染井稲荷神社 / 東京都豊島区

豊島区

神社情報

染井稲荷神社(そめいいなりじんじゃ)

御祭神:保食神・大山祗命
社格等:─
例大祭:9月15日に近い土・日曜
所在地:東京都豊島区駒込6-11-5
最寄駅:駒込駅・巣鴨駅
公式サイト:─

御由緒

一、ずっと昔からあった染井村
いまのそめいよしの町会のあたりで三百五十年前にその名を刻んだ石像がある。
一、建てられたのは三百年以上も前
関東大震災や戦災にも拝殿・本殿はもえなかった。火防の神。
一、ご神体は二体
保食命と三百二十年前に御霊入れされた十一面観音の石像が安置されている。
一、珍しい大切な宝もの
葵のご紋入り瓶子(お酒を飲む道具)一対や、奉納舞につかわれた古い締太鼓と胴長鼓が保存されている、「カンシンの股くぐり」の額も貴重なものです。
一、初午祭=二月・秋季大祭(祭礼)九月十五日十六(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2018/03/23

御朱印

初穂料:300円
社殿にて。

授与品・頒布品

染井稲荷神社の由来と染井村
初穂料:─
社殿にて。

全12ページにわたる神社と染井村について記した冊子を頂いた。

歴史考察

ソメイヨシノ発祥の地・染井村鎮守のお稲荷様

東京都豊島区駒込に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧駒込村の枝郷・染井村の鎮守。
かつては現在も隣接する「西福寺」の境内社として鎮座。
江戸時代の染井村は造園師や植木職人などが集落を作っていた事で知られる。
現在となっては桜の代表格である品種「ソメイヨシノ」は、この染井村で育成され売り出されたため、当社はソメイヨシノ発祥の地の鎮守となる。

駒込村の枝郷であった染井村の鎮守

創建年代は不詳。
社伝によると延宝二年(1674)以前の創建と伝わっており、江戸時代前期の創建と見られている。

江戸時代の当地は駒込村の枝郷「染井村」という集落であった。

枝郷(えだごう)とは、新田開発によって元の村から分出した集落の事。

駒込村が上駒込村と下駒込村に分村すると、上駒込村に組み込まれる。
かつては農村だったと云うが、当社はそうした染井村の鎮守とされ、現在も隣接する「西福寺」の境内社として崇敬を集めた。

染井の地名由来は、当社の境内にあったという染井と呼ばれた泉。
安永二年(1773)の『江戸図説』では、既にこの泉が涸れている事が記されている。

造園師や植木職人などが集落を作り、村全体が花園だった染井村

延宝二年(1674)、現存する御神体(十一面観音石像)が奉納。
奉納者は伊藤伊兵衛という人物で、後に江戸有数の植木屋として知られる事となる。

伊藤伊兵衛(いとういへえ)は、染井村で数代に渡って園芸を営んだ人物。一家は家は造園・栽培についての見識技量に優れ、園芸植物の種類を図説記載した『花壇地錦抄』『増補地錦抄』『広益地錦抄』など多くの著作を残している。

元々は農村であった染井村であったが、伊藤伊兵衛を代表するように、造園師や植木職人によって形成された集落となった。
村全体が花園とも云える程で、江戸町民だけでなく、歴代の徳川将軍が遊覧に訪れる程の名所となる。

文久三年(1863)に英国の植物学者ロバート・フォーチュンが出版した『幕末日本探訪記 – 江戸と北京』(三宅肇訳)には以下のような記述がある。

私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ、三、四エーカーの地域を占め、鉢植えや露地植えのいずれも、数千の植物がよく管理されている。どの植木屋も大同小異なので、その一つを記述すれば全体のたくみな趣向がわかるだろう。

このよう当時の染井村は、世界でも有数の植物の生産地であった事が分かり、実に見事な名所であった。
そうした染井村の鎮守として、当社は崇敬を集めた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(上駒込村)
西福寺
藤林山歓喜院と号す。新義真言宗西ヶ原村無量寺末。本尊弥陀の三尊を安す。開基の年代をしらす現在まて十三世に及ふと云。
稲荷社
身體石像なり。秘して開扉せず。前立稲負老人咜枳尼天像共に木像なり。又伊弉諾尊伊弉册尊共に石像聖天一体皆相殿とす。染井一区の鎮守神なり。祭礼九月十一日。
末社。八幡疱瘡神大黒恵比寿稲荷五座合祀。稲荷三。
地蔵堂。閻魔の像もあり。

上駒込村の「稲荷社」と記されている。
別当寺である「西福寺」の境内に鎮座する形で、かつては「西福寺」の本堂と渡り廊下で繋げられて、神仏習合のもと崇敬を集めていた事が分かる。
染井一区の鎮守神とあるように、染井村と呼ばれた集落の鎮守であった。

御神体として「身體石像なり。秘して開扉せず。」と記されているのが伊藤伊兵衛が奉納した十一面観音石像であろう。

江戸切絵図から見る染井村と当社

江戸時代の当社は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。

(巣鴨絵図)

こちらは江戸後期の染井・王子・巣鴨周辺の切絵図。
染井村は地図の中央上に描かれている。

(巣鴨絵図)

北が上にくるように回転させ当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが当社で、「染井イナリ」として描かれている。
その隣に別当寺であった「西福寺」も描かれ、当社は境内社のような形で、共に崇敬を集めていた。

桃円で囲った箇所に「此辺染井村植木屋多シ」の文字がある。
染井村は植木屋の集落であった事が知られていた事が分かる。

青円で囲ったのが伊勢津藩主・藤堂家の下屋敷。
当地周辺には大名屋敷が多く立ち並んでいた事が分かる。

上述した当社に御神体を奉納し、染井村の植木屋の代表格であった伊藤伊兵衛は、もともと藤堂家の出入りで城内の庭樹の世話をしていた人物である。
染井村に造園師や植木職人が集落を作った要因として、大名がその屋敷内に競うように庭園を造営したことが挙げられる。
大名庭園の手入れに従事していた染井村の農民たちが、植木屋となっていったのであろう。

浮世絵や双六の題材にもされた染井村

世界的にも有数の植物の生産地であり、歴代の徳川将軍も遊覧した染井村は、浮世絵など多くの題材としても描かれている。

(絵本江戸土産)

歌川広重が描いたという『絵本江戸土産』。
『絵本江戸土産』は広重の『江戸名所百景』の下絵にもなったと云われる作品。
色付けされており、染井村の一端を俯瞰で見る事ができる。
こうした植木屋が幾つも点在していて、村全体が花園となっていた。

(染井之植木屋/東京都立図書館より)

こちらは染井村の植木屋の1つを見る事ができる浮世絵。
植木屋にはそれぞれ得意とする花の種類があり、このように手入れされた花園を公開して見物できるようになっていた。
江戸町民にとって花見・遊覧の場として人気を集めた事が分かる。

(江戸名所百人美女)

歌川国貞(三代豊国)の代表作でもある『江戸名所百人美女』。
100の名所を背景に100人の美女が描かれた、揃い物の浮世絵。
その中に染井が名所の1つとして描かれている。

(江戸名所百人美女)

上の浮世絵から染井の名所部分を拡大したのが上図。
美しい花々が公開され見物客で賑わっていた事が分かる。

多くの花の品種が育成され、上述した伊藤伊兵衛などはツツジ、サツキの新種開発でも知られる他、その子もカエデを得意とするなど、染井の地は、現在の園芸センターの基礎とも云える。

特に江戸後期になると菊作りが盛んになり江戸で流行。
その担い手の中心は、やはり染井村の植木職人たちであった。

(江戸風俗十二ケ月之内)

こちらは明治になって描かれた楊洲周延の『江戸風俗十二ケ月之内』。
染井造り菊ノ元祖とあるように、一本の菊に数百の中輪を咲かせるものや、中央に描かれたように富士山をつくるなど技巧をこらした「形造り」が登場し、菊の産地としても名を馳せた。

(巣鴨染井殿中江戸の花独案内)

こちらは『巣鴨染井殿中江戸の花独案内』とされた、双六(すごろく)である。
今も遊戯として楽しまれる双六の題材になっていて、染井の多くの植木屋が紹介されている。
江戸町民にとって染井は人気の名所であり観光地であった事が窺える。

染井村はソメイヨシノ発祥の地

幕末から明治にかけて、今や桜の代表種となっている「ソメイヨシノ」が開発される。

ソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガンの園芸種との交配種。
幕末から明治に、染井の植木屋が「吉野桜」の名で全国各地に売り出した。
古来より桜の名所として知られていた大和の吉野山(現・奈良県)に因み、当初は「吉野桜」として売り出されたが、この名前では吉野山の山桜と混同される恐れがあるため、明治三十三年(1900)『日本園芸雑誌』において染井村の名を取り「染井吉野」と命名された。

ソメイヨシノの起源については諸説あるが、世界有数の園芸の村とされた染井にて、園芸種との交配で作出されたという説が最も有力。

ご指定のページは見つかりませんでした|豊島区公式ホームページ

すなわち、ソメイヨシノ発祥地の地の鎮守が当社という事になる。
現在は当社の向かいに、「染井よしの桜の里公園」があり、ソメイヨシノを育て全国に送り出す苗床が一画に設けられている。

明治以降の当社と染井村の歩み

明治になり神仏分離。
神仏分離によって「西福寺」とは分離するが、現在も隣接する位置関係となっている。
当社は無格社であった。

明治二十二年(1889)、市制町村制によって巣鴨町の一部・上駒込村・駒込染井町・駒込妙義坂下町などが合併して巣鴨町が成立。
当地は巣鴨町の染井と云う一帯であった。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
神社の地図記号はないが隣接する「西福寺」が寺院の地図記号で記されている。
巣鴨町という地名、染井、また隣接する駒込染井などの地名を見る事ができる。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当社の社殿は被災を免れている。

昭和六年(1931)、社殿が改築。
昭和二十年(1945)、東京大空襲では駒込地区は焼け野原となる。
その中でも、当社の社殿は戦火を免れた。

関東大震災や戦災から免れた事から、戦後は「火防の神」として崇敬を集める事となる。

昭和四十八年(1973)、ソメイヨシノが「豊島区の木」に指定。
昭和五十九年(1984)、ソメイヨシノが「東京都の花」に指定。

平成二十一年(2009)、当社に隣接する「染井よしの桜の里公園」が開園。
当社と共に豊島区や染井よしの町会によって、ソメイヨシノ発祥の地として整備され現在に至っている。

境内案内

かつて染井村と呼ばれた駒込の住宅街に鎮座

最寄駅の駒込駅からは徒歩10分未満の距離。
やや入り組んだ住宅街に鎮座していて、隣にはかつて同じ境内であり別当寺であった「西福寺」があり、向かいには「染井よしの桜の里公園」が整備。
石垣に囲まれた一画で、左手に社号碑、石鳥居。
扁額には「染井稲荷神社」とあり、境内にはソメイヨシノが植えられている。

鳥居を潜るとすぐ右手に手水舎。
岩から水が流れ落ちる形。
綺麗に水が張られている。

その一画には「染井の里」の碑。
今は住居表示に染井の地名は残っていないが、当地が染井村だった事を偲ぶ。

関東大震災や戦災を免れた社殿・火防の神として崇敬を集める

社殿は、拝殿の朱色の屋根が特徴的。
昭和六年(1931)に改築されたという社殿。
関東大震災や戦災から免れたため、「火防の神」として崇敬を集めている。
特に駒込一帯は東京大空襲で焼け野原となったため、当社の社殿が被災しなかったのは素晴らしい。
幣殿や覆殿などは昭和四十八年(1973)に整備された。

拝殿には伊藤博文の揮毫による「神徳惟馨(しんとく これ かぐわし)」の扁額。
同様の扁額は上野公園に鎮座する「花園稲荷神社」にもあり、先代宮司の縁で頂いたものだと云う。

花園稲荷神社 / 東京都台東区
穴稲荷と称されたお稲荷様。上野公園内に鎮座・隣には五條天神社。シール型の御朱印。忍ヶ岡に創建した地主神。上野の山の守護神。上野戦争の激戦地・穴稲荷門の戦。洞穴の中にある聖地の穴稲荷・パワースポット。縁談・商談・就職等の願掛けに白羽の矢。

拝殿前の小ぶりな狛犬・境内社も稲荷社

拝殿前には一対の狛犬。
小型で可愛らしい狛犬。
稲荷信仰の神社であるが神狐像ではなく狛犬が奉納されている。

境内の右手には境内社。
石鳥居と朱色の鳥居が続き、その先に小祠。
こちらも稲荷社となっていて、『新編武蔵風土記稿』にも記されていた末社であろう。

桜の印が押された御朱印・染井よしの桜里祭り

御朱印は社務所にて声をかける形。
社殿左手の建物の2Fが社務所となっていて、声をかけると社殿まで出向いて下さり、社殿で御朱印を頂く形となる。

御朱印には桜の印と「染井よしの発祥の地」の印が押される。。
また全12ページにわたる神社と染井村について記した冊子を頂け、色々と詳しい資料となっているため、大変有り難い。

当社の境内にもソメイヨシノが植えられていて、桜の時期は桜を楽しむ事ができる。
2018年3月23日に参拝時は、まだ満開ではないものの綺麗なソメイヨシノ。

また当社の向かいに整備された「染井よしの桜の里公園」では、「染井よしの桜里祭り」が開催。
染井よしの町会によって行われ、当社にも掲げられているピンク色の提灯が映える。
豊島区や町会、当社など、染井と呼ばれた地に関わる人々によって、ソメイヨシノを守り育てて行き、盛り上げようという心意気を感じる。

染井よしの桜里祭り
2018年3月31日(土)
※公園ではライトアップもあり。
染井よしの町会 – 東京 駒込 ソメイヨシノ発祥の地

所感

染井村と呼ばれた集落の鎮守であった当社。
かつては農村だった当地であるが、大名の下屋敷などが移転してきた事から、大名庭園の需要が高まり、この地の農民が植木屋として活動するようになり、世界有数の植物の生産地となったと推測される。
江戸時代の染井は徳川将軍も遊覧に来る程の名所であり、多くの史料などにも残るように、実に素晴らしく、江戸町民の観光地でもあった。
江戸の園芸の中心であり、今で云う園芸センターの基礎を作ったとも云える。
染井の名を冠したソメイヨシノは、今や桜の代表種であり、そうした地の鎮守が当社。
現在、「染井」の地名は残っていないため、地元周辺の方でないと「染井」と呼ばれても当地を思い浮かべる方は少ないとは思うが、ソメイヨシノ発祥の地として、町会などを挙げて盛り上げようという気概を感じ、当社はそうした地域の人々にとって古くから大切な拠り所であったのであろう。

神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]


[ 鳥居 ]



[ 手水舎 ]


[ 石碑 ]

[ 拝殿 ]





[ 覆殿 ]

[ 案内板 ]

[ 古写真 ]

[ おみくじ販売機 ]

[ 狛犬 ]


[ 稲荷社 ]



[ 神輿庫 ]

[ 倉庫 ]

[ 社務所 ]

[ 提灯 ]

[ ソメイヨシノ ]



[ 染井よしの桜の里公園 ]


Google Maps

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