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概要
スポーツの神として信仰を集める亀戸の香取さま
東京都江東区亀戸に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧亀戸村の鎮守。
藤原鎌足による創建の伝承が伝わる古社。
平将門の乱を平定した俵藤太秀郷(藤原秀郷)の勝矢の伝承があり、古くから武道の神として崇敬を集めた。
近年は「スポーツの神」として知られスポーツ関係者やアスリート達からの信仰を集めている。
現在は亀戸七福神「恵比寿神・大国神」を担っている。
神社情報
亀戸香取神社(かめいどかとりじんしゃ)
御祭神:経津主神
相殿神:武甕槌神・大己貴神
社格等:村社
例大祭:8月第1又は第2日曜(例祭)・5月5日(勝矢祭)
所在地:東京都江東区亀戸3-57-22
最寄駅:亀戸駅
公式サイト:https://www.kameido-katori.com/
御由緒
当社の創立は天智天皇四年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因であります。
天慶の昔平将門が乱を起こした時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平げたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。現在でもこの故事により勝矢祭が五月五日に執り行われております。
以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、御神徳が四方に及びましたので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。(当時の葛飾は下総国の大半を意味します。)
元禄十年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡十二社の中にも数えられております。(頒布の資料より)
歴史考察
亀島と呼ばれた島だった亀戸
その昔、亀戸は小さな島からなっていて亀島または亀津島と呼ばれた。
その名の通り島の形が亀の形に似ていたに由来する。
後に島の周辺に土砂が堆積。
周囲の島々と陸続きになり現在のような地形になっていく。
当地周辺は亀島から亀村と称され、人が定住する耕地へと遷り変わっていった。
亀村が亀戸と称されるようになったのは、当地周辺にあった臥龍梅庭(枝が龍のように見える梅の木が植えられている庭)の井戸・亀ヶ井(かめがい)と、亀村の地名が混同されて亀井戸と呼ばれるように。
それが転じて亀戸(かめいど)となったと云う。
現在は当社境内に亀戸の地名由来となった亀ヶ井の井戸を復元。
境内整備の中で平成十五年(2003)に復元されたもの。
藤原鎌足による創建の伝承
社伝によると、天智天皇四年(665)に藤原鎌足が香取社を創建したと伝わる。
鎌足が東国下向の際、まだ亀島と呼ばれた当地に香取大神を勧請。
太刀一振りを奉納して旅の安泰を祈願した。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)の名でも知られる飛鳥時代の貴族。
「大化の改新」の中心人物として広く知られる。
後に藤原氏を名乗った事で日本史上最大の氏族となった藤原氏の祖とされた。
中臣氏(後の藤原氏)は、下総国一之宮「香取神宮」・常陸国一之宮「鹿島神宮」を氏神としており、奈良(平城京)に藤原氏の氏神を祀るために創建された「春日大社」は両宮の神も祀る。
現在の東京23区の東側(葛飾区・墨田区・江東区・江戸川区)は、葛飾郡に属していて中世までは下総国(現・千葉県)の郡であった。(江戸時代に武蔵国へ移された)
そのため、下総国一之宮である「香取神宮」の御神霊が当地に祀られたのであろう。

藤原秀郷の戦勝祈願と勝矢
天慶三年(940)、承平天慶の乱(平将門の乱)が発生。
追討に向かった藤原秀郷(俵藤太)は、戦勝祈願のために当社に参籠したと伝わる。
平安時代中期の貴族・武将。
近江三上山に伝わる百足退治伝説で知られ、また平将門を討った人物と伝わる。
末裔は源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として関東圏を支配する多くの武家を輩出した。
通称で俵藤太(たわらのとうた)とも。
平将門を討ち乱を平定した秀郷は当社に弓矢を奉納し勝矢と命名。
現在もこの故事により5月5日に勝矢祭が行われている。

こうした伝承や、武神として信仰される事も多い「香取神宮」の神・経津主神(ふつぬしのかみ)を祀る事から、氏子地域からだけでなく武家からも信仰を集めた。
中世から江戸時代までの当社
建武年間(1134年-1338年)、香取伊賀守矢作連正基が当社の初代神職となる。
応安四年(1371)、社殿を再建。
大永三年(1523)、社殿を再建。
中世の戦乱で荒廃がありこの頃に再興したと見られる。
寛永三年(1627)、本殿改築の記録が残る。
亀戸村の成立より鎮座する古社であり、「香取太神宮」と称され大いに崇敬を集めたと云う。
現在も当社の扁額には往年の「香取太神宮」の文字が残る。
新編武蔵風土記稿に記された香取社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(亀戸村)
香取社
当村の鎮守なり。祭神は経津主神なり。右に健御雷神、左に大杉大明神を合せ祀れり。由緒に云、当社は天智天皇四年乙丑大職冠鎌足東国下向の時勧請し太刀一腰を納め、朱雀院御宇俵藤太秀郷、将門追討の時参籠して弓矢を納めし事あり。其後大永三年当社を再興し、又応安四年修造云々とみえたり。此事他の所見なければ信ずべきものにはあらされど、寺社帳に応安四年鎮座の由載たれば古社なることは論なかるべし。享保の頃当社へ常州阿波郡大杉明神飛来せりとて、其頃参詣群集せりと云。
末社。子守稲荷。金比羅。
旅所。北十間川の北側にあり。僅の除地なり。
神主香取中務。吉田家の配下なり、旧家なれど家系等も傳へず。
神明社
往古大樹の榎神木たりしが、此木枯たりしとき天下泰平の文字を虫食しより、泰平神明と尊称すと云。香取中務持。
亀戸村の「香取社」と記されているのが当社。
亀戸村の鎮守であった事が記されている。
御由緒にあるように藤原鎌足の創建や、藤原秀郷の弓矢も記されているものの「信ずべきものにはあらされど」とあり、寺社帳には応安四年(1371)鎮座と記されているという。
享保年間(1716年-1735年)には、「大杉神社」(茨城県稲敷市)の御祭神が飛来して大いに賑わったと記されているのが興味深く、御祭神にも大杉大明神の名を見る事ができる。
現在の相殿に祀られる大己貴神はこれに由来する御祭神であろう。
「神明社」として記されている神社は現在当社の境内社「天祖神社」として祀られている。
この当時から当社の兼務社であった。
江戸名所図会に描かれた当社や道祖祭
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「香取太神宮」として見開きで描かれている。
鬱蒼と生い茂った境内ではあるが、社地としては現在とあまり変わらないであろう。
長めの参道があり途中には鳥居が二基、茅葺屋根の社殿と裏に御神木が描かれている。
境内社として「金ひら(金比羅社)」「水神(水神社)」を見る事ができ、左手には「神主」と記された神職の住居や神池も見る事ができる。
「入神明宮」「太平榎」として描かれたのが、当社の境内社「天祖神社」である。
亀戸が亀島と言われた島の時代から鎮座していた古社で、現在の亀戸3-41に鎮座していた。
昭和六十三年(1988)に当社境内に遷座するまでは、当社の兼務社として崇敬を集めた。
「亀戸邑道祖神祭」と記された見開きは、亀戸村で行われていた古い祭り。
毎年1月14日に当社の氏子によって道祖神の祭りが行われていて、竿から垂らした縄で宝船を吊るしてかつぎ亀戸から両国の辺りまでを練り歩いたと祭り。
この時の様子は、歌川広重も描いたと云う。
『紙本淡彩道祖神祭図』として江東区有形文化財になっている。

村の中心や境界や道の辻などに主に石碑や石像の形態で祀られる神。
村の守り神、子孫繁栄、交通安全の神として信仰を集めた。
特に関東地方や甲信越地方に多く見られる。
庚申塔と習合した例も多い。
明治以降の歩み・戦後の再建
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列した。
明治十一年(1878)、現在も使われる神輿が完成。
屋根の部分・胴体の部分・台座の部分とそれぞれが別の動きをする事から「こんにゃく神輿」と呼ばれ、国内に2基しか存在しない珍しい神輿である。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行が施行され、亀戸村は横十間川以西が東京市、以東が南葛飾郡とされ、亀戸村・大島村・吾嬬村に分けられ、そして東京市深川区・本所区へ編入された。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
「香取神社」と記されていて地図上でも目印になるような神社であった。
西にある臥龍梅(がりゅうばい)は梅の名所と呼ばれた亀戸梅屋敷の名物梅。
橙色で囲ったのが「亀戸天神社」。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
当社だけでなく亀戸一帯は壊滅的なまでの被害を受け大部分が焼失している。
昭和二十三年(1948)、社殿を再建。
昭和六十三年(1988)、現在の社殿を造営。
同年、境内社なども整備され、その後も境内整備が進み現在に至っている。
現在は亀戸七福神「恵比寿神・大国神」を担っている。

境内案内
長くまっすぐ伸びた参道
亀戸駅からやや距離はあるが、表参道は明治通りより1本西に入った通りに面する。
鳥居を潜ると比較的長い参道。
参道途中には力石や石碑なども無造作に置かれている。
参道の一部は桜が植えられていて桜のシーズンにはちょっした名所に。
こうした長い参道は『江戸名所図会』にも描かれていて、社地や配置は江戸時代から変わらない。
手前には亀戸大根之碑。
亀戸大根は亀戸の特産品で江戸時代に盛んに栽培されていた江戸野菜の一種。
明治通り沿いに東鳥居。
大通り沿いなのでこちらから参拝する方も多い。
戦後に再建された社殿
参道の先に社殿。
社殿は昭和六十三年(1988)に造営されたもの。
拝殿右手の木は枝垂れ桜で桜の季節になると隠れた桜の名所としても知られる。
東京大空襲で焼失した社殿を昭和二十三年(1948)に再建したが、老朽化によって現社殿に建て替えられた。
境内社が並ぶ一画・境内社の天祖神社
境内の右手に境内社が並ぶ。
左から天祖神社・稲足神社・福神社・熊野神社・三峯神社・水神社。
このうち天祖神社は、上述した『江戸名所図会』で入神明宮として描かれた神社。
亀戸が亀島と呼ばれていた島の時代からの古社であったと云い、旧社地(亀戸3-41)からは石器が発掘されている事からも古代より祀られてきた事が窺える。
水掛け大国神・恵比寿神や勝石
拝殿の右手には大国神像と恵比寿神像。
柄杓が置かれていて神像に水掛け祈願できると人気を博している。
痛いところを洗い清めると良いとの事。
大国神は医薬の神とされる。
その右手には復元された亀ヶ井。
亀戸の地名由来にもなった亀ヶ井を平成十五年(2003)に復元。
境内の左手には勝石が置かれる。
平成二十八年(2016)に鎮座1350年記念として建立。
藤原鎌足の故事に基づいて太刀一振りを冠したデザインが施されている。
触れる事で勝運と幸運を授かると云う。
参道の右手には宝物庫。
お神輿や宝物などが展示されている一画。
このように近年になって境内整備も進み多くの人々より崇敬を集めている。
スポーツの神としての信仰・多くのアスリートが参拝
近年では「スポーツの神」として崇敬を集め当社も力を入れている。
スポーツ関係者やアスリートが勝利を願い訪れる。
江東区出身の堀米雄斗氏のサイン。
レスリングの吉田沙保里さん。
スピードスケートの高木菜那さん。
車いすテニスの小田凱人さん。
競泳の池江瑠璃子さんによる絵馬。
スポーツの御守の勝守・白い石で運を掴む勝運守
また当社の授与品として勝守と勝運守が人気。
スポーツの御守は勝守、勝運守は白い石を1つ入れて運をつかむもの。
当社の境内に落ちている白い石を拾って授与所で頒布されている勝運守に入れるというもの。
境内にはこのように白い石が落ちているので拾うと良い。
白星・勝星に繋がり勝利するとされている。
勝の印が入った御朱印
御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して下さった。
兼務社「亀戸水神社」や亀戸七福神「恵比寿神・大国神」の御朱印も用意。

御朱印は「香取神社」の印、亀戸福神・香取神社社務所印の印。
スポーツの神らしく金に丸で勝の印入り。
オリジナル御朱印帳・野球御朱印帳も
御朱印帳は3種類用意。
筆者が頂いたのは野球御朱印帳。
スポーツの神らしいユニークな御朱印帳で大サイズ。
中の紙はクリーム色。
野球用品でお馴染みのミズノのフェイスタオル付き。
所感
亀戸の鎮守として崇敬を集めた当社。
亀戸村の成立と共に鎮座していた古社であり地域と共に発展。
今もなお境内整備が進んでおり氏子崇敬者からの崇敬の篤さが伝わる。
近年では「スポーツの神」として信仰され、当社も積極的に活動しているのが伝わりメダリストなど多くのアスリートが参拝に訪れている。
この日も平日ながら大変に参拝者が多かった。
色々な活動をされている良い神社だと思う。
また、当社に伝わる藤原秀郷奉納の矢を由来とした「勝矢祭」では、武者行列パレードが行われ人気となっている。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※兼務社「亀戸水神社」の御朱印も頂ける。
※亀戸七福神「恵比寿神・大国神」の御朱印も頂ける。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
- 通常
- 旧御朱印
御朱印帳
スポーツ(野球)御朱印帳
初穂料:2,000円
社務所にて。
野球デザインのオリジナル御朱印帳。
グローブ、ボール、バットをデザイン。
ミズノのフェイスタオル付き。
大サイズ、中の紙はクリーム色。
他にシンプルな無地の御朱印帳(初穂料1,000円)、東京産ひのきの御朱印帳(2,500円)を用意。
- 表面
- 裏面
- 見開き
- ミズノフェイスタオル
授与品・頒布品
自転車用交通安全ステッカー
初穂料:300円
社務所にて。
参拝情報
参拝日:2025/01/24(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/03/03(御朱印拝受)
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