中村八幡宮 / 神奈川県横浜市

横浜市

神社情報

中村八幡宮(なかむらはちまんぐう)

御祭神:誉田別命・天照大御神・五丹大神
社格等:村社
例大祭:8月15日
所在地:神奈川県横浜市南区八幡町1
最寄駅:阪東橋駅・黄金町駅・石川町駅
公式サイト:http://www.nakamura-hachimangu.yokohama/

御由緒

 中村八幡宮の創立年代は不詳であるが、口碑によれば醍醐天皇の御代、延喜年間(約一千年前)には、既に此の地に奉祀され、八幡大明神と称したと伝へられる。 新編武蔵風土記には「八幡社棟地二畝二十八歩村の中程に建てり鎮守と五丹大明神を相殿とす。 是れ五丹大王を祀れるなり。玉泉寺持ち」とあり、明治六年村社に列せられた。當宮は、古く神地神田等を有したが、明治十年地租改正の際、或は上地となり、或は散じたとされる。源頼朝が鎌倉に幕府を樹て、鶴岡八幡宮を勧請せられてより毎年一回、幕府より當宮へも幣帛を 捧げられ、又北條氏に至っては、米穀又は田地を寄進されたと伝へられる。(現に當宮より鎌倉に通づるに俗称鎌倉道と云ふあり。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2018/09/11

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

御朱印帳

初穂料:1,000円
社務所にて。

「横濱開港神社巡り集印帳」を用意している。
「横濱開港神社巡り集印帳」は、横浜にある9社の御朱印を集印する専用御朱印帳。

元町嚴島神社の掲示より)

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

旧中村鎮守の八幡さま

神奈川県横浜市南区八幡町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧中村の鎮守。
現在の南区八幡町・中村町・睦町・山谷・平楽・唐沢の鎮守。
古くから創建していた古社で、かつては神地・神田等を有していたと云う。
南区八幡町の地名は当宮に由来。

平安時代に八幡大明神として祀られていた伝承

創建年代は不詳。

当宮の御由緒の詳細な記録は旧別当寺「玉泉寺」に保管されていたものの、中世の火災で焼失したとされるため、口伝として残る御由緒が伝わる。

口伝によると、醍醐天皇の御代(897年-930年)には既に当地に祠が存在。
「八幡大明神」として祀られていたと云う。

古くは神地・神田等を有して、広大な社地であったと伝わる。

鎌倉幕府より幣帛が捧げられる

鎌倉時代に入ると、源頼朝によって「鶴岡八幡宮」(現・神奈川県鎌倉市)が整備。
建久二年(1991)、鎌倉の大火からの再建の際、現在の上宮・下宮の体制にされる。

鶴岡八幡宮 / 神奈川県鎌倉市
相模国一之宮格。鎌倉武士の守護神。源頼朝により現在地に遷座・上下両宮に整備。静御前が舞った若宮廻廊(現・舞殿)。源実朝の落命の地。江戸幕府による庇護。源平池・再建された旗上弁財天社。倒伏した大銀杏。表参道の段葛・若宮大路。御朱印。御朱印帳。

以後、同じ八幡信仰の当宮にも毎年、鎌倉幕府より幣帛が捧げられたと云う。
更に鎌倉幕府執権・北条氏は、米穀または田地を寄進されたと伝えられている。

八幡神は源氏や鎌倉武士の守護神として崇敬を集めたため、古くから八幡神を祀る当宮へも幕府から崇敬が及んだと見られる。

古くから当宮から鎌倉に通じる、俗称「鎌倉道」と云う道もあり、鎌倉幕府から庇護された歴史を偲ぶ。

中村の鎮守・新編武蔵風土記稿に記された当宮

当地は鎌倉時代には石川郷とも呼ばれた一画。
武蔵国久良岐郡(くらきぐん)に属し、石川村、後に中村と称した。

石川村は現在の石川町をよりもずっと広い範囲であり、横浜村・堀之内村・中村の3村を合わせて石川村と称していた。

慶長二年(1597)、石川村が、横浜村・堀之内村・中村に分村。
中でも中村はその後も根強く石川村と呼ばれる地で、当宮はこの中村の鎮守として崇敬を集めた。

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には中村についてこう書かれている。

(中村)
中村は郡の北にて江戸より九里を隔て庄名前に同じ。石川郷に属す。土人或いは石川村とも呼ぶ。古は堀之内横濱及當村を合て石川村と称せし故因循せるならん。

石川郷に属し、当時の住民は中村を石川村とも呼んだとある。
古くは横浜村・堀之内村・中村の3村で石川村と称していた記述も残る。

分村後も中村を石川村と称したのは、石川村の中心が中村であったからなのだろう。

『新編武蔵風土記稿』には、当宮についても記してある。

(中村)
八幡社
除地二畝二十八歩。村の中程にあり。鎮守なり。伍丹明神を相殿とす。是伍丹大王を祀れるなり。玉泉寺持。

中村の「八幡社」と記されたのが当宮。
中村の鎮守であった事が記されている。
別当寺は「玉泉寺」(横浜市南区中村町)が担っていた。

伍丹明神を相殿としていた事が記してあり、伍丹大王を祀るものとあるものの、この御祭神については詳細が不明。
現在も御祭神に五丹大神と名を連ねる。
土着の信仰による神だと思われる。

慶応三年(1867)、社殿を新築した記録が残る。

明治以降の歩み・戦前の荘厳な社殿

明治になり神仏分離。
明治六年(1874)、村社に列する。

明治十年(1878)、地租改正の際、社地の多くが上地。
古くより有していた神地・神田などはこの頃に失われている。

明治二十一年(1888)、社名を「八幡社」から「八幡宮」へ改称。
当時から「中村八幡宮」と称された。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当宮の鎮座地で、今も昔もほぼ変わらない。
中村の地名もまだ残り、当宮は中村の鎮守として崇敬を集めた。
緑円で囲ったのが旧別当寺「玉泉寺」。

大正七年(1918)、社殿を改築。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
社殿の倒壊は免れたものの、近隣の火災によって類焼し焼失。
以後、仮殿にて運営。

昭和八年(1933)、社殿を造営し再建を果たす。
昭和十年(1935)、横浜市の町名地番整理で中村町の一部が八幡町に改称。

現在も残る八幡町は当宮が地名由来となっている。

(神奈川県神社写真帖)

上画像は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
「村社 八幡宮」として紹介されているのが当宮。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が分かる。

社殿の他、太鼓楼、神門もあり荘厳な境内であった。

昭和二十年(1945)、5月29日に横浜大空襲が発生。
甚大な被害を受け、再び社殿が焼失。

昭和二十六年(1951)、社殿・神楽殿が再建。

平成十一年(1999)、本殿を建替。
平成十三年(2001)、拝殿の改築が行われた。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

明治の鳥居・文化財の水準点や高低几号標

最寄駅の阪東橋駅からは徒歩15分の距離に鎮座。
奥まった住宅街の一画に鎮座していて、静かな空間。
鳥居は明治十五年(1882)に建立されたものが現存しており、社号碑には「八幡宮」の文字。

社頭には横浜市市域文化財に指定された内務省地理寮水準点(几号高低標)。
石段の手前に「不」の文字で、几号高低標と呼ばれるもの。
鳥居の右手前に「BM(ベンチ・マーク)」の文字で水準点と呼ばれるもの。

明治九年(1876)から内務省主導で西洋式地図作成が開始。
その際に用いられた標識が「几号高低標」。
その多くは現在失われてしまったため、横浜市内で残存が確認された几号高低標は当地を含めて7カ所のみと云う。

江戸中期の地蔵庚申塔・明治に寄進された獅子山

鳥居の左手には、古い地蔵庚申塔が並ぶ。
左の庚申塔と右の地蔵尊は元禄十一年(1698)のものが、かなり風化しつつも現存し、中央のものは昭和五十九年(1981)に新たに建立されたもの。

鳥居を潜ると綺麗に整備された参道。
両端に注連柱があり、石段。

石段を上ると左右に狛犬。
明治三十三年(1900)に寄進された獅子山型の狛犬。
表情も凛々しく素晴らしい作り。

参道は石段の左手にも。
こちらは岩肌を上る形の参道となっている。

石段を上ると奥に手水舎。
建物に接続された形の新しく整備された手水舎。
水が張られて清める事ができる。

平成に建て替えられた社殿

石段を上って左手に社殿。
更に石段があり、その奥に簡素な社殿が見える。
平成十三年(2001)に造営された銅板葺檜造の拝殿。
戦前の社殿は荘厳で実に立派であったが、現在は簡素な造りとなっている。

拝殿の裏手の本殿は平成十一年(1999)に建て替えられたもの。
流造の本殿でこちらは美しい状態を維持。

社殿の手前には百度石。
お百度参りに使われていたもので、境内の石段脇より参道に移された。

境内社の吾妻稲荷神社・忠霊祠など

境内社は境内の左側に整備。
右手にあるのが吾妻稲荷神社。
平成二十三年(2011)に竣工した新しい一画。
左手の忠霊祠も同年整備された。

他に境内の右手に戦中を偲ぶ一画。
神輿庫があり、その奥に横浜大空襲による高温のために割れ上半分が失われた碑が残る。

御朱印・横濱開港神社巡りの一社

御朱印は社務所にて頂ける。
平成二十三年(2011)に竣工した社務所はまだ新しさが残る。

当宮は「横濱開港神社巡り」に参加する一社で、専用の集印帳も用意。
横浜にある9社の御朱印を集印する専用御朱印帳。

元町嚴島神社の掲示より)

横濱開港神社巡り
お三の宮日枝神社」(南区山王町)
金刀比羅大鷲神社」(南区真金町)
中村八幡宮」(南区八幡町)
石川町諏訪神社」(中区石川町)
元町嚴島神社」(中区元町)
「北方皇太神宮」(中区西之谷町)
「本牧神社」(中区本牧和田)
「根岸八幡神社」(磯子区西町)
「八幡橋八幡神社」(磯子区原町)
お三の宮日枝神社 / 神奈川県横浜市
横浜開拓の守護神(関外総鎮守)。横浜の基礎を作った吉田新田の鎮守として創建。お三と呼ばれた女性の人柱伝説。お三の宮の由来。神猿が押された御朱印・千貫神輿の御朱印帳。横浜随一の千貫神輿・市内屈指の例大祭。山王鳥居。珍しい砲弾狛犬。堰神社。
金刀比羅大鷲神社 / 神奈川県横浜市
酉の市で知られる横濱のお酉様。横浜橋通商店街の一画に鎮座。桂歌丸ゆかりの地。カラフルな月替り御朱印・歌丸桜の御朱印。横浜開港にあたり創建された金毘羅大権現。港崎遊郭の鎮守・浮世絵に描かれた遊郭と当社・遊郭と共に歩んだ歴史。吉原に倣う酉の市。
中村八幡宮 / 神奈川県横浜市
旧中村鎮守の八幡さま。平安時代に八幡大明神として祀られていた伝承。鎌倉幕府より幣帛が捧げられる。戦前の荘厳な社殿。明治の鳥居。文化財の水準点や高低几号標。江戸中期の地蔵庚申塔。明治に寄進された獅子山。平成の社殿。横濱開港神社巡り。御朱印。
石川町諏訪神社 / 神奈川県横浜市
石川町鎮守・はまのお諏訪さん。火防の神とされる御神徳。石川村の諏訪山に創建・諏訪信仰の神社。灯明が絶えず漁船の目標となった伝承。江戸時代の石川町と当社。明治以降の石川町と当社の歩み。戦後に再建された社殿。横濱開港神社巡り。御朱印。御朱印帳。
元町嚴島神社(元町厳島神社) / 神奈川県横浜市
横浜元町鎮守の弁天様。源頼朝が創建したと伝わる関内厳島神社が起源。御朱印は平日のみの対応(土日祝は対応なし)。横濱村の鎮守であった清水弁天(横濱弁天社)。清水弁天と対となる杉山弁天と呼ばれた当社。横浜村の元住民による町・横浜元町の歴史。

所感

八幡町の住宅街に鎮座する当宮。
口伝によると古社で鎌倉幕府からも庇護された八幡さまだったと伝わる。
その後、中村の鎮守として崇敬を集め、戦前の境内は神門や立派な社殿を有し、実に荘厳なものであった事が、当時の古写真などから伝わる。
八幡さまとして誉田別命を祀る他、五丹大神と云う聞き慣れない御祭神も祀られている。
江戸時代の地誌にも載る御祭神で、詳細不明ながら土着の信仰があったのかもしれない。
横浜大空襲で多大な被害を受けた境内だが、石造りのものは多く現存し、当地の歴史を伝える良い神社である。

神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]


[ 内務省地理寮水準点(几号高低標) ]




[ 地蔵庚申塔 ]

[ 参道 ]



[ 灯籠 ]


[ 北側参道 ]


[ 狛犬(獅子山) ]



[ 参道 ]


[ 手水舎 ]


[ 石段 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 百度石 ]

[ 御料地境界標石 ]

[ 社務所 ]

[ 神輿庫 ]

[ 石碑 ]

[ 絵馬掛 ]

[ 吾妻稲荷神社 ]



[ 忠霊祠 ]


[ 御神木 ]

[ 石碑 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

コメント

  1. まー坊 より:

    はじめまして。
    ランキングから来ました。
    獅子岩型の狛犬、凛々しくてカッコいいですね(^-^)
    御朱印集めしてみたくなりました!

  2. 神社メモ 神社メモ より:

    ■まー坊さま

    お返事遅くなってしまいました。
    獅子岩の狛犬は各地にありますが、凛々しくてよい質感のものが多いです。
    多くが奉納されたものなので、それだけ氏子崇敬者から崇敬の篤い神社とも云えるでしょう。
    ぜひ、寺社を参詣した際は各地で御朱印を頂いてみて下さい。

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