上平間八幡大神 / 神奈川県川崎市

川崎市

神社情報

上平間八幡大神(かみひらまはちまんだいじん)

御祭神:誉田別命
相殿神:天照皇大神・素盞嗚命・菅原道真
社格等:村社
例大祭:10月第1日曜(例大祭)・11月15日(秋季例祭/三神祭)
所在地:神奈川県川崎市中原区上平間299
最寄駅:平間駅
公式サイト:─

御由緒

 創立年代は不詳であるが、口碑に依れば往古多摩川大洪水の際、東京府下府中の土石原八幡宮社殿流失し、同社安置の御霊が当社に漂着した。住民相寄り一祠を建立してして之を祀った。その後社殿を改築し村内勘左ヱ門なる者、伊勢大廟より御分霊を背負いて帰村し、村民一統協力して多摩川の流域に一祠を建立したのに起因する。
 明治六年十二月村社に列し、明治四十三年一月十三日、無格社須賀神社、天満宮、神明宮を合祀、大正十三年四月四日神饌幣帛料共進神社に指定された。神奈川県神社庁より)

参拝情報

参拝日:2018/06/27

御朱印

初穂料:300円
社殿受付にて。

※不在の場合は社務所(宮司宅)にて対応して頂けるが、隣接する会館のドアに連絡先と地図が掲示されているため、一度連絡を入れて確認するのがよい。

歴史考察

上平間鎮守の八幡さま

神奈川県川崎市中原区上平間に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧上平間の鎮守。
「八幡大神」と書いて「はちまんだいじん」と読む。
他との区別のため「上平間八幡大神」とさせて頂く。
大正時代には、多摩川の築堤を求めた、今で云うデモに近い「アミガサ事件」集結の地となったため、境内には「アミガサ事件集結の地」の記念碑が置かれている。

多摩川の洪水の際に流失した府中の八幡さまを祀る

創建年代は不詳。
当社に伝わる口碑によると以下のような伝承が伝わっている。

かつて多摩川で大洪水が発生。
その大洪水で下府中の「上石原八幡宮」の社殿が流失。
「上石原八幡宮」に安置されていた御霊が当地に漂着したため、村民が相寄り祠を建立。

これが当社の始まりとされている。

府中の「上石原八幡宮」とあるが、この神社が現在のどの神社に比定されるのかは明確には分かっていない。現在の調布市に石原地区があり周辺には八幡神社が「下石原八幡神社」(調布市富士見町2丁目)、「上石原若宮八幡神社」(調布市下石原3丁目)の2社鎮座。このどちらかであると思われる。

その後、社殿を改築。
上平間村の「法田寺」(現・上平間244)が別当寺を担い、上平間村の鎮守の一社として崇敬を集めた。

江戸中期に伊勢神宮の御分霊を祀った神明社

宝永二年(1705)、村民の勘左ヱ門が「伊勢大廟(現・伊勢神宮)」に参拝。
「伊勢大廟」より御分霊を背負って帰ったと云う。

伊勢神宮
「お伊勢さん」と親しく呼ばれる、伊勢神宮の公式サイト。正式には「神宮」といい、2000年の歴史を有する日本人の「心のふるさと」です。

村民が協力して多摩川流域に一堂を建立。
これが「神明社」として崇敬を集める事となった神社で、後に当社に合祀され、配祀・天照皇大神となっている。

当社の御祭神は、主祭神として八幡神である誉田別命。
相殿神として、天照皇大神が祀られている。
また同様に合祀される事となる天王社(素盞嗚命)・天神社(菅原道真)も相殿神として祀られている。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(上平間村)
八幡社
村の中央江戸への往来の傍にあり。拝殿二間に三間。内陣一間半に二間。本地弥陀の坐像長九寸。例祭八月十五日。社南に石の鳥居及石階あり。法田寺の持。此以下三祠も同寺の持。
天王社
社地は小高く南向の祠にて、前に鳥居を立。神体不動長九寸許。例祭六月六日。
天神社
天王社の並にあり。南向の小祠なり。神体八寸許束幣の木像なり。例祭二月二十五日。
神明社
社一間半に二間南向。神体立像にて一尺余。例祭十一月十五日。いづれも鎮座の年代を詳にせず。

上平間村の「八幡社」と記されたのが当社。
上述した通り「法田寺」が別当寺であった。
村の中央、江戸に向かう通りの傍に鎮座していたとある。

上平間を通る多摩川には橋は架かっておらず、「平間渡」と呼ばれる渡し船が用意されていた。当社の社頭を通り、渡し船で多摩川を渡って江戸に向かう往来が多かった。

当社の他に、「法田寺」が別当寺を担っていた「天王社」「天神社」「神明社」があり、これらは後に当社に合祀される事となる。
上述した「神明社」がここに記されている「神明社」である。

明治になり村社に列する・村内の神社を合祀

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、村社に列した。

明治二十二年(1889)、町村制施行に伴い、上平間村・中丸子村・塚越村・古川村・戸手村・小向村・下平間村・南河原村と合併して、御幸村が成立。
当地は御幸村大字上平間となり、当社はその鎮守を担った。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
当社の少し東に神社が2つ並んでいて、これがかつての「須賀神社(旧・天王社)」「天満宮(旧・天神社)」であろう。
御幸村の名や上平間の名も見える。

注目すべきは現在、多摩川に架かるガス橋。
当時はまだ橋が架かっておらず、江戸時代の頃から「平間渡」と呼ばれる渡し船が出ていた。
ガス橋が開通するのは昭和六年(1931)の事である。

明治四十三年(1910)、村内にある「須賀神社(旧・天王社)」「天満宮(旧・天神社)」「神明宮(旧・神明社)」などを合祀。

いずれも上述の『新編武蔵風土記稿』に記されていた三社。これは当時の政府が推し進めた合祀政策によるものであろう。

大正三年「アミガサ事件」集結の地

大正三年(1914)、アミガサ事件が発生。
当社の境内に、上平間の参加者約200人が集結し、行動を起こした。

アミガサ事件とは、大正三年(1914)に多摩川下流の住民達が多摩川の築堤を求めて、神奈川県町へ大挙して押し寄せた事件で、今で言うデモ活動にあたる。
暴れ川として知られた多摩川は、度々氾濫を起こしたため、下流住民を水害で苦しめた。
明治や大正に入っても大洪水が連続して発生、多くの住民の要望で、県庁に築堤の要望を出すものの、受け入れられる事がなかった。
そこで住民全員による直接的な行動でしか現状を打破する事が難しいとし、目印として編み笠を被り集結。
編み笠が目印だったため「アミガサ事件」と呼ばれる事となる。
上平間の住民約200人は当社の境内に集結し陳情のため県庁へ向かい、他下流地域の住民も県庁で合流し、合わせて約500人が結託・集結。
当時は大勢での行動が許されなかった時代で、命がけの抗議活動を行った。
すぐに築堤の許可は下りなかったものの、その後も参加者らが「多摩川築堤期成同盟会」を結成して運動を継続。
のちに約2kmに渡る盛り土「有吉堤」を築き、多摩川の治水は大きく前進する事となる。

上平間の住民が当社境内に集結した事からも、当社が当地の鎮守として崇敬を集めていた事が伝わる。
境内には「アミガサ事件百年の碑」が建てられている。

大正十三年(1924)、当社は神饌幣帛料供進神社に指定。

(神奈川県神社写真帖)

上の写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の境内の様子が窺える。
現在の社殿とほぼ同じように見受けられるため、当時のものが現存しているのであろう。

戦後になり境内整備が進み現在に至る。

境内案内

ガス橋通り沿いに鎮座・明治の狛犬

最寄駅は平間駅で、駅から東へガス橋通りを向かうと、通り沿い左手に鎮座。
玉垣で囲まれて境内で、鳥居は新しい。
平成二十二年(2010)に建てられた鳥居で扁額には「八幡大神」の文字。

鳥居を潜ってすぐ一対の狛犬。
体のラインが美しい子持ちの狛犬。
明治二十三年(1890)に奉納されたもので台座も立派。

参道左手に手水舎。
平時は残念ながら水は張られていない。

向拝の彫刻が素晴らしい社殿

参道の正面に社殿。
拝殿は向拝の彫刻が素晴らしい。
木造のよい造りで造営年代は分からなかったが、作風から明治あたりだろうか。
木鼻には精巧な龍。
波に乗る兎など素晴らしい造りとなっている。
拝殿上部にも所々に彫刻。
本殿も状態よく維持されている。

例大祭は10月第1日曜日。
11月15日は秋季例祭で、相殿神の例祭のため三神祭(さんじんさい)と呼ばれている。

境内社の稲荷神社・力石・旧扁額

境内社は境内左手に稲荷神社。
お稲荷様らしい朱色の奉納鳥居。
八幡稲荷大神と記してあり、平成七年(1995)に現在の社殿が造営された。

その右隣には力石。
当地の村民が力比べに使ったものであろう。

さらに奥に古い扁額。
旧鳥居の扁額だったと見られ、平成二十二年(2010)に現在の鳥居に新調された際、こうして境内に大切に保管されるよう整備された。

アミガサ事件百年の碑・境内のイチョウ

社殿の右手裏にアミガサ事件百年の碑。
上述した「アミガサ事件」から100年にあたる平成二十六年(2014)に建てられた碑。

平成二十五年(2013)には「アミガサに事件百年の会」が結成された。

境内にはイチョウなどの大木。
イチョウからは幹から根の一種である気根(コブ)が垂れている。
こうした銀杏は各地で見る事ができるが、乳銀杏と呼ばれ崇敬を集めている事が多い。

御朱印は社殿もしくは社務所(宮司宅)にて

境内の右手には「八幡神社会館」。
この会館のドアに御朱印についての案内が掲示。
御朱印は社殿受付にて承るとの掲示。

但し、ご不在の時も多い。
ご不在の時は、同じく掲示にある社務所(宮司宅)で御朱印を頂く事ができる。
連絡先も掲示されているので、一度電話で確認してから窺うのがよいだろう。
社務所にも不在時は書き置きのものが用意されている。

所感

旧上平間村鎮守の八幡さま。
当地周辺は古くから「暴れ川」とも称された多摩川下流域にあり、多摩川の水害に悩まされた地であった。
「平間渡」と呼ばれた渡し船で江戸へ向かう地で、人の往来も多かったと見られ、そうした地域の鎮守として崇敬を集めた事が窺える。
大正三年の「アミガサ事件」は、当時としては命がけのデモ活動。
上平間の人々は当社境内に集結し、陳情のため県庁に向かったと云い、そうした事からも、当社が一帯の鎮守として、守り神として多くの人々の拠り所であった事が窺える。
ガス橋通りを通る際に、当社を参拝して行く方が多く、参拝時はお爺さんと孫が何度も何度も繰り返しお参りをしていた様子が微笑ましかった。
今も地域に愛される良い神社である。

神社画像

[ 鳥居 ]


[ 参道 ]

[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]









[ 本殿 ]

[ 絵馬掛・御籤掛 ]

[ 稲荷神社 ]



[ 力石 ]


[ 急扁額 ]


[ ガミガサ事件百年の碑 ]


[ 案内板 ]


[ イチョウ ]


[ 八幡神社会館 ]

[ 掲示物 ]

Google Maps

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