浅草鷲神社 / 東京都台東区

神社情報

浅草鷲神社(あさくさおおとりじんしゃ)

御祭神:天日鷲命・日本武尊
社格等:村社
例大祭:11月酉の日(酉の市)
所在地:東京都台東区千束3-18-7
最寄駅:三ノ輪駅・入谷駅・浅草駅
公式サイト:http://www.otorisama.or.jp/

御由緒

 鷲神社は江戸時代以前より此の地にまつられ、江戸時代は鷲大明神社と号し、開運を招き、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。
 鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商売繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されております。
 その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」すなわち「酉の市」の起源・発祥です。
 その後、日本武尊が併せまつられ、浅草「酉の祭」「酉の市」は次第に賑いを増し、酉の市に商われる縁起熊手も年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月)を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊郭の隆盛と共に賑い「吉原のおとりさま」とも云われました。
 江戸時代からまつられている「鷲大明神」天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から「鷲大明神・おとりさま」といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦渦にもお守りされ、三百年以上にわたり鷲神社に安置されております。天日鷲命は「東都歳時記」に”開運の守護神なり”とあり、日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司る神様として厚く信仰されております。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/09/27(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/05/03(御朱印拝受/御朱印帳拝領)

御朱印

初穂料:各300円
授与所にて。

※授与所が開いてない場合は社務所で御朱印を頂ける。

[2017/09/27拝受]

[2015/04/04拝受]

御朱印帳

初穂料:1,200円
授与所にて。

羽根を広げて松の木に停まる鷲がデザインされた御朱印帳。
凛々しい鷲がデザインされており人気が高い。
表装は一般的な御朱印帳とは違ったふかふかとしておりソフトな手触りの厚手の素材。
最終ページが通常のものと少し違う作りにで、その分1ページ多めに入っている。
取り外してしまったが透明の防水カバーも一緒についてくる。

[ 表面 ]

[ 裏面 ]

歴史考察

日本最大の酉の市で知られるお酉さま

東京都台東区千束に鎮座する神社。
旧社格は村社で、浅草田圃の鎮守。
江戸時代より盛大に行われていた11月酉の日の例大祭「酉の市」は、現在も日本最大の酉の市として有名で、「浅草酉の市起源発祥」として知られる。
正式名称は「鷲神社」であるが、他との区別のため「浅草鷲神社」とさせて頂く。
氏子崇敬者からは「お酉さま」と称され親しまれている。
また「浅草名所七福神」の寿老神を担い、「下町八社福参り」の一社にもなっている。

天日鷲命と日本武尊を祀る

創建年代は不詳。

社伝によると、古くから当地に天日鷲神を祀る祠があったと伝わる。

天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、『日本書紀』などに登場する日本神話の神。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れたと云う「岩戸隠れ」に登場し、幣帛を作ったとされる。
当社では、岩戸隠れの際に弦(げん)という楽器を司った神としており、天岩戸が開かれた際、弦の先に鷲がとまったので、以後、この神を鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称するようになったと伝えている。

天日鷲神は、鷲大明神とも呼ばれ、人々は親しみを込めて「お酉さま」として崇敬した。
開運、開拓、商工業繁栄、殖産の守護神として信仰され、当地に祀られたと云う。

景行天皇御代(71年-130年)、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征討の際、当社で戦勝祈願。
凱旋の帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけてお礼参りを行った。

日本武尊がお礼参りを行った日が、11月酉の日であったため、例祭日と定め、これが後に「酉の市」となったとされる。

この故事により日本武尊も祀られるようになり、当社には天日鷲神・日本武尊の二柱が祀られている。

鷲大明神社と称された江戸時代

江戸時代に入ると、「長國寺」が別当寺となる。
「長國寺」は現在も隣接しており、別当寺としてだけでなく神仏習合のもとで当社と一体となり、当社は「鷲大明神社」と称され崇敬を集めた。

長國寺(ちょうこくじ)は、鷲在山長國寺と号する寺院。寛永七年(1630)、浅草寺町に開山し、寛文九年(1669)に当地へ移転。浅草酉の市発祥の寺院とされる。

明和八年(1771)、「長國寺」に鷲妙見大菩薩を勧請。

江戸時代の当社の鷲大明神は、鷲の背に乗る妙見菩薩とされ信仰を集めており、その事から「鷲妙見大菩薩」とされた。神仏習合の中で「長國寺」と一体となって崇敬された事が分かる。

浅草田圃に鎮座していた当社と裏手の吉原遊郭

江戸時代の当地は、浅草田圃(あさくさたんぼ)と呼ばれた田畑ばかりの地であったが、裏手に「吉原遊郭(新吉原)」が整備されていたため、多くの参詣者を集めていく。

現在も当社の御朱印や御朱印帳に「浅草田圃」の文字が残る。

当時の当社と「長國寺」の様子は、江戸の切絵図からも見て取れる。

(今戸箕輪浅草絵図)

こちらは江戸後期の浅草周辺の切絵図。
右上が北の切絵図となっており、当社は図の中央に描かれている。

(今戸箕輪浅草絵図)

図を回転(北を上に)させ、当社周辺を拡大したものが上図。
まだ多くの「田地」「畑」に囲まれており、「浅草田圃」と呼ばれていた当時の様子が伝わる。
赤円で囲ったのが当社で「鷲明神・長國寺」として同じ敷地に記されていて、別当寺の「長國寺」とは神仏習合の中で、一体の寺社として扱われていた事が伺える。

桃円で囲ったのが「吉原遊郭(新吉原)」。
出入口は北東にある大門にしか設けられておらず、外界と隔絶された空間であったが、当社のほぼ裏手にあった事が分かる。

大門(おおもん)は、吉原遊郭への正面玄関。治安目的の他、遊女の逃亡を防ぐため、出入り口はこの大門一箇所のみであった。

こうした浅草田圃と裏手の吉原遊郭という立地によって、当社は賑わいを集めていく事となる。

江戸時代後期には最も著名で賑わう酉の市

江戸時代中期になると、当社と別当寺「長國寺」では、例祭の「酉の市」が賑わうようになる。

元々は「酉の祭(とりのまち)」と呼ばれていたが、転じて「酉の市」と呼ばれるようになったと云う。

天保九年(1838)に刊行された『東都歳時記』には以下の記述が残されている。

下谷田甫鷲大明神社、当社の賑へることは、今天保壬辰より凡そ六十余年以前よりの事。(東都歳時記)

この事から、宝暦・明和年間(1751年-1772年)には、既に賑わいを見せていた「酉の市」だった事が分かり、江戸後期になると当社の「酉の市」が江戸で最も賑わう酉の市として知られるようになっている。

(東都歳時記)

『東都歳時記』に描かれた当社の酉の市。
「浅草田圃酉の市」として描かれていて、大行列をなしており大変な賑わいだった事が分かる。
境内や道行く人々の手には「熊手」を見る事ができ、現在の酉の市の基礎となった。

酉の市起源発祥の考察

江戸時代後期に、最も著名で賑わう「酉の市」と知られた当社の例祭。
こうした事から当社では「浅草酉の市起源発祥の神社」を称している。
これには少し複雑な経緯を含んでいる。

本来、江戸の「酉の市」の発祥の地とされているのは「花畑大鷲神社」である。

応永年間(1394年-1428年)より日本武尊の命日とされる11月の酉の日に、日本武尊への報恩感謝の祭りが行われるようになると、次第に門前市が開かれるようになり、農耕具などが売られ「とりのまち」と称された。
特別な日である「酉の日」に収穫祭として行われた祭りでは、生きた鶏が奉納され、祭が終わると「浅草寺」観音堂前に放たれたと伝わり、これが「花畑大鷲神社」の「酉の市」の起源とされている。
花畑(旧花又村)鎮守。「酉の市」発祥の神社。酉の市の起源とその歴史。日本武尊と源義光(新羅三郎)の伝承。江戸時代に描かれた当社の姿。本殿の柱にある見事な彫刻・改修工事された社殿。滝のある立派な神苑。御朱印。

元々は収穫祭・農業市の色合いが強い「酉の市」であった事が伺える。
当時は祭りの日だけ賭博が開帳され江戸市中から人が集まったと伝わるが、安永年間(1772年-1781年)に出された禁止令により「花畑大鷲神社」の賑わいは衰微。

対して浅草田圃の「鷲大明神」(当社)へ、その盛況ぶりが移り、以後最も賑わう酉の市として知られるようになる。

江戸時代後期には、「花畑大鷲神社」を「上酉・本酉」、千住にある「勝専寺」を「中酉」(明治に閉鎖)、浅草の当社と「長國寺」を「下酉・新酉」と称しており、当社が「新酉」と呼ばれた事からも新たに盛況となった酉の市だった事が分かる。
当地の「酉の市」が盛況を迎えたのは地の利が関係していると見られ、当社裏手には「吉原遊郭」があり、当社の「酉の市」が開催されると遊郭内が開放されたため、大賑わいとなった。

当社の酉の市が盛況となった事で、元々は収穫祭・農業市の色合いが強かった酉の市に変化が生まれた。
浅草という江戸市中・吉原遊郭のすぐ近くという立地から、招福の吉兆を載せた縁起熊手を縁起物とする、現在一般的に知られる「酉の市」と変遷を遂げる事となる。

以上の事から、そもそもの「酉の市」の起源は「花畑大鷲神社」であるが、現在の熊手など縁起物が多く出る「酉の市」の文化を作ったのは当社であると云う事ができる。
そのため現在一般的に知られる「酉の市」を浅草発祥の「浅草酉の市」と称する事で、当社は「浅草酉の市起源発祥の神社」と云う事ができるであろう。

江戸時代の浅草酉の市を描いた浮世絵

江戸後期から最も著名で賑わう「酉の市」で知られた当社の様子は、浮世絵・錦絵にも描かれている。

(江戸自慢三十六興)

二代・歌川広重と三代・歌川豊国が描いた『江戸自慢三十六興』より「酉の丁銘物くまで」。
手前には酉の日に当社で熊手を購入した3人組が描かれている。
その後ろには当社へ続く参拝者の大行列が描かれており、当時の盛況ぶりが伺える。

こうした「縁起熊手」を売る「酉の市」は当社が発祥と見られており、福を「掃き込む、かきこむ」縁起物として重宝され、こうした形の酉の市が江戸の各地で開かれるようになっていき、現在の一般的な「酉の市」となっている。

(名所江戸百景)

こちらは初代歌川広重が描いた『名所江戸百景』から「浅草田甫酉の町詣」。
「酉の市」はかつては「とりのまち」と呼ばれており、広重は「酉の町」の字を充てている。
宿から猫が外を眺め、富士山と飛ぶ雁が描かれた一枚。

一見すると当社の酉の市らしさがなく、題名の「浅草田甫酉の町詣」が伝わりにくいが、実は左に小さな熊手が4本置かれているのが分かり、当社の酉の市に参拝した後の様子を描いている。

神仏分離で鷲神社へ改称・戦前の古写真

明治になり神仏分離。
別当寺で一体となっていた「長國寺」と分離し、「鷲神社」と改称。
明治六年(1873)、村社に列した。

当時の当社の様子は古写真で見る事ができる。

(東京風景)

上写真は明治四十四年(1911)に出版された『東京風景』より、当社酉の市を撮影したもの。
現在も残る石鳥居、参道には熊手商が出ており、当時の賑わいが伝わる。
酉の市になると今も昔も似たような光景であったのが伺え感慨深い。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

こちらは大正十一年(1922)に出版された『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』。
多くの人で賑わう酉の市ではなく、人のいない普段の当社を写している。
旧社殿の他、現在は置かれていない狛犬の姿も見る事ができ、当時の様子が伝わる。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
裏手の吉原は全焼し、当社も多大な被害を受けた。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって一帯が全焼。
当社の社殿も焼失。

戦後になり社殿が再建され、境内整備が進み現在に至る。

現在は「浅草名所七福神」の寿老神を担っている。

さらに「下町八社福参り」の一社としても崇敬を集めている。

酉の市 起源発祥 浅草 鷲神社の公式ホームページへようこそ

境内案内

豪華で立派な社頭・江戸時代の二之鳥居

最寄駅の三ノ輪駅・入谷駅・浅草駅からは徒歩10分程の距離に鎮座。
国際通りに面して参道があり、豪華な社頭。
「浅草酉乃市御本社」の文字が掲げられた叉木。

社頭の左手には大熊手。
残念ながらこの日は境内の至る所が保護されていたが、本来は縁起のよい大熊手を見る事ができる。
こちらは2015年参拝時に撮影した大熊手。

その先には朱色の大鳥居。
扁額には「鷲宮」の文字。

大鳥居を潜ると、石造りの二之鳥居。
二之鳥居は天保十年(1839)に建てられたものが補強されつつ現存。
江戸時代の絵や戦前の古写真に載っていた鳥居がこれである。

参道の左手に手水舎。
平成十一年(1999)に再建されたもの。(この日は保護されていたが使用は可能であった)

再建された社殿・幸福を呼ぶ「なでおかめ」

参道の正面に社殿。
戦後になり鉄筋コンクリート造で再建された。
朱色の柱で、神明造りの拝殿となっている。

拝殿前、賽銭箱の上に「なでおかめ」。
ご利益を授かるおかめと云われ、多くの方が撫でていく。

おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に
口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まる

さらに撮影スポットとしても利用されており、以前はなでおかめを携帯電話の待受画像にする方も多かったと云う。
神社も撮影を推奨しているので、拝殿前でも遠慮せず撮影するのが良いだろう。

江戸時代の浮世絵にも、当社の酉の市の熊手には、おかめの面が付けられていたように、縁起物として古くから関係が深い。

おかめは「お多福」とも云われ、福が多く幸せを招く女性の象徴という事から縁起が良いとされる。

整備された神楽殿と渡殿・当社を題材にした文人

社殿の左手には、神楽殿・渡殿・授与所が一体となり整備。
渡殿には「渡殿鷲瑞」という名が付けられている。
その左手が神楽殿。
神楽殿の1F部分が授与所となっていて、御朱印はこちらで頂く事ができる。

授与所が開いていない場合は、渡殿を潜った先、右手にある社務所にて。
御朱印については授与所に案内が書かれているので、指示に従うと良い。
オリジナルの御朱印帳も用意している。

参道の右手には石碑が並ぶ。(この日は何れも保護材が被されていたため撮影していない)
樋口一葉・正岡子規・俳人其角といった当社を題材にした句や作品を発表した文人を記念した碑。

春を待つ ことのはじめや 酉の市(俳人其角)

雑閙や 熊手押あふ 酉の市(正岡子規)

「此年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天気に鷲神社の賑わひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき」(樋口一葉・たけくらべ)

いずれの石碑も近年になって奉納され設置された。

24時間開催の酉の市・粋な熊手の買い方

毎年11月の酉の日の当社例祭は「酉の市」として知られる。
江戸時代後期から現在に至るまで、日本最大の「酉の市」として賑わう。

平成二十九年(2017)の酉の市
一の酉:11月6日
二の酉:11月18日
三の酉:11月30日
酉の市 起源発祥 浅草 鷲神社の公式ホームページへようこそ

当社の酉の市は、午前0時の一番太鼓と共に開始。
丸一日24時間祭りが行われ、深夜も朝も賑わう。

熊手商による縁起熊手の購入を求める、勢い有る掛け声が響く。
熊手商から熊手を購入する場合は、駆け引きを楽しむのが粋とされる。

威勢のよい掛け声の熊手商との値切りの駆け引き。
たっぷり値切って「まけたまけた」と言わせれば勝ち。
とは言え、値切った分だけ「ご祝儀」として熊手商に置いてくるのが、粋な買い方とされているので、あくまで駆け引きを楽しむもの。(もちろん値切った値段で購入しても構わない)
ある程度の金額以上の熊手を求めた場合は、最後に手締めとなる。
「家内安全・商売繁盛」と大勢で手を打ち、熊手を高く掲げて持ち帰る。
翌年の酉の市で、前年購入した熊手を納め、また新しいのを購入。
その際に前年より大きいのを購入するのが良いとされている。
毎年、同じ熊手商から購入し贔屓になると、入山(自分の名前を入れた札)を差してくれるようになる。

他にも様々な催しが企画されており、日本最大の酉の市として大いに賑わう。

現在は「花園神社」(東京都新宿区)、「大國魂神社」(東京都府中市)と共に「関東三大酉の市」とも呼ばれる。
新宿総鎮守。大変な賑わいを見せる酉の市。徳川家康入府以前より創建。尾張藩下屋敷へ遷座・花園の由来。内藤新宿の開設と鎮守・新宿の地名由来。江戸時代に描かれた内藤新宿。朱色に統一された境内。境内社の稲荷社や芸能浅間神社。御朱印。
武蔵国総社。武蔵国の国魂神・一之宮から六之宮を祀る六所宮。くらやみ祭と淫靡な風習。国府が置かれた府中の歴史。馬場大門のケヤキ並木。広大な境内と見事な随神門・社殿。御朱印。御朱印帳。

12年に1度の勝幟守は2017年酉の市で授与

当社の「酉の市」では12年に1度「酉年」に限り「勝幟守」が授与。
酉年限定で酉の市の日に限り、6,000体限定の頒布。(各日2,000体ずつ)

公式サイトより)

勝幟守(しょうしまもり)とは、12年間酉の市を見守った幟旗を御守として奉製したもの。 当社の「酉の市」で掲げられた幟旗は、12年に1度酉年の際に新調するため、古い幟旗を御守として奉製している。

大混雑が予想され、整理券配布方式での授与となる。
詳しくは下記公式サイトを熟読頂きたい。

酉の市 起源発祥 浅草 鷲神社の公式ホームページへようこそ

所感

日本最大の「酉の市」が行われる当社。
かつて農村部の収穫祭・農業市といった色合いが強かった「酉の市」であるが、浅草という江戸市中・吉原遊郭の近くの当社が盛況になるにつれ、熊手などの縁起物が多く出る都市部の祭りへ変遷していったと見られ、現在一般的に知られる「浅草酉の市」の発祥とも云う事ができるであろう。
江戸後期より現在に至るまで、日本最大の酉の市として、24時間大賑わいとなる。
現在は関東各地で行われている「酉の市」を知る上で外せない、歴史を伝える神社である。

神社画像

[ 叉木 ]


[ 大熊手 ]

[ 一之鳥居 ]

[ 社号碑 ]

[ 二之鳥居 ]


[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]



[ なでおかめ ]



[ 授与所 ]

[ 渡殿 ]



[ 神楽殿・授与所 ]

[ 授与所 ]

[ 叉木 ]

[ 神田 ]

[ 社務所 ]

[ 案内板 ]


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