士塚「品川富士」。双龍鳥居・備前焼狛犬。源頼朝による創建。徳川将軍家からの篤い崇敬。稲荷社や牛頭天王社と記された当社。境内社の阿那稲荷神社など。東海七福神・大黒天。御朱印。
上述したように江戸時代の頃にも朱印争いで、朱印地を半分ずつに分けていた両社。そうした影響がこの准勅祭社についても根強く残ったものとみられる。

どちらが准勅祭社だったのか。
色々と説があるのだが、個人的にはどちらもそうだった、という説を推したい。

両社揃って品川の鎮守
当社によると准勅祭社に指定されたのは「品川貴船社」という神社であるため、当社が准勅祭社であったとしている。
但し「品川神社」も准勅祭社を名乗っており、東京十社に属しているのは「品川神社」。
これは、古くは「荏原神社」が品川総鎮守であったものの、いつしか2社で品川鎮守となった背景があり、江戸時代の頃から朱印争いなどを繰り広げていた両社ならでは。
目黒川(現在は河川の位置が違う)で、品川が南北に分断されていたため、北品川は「品川神社」が鎮守し「北の天王さん」と呼ばれ、南品川は「荏原神社」が鎮守し「南の天王さん」と呼ばれた経緯が深く関わってくる。
品川神社」と「荏原神社」は2社で品川鎮守を担ったと見る事ができ、江戸時代の朱印地と同様に両社で准勅祭社に指定された、とも推測できる。
但し、明治三年(1870)に准勅祭社が廃止された時の通達『太政官日誌』には「品川県 其県管内品川六所両神社」と明記。これは品川県に属していた「品川神社」「大國魂神社」両神社を神祇官管理を外す(准勅祭社を廃止したため)という通達で、この通達では「品川神社」が准勅祭社であった証拠とも云える。東京十社に「品川神社」のみが選定されているのもこうした理由であろう。

こうした事情もあり「品川神社」と「荏原神社」は古くから少し微妙な関係であるが、2社で品川鎮守なのは間違いなく、どちらも多くの崇敬を集めている。

境内案内

朱色の橋・鎮守橋の先に鎮座・しながわ百景

第一京浜から目黒川沿いに東京湾方面へ向かうと当社が鎮座。
目黒川に架かるのは朱色の橋。
鎮守橋と名付けられた橋は、当社への参道を兼ねた橋となっている。

目黒川沿いの北側に当社が鎮座。
鎮守橋から当社を望む姿は「鎮守橋からの新緑の荏原神社を望む」として「v」に選定。
旧南品川宿の鎮守であった当社は、今も品川区の名所の1つとなっている。

目黒川の位置は昔と違う
現在は目黒川の北に鎮座している当社だが、古くは目黒川の南に鎮座していた。
上述した江戸切絵図や明治の古地図を見ると分かりやすい。
品川宿は目黒川を境に、北品川と南品川で分かれており、南品川鎮守の当社は当然南側に鎮座していた。
現在、目黒川の北に位置するのは、当社が遷った訳ではなく、目黒川の付け替えが行われたため、目黒川の位置が変わった事が原因である。

近くには古い鎮守橋の親柱。
昭和三年(1928)のもので、現在のに建て替えられた際に一部がこうして保管されている。

木造鳥居・郷社の社号碑・恵比寿神像

鎮守橋の先、右手に社号碑。
「郷社 荏原神社」の文字。
南向きの鎮守橋に対し、南東向きに参道。
木造鳥居の先に恵比寿神像。

恵比寿神像は平成五年(1993)に奉納されたもの。
当社が「東海七福神」の恵比寿神を担っている事に因む。

東海七福神
旧東海道周辺 7つの寺社を福めぐり

参道の左手に手水舎。
手水石は昭和十五年(1940)に奉納されたもので、現在も綺麗に使用できる。

江戸時代後期の社殿が現存・龍が見下ろす社殿

透塀に囲まれた先に社殿。
弘化元年(1844)に造営された社殿。
関東大震災や戦災からも免れ現存。
至るところに見事な彫刻が施された拝殿。
彫りも深く細やかで大胆な彫刻。
江戸時代後期の職人による技術力の高さを窺える。

彫刻が美しい拝殿だが、特徴的なのは拝殿屋根から顔を覗かせる二頭の龍。
左右の屋根から見下ろすように佇む龍の姿。
水神(龍神)を祀り、「品川の龍神様」と称された御由緒に因む。

本殿も同じく弘化元年(1844)造営のもの。
こちらも拝殿と同様に彫刻が見事。
こうした社殿が現存しているのが実に素晴らしい。

明治に奉納された子持ち狛犬・境内社の三社

拝殿前には一対の狛犬。
明治二十九年(1896)奉納の狛犬。
どちらも2頭ずつ子持ちの狛犬で、実に素晴らしい出来。

透塀から出て社殿の左手に境内社。
鳥居があり、その先に三社。
八幡宮・稲荷神社・熊野神社の三社。

近くにある「寄木神社」も当社の末社という扱いになっている。
寄木神社 / 東京都品川区
南品川漁師町の鎮守。日本武尊と弟橘媛の身投げ伝説。源義家(八幡太郎)と兜島の伝説。御菜八ヶ浦の1つ・猟師町の成立。青明治に再建された社殿・石蔵本殿。伊豆の長八(入江長八)の漆喰鏝絵。かっぱ狛犬。海波の扁額。本務社「荏原神社」。御朱印。

明治天皇記念碑・神楽殿など

手水舎の向かいに記念碑。
「明治天皇御東幸内侍所奉安所」と記された碑。

明治天皇は、明治元年(1868)から翌年にかけ、3度当社に行幸。当社を内侍所とした。
内侍所(ないしどころ)
神鏡を奉安する為の場所で、かつて女官(内侍)が奉仕した処から名付けられた。
皇居にある、賢所(かしこどころ)に該当する。

境内の右手には神楽殿。
『新編武蔵風土記稿』には年に4回、神楽が奏上されたと記されている。

御朱印・東海七福神の恵比寿神

御朱印は境内右手の社務所にて。
以前は御朱印帳に直接頂けたが、現在は基本的に書き置きのみとのこと。

「元准勅祭社」「品川宿元総鎮守」のスタンプが映える。
左が2015年に頂いたもので、右が2018年に頂いたもの。

当社は東海七福神の恵比寿神も担う。
そのため、元日-1月15日まで「東海七福神」の恵比寿神の御朱印を頂ける。

恵比寿神(えびすしん)
日本の神で七福神の一柱。
狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。
古くから漁業の神であり、後に留守神、さらには商いの神ともされた。
東海七福神
旧東海道周辺 7つの寺社を福めぐり

三大祭り・南の天王祭(かっぱ祭り)

当社には三大祭りとされる祭事がある。

天王祭
6月上旬に行われる。
通称「南の天王祭」「かっぱ祭り」。
貴布禰祭(例大祭)
9月9日に行われる。
当社の創建祭。
大鳥祭
11月酉の日に行われる。
いわゆる酉の市。

中でも有名なのが6月上旬に行われる天王祭。
古くは「貴船明神社」と呼ばれていた当社が「天王社」と呼ばれる事もあった程、南品川宿随一のお祭りとして古くから知られていた。
現在も当社が「南の天王さん」と称されるのは、この天王祭が賑わうからこそであり、「品川神社」の天王祭「北の天王祭」に対して、当社の天王祭は「南の天王祭」と称される。

南の天王祭
天王洲沖で神面をつけた神輿が海に入る「御神面海中渡御」が行われる。
『新編武蔵風土記稿』にも描かれていた牛頭天王(素戔嗚尊)の仮面が、室町時代に品川沖の海面から発見された事に因み、牛頭天王と当社縁の水神から、参加者をかっぱになぞらえ「かっぱ祭り」と俗称される。
荏原神社-三大祭り
天王州の由来
現在「天王洲アイル」と呼ばれる一画など、品川沖が天王州と呼ばれるようになったのは、当社の天王祭が由来で、牛頭天王の「御神面海中渡御」が行われる海域である事から「天王州」と呼ばれるようになった。

所感

品川の総鎮守であった当社。
現在は「品川神社」と共に南北の鎮守として崇敬を集めている。
古くは水神(龍神)を祀る神社として創建されており、水の神としての信仰を集めたのは、品川という海に面した土地柄によるものであろう。
その後、牛頭天王が合祀され天王祭が賑わう事で、「南の天王さん」として親しまれる事になる。
品川神社」に比べると、規模はそう大きくはないのだが、参拝者の姿もよく見る事ができ、今もなお崇敬を集めている。
荏原郡の名を冠して「荏原神社」というように、この地の歴史を伝える古社であり、品川と共に歩んできた良い神社である。

神社画像

[ 鎮守橋 ]




[ 鳥居 ]


[ 社号碑 ]

[ 鎮守橋元親柱 ]

[ 恵比寿神像 ]



[ 参道 ]

[ 手水舎 ]


[ 拝殿 ]












[ 本殿 ]


[ 狛犬 ]


[ 灯籠 ]

[ 石碑 ]

[ 八幡宮・稲荷神社・熊野神社 ]



[ 石碑 ]



[ 神楽殿 ]

[ 井戸 ]

[ 社務所 ]

[ 境内風景 ]

[ 案内板 ]




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