吉原神社 / 東京都台東区

神社情報

吉原神社(よしわらじんしゃ)

御祭神:倉稲魂命・市杵島姫命
社格等:─
例大祭:5月第3金・土・日曜
所在地:東京都台東区千束3-20-2
最寄駅:三ノ輪駅・入谷駅・浅草駅
公式サイト:http://yoshiwarajinja.tokyo-jinjacho.or.jp/

御由緒

 当社は吉原遊郭とともに歩んできた神社です。吉原遊郭は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまります。この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1655)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。
 この「新吉原」には廓の守護神として五つの稲荷社が存在しました。吉原の入口である大門(おおもん)の手前に「玄徳(よしとく)稲荷社(吉徳稲荷社)」、さらに廓内の四隅には「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」がお祀りされていました。
 その後明治5年に、これら五つの稲荷社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられました。当初は玄徳稲荷社旧地にお祀りされていましたが、関東大震災にて焼失。震災後は水道尻付近の仮社殿にてお祀りしていましたが、昭和9年に現在地へ新社殿を造営、そのさい新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。その後昭和20年の東京大空襲で惜しくも焼失しますが、昭和43年に現社殿が造営されて現在に至ります。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2017/09/27

御朱印

初穂料:各300円
社務所にて。

※「吉原神社」と「吉原弁財天」の御朱印を頂ける。

(吉原神社)

(吉原弁財天)

歴史考察

吉原遊郭の鎮守と吉原弁財天

東京都台東区千束に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、吉原遊郭の鎮守。
明治になり新吉原に祀られていた5つの稲荷社が合祀され創建した歴史を持つ。
その後、新吉原に隣接していた弁天池(花園池)に鎮座する吉原弁財天を合祀。
当社の他に、近くの弁天池跡には吉原弁財天本宮が鎮座しており、当社の奥宮となっている。
現在は「浅草名所七福神」の弁財天を担う。

江戸幕府公認の吉原遊郭と明暦の大火

当社の創建には、江戸幕府公認の遊郭であった吉原遊郭が深く関わってくる。

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
慶長八年(1603)、征夷大将軍に任じられた家康によって江戸幕府が開府。

江戸の人口が増えるにつれ、遊女屋が各地に点在したものの、江戸の街づくりの中で幾度も移転を強制されたため、困った遊女屋たちが、固定の遊郭の設置を幕府に陳情する事となる。

慶長十七年(1612)、庄司甚右衛門を代表とした陳情が受理され、幕府公認の「吉原遊郭」が誕生。
幕府から日本橋葺屋町周辺(現・日本橋人形町付近)を賜り、遊郭として整備した。

当時の日本橋葺屋町(ふきやちょう)は、江戸の僻地で、葦(よし)の生い茂る低湿地であり、これを開拓して遊郭としたため「葦原」と呼ばれたが、これが転じて「吉原」と名付けられたとされる。

江戸の人口は増加の一途を辿り、江戸市中は拡大を続け、大名屋敷も吉原に隣接するようになる。
明暦二年(1656)、幕府は吉原の移転を命じる事となる。

明暦三年(1657)、明暦の大火が発生。
吉原全域が全焼し、移転を余儀なくされた。

明暦の大火とは、江戸の大半を焼失させた大火事。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。江戸三大火の1つで、中でも江戸時代最大の延焼面積・死者が出た。江戸城の天守閣を含む、江戸市中の大半が焼失し、この明暦の大火を機に、江戸の都市改造が行われる事となった。

浅草田圃に移転し誕生した新吉原

明暦三年(1657)、明暦の大火によって全焼した吉原は、浅草田圃(現在地周辺)に移転。
これが現在広く知られる「吉原遊郭」。

日本橋葺屋町にあった吉原を「元吉原」、浅草田圃に出来た吉原を「新吉原」と呼ぶ。
その後、新吉原が浸透し「吉原」と云うと、新吉原を指す事になった。

その後、幕府公認の遊郭として発展。
出入口は大門のみと外界から隔絶された空間で発展を遂げる。

大門(おおもん)は、吉原遊郭への正面玄関。治安目的の他、遊女の逃亡を防ぐため、出入り口はこの大門一箇所のみであった。

その後も大火に見舞われており、幕末までに計22回の火事があった記録が残されている。
そうした特殊な吉原遊郭には、5つの稲荷社があったと云う。

吉原遊郭にあった5つの稲荷社

当時の吉原の様子は江戸の切絵図からも見て取れる。

(今戸箕輪浅草絵図)

こちらは江戸後期の浅草周辺の切絵図。
右上が北の切絵図となっており、吉原は図の中央に描かれている。

(今戸箕輪浅草絵図)

図を回転(北を上に)させ、吉原周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが吉原遊郭で、入口が1つしかない外界から隔絶された空間な事が伺える。
この切絵図には遊郭の中に、3つの稲荷社が記されているが、実際には四隅に稲荷社があった。

(新吉原細見記)

上図は安政七年(1860)に発行された『新吉原細見記』。
日本堤から大門に至るまでの吉原遊郭へ入るまでの道のりの図。
ここに「玄徳稲荷社(吉徳稲荷社)」が描かれており、大門に入る手前に稲荷社があった事が分かる。

「玄徳稲荷社」は、新吉原が移転してくる以前より、千束村に祀られていた地主神。

(新吉原之図)

吉原にあった5つの稲荷社が明確に記されているのが上の『新吉原之図』
分かりやすいように拡大して印を付ける。

(新吉原之図)

大門の手前に「玄徳稲荷」、吉原遊郭の四隅に「榎本稲荷」「明石稲荷」「開運稲荷」「九郎助稲荷」があり、それぞれ鳥居の記号と社号が記されている。

この5つの稲荷社が後に合祀されて誕生したのが当社。

これら5社は、外界から隔絶された特殊な遊郭において、遊女たちの信仰を集めただけでなく、遊郭に訪れた人々からも崇敬を集めた。
中でも「九郎助稲荷」は縁結びの神として信仰を集めて人気であった。

新吉原を描いた浮世絵の数々

幕府公認の遊郭として発展し栄えた吉原(新吉原)は、浮世絵や錦絵など多くの題材として取り上げられている。

(歌川広重・東都名所)

歌川広重が描いた『東都名所』より「新吉原五丁町弥生花盛全図」。
3枚に渡って描かれたもので、当時の新吉原の全図が描かれている。
大門から真っ直ぐ伸びた通りは、桜並木になっていた。

(歌川広重・東都名所)

同じく広重による『東都名所』から「新吉原」。
入口である大門に至る日本堤の様子を描いていて、左上には「玄徳稲荷」の鳥居が見える。

(歌川広重・東都名所)

このように「玄徳稲荷」は、遊女たちのためというよりも、吉原へ遊びに来た人々のための稲荷社だったように思える。
もともと新吉原ができるより以前にあった稲荷社なので、かつての村民が参拝できるようにもなっていたのだろう。
番所、高札、玄徳稲荷を通り、大門に入って吉原遊郭へ進むルートとなっていた。

(歌川国貞・新吉原京町一丁目)

歌川国貞の描いた『新吉原京町一丁目』内にあった、角海老・角ゑひやうちといった店の人気遊女たち。
最高ランクの遊女は花魁と呼ばれ、振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿とよばれる子供を従えており、そうした様子を伺う事ができる。

他にも美人絵などに花魁は多く描かれており、花魁は一流の教養と文化を身に着けていて、江戸っ子の憧れでもあった。

吉原は遊女を前借金で縛る人身売買の場所ではあったが、文化の発信地・社交場としても機能していた。

明治になり当社が創建・明治以降の吉原

明治になり神仏分離。
明治八年(1875)、大門の手前に鎮座していた「玄徳稲荷」、吉原遊郭の四隅に鎮座していた「榎本稲荷」「明石稲荷」「開運稲荷」「九郎助稲荷」の5社が合祀。
「吉原神社」と称し、吉原遊郭の鎮守として崇敬を集めた。

当時の鎮座地は大門手前の「玄徳稲荷」があった場所。

当時の吉原の様子は錦絵で見る事ができる。

(新吉原夜櫻之景)

明治二十一年(1888)に出版された『新吉原夜櫻之景』。
この頃の吉原は、遊女屋が「貸座敷」と名を変えてはいたが、依然として遊女たちの人身売買の取り口など江戸時代同様の状態であった。
しかしながら、吉原にも文明開化の波が押し寄せてきて、洋風化が進んでいた事が伺える。

明治四十四年(1911)、吉原大火が発生。
吉原遊郭全体が焼失しただけでなく、周辺の家屋にも燃え広がり約6,500戸を焼失。

東映映画やTVドラマにもなった『吉原炎上』は、この吉原大火の時代が舞台。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
吉原全域が焼失しており、当社も焼失。

逃げ遅れた遊女らが、南にあった弁天池(花園池)へ飛び込み、490名が溺死した悲劇が起こった。

昭和九年(1934)、現在地に社殿を造営し再建。
この際に弁天池(花園池)に鎮座していた「吉原弁財天」を合祀。

東京大空襲によって全焼・戦後の再建

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって吉原一帯が全焼。
当社の社殿も焼失。

このように江戸時代、そして明治以降も幾度も焼失や犠牲者を出しながらも、その度に吉原は復興している。
戦後はGHQの指令により公娼廃止となり、赤線となった。
昭和三十三年(1958)、売春防止法の施行によって赤線は廃止され、トルコ風呂が隆盛を迎え、現在は日本一のソープランド街として知られる。

昭和三十四年(1959)、弁天池(花園池)が埋め立てられる。
昭和四十三年(1968)、現在の社殿が再建。
平成二十四年(2012)、地元有志によって奥宮(吉原弁財天本宮)が改装。

境内案内

吉原繁華街の外れに鎮座

吉原遊郭の鎮守であった当社は、現在は吉原のソープランド街の外れに鎮座。
仲之町通りの終わりに鎮座し、酉の市で有名な「浅草鷲神社」の100mほど裏手に位置する。

鳥居の横には遭初桜(あいぞめざくら)。
平成二十四年(2012)に植えられた枝垂れ桜。

鳥居の手前には一対の狛犬。
凛々しい造形の狛犬で、招魂社(護国神社)などによく見られる形。
昭和二十八年(1953)の文字があり、当社が再建前の仮殿の頃に奉納されたもの。

鳥居を潜ってすぐ右手に手水舎。
小さい境内ながら常に綺麗な水が張られている。

戦後に再建された朱色の社殿・地主神のお穴さま

社殿は昭和四十三年(1968)に再建されたもの。
鉄筋コンクリート造による朱色の社殿。
状態よく維持されている。
拝殿に掲げられた提灯には、合祀された5つの稲荷社と、吉原弁財天、そして現在の社号である吉原神社の名が掲げられており、当社の歴史を伝えてくれる。

社殿の右手には「お穴さま」。
地中には社地を守護する神様がいるとあり、当地の地主神という事になるのだろう。
一角には古い石像も置かれている。

奥宮である吉原弁財天本宮・遊女たちの悲劇

当社から100mほど南の飛び地に、当社の奥宮が鎮座する。
当社の奥宮という扱いの「吉原弁財天本宮」で、かつての弁天池(花園池)の跡地となっている。

境内には、多くの慰霊碑・供養塔が置かれている。
これは大正十二年(1923)に発生した関東大震災での悲劇によるもの。

大正十二年(1923)、関東大震災によって吉原でも火災が発生。
逃げ遅れた遊女らが、当地の弁天池(花園池)に飛び込み溺死。
490名の死者を出す悲劇に見舞われ、火災が止んだ後、池の一面には多くの遊女たちの骸が埋め尽くされ悲惨な姿であった。
画像の掲載はしないが境内の掲示スペースには当時の凄惨な様子を記録した白黒写真が掲示されている。

かつての弁天池(花園池)は、昭和三十四年(1959)に電電公社電話局建築にあたり殆ど埋め立てられてしまったものの、今も一部が当社の奥宮として整備。
地蔵尊や観音像など、その多くが関東大震災や戦災で亡くなった遊女を供養するもの。
今も多くの人々によって整備され、線香や供え物が絶える事はなく犠牲者を悼む。

その奥に吉原弁財天本宮の社殿。
平成二十四年(2012)、地元有志によって改装され壁画が描かれた。
極彩色の社殿に生まれ変わり、とても不思議な雰囲気となっている。

一見するとアジア系のイラストが施された極彩色の社殿であるが、改修前に参拝した時の社殿はフェンスで周囲を塞がれていて、とても暗い気持ちになったのを記憶している。明るく生まれ変わり有志の方々による気持ちが伝わる。

その正面には小さな弁天池。
鯉が泳ぐ小さな池として整備。

可愛らしい吉原弁財天の御朱印

御朱印は本社の境内にある社務所にて。
「吉原神社」「吉原弁財天」の御朱印を頂ける。

中でも吉原弁財天の御朱印は墨書きが特徴的な事で知られる。
弁天様の神使である蛇をが「よし」の形となり、その横に「わら」で「よしわら」。
可愛らしい御朱印で人気が高い。

吉原弁財天は「浅草名所七福神」の弁財天を担っている。
「浅草名所七福神」の御朱印は、正月期間のみ対応している寺社が多いのだが、当社は年間を通して授与している。

所感

吉原遊郭の鎮守として創建した当社。
吉原にあった5つの稲荷社が合祀され創建。
さらに遊女たちの悲劇があった弁天池(花園池)の弁財天も合祀と、吉原遊郭と遊女たちとの関係が大変に深い神社であり、その歴史を伝えている。
幾度も大火にあった吉原において、境内は小さく社殿も戦後のものではあるが、当社に合祀された神社と吉原の歴史を調べる程、実に興味深い歴史が見えてくる。
奥宮である吉原弁財天本宮は、悲劇を伝える場として機能しており、今も多くの参拝者が絶えない。
吉原という特殊な空間を知った上で参拝すると、また違った側面も見えてくる、そうした良い神社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]


[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 石像 ]

[ お穴様 ]


[ 歌碑 ]

[ 案内板 ]

[ 社務所 ]

[ 逢初桜 ]



[ 吉原弁財天本宮(吉原神社奥宮) ]














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