白山神社 / 東京都文京区

文京区

概要

紫陽花の名所・東京十社・小石川鎮守

東京都文京区白山に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、その後に郷社。
現在は東京十社のうちの一社に数えられる。
小石川鎮守で、古くは「白山権現」と称され信仰を集めた。
五代将軍・徳川綱吉とその生母・桂昌院からの崇敬を集めた事で知られる。
現在は紫陽花の名所としても知られ、6月中旬の「文京あじさいまつり」でも有名。
文京区白山という地名は当社に由来する。

神社情報

白山神社(はくさんじんじゃ)

御祭神:菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冊命
社格等:准勅祭社・郷社
例大祭:9月21日
所在地:東京都文京区白山5-31-26
最寄駅:白山駅・本駒込駅
公式サイト:─

御由緒

 当社人皇六十二代村上天皇天暦二年(948)九月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。建武四年(1338)足利尊氏により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和二年(1616)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安四年(1651)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655)現在地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍家綱公之生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文六年(1677)九月二十九日祭礼賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。元禄三年(1690)正月二十九日旧幕府より社領三十石寄附之あり。右朱印元禄六年(1693)九月二十九日戸田能登守相渡さる。元禄十六年(1703)十一月二十九日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで悉く類焼し、宝永元年(1704)六月十四日加藤越中守掛にて仮殿手当として金五百両桧五千挺寄附あり。再建せられたるも享保三年(1719)三月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治三十二年拝殿建設、昭和八年改修し同九年九月十八日盛大に正遷座大祭施行す。
 (なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり。)
 当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の一つである。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2021/05/31(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/04/28(御朱印拝受)
参拝日:2016/01/25(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※御朱印は書き置きのみ。

歴史考察

平安時代に加賀国一之宮・白山比咩神社から勧請

社伝によると、天暦二年(948)に創建したと伝わる。
加賀国一之宮「白山比咩神社」から勧請したと云う。

白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)
石川県・岐阜県の県境に立つ白山の山麓(石川県白山市三宮町)に鎮座。
白山を神体山として祀る神社。
加賀国一之宮として古くから信仰を集めている。
全国に2,000社以上ある白山信仰「白山神社」の総本社とされる。
北陸鎮護の大社 白山本宮・加賀一ノ宮 白山比咩神社 | 石川県 初詣 七五三
白山比咩神社は、全国三千余社の白山神社の総本宮であり、加賀の国の一ノ宮として篤い崇敬を受け、「白山さん」と呼ばれて親しまれています。初詣、七五三。

創建の地は武蔵国豊島郡本郷元町と呼ばれた地で、現在より南東に鎮座していた。

現在の文京区本郷1付近(東京ドームのやや東)とされている。

足利尊氏によって国家平安御祈願所とされる

建武四年(1338)、足利尊氏によって国家平安御祈願所とされる。
その際、永百貫文之御判物(武将の花押のある公式文書)を賜ったと云う。

足利尊氏(あしかがたかうじ)
室町幕府の初代征夷大将軍。
足利将軍家の祖。
同族の新田義貞と共に鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇の「建武の新政」では勲功第一とされ多くの所領を与えられた。
その後は後醍醐天皇の建武政権と対立し「建武の乱」が起こり、足利方が勝利して建武政権は崩壊し室町幕府が成立。
一方で、後醍醐天皇も和睦後に吉野に逃れて新たな朝廷(南朝)を創立し、幕府が擁立した北朝との間で南北朝時代が始まった。
尊氏が当社を祈願所に指定した建武四年(1338)は「建武の乱」が終わった翌年のこと。南北朝時代が始まった頃になる。

当時の権力者であった尊氏より祈願所に指定された事からも、既に東国で名の通った神社であった事が窺える。

2度の遷座・徳川綱吉と桂昌院からの篤い崇敬

元和年間(1615年-1624年)、二代将軍・徳川秀忠の命で巣鴨原(現・小石川植物園内)に遷座。

当社が遷座した当時は「白山社」(当社)・「氷川社」(現「簸川神社」)・「女体権現」の三社が並んで鎮座していた。
簸川神社 / 東京都文京区
小石川総社のひかわさま。源義家(八幡太郎)が参籠した伝承。江戸時代に白山御殿の造営により遷座。江戸七氷川の1社。大正時代に氷川神社から簸川神社へ改称。小石川植物園近くの高台に鎮座。江戸後期の狛犬・幟建・庚申塔。モダンな神楽殿。御朱印。

慶安四年(1651)、巣鴨原一帯を三代将軍・徳川家光の四男・徳松(後の五代将軍・徳川綱吉)の用地とする事が決まる。
徳川綱吉は館林藩藩主となったため、巣鴨原は館林藩の下屋敷として整備。

明暦元年(1655)、当社はその影響を受けて現在地へ遷座。

当社と並んで鎮座していた「簸川神社」は原町(現・白山4付近)に遷座後、現社地に遷座、「女体権現」は「伝通院」内に遷された。

延宝八年(1680)、徳川綱吉が将軍宣下を受け、五代将軍となる。
その頃には大奥を出ていた桂昌院(家光の側室で綱吉の生母)も江戸城三の丸入り。

徳川綱吉(とくがわつなよし)
江戸幕府の第五代将軍で、三代将軍・徳川家光の四男。
綱吉の治世の前半は善政として「天和の治」と称えられる。
しかし、治世の後半は「生類憐みの令」に代表される悪政と称される政治を行った事でも知られている。
桂昌院(けいしょういん)
三代将軍・徳川家光の側室で、五代将軍・綱吉の生母。
通称は玉で、「玉の輿」の代名詞、しばしば俗説で「玉の輿」の語源とされる。
実子である綱吉が将軍となった後、女性最高位の従一位の官位を賜る。

綱吉が将軍になると館林藩の下屋敷(綱吉が幼少期に育った屋敷)として整備されていた当社の旧社地は綱吉の別邸とされる。
当社が鎮座していた事から「白山御殿」とも地名から「小石川御殿」とも称された。

白山御殿(はくさんごてん)
小石川御殿とも称される。
徳松(後の五代将軍・綱吉)の別邸とされた御殿で、当社の旧社地。
戦後の住居表示実施まで付近の町名は白山御殿町と呼ばれたのは、この御殿の名残り。
綱吉の将軍就任後は廃止され、幕府の御薬園(薬になる植物・薬草を育てる園)となる。
小石川御薬園(こいしかわおやくえん)と呼ばれ、これが現在の小石川植物園。
小石川植物園
小石川植物園のホームページ。小石川植物園は植物学の教育・研究を目的とする東京大学の教育実習施設です。

幼少期に住んだ屋敷に元々鎮座していた当社を、徳川綱吉とその生母の桂昌院は篤く崇敬。
小石川の鎮守として崇敬を集め、以降は代々の徳川将軍家から庇護される事となる。

元禄二年(1690)、幕府より社領30石の朱印地を賜る。

朱印地(しゅいんち)
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。

元禄十六年(1703)、火災により類焼。
宝永元年(1704)、仮殿手当として金500両・桧5000挺の寄付があり再建。

享保三年(1719)、再び火災で焼失。

以後は数十年間、本殿のみ建立と記録されている。

小石川と白山の地名由来となった神社

小石川鎮守として崇敬を集めた当社。
小石川の地名は、諸説あるものの当社が由来と伝えられている。

小石川(こいしかわ)の地名由来
当社は加賀国石川郡に鎮座していた加賀国一之宮「白山比咩神社」(現・石川県白山市)から勧請されたため、小さな石川という意味で小石川と名付けられたと云う説。
別説として「伝通院」(文京区小石川3)の前の川に小石や砂が多かったことからついたとも云われる。(こちらも有力)

白山の地名由来も「白山社」である当社が鎮座していた事から付けられた地名。

当地周辺の広い範囲を小石川と呼び、さらに当社近くは白山とも呼ばれ、町屋となり発展していく。

江戸切絵図から見る白山権現

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(駒込絵図)

こちらは江戸後期の駒込周辺の切絵図。
当社は図の右に描かれている。

(駒込絵図)

北を上にして当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社で「白山権現」として記されている。

社殿の裏には「富士」と描かれており、これが現在も裏手に残る富士塚。

境内には「八幡太郎」「ハタカケサクラ」の文字も見る事ができる。
「八幡太郎」は境内社「八幡神社」で当地の地主神。
「ハタカケサクラ」は「白旗桜」である。

江戸名所図会に描かれた白山権現社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「小石川白山権現社」として見開きで描かれている。
規模や立地などは現在とかなり近い。
南側に参道が伸びているが、東側からも長い参道と町屋ができている。
こうした参道の位置も現在とほぼ変わらない。
現在も駅から東側の参道を通り、社号碑のある鳥居に辿り着くので、当時から町の区画はあまり変わっていないのだろう。

(江戸名所図会)

社殿を中心に拡大したのが上図。

御由緒によると享保三年(1719)の火事以降、数十年は本殿のみの再建だったと云う。
それから100年以上経過しているこの頃には、拝殿も再建されているのが分かる。
立派な権現造の社殿である。

歌川広重の浮世絵に描かれた白山

当社を中心とした白山は、浮世絵の題材としても取り上げられている。

(江戸高名会亭尽)

歌川広重による『江戸高名会亭尽』で、題名は「白山傾城か窪」。

『江戸高名会亭尽』は有名料理茶屋を描いたシリーズものの錦絵。
当社の東側にあった中山道沿いの古河藩下屋敷辺り(現在の東洋大学の西側)を描いたもの。
当時その一帯は、鶏声が窪(傾城か窪)と呼ばれていた。

古河藩邸内から夜ごと鶏の声が聞こえたため、地面を掘ったところ、金銀の鶏が現れたという故事に基づいて名付けられた地名。

白山の地は、昔は白山前町と呼ばれており白山権現(当社)の門前町として発展したのが分かり、当社を中心としてこの賑わいがあったのだろう。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

明治以降の歩み・古写真で見る白山神社

明治になり神仏分離。
「白山権現」と称されていた当社だが「白山神社」へ改称。

神仏習合の「権現」を使う事が好ましくないとされたため。

明治元年(1868)、准勅祭社に列する。

准勅祭社に指定された十二社のうち、東京23区内の神社十社が現在の「東京十社」となる。
東京十社 御朱印一覧
東京十社の「東京十社めぐり御朱印帳」と御朱印画像一覧です。専用の御朱印帳も紹介。東京十社についての歴史など詳しい説明も掲載しています。東京十社とは、昭和五十年に定められた東京23区内の10の神社。東京十社めぐりの参考になりましたら幸いです。

明治三年(1870)、准勅祭社が廃止。
明治五年(1872)、郷社に列した。

明治三十二年(1899)、拝殿を造営。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
「白山社」と記されているように地図上の目印になるような神社であった。
当社近くは「白山前町」とあり、その名の通り当社に由来するもので、これが現在の地名「白山」となっていく。
「小石川」の地名も見ることができ、当社は小石川一帯の鎮守とされた。

明治四十三年(1910)、当社近くに住む宮崎滔天宅に寄遇していた孫文は、滔天と共に当社境内の石に腰掛け中国の将来と革命について語り合ったと伝わる。
現在も境内にはその記念碑が残る。

孫文(そんぶん)
中華民国(台湾)の政治家で革命家。
初代中華民国臨時大総統、中国国民党総理。
「中国革命の父」とされ、中華民国(台湾)では国父と呼ばれる。
日本へ2度の亡命歴があり日本人とも幅広い交遊関係を持っていた。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に東京市公園課が出版した『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』より「白山神社」。

当時の社殿の様子を見る事ができる。
現在の社殿とほぼ変わらない形で、境内は広々としていた事が窺える。
現在は紫陽花の名所として知られる当社だが、当時はそうした姿を見る事はできない。

昭和八年(1933)、社殿を改修。
この時の社殿が現存。

昭和十年(1935)、境内にあった白旗桜が国の天然記念物に指定。
昭和十二年(1937)、残念ながら白旗桜は枯死。

現在の白旗桜はその後継樹。

戦後になり境内整備が進む。

現在は境内や裏手の「白山公園」に多くの紫陽花が植えられていて紫陽花の名所として知られる。
毎年6月中旬頃に「文京あじさいまつり」が開催されている。

お探しのページを表示できません

境内案内

白山駅近くに鎮座・駅から続く東参道

最寄駅の白山駅からはすぐの距離に鎮座。
東側に社号碑と大鳥居。
明治二十二年(1889)建立の大鳥居。
社殿に対して横にある参道で表参道ではないが、江戸時代の頃から整備されていた参道。
現在も白山駅からはこちらの参道が近いので、参拝者によるメイン参道になっている。

石段を上り、その先左手に手水舎。
手水舎前には美しい紫陽花。
紫陽花の季節に参拝すると名所らしい光景に出逢える。

京華通りから続く石段のある南参道

現在はメイン参道となっている東参道の他、南側にも参道。
白山通り側、商店街となっている京華通り沿いに参道入口。
「白山神社」の社号碑があり参道となっている事を伝える。
参道脇には紫陽花の姿も。
石段を上ると境内となり、周囲は駐車場として整備されている。
『江戸名所図会』にも町屋のある東参道と南参道が描かれていて、江戸時代の頃より2つの参道が維持されている事が窺える。

社殿の正面に続く参道なので本来はこの南参道が表参道なのだろう。

彫刻も見事な戦前の木造社殿・紫陽花とのコラボ

南参道の正面に社殿。
社殿は昭和八年(1933)に改修されたものが現存。
明治三十二年(1899)に造営された拝殿を基礎に、昭和八年(1933)に改修が行われた。
彫りの深い彫刻も明治の作風を残していて渋みのある良い造り。
木鼻の獅子も流れるような造形。
細かく施された植物の彫刻。
こうした美しい彫刻を施された社殿からは小石川鎮守として人々の想いが伝わる。
隣接する白山公園側からは本殿を裏手から眺める事もでき、紫陽花の季節には紫陽花とのコラボが美しい光景に。

江戸中期に奉納・黄金の目を持つ狛犬

拝殿前に一対の狛犬。
安永九年(1780)に奉納された江戸中期の大変古い狛犬。
ぐるりと巻いた毛に毛並みが美しく、ずんぐりとした体躯に江戸尾立ち。
両目が黄金に塗られているのが特徴的で珍しい。
阿形は口にも彩色があり、なんともインパクトがある狛犬となっている。

八幡太郎の伝承が残る八幡神社や白旗桜

境内社は社殿の左手に関東松尾神社。
江戸時代に京都嵐山「松尾大社」からの勧請されたものであると云う。
酒造神として信仰を集めた神様。

松尾大社 - MATSUNOO TAISHA
松尾大社からのお知らせやアクセス、境内のご案内やご祈祷・お詣りのご案内など。

南参道左手に境内社が並ぶ。
富士浅間社・稲荷社・三峯社・玉津島社・天満天神社・山王社・住吉社の合祀殿。
その隣に柵で保護された境内社。

源義家の伝承が残る地主神の八幡神社・白旗桜

さらに隣に八幡神社。
当社が現在地に遷座する前より祀られていた地主神がこの八幡神社。
江戸時代の『江戸切絵図』には「八幡太郎」と記されている。

八幡神社と源義家の伝承
永承六年(1051)、前九年の役で奥州征伐へ向かう源頼義・源義家(八幡太郎)父子が、当地の桜の木に源氏の白旗を立てて八幡神に祈祷したところ、待ち伏せていた敵を打ち破る事ができた。
そうした伝承から源氏ゆかりの八幡神社として古くから崇敬を集めた。
源頼義(みなもとのよりよし)
河内源氏2代目棟梁。
長男は八幡太郎と称した源義家で知られる。

源義家(みなもとのよしいえ)
源頼義の嫡男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称し、関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。

前九年の役(ぜんくねんのえき)
永承六年(1051)に頼義が陸奥守(後に鎮守府将軍となる)となってから、奥州で独自勢力を築いた有力豪族の安倍氏を滅亡させた康平五年(1062)までの戦いを云う。

源氏の白旗を立てたのが白旗桜と伝わる。
昭和十年(1935)に白旗桜が国の天然記念物に指定されたものの、その2年後に枯死しており、現在の白旗桜はその後植えられたものだと云う。

『江戸切絵図』にも当社の境内に「八幡太郎」「ハタカケサクラ」の文字が残っていたように、これらは古くから信仰の対象であった。

社殿裏手の富士塚では紫陽花が咲き誇る

当社の社殿と社務所の間に裏手へ繋がる通り道。
この先、右手に富士塚。
普段は門が閉じられ登拝する事ができないが、後述する「文京あじさいまつり」の期間中のみ開放。
富士塚山頂には浅間神社が鎮座していて、周囲は紫陽花が咲き誇る。

富士塚(ふじづか)
富士信仰(浅間信仰)に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。
本物の富士山に登拝するのは困難でも富士塚に登って富士を拝めば霊験あらたかとされ、江戸を中心に関東圏には数多くの富士塚が築山される事となった。
『江戸切絵図』にも社殿裏手に「富士」と描かれている。江戸時代の頃からある富士塚。

紫陽花の名所・文京あじさいまつり・歯ブラシ供養

当社は都内屈指の紫陽花の名所として知られる。
境内に植えられた紫陽花の数々。
紫陽花の季節になると様々な品種の紫陽花が彩る。
どこを切り取っても美しい。

当社と隣接する白山公園にも多くの紫陽花が植えられている。
白山公園から本殿を眺めた様子。
富士塚に咲き誇る紫陽花。

2021年5月末に参拝時には南参道にハート型の紫陽花も。
数多くの紫陽花の中にひっそりとハートの姿。
偶然この形で咲いたものだが、こうした偶然に出逢えると嬉しい気持ちに。

毎年6月の中旬には「文京あじさいまつり」が開催。
境内や隣接する白山公園では、約3,000株の紫陽花を見ることが出来きて、土日には屋台や催しものも出るため大いに賑わう。

2021年「文京あじさいまつり」情報
2020年に続き新型コロナウイルス対策のため中止が決定。
催しなどは中止しているが、境内の紫陽花は美しく咲いているので、感染対策をして紫陽花を楽しむのがよいと思う。
お探しのページを表示できません

また「文京あじさいまつり」開催中の日曜には、歯痛止め信仰で知られる当社にて歯ブラシ供養が行われる。

白山神社と歯痛止め信仰
勧請した加賀国一之宮「白山比咩神社」など、白山信仰系には歯にまつわる御神徳が古くから伝えられている。
「白山」を「歯苦散(はくさん)」といった言葉遊びからきているという説も。
当社もそうした歯痛止め信仰の中で、歯ブラシ供養が行われる。

御朱印は書き置きのみの対応

御朱印は社務所にて。
書き置きのみの対応となる。

御朱印は中央に「白山大神之印」の朱印、右下に「元准勅祭十社之内」の印。
小石川鎮守であるため「小石川 白山神社」の墨書き。

以前は正月期間中やあじさいまつり期間などは稀に帳面へ頂ける事もあったのだが、現在は書き置きのみの対応。

所感

文京区白山や小石川の地名の由来ともされる当社。
徳川綱吉や桂昌院から多大な崇敬を集め、以降は徳川将軍家に庇護されて以降、小石川鎮守として当地の発展と共に大いに崇敬を集めた。
東京十社の中では少し地味な印象を受けるが、地域の鎮守として崇敬を集めているのが伝わる。
紫陽花の名所として知られ、紫陽花の季節は実に美しい境内となる。
特に紫陽花の時期になると「文京あじさいまつり」が開催され、境内や隣接する白山公園には露店も出て土日になると催し物も開催されるため大いに賑わう。(2020年2021年は残念ながら中止)
全国各地に広がる白山信仰の中で、東京を代表する白山信仰の一社である。

Google Maps

コメント

タイトルとURLをコピーしました