塚崎神明社 / 千葉県柏市

柏市

神社情報

塚崎神明社(つかざきしんめいしゃ)

御祭神:天照皇大神・応神天皇・武甕槌神
社格等:村社
例大祭:10月17日
所在地:千葉県柏市塚崎1460
最寄駅:増尾駅
公式サイト:http://nttbj.itp.ne.jp/0471386436/

御由緒

旧沼南町、現在の柏市塚崎地区の鎮守です。
古くは下総国南相馬郡(手賀・風早・土・鎌ヶ谷西部)四カ村十七部落の総鎮守でした。小高い山の上に鎮座し社殿は伊勢神宮の方角(南南西)に向かい、緩やかで長い裏参道は塚崎地区に向かっています。広濶な境内、古雅な社殿や石垣の佇まい昼なお暗い石段や古鳥居の風格など、森厳幽邃な境趣は周辺神域の白眉とうたわれています。
創建については古記録がなく明らかではありませんが古く南北朝時代の【神凰鈔】には「相馬御厨、大神宮御領、蓋謂此也、祠官守氏、社領十石」と、記載があります。江戸時代の【寺社分限】にも「塚崎神明ノ社、祭田十石ト。凡御厨地、必ズ皇大神ヲ祀リ、称シテ神明ト曰フ」また【下総国旧自考】にも「塚崎明神、土人称伊勢明神」と、あるなど伊勢神宮の相馬御厨と当社との関係が極めて密接であったことが分かります。平安時代には伊勢神宮領として何度も寄進されていることから、当時、既に当社が相馬御厨の重要な聖地として存在していたことが推察されます。また昭和十年(1935)に県の天然記念物に指定された大榊は当時の県の鑑定で、樹齢を約1300年とされたことも当社の創建の古さを物語っています。※現在、主幹は枯死し若木が育成中です。
時代は下って天正十九年(1591)十一月、関東へ入部した徳川家康から社領十石の朱印を受けています。さらに現存する本殿三社が江戸時代中期の享保十八年(1733)に再建され、宝暦三年(1753)には表参道の石段が隣接する藤心村の氏子によって奉納されました。同七年(1787)に石段の下に弁財天が祀られ、表参道の石段の上部には石造りの鳥居が建てられるなど境内は著しく整備されました。この石鳥居は幕府領であった相馬郡四十数カ村の領主、本多伯耆守正珍の奉納です。幕末の天保五年(1834)に近隣諸村の氏子、崇敬者によって拝殿前に石垣が奉納され神域の威容を増しました。
しかし明治四年(1871)当社は官地とされ国に取り上げられてしまいました。その間、同八年(1875)に拝殿が再建されましたが、民有地に復したのは同三十四年(1901)でした。これを機に境内が再び整備され翌三十五年(1902)に神楽殿が再建され、同三十九年(1906)には風早村社の指定を受けました。さらに同四十一年に塚崎地区の子ノ神社、浅間、厳島、面足、白幡の各神社を境内に合祀し、記念碑が建立されています。
その後、昭和三十二年(1957)従来、茅葺きであった本殿三社、拝殿、神楽殿を鎧型の鉄板で完全に覆う改修が行われ、その記念として一万本の植樹がなされました。同五十二年に町民の森(現在は沼南の森)として境内の一部が住民に開放されました。平成十七年に境内の篭り堂の再建、同二十年には石段の改修工事、同二十三年には駐車場の整備が行われました。
そして同二十五年、拝殿の改築、幣殿と参集殿の増築工事着工。拝殿は既存の部材を極力残しながら屋根が神明造りになりました。参集殿は各種御祈祷を受けられる方の待合室です。平成二十七年春、御神徳を得て厳しく美しく竣工いたしました。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2018/02/08

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※「神明宮」の文字は印判となる。

御朱印帳

初穂料:2,000円
社務所にて。

2種類の御朱印帳を用意している。

※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。

歴史考察

塚崎地区鎮守の旧沼南を代表する神明様

千葉県柏市塚崎に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧風早村(後の沼南町の一部)の鎮守。
平成十七年(2005)に沼南町が柏市に編入されたが、その旧沼南を代表する神社の一社。
正式名称は「神明社」であるが、他との区別から「塚崎神明社」とさせて頂く。
中世の頃、相馬御厨と呼ばれた「伊勢神宮」の荘園だった当地に創建したお伊勢様で、江戸時代に入ってからも幕府からの朱印地を賜ったりと地域を代表する神社であった。
現在も地域の方からは「神明様」と呼ばれ親しまれ、今なお自然豊かな境内を維持しており、社地は「沼南の森」と呼ばれる。

伊勢神宮の荘園であった相馬御厨の聖地

創建年代は不詳。
鎌倉時代の創建と推定されている。

中世の頃、現在の塚崎地区は「相馬御厨」と呼ばれた一画であった。

相馬御厨(そうまみくりや)とは、現在の千葉県柏市の他、流山市・我孫子市・茨城県取手市・守谷市周辺にあった「伊勢神宮」の荘園。
鎌倉時代から室町時代にかけて、千葉氏を始め、多くの武将による領地奪い合いの対象とされた。

「伊勢神宮」へ寄進され荘園とされた相馬御厨の中でも聖地とされたのが当地。
相馬御厨が成立した鎌倉時代前後に、周辺の鎮守として創建したものと推測される。
「伊勢神宮」と同様に天照大御神を御祭神とし「神明社」と呼ばれた。

「神明社」「神明神社」「神明宮」と称される神社は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を主祭神とし、「伊勢神宮」を総本社とする神社に付けられる名称。他にも「天祖神社」など。通称として「お伊勢さん」と呼ばれる事が多い。

当社の境内にある千葉県天然記念物の大榊(現在は主幹は枯死)が、推定樹齢約1,300年とされていた事からも、当社が古くからの聖地とされていた事が窺える。

徳川家康より10石の朱印地を賜る

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
天正十九年(1591)、家康より10石の朱印地を賜る。

朱印地(しゅいんち)とは、幕府より寺社領として安堵された土地。朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。

現在の柏市内で朱印地を賜った神社は、当社と「廣幡八幡宮」(三代将軍・徳川家光より賜る)の2社のみであり、こうした事からも当社は地域一帯の総鎮守として幕府からも庇護された事が分かる。

廣幡八幡宮 / 千葉県柏市
増尾八幡さんとして親しまれる古社。下総国第一鎮守宇多天皇勅願所として創建。鎌倉時代に現在の柏市一帯総鎮守として再建。徳川家光より朱印地を賜る。規範神社に指定された広々とした境内。江戸中期の石鳥居。近くにはニッカウヰスキー柏工場。御朱印。

当地は塚崎村と呼ばれ、塚崎村など周辺の鎮守として崇敬を集めた。

江戸時代中期から行われた境内整備

享保十八年(1733)、本殿三社が再建。
天照皇大神。八幡大神、春日大神を祀り、玉垣で保護される形で現存している。

宝暦三年(1753)、表参道の石段が整備。
当社が鎮座していた塚崎村と隣接する藤心村の氏子による奉納だと云う。

宝暦七年(1757)、伯州刺吏藤原正珍より、石華表(石鳥居)一基が寄進。
この石鳥居は現存しており、「宝暦七年丁丒二月 執政中太夫 執政中太夫拾遺伯州刺吏藤原正珍依為旧領采地謹建焉」の文字を見る事ができる。

当社の他に、同じく朱印地を賜った「廣幡八幡宮」と、関東三大弁天の1つ「布施弁天(東海寺)」にも同様の鳥居が寄進されている。
廣幡八幡宮 / 千葉県柏市
増尾八幡さんとして親しまれる古社。下総国第一鎮守宇多天皇勅願所として創建。鎌倉時代に現在の柏市一帯総鎮守として再建。徳川家光より朱印地を賜る。規範神社に指定された広々とした境内。江戸中期の石鳥居。近くにはニッカウヰスキー柏工場。御朱印。
伯州刺吏藤原正珍とは、一般的に本多正珍(ほんだまさよし)の名で知られる大名。駿河田中藩二代藩主であり、江戸幕府の老中も務めた。塚崎村は田中藩の領地の1つであった。

領主である本多正珍からの奉納された事からも分かるように、当社は一帯の総鎮守であった。

同年、石段の下に弁財天が祀られる。

天保五年(1834)、拝殿前に石垣が奉納された。

明治以降の当社と塚崎地区の歩み

明治になり神仏分離。
明治四年(1871)、当社は官地とされ国の管理となる。
明治八年(1875)、拝殿が再建。

明治二十二年(1889)、市制町村制によって、塚崎村・大井村・大島田村・蓑輪村・五条谷村・高柳村・藤ヶ谷村・藤ヶ谷新田・大井村新田・箕輪村新田が合併し、南相馬郡風早村が成立。

風早村(かざはやむら)の由来は、中世の頃、周辺が「風早荘」と呼ばれる「香取神宮」の荘園だった事にちなむ。当社周辺は「伊勢神宮」の荘園である「相馬御厨」であったが、現在の松戸市北部から流山市西部あたりが「風早荘」であった。

明治三十四年(1901)、官地から払い下げられ民有地に復す。
明治三十九年(1906)、風早村の総鎮守として村社に列した。
明治四十一年(1908)、周辺の子ノ神社・浅間神社・厳島神社・面足神社・白幡神社を境内に合祀。

これらは当時の合祀政策の影響によるものと思われる。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
地図上に「神明社」と記してあるように目印にもなる立派な境内であった。
今はなき風早村の文字、今も残る塚崎、そして隣接していた藤心といった地名も見る事ができる。
当社に周辺の多くの神社が合祀され、風早村一帯の中心として崇敬を集めたのであろう。

昭和三十年(1955)、風早村と手賀村が合併し沼南村が成立。
当社はそれらの鎮守として崇敬を集めた。

沼南(しょうなん)は、手賀沼の南に位置する事が由来。

昭和三十二年(1957)、社殿や神楽殿を改修。
この際に、1万本の植樹がされたと云う。

昭和三十九年(1964)、沼南村は沼南町となる。
昭和五十二年(1977)、境内の一部が「町民の森(元・沼南の森)」として開放。
沼南町の鎮守として地域から親しまれていた事が窺える。

平成十七年(2005)、沼南町は隣接する柏市に編入。
当地一帯は柏市塚崎となり、塚崎地区の鎮守となる。

平成二十七年(2015)、拝殿の改築や幣殿・参集殿の増築が竣工。
神明造りの拝殿となり現在に至る。

境内案内

綺麗に整備された表参道・石段下の弁財天

最寄駅は逆井駅や高柳駅になるが、比較的距離がある。
県道8号線沿いに鎮座しており、広い駐車場が完備されているので、自家用車などで訪れたほうがよいかもしれない。

県道8号線沿いに参道が2つ。
南側に南西向きであるのが表参道で、駐車場側と云える。
石段が整備されており、古くは宝暦三年(1753)に隣接していた藤心村の氏子が寄進したと云う。

表参道側には石段の手前に境内社として弁財天社と弁天池。
宝暦七年(1787)に祀られたと云い、位置関係も昔と変わらないと云う。
弁天池として整備されていて、奥には弁財天を祀る小祠が2つ並ぶ。

裏参道の手前には氏子の気持ちを伝える一ノ宮

一方で表参道の北側、北西向きに裏参道。
こちらにも鳥居と社号碑が設けられており、氏子地域の塚崎地区からは裏参道のほうが近い。

裏参道の手前には一ノ宮という境内社が鎮座。
一般的に一之宮と云うと令制国で最も社格の高いとされた神社の事を云い、当地が属していた下総国の場合は「香取神宮」の事を云うが、こちらに祀られているのは違う意味合いを持つ。

鎌倉時代末期、当社を参拝する際に、表参道を通るのは畏れ多いとして、氏子地域を向く裏参道を造り、境内に入る前にまずこの「一ノ宮」で祈りを捧げてから境内に入ったと云う。
そのため当社に参拝する際に、最初にお参りする神社という意味合いの「一ノ宮」となる。

裏参道は表参道よりも緩やかに長く続く。
自然溢れる鬱蒼とした参道である。

江戸時代の古い手水鉢・本多正珍より奉納の石鳥居

表参道の石段を上ると、正面に社殿が見えてくる。
灯籠も新たに整備され、今なお地域からの篤い崇敬が伝わる。

参道の左手に手水舎。
手水鉢には安永二年(1773)の文字。
大々講中による奉納であった事が分かる。

大々講中は、一般的には「伊勢太太講(いせだいだいこう)」「伊勢講」「太太講」と呼ばれる。「伊勢神宮」に参拝する、いわゆる「伊勢参り」をして太太神楽(だいだいかぐら)を奉納するための費用を積み立てた組合。
「伊勢神宮」の荘園であった当地に根付いていた篤い伊勢信仰が伝わる。

一方で裏参道側にも手水舎が設けられている。
こちらの手水鉢は更に古く、寛文九年(1669)のもの。
柏市指定文化財となっている。

表参道を進むと、その先に柏市指定文化財の古い石鳥居。
宝暦七年(1758)に伯州刺吏藤原正珍より寄進された石鳥居(石華表)。
「宝暦七年丁丒二月 執政中太夫 執政中太夫拾遺伯州刺吏藤原正珍依為旧領采地謹建焉」の文字。

伯州刺吏藤原正珍とは、一般的に本多正珍(ほんだまさよし)の名で知られる大名。駿河田中藩二代藩主であり、江戸幕府の老中も務めた。塚崎村は田中藩の領地の1つであった。
当社の他に、同じく朱印地を賜った「廣幡八幡宮」と、関東三大弁天の1つ「布施弁天(東海寺)」にも同様の鳥居が寄進されている。
石鳥居の事を「石華表」と記し、国司のことを「刺吏」、伯耆国を「伯州」と記しているように、何れも漢風な表現であり、正珍は漢風な表現を好んだ事が窺える。
廣幡八幡宮 / 千葉県柏市
増尾八幡さんとして親しまれる古社。下総国第一鎮守宇多天皇勅願所として創建。鎌倉時代に現在の柏市一帯総鎮守として再建。徳川家光より朱印地を賜る。規範神社に指定された広々とした境内。江戸中期の石鳥居。近くにはニッカウヰスキー柏工場。御朱印。

改築されたばかりの拝殿・三社が並ぶ本殿は江戸時代の建立

石鳥居を潜ると石段が続き、その先に社殿。
拝殿は平成二十七年(2015)に竣工したばかり。
まだ新しさを感じる拝殿で、既存の部材を極力残しながら改築したと云う。
筆者は旧拝殿であった2011年に一度参拝しているのだが、その頃と違い、神明造りの立派な拝殿となり、今も多くの崇敬者によって崇敬を集めている事が伝わる拝殿である。

拝殿の裏手には玉垣に囲まれた本殿が並ぶ。
本殿は三社が並ぶ形となっていて、中央に神明社の御祭神である天照皇大神、右に八幡社の御祭神である八幡大神、左に春日社の御祭神えある春日大神を祀る。
これらは享保十八年(1733)に建立したものが現存しているのが素晴らしい。

天照皇大神は「正直」(皇室・日本人の祖神)
八幡大神は「正常」(主に武家の氏神)
春日大神は「慈悲」(主に公家の氏神)
三社は古来の日本人の在り方、人として正しく生きるための教えを意味すると伝えられている。

当社の絵馬にも三社がデザイン。
当社のシンボルの1つにもなっている。

当社に合祀された多くの境内社・かしわ七福神の大黒天

社殿の左右や裏手には大変多くの境内社が並ぶ。
社殿の右手に導きの神である猿田彦神社。
「出雲大社」の御祭神・大国主命を祀る子ノ神社。

更にまだ新しい「かしわ七福神」の大黒天。
暫く未完成であった「かしわ七福神」であるが、当社は大黒天を担っている。

かしわ七福神は、柏に住む人々によって結成された「かしわ七福神創立を考える会」が、柏市にも七福神巡りを、と云う理念の基で活動を行っていた。(お隣の流山市や松戸市には七福神がある)
暫くの間、寿老人と毘沙門天が未定であったが、平成二十九年(2017)に全ての七福神が決まり、七福神巡りをできるようになった。
かしわ七福神
弁財天:幸町辨財天(柏市柏4-10-22
恵比寿:香取神社(柏市旭町2-7-23
福禄寿:豊受稲荷本宮柏市豊四季972-14
大黒天:塚崎神明社(柏市塚崎1460
布袋尊:福満寺(柏市大井1708
毘沙門天:大洞院(柏市花野井1757
寿老人:香取神社(柏市戸張1309

社殿の裏手には古い石祠が多く置かれている。
明治四十一年(1908)に周辺の神社を合祀したが、その他由緒不明な石祠が祀られており、どれも大切に整備され保護され続けているのが素晴らしい。

社殿の左手に子安社。
さらに天然痘の恐ろしさを神とした疱瘡神社。
「あんば様」として親しまれた大杉神社。
いずれも当地周辺の信仰の歴史を伝えており、どれにも説明の案内板が立っているのが有り難い。

樹齢約1,300年の大榊・自然溢れる沼南の森

拝殿の手前左手に大榊。
昭和十年(1935)に千葉県の天然記念物に指定された大榊で、推定樹齢は1,300年。
現在も「千葉県指定天然記念物 神明神社の榊」の碑が立つ。

残念ながら現在は主幹が枯死してしまっており、現在あるのは育成中の若木となっている。

社殿の右側からは自然溢れる社地が広がる。
昭和五十二年(1977)に旧沼南町の町民のために開放された境内で、現在は「沼南の森」と呼ばれる。
緑溢れる緑地・公園にもなっていて、地域の人々の憩いの場としても利用されていて、当社含め親しまれているのがよく伝わる。

柏市指定無形文化財の塚崎十二座神楽

拝殿前、右手には神楽殿が置かれている。
明治三十五年(1902)に造られた神楽殿で、昭和三十二年(1957)に改修。

毎年10月17日の例大祭では、この神楽殿で「十二座神楽」が奉納される。
境内にも記念碑が建てられていて、当社の十二座神楽は柏市指定無形文化財となっている。

十二座神楽とは、巫女、猿田彦、大蛇退治、天岩戸など古代神話をもとに十二の舞曲から成り立つ神楽の事。上述した寛文九年(1669)の手水鉢には「神楽衆」による奉納と銘文がある事から、既にその頃には神楽衆が存在していて、当社で十二座神楽が行われていたものと思われる。
十二座神楽

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

所感

塚崎地区の鎮守である当社。
中世の当地周辺は「相馬御厨」と呼ばれた「伊勢神宮」の荘園であり、そうした御厨には伊勢信仰の神社が創建されるのが一般的で、当社もそうした御厨の歴史を伝える伊勢信仰の神社となっている。
江戸時代には徳川家より朱印地を賜り、地域一帯の総鎮守であった事が窺える。
明治以降、村や町の合併があった後も、地域の鎮守として多くの人々から崇敬を集めたのであろう。
沼南町が柏市に合併されてまだ浅いが、旧沼南を代表する神社の一社。
古い石鳥居や手水鉢の他、綺麗に整備された境内、境内社にも有り難い案内板がそれぞれ設置されていたりと、どれも大切にしているのがよく伝わる。
自然溢れ清々しい境内など、個人的にもオススメする良社である。

神社画像

[ 社号碑・表参道 ]


[ 表参道石段 ]

[ 弁財天社 ]





[ 表参道 ]

[ 手水舎 ]


[ 石鳥居 ]




[ 社殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 拝殿 ]




[ 本殿 ]



[ 大榊 ]


[ 神楽殿 ]

[ 裏参道鳥居 ]

[ 一ノ宮 ]


[ 裏参道 ]

[ 狛犬 ]


[ 裏参道手水舎 ]



[ 石碑 ]


[ かしわ七福神・大黒天 ]

[ 石碑 ]

[ 猿田彦神社 ]


[ 子の神社 ]


[ 石碑 ]


[ 沼南の森 ]

[ 石祠群 ]


[ 子安社 ]


[ 疱瘡神社 ]


[ 大杉神社 ]


[ 籠り堂 ]

[ 社務所 ]

[ 御籤掛・絵馬掛 ]

[ 絵馬 ]

[ 案内板 ]


[ 記念碑 ]

Google Maps

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