神社情報
石川町諏訪神社(いしかわちょうすわじんじゃ)
御祭神:建御名方命
社格等:─
例大祭:8月第1土・日曜
所在地:神奈川県横浜市中区石川町4ー164
最寄駅:石川町駅・伊勢佐木長者駅
公式サイト(X):https://twitter.com/suwa_yokohama_y
御由緒
当石川町に鎮座の諏訪神社は、文明十三年(室町時代)の創立です。
当時現在より高所に小祠があり、諏訪神社と号されて附近一帯の住民からの崇敬篤く燈明の絶えないことから石川河岸を出入りする漁船の目標となったと『武蔵風土記久良岐郡石川村の章』に見えます。
災害により社殿焼失という不幸を経ましたが、現在三千戸の氏子を有し、昭和三十八年八月には新社殿の再建もなり「はまのお諏訪さま」と親しまれ、氏子と共に存続発展し続けています。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2018/09/11(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/07/12(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※2018年参拝時には朱印が変更となっていた。
御朱印帳
初穂料:1,000円
社務所にて。
汎用の御朱印帳と「横濱開港神社巡り集印帳」を用意している。
「横濱開港神社巡り集印帳」は、横浜にある9社の御朱印を集印する専用御朱印帳。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
歴史考察
石川町鎮守・はまのお諏訪さん
神奈川県横浜市中区石川町に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、石川町の鎮守。
当社が鎮守する地域には火災が起きなかったと伝わり「火防の神」として篤い信仰を集める。
正式社号は「諏訪神社」であるが、他との区別のため「石川町諏訪神社」とさせて頂く。
通称「はまのお諏訪さん」として地域の方に親しまれている。
石川村の諏訪山に創建・諏訪信仰の神社
社伝によると、文明十三年(1481)に創建と伝わる。
創建当時は現在よりも高所に小祠が鎮座。
鎮座地は石川村の諏訪山と呼び、諏訪信仰の当社は「諏訪社/諏訪神社」と称された。
現在もやや高台に鎮座しているが、当社の後方にかけて更に高台になっているため、当社の後方一帯を諏訪山と呼んでいたのであろう。
信濃国(長野県)一之宮「諏訪大社」を総本社とし、全国に広がっている信仰。
御祭神の建御名方命(たけみなかたのみこと)とその妃・八坂刀売命(やさかとめのみこと)は大和朝廷に屈しなかった出雲系の神とされ信仰を集めていた。
初め狩猟神として崇敬された後に武神とされ、日本第一大軍神と呼ばれた。
狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業を守護する神社としても崇敬を集めた。
かつては石川村と呼ばれた村落で、半農半漁の寂れた村落であった。
そのため、狩猟・漁業を守護するお諏訪さまを信仰したものと見られる。
灯明が絶えず漁船の目標となった伝承
諏訪山にあった小祠では、灯明が絶える事がなかったと云う。
当社の灯明は、石川河岸を出入りする漁船の目標となっていたと伝えられている。
いわば灯台の役目も果たしていたと云えるだろう。
今以上に海が近く、石川町周辺は入江であり、漁業を営み村民は生活をしていたと見られる。
狩猟・漁業を守護するお諏訪さま、さらに灯台の役目も果たした当社は、地域からの崇敬を集めた。
江戸時代の石川町・新編武蔵風土記稿に記された当社
石川町は鎌倉時代には石川郷とも呼ばれた一画に位置。
武蔵国久良岐郡(くらきぐん)に属し、後に石川村と称した。
慶長二年(1597)、石川村が、横浜村・堀之内村・中村に分村。
中でも中村はその後も根強く石川村と呼ばれる地で、当社はこの中村に鎮座していた。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には中村についてこう書かれている。
(中村)
中村は郡の北にて江戸より九里を隔て庄名前に同じ。石川郷に属す。土人或いは石川村とも呼ぶ。古は堀之内横濱及當村を合て石川村と称せし故因循せるならん。
石川郷に属し、当時の住民は中村を石川村とも呼んだとある。
古くは横浜村・堀之内村・中村の3村で石川村と称していた記述も残る。
『新編武蔵風土記稿』には、僅かであるが当社についても記してある。
(中村)
諏訪社
除地四畝二十五歩。
中村の「諏訪社」と記されたのが当社。
四畝二十五歩は現在で云う約500平方メートル程。
諏訪山と呼ばれた高所に社地を有していた。
なお、当時の中村鎮守は「中村八幡宮」(横浜市南区八幡町)。
当社の別当寺は「玉泉寺」(横浜市南区中村町)が担っていた。
中村にあった当地は、いつしか入江の岸ではなく中村川の川沿いとなっていく。
明治以降の石川町と当社の歩み
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治六年(1874)、中村のうち町並みが整っているところに石川町が成立。
同年、諏訪山の高所から現在の鎮座地に遷座。
新たに社殿が建立された。
明治七年(1875)、石川町から石川仲町が分立。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地。
古地図には神社の地図記号が記されていないが、既に当地に遷座していた資料が残っているので、小さな神社であった事が窺える。
青円で囲ったのが旧別当寺「玉泉寺」。
明治二十九年(1896)、火災が発生し社殿が焼失。
大正五年(1916)、社殿を再建。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生し、再び火災によって灰燼に帰した。
大正十三年(1924)、社殿が再建され復興を果たす。
昭和十年(1935)、石川仲町が併合され現在の石川町となる。
当社は石川町一円の鎮守として崇敬を集めた。
上画像は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
「無格社 諏訪神社」として紹介されているのが当社。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が分かる。
昭和二十年(1945)、5月29日に横浜大空襲が発生。
甚大な被害を受け、再び社殿が焼失。
昭和三十八年(1963)、社殿が竣工。
これが現在の社殿となっている。
昭和三十九年(1964)、根岸線が開通し石川町駅が設置。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
石川町の奥まった住宅街に鎮座
最寄駅の石川町駅からは西へ徒歩数分の距離。
奥まった住宅街の一画に鎮座していて、隣には牛坂下公園。
社頭には通称である「浜のおすわさん」と社名が掲げられている。
石段を上ると鳥居、その先がすぐ社殿となる。
鳥居の両脇に一対の狛犬。
阿形は顔の一部が欠損。
吽形は前足の一部が欠損しており、幾度も火災に見舞われた当社の歴史を伝える。
石段を上って左手に手水舎。
昭和四十八年(1973)に氏子崇敬者によって整備された手水舎。
戦後に再建された社殿
社殿は昭和三十八年(1963)に再建されたもの。
状態よく維持され綺麗に整備。
当社の社殿は明治に遷座して以降、度々焼失と再建を繰り返した。
現在は鉄筋コンクリート造で再建され、そうした火災にも強い。
社殿の裏手は更に高台になっていて、かつてはもっと高台の諏訪山と呼ばれた場所に鎮座していたと伝わる。
火防の神とされる御神徳
当社は明治六年(1874)に諏訪山から現在地に遷座。
それ以降、幾度も火災・震災・戦災により焼失の憂き目に遭っている。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生し、火災によって社殿が焼失。
昭和二十年(1945)、横浜大空襲により社殿が焼失。
焼失しては再建を繰り返した当社は、地域の方から「火防の神」として崇敬を集めている。
諏訪信仰の当社が「火防の神」として崇敬されるのは、以下の逸話による。
こうした理由から「火防の神」としても崇敬を集めるようになった。
更に「はまのお諏訪さん」として地域の方に親しまれ、石川町一円の鎮守として現在に至る。
御朱印・横濱開港神社巡りの一社
御朱印は社務所にて頂ける。
インターホンを押すと向かいの自宅より人が出てきて下さる。
御朱印は2016年参拝時と2018年参拝時では朱印に変化がある。
朱印の大きさ字体が変更となっていた。
御朱印帳も汎用のものであるが用意。
更に「横濱開港神社巡り」に参加する一社で、専用の集印帳も用意。
横浜にある9社の御朱印を集印する専用御朱印帳。
「お三の宮日枝神社」(南区山王町)
「金刀比羅大鷲神社」(南区真金町)
「中村八幡宮」(南区八幡町)
「石川町諏訪神社」(中区石川町)
「元町嚴島神社」(中区元町)
「北方皇太神宮」(中区西之谷町)
「本牧神社」(中区本牧和田)
「根岸八幡神社」(磯子区西町)
「八幡橋八幡神社」(磯子区原町)
所感
石川町の住宅街奥に鎮座する当社。
古くは諏訪山と呼ばれた高所に鎮座しており、灯明が漁の目印になったと云う。
諏訪信仰は狩猟・漁業を守護する神としての側面も強いため、半農半漁の村落であった当地周辺にとっては生活に関わる大切な神であったと思われる。
明治になり現在地に遷座し、その後は幾度も焼失の憂き目に遭うも、すぐに再建されたのも、石川町一円の氏子による崇敬の賜物であろう。
こぢんまりとした境内ではあるが、手入れも行き届いている。
火防の神としてのエピソードなどからも、石川町の歴史・氏子と共に歩んできたのが伝わる良い鎮守である。
神社画像
[ 鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ 手水舎 ]
[ 御籤掛 ]
[ 拝殿 ]
[ 社殿裏 ]
[ 社務所 ]
[ 案内板 ]
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