神社情報
潮田神社(うしおだじんじゃ)
御祭神:国常立命・五十猛命・素戔嗚尊・豊雲野命・国狭槌命・豊受比賣命・岐久理比賣神・誉田別命・菅原道真公
社格等:村社
例大祭:6月5日
所在地:神奈川県横浜市鶴見区潮田町3ー131ー3
最寄駅:京急鶴見駅・鶴見駅・弁天橋駅・浅野駅
公式サイト:─
御由緒
当社は、大正初期、京浜工業地帯の一代発展に伴い、耕地整理・区画整理による街造りのため、西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正九年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。社伝に依れば、景行天皇四十年、日本武尊が東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村の古杉老松の鬱蒼たる地に小祠を建て、国土の神「国常立尊」、「豊雲野命」、「国狭槌命」を奉斎し、征途の無事安全を祈願したことが始まりと伝えられています。
中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、北条氏の信仰崇敬に殊に厚いものがありました。正親天皇の御世、永禄の頃太田道灌の曾孫太田新六郎康資の領地神社として、たびたび修復されたことが、東潮田村の杉山社に残る御神鏡からうかがうことができます。
また、正保年間に至り、地頭松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築し、寛文十年、幕府社領一段四畝二十歩を寄進したことが御嶽大権現と称された西潮田村の御嶽社の棟札、鳥居等にのこされています。
由来、東のお宮、西のお宮と親しまれ、特に土地が海浜であったため、房総漁民船が大漁祈願に立ち寄るなど、潮田村及び遠近の村里沿岸一帯の鎮護となりました。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2019/10/26(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/01/25(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
大正時代に二社が合併・潮田地区の総鎮守
神奈川県横浜市鶴見区潮田町に鎮座する神社。
大正時代に潮田村西部鎮守「御嶽社」・潮田村西部鎮守「杉山社」が合併して創建。
旧社格は両社共に村社で、現在は潮田地区の総鎮守。
「潮田神社」と書いて「うしおだじんじゃ」と読む。
例大祭は潮田地区の東側と西側を一年ごとに交互に神輿御渡が行われ、鶴見区最大規模の祭りとして賑わう。
潮田村西部鎮守の御嶽社・西のお宮と称される
「御嶽社」は、景行天皇四十年(110)の創建と伝えられている。
日本武尊が東征の途中、潮田村西部の海岸近くに立ち寄ったと云う。
日本武尊は、古杉や老松が鬱蒼と生い茂った地に小祠を建て、国土の神を祀り安全祈願をしたと伝わる。
第12代景行天皇皇子。
東国征討や熊襲征討を行った伝説的な英雄として『日本書紀』『古事記』などに載る。
「御嶽大権現」と称され、特に武将からの崇敬が篤かったと云う。
日本独自の宗教観である修験道の本尊「蔵王権現(ざおうごんげん)」を祀る神社。
蔵王権現を祀っていた神社として、関東では武蔵御岳山の山上に鎮座する「武蔵御嶽神社」(東京都青梅市)が特に知られていて、古くは「御嶽大権現」と称されていた。
明治の神仏分離の際に蔵王権現は、国常立尊(くにのとこたちのかみ)などに置き換えられた事が多い。
日本神話の根源神。
『日本書紀』においては、最初に出現した神とされている。
国土形成の根源神、国土の守護神として信仰される事が多い。
中世に入ると、当地は後北条氏の領地となったため、後北条氏から篤い崇敬を集めた。
永禄年間(1558年-1570年)、潮田村を知行とした太田康資は、当社の社殿を改築し社頭の整備を行った。
戦国時代の武将で江戸城代。
江戸城を築城した事で有名な太田道灌(おおたどうかん)の曽孫。
正保年間(1645年-1648年)、地頭・松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築。
寛文十年(1670)、幕府より社領一段四畝二十歩が寄進された記録が残る。
潮田村西部の鎮守として崇敬を集め、地域からは「西のお宮」と称された。
潮田村西部鎮守の杉山社・東のお宮と称される
「杉山社」は、創建年代が不詳。
杉山大明神を祀る神社として崇敬を集めた。
「杉山神社」は、横浜市・川崎市など一部区域のみに見られる神社。
特に鶴見川流域に散在しており、鶴見川流域に広がった信仰なのが分かる。
東側は多摩川を超えると一切見られなくなるのが特徴。
南は帷子川や大岡川の流域にも「杉山神社」がいくつか点在する。
大岡川がほぼ境と云え、これより南には見る事ができない。
よって「杉山神社」は杉山信仰として武蔵国南側に流れる鶴見川・帷子川・大岡川流域に浸透し、土着の神としてお祀りされたものと推測できる。
江戸時代の頃には「杉山神社」が72社あるとの記述が残っているが、現在は40社ほど。
現在は「杉山大明神」として、五十猛神や日本武尊を主祭神とする神社が多い。
当社も正にその「杉山神社」の一社であり、鶴見川流域に鎮座し、五十猛神が主祭神となっている。
素盞鳴尊(すさのおのみこと)の子とされる神。
五十猛の神が、天から持ってきた数多くの樹木の種を国土に植えた事から、日本は青々とした樹木が茂る国になったと『日本書紀』に記されている。
この事から木の神・林業の神として信仰を集めた。
永禄年間(1558年-1570年)、潮田村を知行とした太田康資が、「御嶽社」と共に当社の社殿を改築し、社頭の整備をしたと伝えられる。
潮田村東部の鎮守として崇敬を集め、地域からは「東のお宮」と称された。
新編武蔵風土記稿に記された当社と潮田村
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(潮田村)
三嶽社
村の西にあり。本社三間に二間南に向ふ。石の鳥居を社前にたつ。例祭年々九月九日。東漸寺の持なり。門前に僅なる石地蔵の堂あり。
杉山社
村の北よりにあり。社南向にて二間半に三間石の鳥居をたつ。此村の鎮守にして例祭毎年九月九日。これも東漸寺の持なり。向て右に稲荷の小祠をたつ。
潮田村の「三嶽社」と記されているのが潮田村西部鎮守の「御嶽社」。
潮田村の「杉山社」と記されているのが潮田村東部鎮守の「杉山社」。
「杉山社」の項目に「此村の鎮守」とあるように、潮田村全体としての鎮守は「杉山社」であった。
(潮田村)
貴船社
西の方居村にあり。大聖寺の持。
天神社
同寺(大聖寺)の西北にあり。
稲荷社三ヶ所
共に大聖寺の持なり。一は字鐵念下にあり。一は字中のばと云所にあり、石にて作る祠なり。一は字北新田と云所にあり。
神明社
字中のば下にあり。石の祠をたつ。元は鶴見川の橋にありしが、川の岸欠入し故近き頃此地へ移す。これも大聖寺の持。
白山社
村の中央にあり。南に向へり東漸寺持。
若宮八幡社
村の東南にあり。社一間半に二間南に向ふ、向て左に稲荷の小祠をたつ。東漸寺の持。
神明社
村の中央にあり。社南向にて大さ九尺四方これも東漸寺の持。
第六天社
村の西鶴見川の端にあり。南向にて東漸寺持なり。
稲荷社
これも東漸寺の持なり。
辨天社
村内南の方にあり。社巽向にて大さ九尺四方向て右に稲荷の小祠を建。光永寺持。
潮田村には大変多くの神社が鎮座していた事が分かる。
これらは全て、明治以降に「御嶽社」「杉山社」のどちらかに合祀。
その両社が合併したのが当社であるため、正に潮田村一帯の信仰が集約された総鎮守であると云える。
明治以降の歩み・合祀政策と両社の合併遷座
明治になり神仏分離。
明治三年(1870)、「御嶽社」は社名を「御嶽大神」に改称。
明治六年(1873)、「御嶽社」「杉山社」共に村社に列する。
明治二十二年(1889)、町村制の施行により潮田村・菅沢村・市場村・矢向村・江ケ崎村・小野新田が合併し町田村が成立。
当地は町田村潮田と称された。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると、当時の潮田村の地理関係を確認する事ができる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが現在の鎮座地で、当時は耕地で何もなかった事が分かる。
橙縁で囲ったのが当時の地図上に記されている潮田地区の神社で、当時は地図に記されている規模のものでもかなり多くの神社が鎮座していた事が分かり、江戸時代の史料のように至るところに多くの神社が置かれていたのだろう。
明治四十二年(1909)、周辺にあった「須賀社」「稲荷社」「菅原社」を村社「御嶽社」に合祀し、「神明社」を境内社として遷座。
同年、同じく周辺にあった「若宮八幡社」「白山社」「厳島社」を村社「杉山社」に合祀。
これは当時の政府が推し進めた合祀政策によるものと思われる。
大正八年(1919)、「杉山社」を「御嶽社」に合併合祀し、「杉山社」の境内社であった「稲荷社」も「御嶽社」の境内に遷座させられた。
大正九年(1920)、地名から現在の「潮田神社」と改称。
同年、耕地整理・区画整理のため、現在地に遷座し、神饌幣帛料供進社に指定。
大正十一年(1922)測図の古地図を見ると潮田地区の移り変わりがよく見て取れる。
(今昔マップ on the webより)
明治にはあれだけ多かった神社が当社まとめられていて、当社が現在地に遷座している事が分かる。
町田村と云う地名を見ることもできる。
明治までは耕地の多かった潮田地区であるが、大正初期には京浜工業地帯として発展しつつあり、そうした発展していく様子と、合祀政策の結果が分かる古地図となっている。
大正十二年(1923)、町制施行によって町田村は潮田町と名前を変える。
こうした潮田町の総鎮守として崇敬を集めた。
関東大震災・戦災からの再建と現社殿の造営
大正十二年(1923)、関東大震災が発生し、拝殿が倒壊。
昭和五年(1930)、再建されている。
黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が窺える。
再建して間もない貴重な旧社殿の様子で、実に立派な社殿だった事が窺える。
拝殿前に見える狛犬は現存している狛犬。
昭和二十年(1945)、横浜大空襲によって社殿が焼失。
昭和二十八年(1953)、社殿が再建され復興を果たした。
昭和五十九年(1984)、現在の社殿が造営。
平成元年(1989)、社務所を新築。
平成五年(1993)、鳥居建立。
その後も境内整備が行われ現在に至る。
境内案内
塩田公園の隣に鎮座・立派な大鳥居
最寄駅は複数あるが公共交通機関を利用の場合は鶴見駅よりバスがよいだろう。
プールや野球場、テニスコートなどが整備された多目的公園・潮田公園のお隣に鎮座。
南向きに立派な大鳥居。
平成五年(1993)に建立された大鳥居。
今もなお潮田地区の総鎮守として地域からの崇敬を集めているのがよく分かる社頭。
社号碑は左手に置かれている。
整備された境内・大田蜀山人が記した海翁石
鳥居を潜ると綺麗に整備された参道と広々とした境内。
鳥居を潜ってすぐ右手に手水舎。
こちらは現在使用できない。
参道の途中に一対の狛犬。
大正十三年(1924)に奉納された狛犬。
関東大震災の翌年に奉納されたもので、子持ちと玉持ち。
拝殿の右手前に海翁石と名付けられた水盤。
こちらに水が張られており、実質こちらが手水舎の扱いとなる。
この海翁石と云う水盤は、大田蜀山人(大田南畝)が『調布日記』に記した石。
かつて杉山大明神(杉山社)に置かれた水盤で、宝暦四年(1754)のものだと云う。
別号・蜀山人(しょくさんじん)の名で知られる文人・狂歌師。
勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方、文筆方面でも高い名声を誇り、数多くの随筆を残した他、狂歌は特に知られている。
『調布日記』では調布あたりの散策記であるが、鶴見あたりを歩いた様子も記されている。
戦後に造営された朱色で立派な社殿
社殿は昭和五十九年(1984)に造営されたもの。
かつて関東大震災が発生した際に拝殿が倒壊し、昭和五年(1930)に再建。
しかしながら昭和二十年(1945)の横浜大空襲によって社殿が焼失。
昭和二十八年(1953)に再建を果たしたが、老朽化のため昭和五十九年(1984)に鉄筋コンクリート造にて造替。
遷座や震災・戦災の度に再建された社殿だが、こうして立派な社殿を見るだけでも地域からの崇敬の篤さが伝わる。
境内社の潮田稲荷社
境内の左手に境内社の潮田稲荷社。
元は「杉山社」の境内社であったお稲荷様。
合併し遷座した際に一緒に遷された。
大正時代建立・西鳥居の奉納者は潮田牧場
潮田公園に面した西側に一基の鳥居。
狛犬と同様に関東大震災の翌年・大正十三年(1924)に奉納された鳥居。
この鳥居の奉納者は潮田牧場の牧場主。
大正時代から昭和初めに潮田地区にあった潮田牧場の牧場主・小野玄三の名が刻銘されている。
数えの21で私を生んだ母は、行方しれぬ夫を探しに、千葉県・銚子から神奈川県・鶴見の潮田へ旅たった。一歳に満たない私をおぶってです。窮状を見かねた隣家の乳飲み子の母親が母乳を半分分けてくれた。その乳もやがて私に回ってこなくなった。
ある朝、なぜかわが家の玄関に牛乳瓶が6本置いてあった。翌日も翌々日もそうだった。さすが気が引けた母は、早起きして配達の人に「払うお金がありませんから、配達しないでくださいな」と告げた。
牛乳屋の主人が夕方きて「赤ん坊はまだ乳がないと死んでしまうでしょ」「大きくなったら代金はいただきますから、遠慮なく飲ませてあげて」「足りなければ届けますから」。
母親は涙がでるほど嬉しくて「潮田牧場の主」とだけ確認する。(『時代の証言者』より)
この鳥居は潮田にあった心優しい潮田牧場主からの奉納物。
関東大震災の翌年に狛犬と共に奉納されている事からも、地域のため神社復興のため奉納した事が窺える。
シンプルな御朱印・社務所にて
御朱印は「潮田神社」の朱印とシンプルなもの。
令和元年に頂いた御朱印には「参拝」ではなく「奉祝」と記されているのが嬉しい。
境外の本殿裏手にある開運地蔵尊庚申様
当社の境外に出て本殿の裏手に回ると、庚申塔や地蔵様が並べられた一画がある。
「開運地蔵尊庚申様」と称される一画。
右手には比較的新しめな子育て地蔵尊。
左手には覆屋に保護された、地蔵尊や庚申塔が置かれている。
庚申塔は享保元年(1716)のもとだと云う。
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
地域の古い信仰を感じ取る事ができる一画。
当社と共に合わせて参拝するのがよいだろう。
所感
潮田地区の総鎮守として崇敬を集める当社。
かつて潮田村には大変多くの神社が鎮座しており、信仰の篤い地域であった事が窺える。
そうした神社が明治に入り村社である「御嶽社」と「杉山社」に合祀され、その両社が合併した事で「潮田神社」となり、今日に至っている。
まさに潮田地区の神社が集約された総鎮守と云えるであろう。
当社が成立した経緯から分かるように古いものはあまりないのだが、震災や戦災など憂き目に遭いながらもその度に再建され、現在の立派な社殿を見ても、地域からの崇敬の篤さを感じる事ができる良い神社である。
神社画像
[ 鳥居 ]
[ 社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 狛犬 ]
[ 海翁石 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 社務所 ]
[ 神輿庫 ]
[ 西鳥居 ]
[ 潮田稲荷社]
[ 倉庫 ]
[ 宜揚台 ]
[ 案内板 ]
[開運地蔵尊庚申様]
コメント
はじめまして(^^
ブログ拝見させて頂きましたが、すごく詳しく書かれていてビックリしました。
又、妻も御朱印が大好きなので神社メモさんのブログを一緒にみたいと思います。
■ヒロポンさま
コメントありがとうございます。
なるべく御朱印以外にも歴史的な要素や見処を紹介したいと思っているので、
参考になったようでしたら幸いです。
これからも奥さまと一緒にご覧頂けたら嬉しいです。
よろしくお願いします。