住吉神社 / 神奈川県川崎市

川崎市

概要

旧木月村(元住吉駅周辺)の鎮守

神奈川県川崎市中原区木月に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧木月村(現在の元住吉駅周辺)の鎮守。
かつては御祭神不明の「矢倉明神社」と呼ばれた木月村の鎮守であった。
明治になり木月村を含む6ヶ村が合併し瑞祥地名として住吉村が成立。
その後、村内の十社が合祀される事になり当時の住吉村の地名から「住吉神社」へ改称。
元住吉駅の駅すぐに鎮座し、幾度かの駅拡張工事によって社地は往時の半分程になってしまったが、駅近くの立地から地域の人々から大切にされている。

神社情報

住吉神社(すみよしじんじゃ)

御祭神:大己貴命・天照皇大御神・天津児屋根命・誉田別命・大国主命・須佐之男命・菅原道真・菊理姫命・倉稲魂命・建御名方命
社格等:村社
例大祭:8月第4日曜
所在地:神奈川県川崎市中原区木月1-20-1
最寄駅:元住吉駅
公式サイト:─

御由緒

この神社は元矢倉神社と称していたが、明治四十二年、村内鎮座の天照皇大神宮 (木月字伊勢町二二七四番地鎮座)・ 八幡神社 (八幡町一六三三)・子ノ神社 (田中一九〇八)・ 八雲神社 (天王森一〇九九)・ 春日神社 (春日町一九七六)・ 天満神社 (中ノ町八一三)・ 白山神社 (上ノ町九九六)・ 稲荷神社 (稲荷町七三九)・ 諏訪神社 (諏訪町一三〇二)・ 神明神社 (上ノ町一〇三五) の十の神社を矢倉神社 (木月字矢倉四〇七鎮座)に合祀し当時の村名をとり、住吉神社と改称した。
矢倉神社の創建年代は詳らかでないが、江戸時代に書かれた武蔵風土記木月村の項に「矢倉明神社 村の乾によりてあり、社前に拝殿あり。祭神及び勧請の年暦詳ならず。村の記に寛永十五年建立せしよしあればこの時始めて造営せしものか、されどこのと全く社伝を失いたれば古より立ちたる宮を再建せしも又しるべからず。例大祭は毎年九月二十日」と書かれている。
大正末まで奥殿は瓦葺、拝殿は茅葺であったが、昭和初頭に拝殿を亜鉛葺にし、昭和三十四年、現在の社殿に建替えられた。
昭和四十七年一月、住吉会館建設。
昭和五十五年七月、参道、境内整備工事を行う。
以上。神奈川県神社庁より)

参拝情報

参拝日:2020/06/29

御朱印

初穂料:なし
社務所にて。

※「参拝してくれるだけで充分」との事で初穂料はお受け取りにならないので、お気持ちを賽銭箱へ。

歴史考察

木月村の鎮守の矢倉明神社・御祭神不詳の神社

創建年代は不詳。
木月村の鎮守とされ「矢倉明神社」と称された。

寛永十五年(1638)建立と江戸時代の村の記録にあったようだが、社伝を失っていたため、それが創建なのか再建なのか不明だったと云う。
木月村(きづきむら)
由来は矢上川沿いの低湿地を固めて築いた「築く(きずく)」が元になったとも云われる。
鎌倉公方に納めた租税の帳簿が残されていた記述があるため、鎌倉時代以前からの古い地名で、江戸時代になると旗本領となり「木月千石」と称される程の水田地帯であった。
現在も「木月」の地名は当地周辺の住所として残されている。

享保三年(1718)、木月村は東海道川崎宿の助郷村を担うようになる。

助郷村(すけごうむら)
街道の宿場へ、人足や馬の補充を目的として宿場周辺の村落に課された夫役。
木月村など現在の元住吉駅周辺や日吉駅周辺の村の多くは、東海道の川崎宿の助郷村となっていた。

当社はこうした木月村鎮守の神社として崇敬を集めた。
但し社伝が消失しており、創建年代どころか御祭神も不明であった。

後に村内の十社が合祀されたため、現在は数多くの御祭神が祀られているが「矢倉明神社」の御祭神は不明。この事からかなり古くから創建していたとも思える。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(木月村)
矢倉明神社
村の乾によりてあり。社前に拝殿あり。祭神及び勧請の年歴詳ならず。村の記に寛永十五年建立せしよしあればこの時始て造營せしものか。されどこのこと全く社傳を失ひたれば古より立たる宮を再建せしも又しるべからず。例祭は毎年九月二十日。村内妙海寺司どれり。

木月村の「矢倉明神社」と記されたのが当社。
別当寺は「妙海寺」(現・中原区木月4)であった。

「村の乾によりてあり」とあるように「村の乾(北西の方角)」に鎮座。
鎮座場所は現在と変わらないため、現在の元住吉駅周辺は木月村の北西側にあたる事が分かる。

注目すべきは「祭神及び勧請の年歴詳ならず」とある部分。
創建年代はおろか御祭神まで不詳であったと記されている。

どの神様を祀っているかは知らずとも、村の鎮守として大切にされていたようで、木月村の人々にとっては神様の名よりも神社そのものが大切な存在であったのだろう。

後に当社に合祀される事になる村内の神社についても幾つか記されている。

伊勢宮
村の北方。耕地の中にある小祠なり。元和年中の勧請にして村内妙海寺大楽寺兩寺の持なり。
白山社
村の西にあり。百姓持。
春日社
村の北にあり。是も百姓持。
第六天社
村の南にあり。小祠妙海寺持。
天神社
村の中ほどにあり。當社はわづかなる祠なれど社地に大さ三間ばかりなる松樹立れば古き社なることしらる。百姓持。
八幡社
村の東によりてあり。本社は尤小祠にて前に二間半に一間半の拝殿あり。是も百姓持。
天王社
村の西にあり。社前に二間四方の拝殿あり。妙海寺持。
諏訪社
村の巽の方。矢上川の邊にあり。是も妙海寺持。

これらは全て明治に入り当社へ合祀。
多くの神社が当社と同様に「妙海寺」が別当を担うか、村民の百姓が担っていた事が分かる。

明治に6ヶ村が合併し住吉村が成立・住吉は瑞祥地名

明治になり神仏分離。
当社は「矢倉神社」と称され、後に村社に列している。

明治二十二年(1889)、町村制施行に伴い、木月村・今井村・市ノ坪村・苅宿村・井田村・北加瀬村が合併して、住吉村が成立。

住吉村(すみよしむら)
住吉村の由来は神社などの信仰が由来ではなく「めでたい意味の言葉をそのまま使ったり、良い意味の言葉から創作された地名」いわゆる瑞祥地名にあたる。
「住むのが吉」の村といっためでたい意味合いであろう。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
住吉村と云う当時の地名と、木月といった地名も見る事ができる。
木月は中町・上町・下町で分けられていたようだ。

また住吉村の木月一帯には数多くの神社が鎮座。
地図上に記されている神社だけでも橙円で囲ったように数多く存在していた事が分かる。
これらの多くが当社へ合祀される事になる。

地形を見ても分かるが東急東横線や元住吉駅はまだなく、綱島街道さえもまだない時代。田畑の一帯だった事が窺える。

村内の10社が合祀され住吉神社へ改称・住吉の社号は村名から

明治四十二年(1909)、住吉村に鎮座していた「天照皇大神宮」「八幡神社」「子ノ神社」「八雲神社」「春日神社」「天満神社」「白山神社」「稲荷神社」「諏訪神社」「神明神社」を当社へ合祀。
住吉村の村名から「住吉神社」へ改称した。

住吉信仰とは無関係
「住吉神社」の社号を持つ神社は一般的に、摂津国一之宮「住吉大社」(大阪府大阪市)を総本社とする住吉信仰の神社である。
住吉三神を祀り航海守護神としての信仰を集めた。
但し、当社は「住吉神社」の社号でありながら、瑞祥地名の住吉村が由来となっているため、住吉信仰とは全く関係がなく、御祭神にも住吉三神は祀られていない。
「住吉神社」の社号だが住吉信仰とは無関係と云う面白い組み合わせになっている。

瑞祥地名で付けられた住吉村。このすみよ

住吉村の廃止・元住吉駅は村名を惜しんだ住民の要望

大正十四年(1925)、住吉村の多くの部分が中原村と合併して中原町が成立。
これによって瑞祥地名であった住吉村は廃止。

大正十五年(1926)、元住吉駅が開業。

元住吉駅の由来
駅が開業する前年に中原町が成立して住吉村は廃止。
地名から「住吉」の名が消滅する事を惜しんだ住民の要望で「元々は住吉村だった」と云う意味合いを込めて命名された。
昭和十七年(1942)に木月住吉町が成立したため住吉を含む地名は後に復活している。

その後、元住吉駅の幾度かの拡張工事によって隣接していた当社の社地は縮小。
現在は往時の半分程になっている。

戦前の古写真・戦後の歩み

昭和十二年(1937)、村社へ昇格。

(神奈川県神社写真帖)

上写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』より。

「村社 住吉神社」として掲載された当社。
当時は亜鉛葺の屋根の拝殿で、この社殿は現存していない。
写真に写る石柱は現存。

昭和三十四年(1959)、社殿の建て替えを行う。
この社殿が現在の社殿となっている。

昭和四十七年(1972)、住吉会館が建設。
昭和五十五年(1980)、参道や境内整備を行う。

その後も境内整備が行われ現在に至る。

境内案内

元住吉駅前に鎮座・江戸時代の旧鳥居

最寄駅は元住吉駅で西口を出た駅前に鎮座。
線路に沿って北側へ向かう道が参道。
参道を途中で左に入ると鳥居が見えてくる。

元々は元住吉駅の一部も当社の社地であったが駅拡張工事によって社地は削られ、往時の半分程の社地になっている。

鳥居と社号碑。
昭和五十四年(1979)に再建された鳥居。

この鳥居の左手に旧鳥居跡。
安政二年(1855)の銘が残り、こうした柱部分だけ保存されている。

鳥居を潜ると真っ直ぐ参道。
拝殿前右手に手水舎。
平時は水が流れ身を清める事ができる。

戦後に建て替えられた木造社殿

参道の正面に社殿。
昭和三十四年(1959)に建て替えられた拝殿。
木造で年季を感じさせつつも状態良く維持。
龍の彫刻。
獅子の木鼻など彫刻も良い出来。
本殿も同様に建て替えられている。

狛犬・数多くの庚申塔・力石

拝殿前に一対の狛犬。
阿吽共に玉持ち。
明治三十年(1897)に奉納されたもの。
どことなく不思議な表情をした可愛らしいお顔。

境内の左手に数多くの庚申塔。
木月村周辺の庚申塔が集められた一画。
青面金剛像に三猿と庚申信仰を伝える。
どれも江戸時代のもので道祖神への信仰も窺える。

庚申塔(こうしんとう)
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)という虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申(ひゃくこうしん)と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
また国土の神・道案内の守神である猿田彦命(さるたひこのみこと)や道祖神と結びつき、民間信仰としても広く信仰を集めた。

庚申塔の近くには力石。
明治や大正の頃に村人が力比べに使用したもの。

地域の方々が利用できる住吉会館

拝殿の左手には立派な住吉会館。
昭和四十七年(1972)に建設され、会議室の貸し出しの他、演芸や芸事の練習場など地域の人々に利用され愛されている。参拝時には能楽教室の案内が貼られていた。

御朱印の初穂料は不要のためお気持ちを賽銭箱へ

御朱印は社務所にて。
宮司さん宅にもなっていて丁寧に対応して下さった。

御朱印は「住吉神社」の朱印。
社号部分なども印判となる。

初穂料は賽銭箱へ
御朱印の初穂料は「参拝してくれるだけで充分」との事でお受け取りにならない。
額面通り受け取ってもよいが、せっかくご縁を頂いたのでお気持ちを賽銭箱へ入れておく事をオススメしたい。

所感

旧木月村の鎮守である当社。
かつては「矢倉明神社」と称された神社で、江戸時代の地誌には創建年代も御祭神も不詳と記載。
御祭神が不詳ながらも村の鎮守として大切にされており、例え社伝が途絶え御祭神も不詳になろうとも、神社と云う存在が地域コミュニティにとって大切だったと云うのがよく分かる。
その後、村の合併で住吉村が誕生し、村内の10社が合祀された事で現在の「住吉神社」へ改称。
「住吉神社」と聞くと、大阪の「住吉大社」を総本社とした住吉信仰が思い浮かぶが、当社は全く関係がなく瑞祥地名の住吉村が由来の社号となっているのも、何とも面白い。
現在は元住吉駅前と云う立地もあって参道になっている線路脇は多くの人が利用する一画。
通る際に神社に立ち寄る方、鳥居で一礼をしてから通り過ぎる方も多く見受けられ、地域に愛されているのが伝わる良い神社である。

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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