稲毛神社 / 神奈川県川崎市

神社情報

稲毛神社(いなげじんじゃ)

御祭神:武甕槌神
相殿神:経津主神・菊理媛神・伊弉諾神・伊弉冉神
旧社格:郷社 現:別表神社
例大祭:8月2日(川崎山王祭)
所在地:神奈川県川崎市川崎区宮本町7-7
最寄駅:京急川崎駅・川崎駅
公式サイト:http://takemikatsuchi.net/

御由緒

 当神社のご創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が一千年と推定されるところから、当地の古社であることがわかります。
社伝によれば、第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられます。
鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿の造営に当たりました。
足利時代には、当時の神主が新田家と関係が深かったため社領を二十石に削られてしまいました。しかしこの時代の信仰の深さを物語る史料として、応永十一年(1404)の大般若経六百巻施入の記録があります。また新潟県の国上寺に現存する長禄二年(1458)銘の鰐口は河崎山王社すなわち当社に奉献されたものです。
秀吉公および江戸幕府からは二十石を賜りました。とくに家康公江戸入府に際し天海僧正ご巡見の参拝あり、随神門、神馬等の寄進を受けたと伝えられます。江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬をあつめていました。
例大祭「河崎山王まつり」は六月十五日に行われ、その盛況なさまから「東の祇園」と称されて街道名物の一つとなっていました。
当神社は初め御祭神の御名をそのままとって、「武甕槌宮」と称していましたが、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家(秩父平氏)が山王権現を勧請して以後「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などとよばれていました。
山王権現の称号は、天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」によりますが、慶応四年、下向された有栖川宮熾仁親王殿下が当神社にご休憩され、その折りの殿下の御言葉「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称しました。その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もありましたが、明治中期には「稲毛神社」が固定しました。
旧御社殿は江戸中期の宝永年間に川崎宿本陣当主・田中丘隅の世話によって造営された荘厳優雅な建物でしたが昭和二十年の空襲により灰塵に帰してしまいました。しかしその後、氏子崇敬者の赤誠によって、昭和三十八年、鉄筋コンクリート神明造り、延べ面積数百一坪の華麗なる現社殿の新築を見ました。
なお当神社は、昭和四十一年、神社本庁より「別表に掲げる神社」に指定されました。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/05/11(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/02/17(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

[2017/05/11拝受]

[2016/02/17拝受]

授与品・頒布品

安全守ステッカー
初穂料:300円
社務所にて。

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歴史考察

川崎宿鎮守の山王様

神奈川県川崎市川崎区宮本町に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、川崎宿の鎮守。
現在は神社本庁の別表神社。
創建時と現在の主祭神は武甕槌神であるが、平安時代から江戸時代まで山王権現を祀っていたため、その名残で現在も「川崎の山王様」と呼ばれ、例大祭は「川崎山王まつり」と称される。

武甕槌神を祀り武甕槌宮と称した古社

創建年代は不詳。
かなりの古社であると伝わる。

社伝によれば、東国に争乱の絶えなかった頃、武神・武甕槌神を祀り、天皇の戦勝祈願をする社として創建したとされる。
武甕槌神を主祭神としていたため「武甕槌宮」と称した。

武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、常陸国一之宮「鹿島神宮」の御祭神として知られ鹿島信仰に代表される神。
葦原中国平定で活躍した神であるため武神とされ多くの信仰を集めた。
中臣氏(後の藤原氏)の氏神として全国に広まった神でもある。
当社が鹿島信仰の流れで創建に至ったのか、それとも別の流れで武甕槌神を祀り創建となったのかは不明。
常陸国一之宮。鹿島神社の総本社。東国三社。奥宮。国の重要文化財の社殿。奈良の鹿の発祥。御朱印。御朱印帳。

景行天皇(71年-130年)が東国巡行の際には、当社で賊難を避けたと云う。
欽明天皇(539年-571年)が東征の際には、幣帛・七串を奉り、新たに経津主神・菊理媛神・伊弉諾神・伊弉冉神の四柱を配祀し、以降長らく勅願所とされたと伝えられている。

これらの年代は神話の時代でもあるため真偽は定かではないものの、当社の御神木が1,000年以上の樹齢と推定されている事からも、かなり古社だった事が伺える。

平安末期に山王権現を勧請し河崎山王社へ

平安時代末期、当地を領有した河崎基家が山王権現を勧請。
それ以降、「河崎山王社」「堀之内山王権現」などと呼ばれるようになる。

河崎基家(かわさきもといえ)は、桓武平氏秩父氏の流れを汲む武将で、源義家(八幡太郎)に従い「後三年の役」で先陣を務め軍功を上げた。古くは平武綱を名乗ったが、この功によって義家から一字を貰い基家の名を賜る。武蔵国橘樹郡河崎(現在の神奈川県川崎市)を所領としていたため、姓を河崎に名を基家とし、河崎基家を名乗る事となる。

河崎基家は秩父平氏らしく妙見信仰、さらには山王信仰などにも篤かったとされる。
河崎を開拓した領主として当社を篤く信仰し、山王権現を勧請したのであろう。

基家は他にも渋谷鎮守「金王八幡宮」などを創建するなど、幾つかの寺社の御由緒に登場しているように、神仏への崇敬の篤い人物であった。
渋谷・青山の総鎮守。江戸時代に造営された社殿・神門。江戸三名桜の1つ金王桜。算額など無料展示している宝物館。時代小説『天地明察』の舞台。渋谷氏と渋谷城。渋谷の地名由来。社名由来の渋谷金王丸伝説。浮世絵に描かれた金王丸。御朱印。御朱印帳。

以後、山王信仰の要素が色濃くなり「山王様」として地域から崇敬を集めた。

時代の権力者達からの崇敬

鎌倉時代には、鎌倉将軍家より社領七百石も賜ったと伝わる。
源頼朝の命を受けて、家臣である佐々木高綱が社殿の造営に当たった。
この時代の規模はかなりのものだったとされる。

佐々木高綱(ささきたかつな)は、『平家物語』『源平盛衰記』に活躍を描かれており、宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争い、名馬池月の伝説などで知られる。当社には高綱を祀る「佐佐木神社」が鎮座している。

室町時代になると、当社が新田氏との関係が深かったため、社領を二十石に削られている。

新田氏は、八代棟梁・新田義貞が後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵。足利尊氏と共に建武の新政の立役者の1人となるが、その後足利尊氏が離反し対立。南北朝時代には後醍醐天皇に従い南朝の総大将として忠節を尽くし続けた。結果的に足利氏に敗れたため、足利氏が室町幕府を開くと、新田氏の勢力は冷遇されていく。

社領を大きく削られた当社であったが、武将や民衆からの崇敬は篤かったようだ。
応永十一年(1404)、大般若経六百巻施入の記録が残る。
長禄二年(1458)、鰐口が奉献されており、これは現在新潟県の「国上寺」に現存している。

豊臣秀吉が天下を取ると、秀吉から二十石の社領を与えられている。

天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封により江戸入り。
家康からも二十石の朱印地を賜り、天海が当社に参拝し、随神門や神馬等を寄進したと傳えられている。

天海(てんかい)は、南光坊天海や智楽院とも呼ばれる大僧正。諡号は慈眼大師。家康の側近として江戸幕府の宗教政策に深く関与。江戸の都市計画にも関わり江戸の基礎を気付いた人物と云える。

江戸時代には川崎宿鎮守として崇敬

元和九年(1623)、東海道の宿場として川崎宿が設置。
当社は川崎宿の鎮守とされる。

東海道の成立時は正式な宿場となっていなかったが、品川宿-神奈川宿間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったために設置された。川崎宿設置後も、この周辺の住民は宿場維持の負担に苦しめられているが、東海道の宿場町として発展し、現在の川崎の基礎を作った。

(歌川広重・東海道五十三次)

上絵は歌川広重による『東海道五十三次』に描かれた「川崎」。
六郷渡船と呼ばれ、六郷(東京都大田区)から川崎へ向かうには、多摩川を渡し船で渡る必要があった。
奥が川崎宿となっている。

当社は、川崎宿の他、川崎宿を支えた河崎七ヶ村の鎮守として崇敬を集めた。
当社の例大祭「河崎山王まつり」は盛況な様子から「東の祇園」と称されて東海道の名物ともなっていたと云う。
この頃は「山王社」として山王信仰と神仏習合の中で崇敬を集めていたのが分かる。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(堀ノ内村)
山王社
村の坤の方にあり。社領二十石を付らる。当社は当村、川崎宿、渡田、大嶋、川中島、稲荷新田等の鎮守にして、祭神は伊弉册尊、菊理媛、経津主命、武甕槌命の五坐を安ぜり。欽明天皇の御宇当所に鎮座して古は武甕槌の神社と称せしに、いつのころにか山王権現の社と改号せりと云。されば伊弉册尊以下四坐の神は後配祀せるにや、又川崎宿宗三寺の傳記には源頼朝の代に佐々木四郎高綱奉行して建立せりと云。古棟札の存するものあり。其文に東関之武陽橘樹郡稲毛領庄川崎領堀ノ内村、維時慶長拾陸暦大才、施主鈴木石見能幸、三冬仲下幹五日開眼供養とあり、又元禄八年宮内左衛門敦信が修理を加へしときの棟札あり、其文は略せり。例祭は毎年正月三日流鏑馬の式を行ひ、六月十五日神輿を出して鎮守とする処の村々をすき、渡田村の旅所へ渡す。十二月二十七日には社内にて市を立て商人等つとへり。本社は二間に一間半、幣殿一間半に二間半、拝殿五間半に二間半、まへい幣殿につづきて作れり。社前に石鳥居を立、いづれも前に向ふ。
神楽堂。本社に向て右にあり;三間に二間。
末社。天神社(中略)。熊野三社(中略)。疱瘡神社(中略)。猿田彦社(中略)。
神主。鈴木主馬(中略)。

かなり長くなってしまうため、一部は中略とさせて頂いた。

堀ノ内村の「山王社」と記されているのが当社。
上述したような御由緒をかなり詳しく記している。
川崎宿の他、堀ノ内村・渡田村・大嶋村・川中島村・稲荷新田等の鎮守を担っていた。

当時の御祭神は伊弉諾神、伊弉冉神、菊理媛、経津主命、武甕槌命の5柱であったが、古くは武甕槌命を祀る神社だったという事と、いつしか山王権現社に改号されたといった旨が記されている。

末社の数も大変多く、立派な境内であった事が伺える。

河崎山王社と呼ばれ江戸時代に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会より)

「河崎山王社」として描かれた当社。
今とは配置違いもあるのだが、現在も当時を偲ぶ面が少し残っていて興味深い。

手前には大きな弁天池があった事が確認でき、現在は池はないものの弁財天が祀られている。
社殿右手には現存している御神木の姿が見られ、当時から実に立派だったのが分かる。
樹齢1,000年以上と推定されているため、この当時からしても800年以上の大木であった。

神仏分離で稲毛神社に改称

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、「山王権現社」から「川崎大神」「稲毛神社」へ改称。

これは関東へ下降する有栖川宮熾仁親王が当社で休憩した際に、「神仏習合に基づいた山王の社名は新政府の神仏分離の方針にふさわしくない」と発言した事による。
社名を川崎がまだ川崎と呼ばれる前の古い地名である「武蔵国稲毛庄」に因んで改称した。

明治六年(1873)、郷社に列する。

一時、「川崎大神宮」と呼ばれた事もあったようだが、明治中頃には現在の「稲毛神社」の名が定着している。

明治三十九年(1906)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
堀ノ内の地名も残っているのが分かる。
現在は当社の南東側を第一京浜が通っているが、かつての東海道は当社の北西側だった事が分かる。
あの一帯がかつての川崎宿であり、川崎の中心として発展していく。

(神奈川県神社写真帖)

上の写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
戦前の社殿が掲載されており、現在の社殿とはかなり違いを見る事ができる。
当時の社殿は、宝永年間(1704年-1710年)に造営されたものだと云い、実に荘厳優雅だったと伝わる。
奥の大木が現在も御神木として残る大銀杏であろう。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
社殿以外の建物もほとんどが灰燼に帰したと云う。

昭和三十八年(1963)、現在の社殿が再建。
昭和四十一年(1966)、神社本庁の別表神社に指定。

昭和六十一年(1986)、境内整備事業の一環として、御神木の周囲に「十二支めぐり」が整備。
その後も境内整備が進み、現在に至る。

境内案内

戦後に再建された立派な社殿

川崎駅や京急川崎駅から程近く、第一京浜沿いに鎮座。
川崎の繁華街も近い中心地に鎮座しながらも、比較的広い社地を有しており、川崎一円の総鎮守と云えるだろう。

朱色の大鳥居を潜ると参道が続く。
すぐ左手に立派な手水舎が置かれているが、現在は使用不可。
使用可能な手水舎は拝殿手前に置かれている。

参道を進むと注連柱。
その左手に鳥居。
その先が社殿となっている。

鳥居を潜り拝殿の手前左手に使用可能な手水舎。
こちらは最近になって新しく整備された手水舎となっている。

社殿は昭和三十八年(1963)に再建されたもの。
鉄筋コンクリート造で再建された社殿。
綺麗に維持されており立派な社殿で再建を果たした。

天地睨みの狛犬・多くの境内社

拝殿前には「天地睨みの狛犬」が置かれる。
平成三年(1991)大典記念として建立された狛犬。
現代的にデフォルメされた狛犬で、彫刻家・薮内佐斗司氏による造形。

上半身についての願い事は右の狛犬を、下半身についての願い事は左の狛犬を撫でてから参拝すると良いとされる。

その手前には古い手水石。
享保十四年(1729)に奉納されたもので、川崎市重要歴史記念物に指定されている。

参道右手に境内社が並ぶ。
三峰神社・御嶽神社・八坂神社・大神宮・松尾神社・金比羅宮・福田稲荷神社の合祀殿。

その隣に大鷲神社。
11月の酉の日には「酉の市」が行われ、川崎の初冬の風物詩となっている。

さらに隣に子神社(ねのじんじゃ)。
明治三年(1872)に建て替えれた社殿が現存しており、川崎宿時代の現存する唯一の建物として、現在は覆殿で保護されている。

その奥に堀田稲荷神社、第六天神社。
いずれも当地周辺にあった神社が当社に遷座している。

境内の左手にも境内社が並ぶ一角がある。
浅間神社・佐佐木神社・川崎天満社・白山神社と並ぶ。
中でも佐佐木神社は、佐々木高綱を祀る神社で、高綱は源頼朝の命を受けて当社の社殿の造営に当たったと伝わっている。

これら境内社の一角であるが、白山神社や浅間神社など、社が荒らされ破壊された過去を持つ。現在は修復されているものの不逞の輩が多いため、現在は防犯カメラなどの対策を余儀なくされているのが嘆かわしい。鳥居すぐ左手の立派な手水舎が使用できなくなっているのも、そうした不逞の輩などが多い事が原因のようである。

大鳥居近くには和崎弁財天。
かつて境内にあった大きな弁天池の名残となっている。

十二支めぐりと樹齢1,000年の御神木

社殿のほぼ向かいに大変立派な御神木。
『江戸名所図会』にも描かれていた大銀杏で、樹齢1,000年以上と伝わる。

江戸時代には「山王様の大銀杏」として知られ、広重の『武相名所旅絵日記』にも描かれている。
また、『禺老忠政遊覧記』には「この大銀杏の周囲を回りながら願い事をすると、ことごとく叶う。特に縁結び、子授け、子育て、学問稽古事の向上に霊験があり、参拝者がたえない」と書かれていると云う。

昭和二十年(1945)、空襲によって大きく損傷。
しかしながら枯れ木とはならず、年とともに蘇り現在も見事な姿を見せてくれている。

昭和六十一年(1986)、境内整備事業の一環として「十二支めぐり」として整備。
御神木の周囲に十二支のブロンズ像を置き、十二支巡りができるようになっている。
根元の祠は竜神様が祀られている。

自分の生まれ年の像を通して参拝するのが良いという。

健勝堅固の文字が特徴的な御朱印

御朱印は社務所にて。
「健勝堅固」の文字が特徴的。
神社の御朱印とは比較的珍しい形式で、中央に「健勝堅固」、左に「川崎山王稲毛神社」。

健勝「健康がすぐれて元気なこと。すこやか。」
堅固「すこやか。丈夫。」
健勝堅固「健康で元気で丈夫に」という意味合いであろう。

所感

川崎宿の鎮守として崇敬を集めた当社。
元は武神である武甕槌神をお祀りする神社であったが、平安から江戸にかけては合祀された山王権現による山王信仰の神社として崇敬を集めた。
現在は創建時の武甕槌神を主祭神としているが、今もなお「川崎の山王様」として親しまれている。
川崎駅からほど近い場所にこの規模で維持できるのは崇敬の賜物であり、川崎の歴史が詰まった良社である。
ただ残念な事に、境内では不逞の輩による社の破壊があったりとあまりよろしくない事件も頻発しているようで、この日も警備会社の方が話を伺いに来ていた。
川崎の繁華街も近く、当社の裏手とも云える川崎堀之内町は風俗街としても名を馳せたエリアであり、こうした一角も地域の歴史を伝えるものとして肯定的ではあるが、治安の面では市をあげて改善して欲しいものである。

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神社画像

[ 大鳥居・社号碑 ]


[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 注連柱 ]

[ 鳥居 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]




[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 天地睨みの狛犬 ]



[ 手水石 ]


[ 御籤掛 ]

[ 小土呂橋遺構 ]


[ 御神木 ]







[ 石碑 ]

[ 第六天神社・堀田稲荷神社 ]


[ 子神社 ]


[ 大鷲神社 ]


[ 合祀殿 ]


[ 境内社 ]


[ 白山神社 ]

[ 川崎天満社 ]

[ 佐佐木神社 ]

[ 浅間神社 ]

[ 西鳥居 ]

[ 神楽殿 ]

[ 和嶋弁財天 ]



[ 藤棚 ]

[ 案内板 ]

Google Maps