三囲神社(三圍神社) / 東京都墨田区

墨田区

概要

三井家の守護社を担う三囲(みめぐり)神社

東京都墨田区向島に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧小梅村の鎮守。
稲荷信仰の神社で古くは「三囲稲荷(みめぐりいなり)」と称された。
正式には旧字体の「三圍神社」だが、現在は「三囲神社」と表記される事も多い。
江戸時代より三井家(現・三井グループ)の守護社として庇護された神社で、今も三井家からの崇敬が篤く、三井グループと関わりのある奉納物が多いのが特徴。
三柱鳥居やライオン像など珍しいものも多く、江戸時代の奉納物も大変多く残されている。
現在は隅田川七福神のうち恵比寿・大国神を祀っている。

神社情報

三囲神社/三圍神社(みめぐりじんじゃ)

御祭神:宇迦之御魂命
社格等:村社
例大祭:4月上旬
所在地:東京都墨田区向島2-5-17
最寄駅:本所吾妻橋駅・とうきょうスカイツリー駅・押上駅
公式サイト:─

御由緒

 弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地よりも北の田んぼの中にあった。文和年間(1352~56)に近江の三井寺の僧でもある源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく現れた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲(みめぐり)」の名がつけられた。
 三井家は江戸進出時にその名にあやかって守護神とし、平成21(2009)年に旧三越池袋店からシンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。
 日照りが続いていた元禄6(1693)年、俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を頭字に読み込んだ「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。(境外の掲示より)

参拝情報

参拝日:2021/01/04(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/04/06(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※元日から7日までは「隅田川七福神」の恵比寿神・大国神の御朱印を頂ける。

歴史考察

弘法大師による創建の伝承・田中稲荷と称される

社伝によると、創建年代は不詳。
弘法大師(空海)による創建と伝わる。
弘法大師が自ら稲荷神の御神体を彫り、瑞祥によって創建したとされる。

弘法大師(こうぼうだいし)
空海の名で知られ、諡号は弘法大師。
平安時代初期の僧侶・真言宗の開祖。
高野山や真言宗では今も高野山奥之院の御廟において生き続け禅定(入定)を続けているとされる。
伝承の面が強いものの、この社伝通りなら平安時代初期の創建となる。そのため御由緒には千年以上昔の古社と伝えている。

創建時は現在よりやや北方に鎮座しており、隅田川流域の田地の広がる農地であった。
田地の中にあるお稲荷さまであったので、古くは「田中稲荷」と称された。

三井寺の僧による再興と白狐伝説・三囲の由来

文和年間(1352年-1356年)、近江国の「三井寺」の僧・源慶によって再興。

三井寺(みいでら)
滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の寺院。
正式には天台寺門宗総本山「園城寺(おんじょうじ)」と云う。
本尊は弥勒菩薩で、日本三不動の一である黄不動で知られる。
同寺に涌く霊泉が天智天皇・天武天皇・持統天皇の3代の天皇の産湯として使われた伝承から「御井」(みい)の寺と呼ばれ、転じて「三井寺」と呼称するようになったと伝わる。
三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)
滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山。一千百余年にわたる歴史や文化、多くの文化財や伝説を紹介しています。

源慶は東国を行脚をしている際に隅田川流域の当地を通った。
そこには荒れ果てた小さな祠があり、村人に御由緒を尋ねると弘法大師(空海)の創建であると聞かされ社殿を再興するに至ったとされる。

白狐の伝説・三囲の由来
社殿を再興する際に土中から壺が出土。
壺の中には白狐に跨った老爺の神像が入っていたと云う。
その際、どこからともなく白狐が現れて神像の周りを三度回っていなくなった。
こうした伝承から「三囲(みめぐり)」と称するようになったと云う。
旧字体の「三圍」が正式名称。

「田中稲荷」と称されていた当社は、この頃より「三囲稲荷」と称され崇敬を集めた。

江戸時代にかけての社殿の再建と遷座・小梅村の鎮守

元亀年間(1570年-1573年)、火災によって社殿が焼失。
建造物だけでなく鎮守の杜まで悉く焼失したと云う。

天正年間(1573年-1593年)、創建の地よりやや南に遷座し再建。

慶長年間(1596年-1615年)、隅田川に堤防が築かれた際に現在の鎮座地へ遷座。
小梅村の鎮守として崇敬を集めた。

牛嶋神社とは隣り合わせで鎮座
当時は「牛御前」と呼ばれた「牛嶋神社」とはほぼ隣り合わせに鎮座。
共に地域からの崇敬を集めた。
牛嶋神社」は関東大震災でやや南に遷座したため現在とは鎮座地が違っている。
牛嶋神社 / 東京都墨田区
本所総鎮守。牛御前(うしのごぜん)。病気が治る撫牛信仰。限定御朱印。東京スカイツリーの氏神。葛飾北斎ゆかりの地。珍しい三ツ鳥居・狛牛。源頼朝と千葉常胤の伝承。牛鬼の如き妖怪伝説。三ツ鳥居の御朱印帳。5年に1度の神幸祭。黒い神牛が鳳輦を曳く。

宝井其角による雨乞いの故事で江戸で名が広まる

元禄六年(1693)、小梅村では旱魃(かんばつ)が発生。
地域の農民が当社で雨乞い祈願をしていたところ、偶然参拝に訪れた俳諧師・宝井其角が、農民から哀願され句を当社の神前に奉納。

遊ふた地や 田を見めぐりの 神ならば(宝井其角)

この句は「遊ふ田地」と「夕立」、さらに「三囲」と「見巡り」が掛け言葉となっている。

すると翌日に雨が降ったとされる。

宝井其角(たからいきかく)
松尾芭蕉の門弟の俳諧師。
芭蕉の弟子の中で特に優れた高弟10人を指す「蕉門十哲」の1人。
芭蕉の没後は江戸俳諧では一番手勢力となり知られた。
赤穂浪士討ち入り前夜に四十七士の1人・大高忠雄と会い、はなむけに「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠んだという逸話も残っている。

其角も実際に雨が降った事を認めていて、この故事により当社の名が江戸に広まる事となった。
現在も境内には「雨乞の碑」と呼ばれる宝井其角の歌碑が残されている。

安永六年(1777)に建立された碑が摩減したため明治六年(1873)に再建されたもの。墨田区登録文化財。
[ID:101474] 宝井其角「ゆうだちや」の句碑(雨乞いの句碑) : 資料情報 | データベース | すみだ文化財・地域資料
すみだ文化財・地域資料のデータベースです

越後屋で知られる三井家の守護社に指定

享保年間(1716年-1735年)、江戸に進出し豪商として事業を拡大していた三井家が当社を江戸における守護社として定めた。

三井家(みついけ)
伊勢国松坂(現・三重県松坂市)出身の商人一族。
江戸に進出し「越後屋(現・三越)」と云う呉服店が大商店として発展。
江戸時代を通じて豪商として地位を保ち、明治以降は「三井財閥」の当主一族となり、現在の「三井グループ」となっている。

三井家は「越後屋(現・三越)」の本支店に当社の分霊を祀り大いに崇敬をした。

三井家の守護社とされる理由
当社を江戸における守護社としたのにはその社号が挙げられる。
「三囲」の社号から、「三井」の井を囲う=「三井を守る」と考えられた事による。
更に「越後屋」の本店は江戸本町4丁目にあり、当地は江戸本町から北東=鬼門にあったため、鬼門守護の神社ともされた。
現在も三井グループ各社で当社の分霊を祀る三囲会が結成されている。

享保元年(1716)、神祗管領吉田家から正一位の神階を賜る。

正一位(しょういちい)
神社における神階の最高位。
江戸時代の神社は、吉田神道の吉田家が、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いており、地方の神社に神位を授ける権限を与えられていた。

享保八年(1723)、三井家3代目当主・三井高房によって社殿が造営され境内整備が行われた。

こうして小梅村の鎮守としてだけでなく、江戸を代表する豪商である三井家の守護社として崇敬を集めた当社は大いに発展を遂げる事となる。

安政二年(1855)、安政江戸地震が発生し社殿が倒壊。
文久二年(1862)、三井家の支援で社殿を再建。
この時の社殿が改築されつつ現存。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(隅田川向島絵図)

こちらは江戸後期の隅田川向島周辺の切絵図。
下が北の切絵図となっており、当社は図の中央右に描かれている。

(隅田川向島絵図)

北を上に(180度回転)して当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲った箇所が当社で「ミメグリ稲荷社」と記されている。
「長命寺」にほぼ隣接する形で描かれている。

長命寺(ちょうめいじ)
墨田区向島5丁目にある寺院で、隅田川七福神の弁財天。
寛永年間(1624年-1645年)に第三代将軍・徳川家光が鷹狩りを行った際、急病になったため休息を取り、境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したため、長命水の名を授けられ「長命寺」と呼ばれるようになった。
なお門前で売られた「長命寺桜もち」は、関東風の桜もち発祥の地とされる。
TOPページ|長命寺櫻もち

道を挟んで北側に「牛ノ御前」と記された「牛嶋神社」が鎮座。

現在と位置関係が違うのは「牛嶋神社」は関東大震災後に遷座したためで、当時は「牛嶋神社」が当社の北側に鎮座していた。
牛嶋神社 / 東京都墨田区
本所総鎮守。牛御前(うしのごぜん)。病気が治る撫牛信仰。限定御朱印。東京スカイツリーの氏神。葛飾北斎ゆかりの地。珍しい三ツ鳥居・狛牛。源頼朝と千葉常胤の伝承。牛鬼の如き妖怪伝説。三ツ鳥居の御朱印帳。5年に1度の神幸祭。黒い神牛が鳳輦を曳く。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(小梅村)
三圍稲荷社
村の鎮守なり。小梅代地町延命寺持。古は田中稲荷と號す。縁起に云、當社は昔弘法大師の勧請にて文和年中近江国三井寺の住侶源慶僧都再興す。(或書に文和元年壬辰の起立とあり)其由緒を尋るに、源慶常に伝教大師の刻める延命地蔵を持念せしか、或夜夢想の感を得て東国に来り。隅田川辺牛島を過林中に壊社あり。偶老農に逢て尋ぬれは弘法大師の建る所なり。大師当時に於て自ら稲荷の神体を彫刻せし時、洒水器のうちに忽然と梅一粒を感得す。大師誓て云梅にもし瑞あらは有縁の地に生へ我を待へしとて虚空に投けるに、不思議や此島に生して此所を梅香原と云。後に大師こゝに尋来て社を築きしに、時移りて一燈をかゝくる人もなし堂宇塊となり侍りと語り終りて去れば、源慶泪を催し梅樹の下に立よりてかくなん。春はなを色まさりなん梅ヶ原、宮戸にひらく花の玉垣、其夜奇異の告ありて、翌日衆人を集て共に社壇を掘、一つの壺を得たり。是を開くに神体老翁の姿にて白狐にうちのり右の手に宝珠を持、左の手に稲を荷へる像なり。時に白狐現して神体を三たび圍りて失たり、是より三圍と號す。源慶すなはち草堂を作りて神体と地蔵とを仮に移し、時を得て社を造営し精舎を建立して延命寺と名つく。其余薬師弁財天太子堂をも造立せり。然に元亀年中煌火起りて社閣林木まで灰燼となり。天正年中寺院を社頭の南に轉して再建し、其後慶長年中堤を築かるゝ時、又今の地に移されしといふ。(蓍地へ今荒川の中に入と云)源慶文和元年七月二十六日寂す。
末社。幣殿拝殿等建續て荘厳の造営なり。
奥院。本社の裏東の方竹林中に石祠あり。
神楽道。絵馬堂。
鳥居四基。一は銅にて造り本社の前にあり。三は石にて表門裏門前及大川堤の下に建り。
末社主夜神社。飯綱権現不動を相殿とす。
道了権現十勝明神合社。
五座社。白藤稲荷金毘羅宇賀神不動辨天を一宇とす。
大黒恵比寿合社。此餘小社の稲荷藪宇あり。
石像二軀。(中略)
三圍山祠碑。銘文左の如し。(中略)
雨乞發句碑。(中略)

(新編武蔵風土記稿)

かなり長くなるため一部は中略。

小梅村の「三圍稲荷社」と記されているのが当社。
イラスト付きで記載されている。
小梅村の鎮守であるという事や、当社の御由緒が詳しく記されている。
いずれも上述した御由緒はこちらに記載されている内容。
奥院や末社なども多くあり、立派に整備された境内だった事が伝わる。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「三圍稲荷社」として見開きで描かれているのが当社。
隅田川東岸とあり、江戸から見た向こう岸、いわゆる向島の一画である。

下に描かれているのが隅田川。

隅田川の堤防から参道が伸びていて、堤防より低い位置に鎮座していたため、対岸からは当社の鳥居の頭だけが見えるといった様子であったようで、名所となっていた。

(江戸名所図会)

社殿を中心に拡大したものが上図。

隅田川の堤防から参道が伸びていて名所になっていたが、表参道は右手で現在の参道。
鳥居の先に神門もあり、とても立派な境内だった事が分かる。
配置などは現在とかなり近く、この頃に整備された姿を今もある程度残している。

安政の大地震によって社殿が倒壊し、文久二年(1862)に社殿を再建しているため、この時の社殿は再建前のもの。

葛飾北斎や歌川広重の浮世絵から見る当社

当社と「牛嶋神社」の両社は、葛飾北斎も描いている。

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葛飾北斎『三囲牛御前両社之図』。当社と「牛嶋神社」を描いている。出典

こちらは当社と「牛嶋神社」を描いた『三囲牛御前両社之図』。
西洋の遠近法を取り入れた浮世絵技法の一つで浮絵とよばれるもの。
右手に「三囲神社(当社)」、そして左手に「牛御前(牛嶋神社)」が描かれている。
両社は共に江戸町民に愛された神社であり、中でも当社は三井家の守護社として整備をされた。

葛飾北斎(かつしかほくさい)
江戸時代後期の浮世絵師で、世界的にも著名な画家。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、生涯に3万点を超える作品を発表。
化政文化を代表する一人。
葛飾北斎は現在の墨田区亀沢付近で生まれ、生涯の大半を本所地域で過ごしたため、北斎は当社や「牛嶋神社」近辺を題材として描く事も多かった。

(江戸高名会亭尽)

歌川広重による『江戸高名会亭尽』の「三圍之景」。

有名料理茶屋を描いたシリーズものの錦絵で、当社に隣接する「平石」という料理屋を描いている。
土手の下に鳥居が見え、その奥が当社となっている。
境内には桜の姿も見る事ができ、隅田川の土手は当時から桜の名所として知られていた。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(東都名所合)

歌川豊国による『東都名所合』に描かれた「三廻」。

対岸より女性が釣りをしている姿を描いており、隅田川を挟んで奥に当社を見る事ができる。
更に奥には筑波山が描かれている。
堤防よりも低地にあり、土手の下に鳥居が立っていたため、対岸から眺めると、鳥居は土手にめりこんだように見え鳥居の頭だけ出ているのが特徴的。

こうした土手にめり込むように見える鳥居が特徴的だったため、浮世絵などの題材にも好んで取り上げられた。

銅版画・泥絵でも描かれた当社

他にも数々な題材として当社が描かれている。

(三圍景図)

司馬江漢による『三圍景図』。

江戸時代に西洋画法を駆使した貴重な一枚。
当時の隅田川と堤防(土手)、当社への参道が描かれている。

司馬江漢(しばこうかん)
日本における洋風画の開拓者の1人。
西洋画法と油彩の技法を駆使した作品を多く残している。
天明三年(1783)にこの『三圍景図』で日本初のエッチングによる銅版画の制作に成功した。

(東都名所泥絵)

『東都名所泥絵』に描かれた「向島三囲社」で、江戸時代後期の作品と見られる。

隅田川の美しさと桜並木、頭だけ見える当社の鳥居や社殿、遠景には筑波山を描いている。

泥絵(どろえ)
江戸時代から明治時代にかけて描かれる事が多かった浮世絵の一種。
顔料に胡粉を混ぜ、筆によって不透明な色調で描かれた画法。
その事から「胡粉絵」とも云われる。
泥絵には作画者の落款がない事が多く作者不明な事が殆どである。
通常の浮世絵の他、こうした様々な画法で描かれた当社。江戸の名所であったという他に、スポンサーとして豪商・三井家の庇護を受けていたという事も関係していたのであろう。

明治以降の歩みと三圍神社への改称

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、社号を「三圍稲荷」から「三圍神社(三囲神社)」へ改称。
当社は村社に列した。

明治十七年(1884)、社殿の大修繕が行われこの時の社殿が現存。

文久二年(1862)に再建された社殿に大改築を行った。

明治二十二年(1889)、市制町村制の施行によって、南葛飾郡小梅村・押上村・柳島村・須崎村・中之郷村・請地村・亀戸村・北本所出村・南本所出村の各一部が本所区に編入。
当地は本所区の小梅瓦町となり、当社はその鎮守であった。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に東京都公園課が出版した『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』に掲載された当社の古写真。

隅田川から当社へ向かう参道が映っており、現在の首都高が通るあたりから撮影したものであろう。
江戸時代の頃から戦後まで、隅田川方面からの参道が名所であった。

戦後になり境内整備が進む。

現在も三井グループとの繋がりが深く境内の奉納物は三井家によるものが多い。

平成二十一年(2009)、池袋三越店頭に設置されていたライオン像が当社に奉納。

現在は「隅田川七福神」のうち恵比寿・大国神を祀っている。

隅田川七福神めぐり
隅田川七福神 | 日本 | 隅田川七福神めぐり

境内案内

見番通り沿いに鎮座・開門時間は9時より

隅田川の東岸、言問橋からやや北へ見番通りを進むと表参道。
社号碑には「三圍神社」とあり旧字体を使用。
正月飾りが付けられた一之鳥居。

玉垣に囲われた先に二之鳥居。
開門時間が決められているため、参拝は時間内に行う必要がある。

開門時間:9時-17時(11月1日-2月28日までは16時30分で閉門)

二之鳥居を潜って左手に手水舎。
こちらで清めてから社殿へ向かう。

隅田川側にある堤下の大鳥居・スカイツリーとの組み合わせ

境内左手にはかつて主流の参道となった隅田川側の参道が残る。
神門の先には鳥居。
この先が隅田川の土手になっている。

現在は首都高や道路の整備でこちら側は開門されていない事も多い。正月期間などは開門。かつては隅田川から舟で渡り、こちらから参詣するのが主流であった。

隅田川から見た鳥居。
堤下の大鳥居とも称される石鳥居。
江戸時代の頃から堤防よりも低地にあり土手の下に鳥居が立っていたため、対岸から眺めると鳥居は土手にめりこんだように見え鳥居の頭だけ出ていたため名所であった。
この鳥居は文久二年(1862)に三井家によって再建されたものが現存し墨田区の有形文化財に指定。

安政二年(1855)の安政江戸地震で旧鳥居は倒壊したが、三井家によって文久二年(1862)に再建された。
[ID:101455] 三囲神社石造鳥居(堤下の大鳥居) : 資料情報 | データベース | すみだ文化財・地域資料
すみだ文化財・地域資料のデータベースです

隅田川側からは東京スカイツリーと鳥居の組み合わせも楽しめる。
江戸時代の頃からの名所と現在の名所の組み合わせ。

文化財に指定された江戸時代の社殿

表参道の正面に社殿。
社殿は文久二年(1862)に再建されたもの。
明治十七年(1884)に大修繕が行われその時のが改修されつつ現存。
派手さはないが渋みを感じるよい拝殿。
木鼻の獅子と獏。
墨田区の有形文化財に登録。

[ID:101095] 三囲神社本社 : 資料情報 | データベース | すみだ文化財・地域資料
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江戸時代の狛犬・神狐像(コンコンさん)などの文化財

拝殿前の参道には一対の狛犬。
どっしりとした造りの狛犬はとても古いもの。
台座には延享二年(1745)奉納の文字が残る。
彫られた奉納者名は121名でかなりの多さで崇敬の篤さを伝える。
江戸尾立の良い造形で、墨田区の有形民俗文化財に指定。

[ID:101556] 三囲神社の石造狛犬 : 資料情報 | データベース | すみだ文化財・地域資料
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拝殿の手前には一対の神狐像。
享保二年(1802)に奉納された神狐像。
笑うような柔らかい表情なのが特徴で、「コンコンさん」と古くから親しまれた神狐像。
目尻の下がった温和な表情を周辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみたい」と呼んだと云う。
こちらも墨田区の有形民俗文化財に指定。

[ID:101519] 三囲神社の石造神狐 : 資料情報 | データベース | すみだ文化財・地域資料
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表参道には他にも数々の石碑や句碑や石灯籠。
こちらは宝永三年(1707)に伊賀上野城主・藤堂高睦が奉納したもの。
江戸時代の古い奉納物が多数残る当社の中でも最も古い年代を示すもの。

他にも数々の石灯籠や常夜灯が置かれているが、いずれも江戸時代の古いもの。

近くには雨乞いの碑。
宝井其角「ゆうだちや」の句碑で、当社が江戸に広く知れ渡った雨乞いと白狐伝説に基づくもの。

遊ふた地や 田を見めぐりの 神ならば(宝井其角)

宝井其角(たからいきかく)と雨乞いの句
元禄六年(1693)に小梅村で旱魃(かんばつ)が発生したため、地域の農民が当社で雨乞い祈願をしていたところ、偶然参拝に訪れた俳諧師・宝井其角が、農民から哀願され句を当社の神前に奉納。
すると翌日には雨が降ったとされ、この出来事が江戸中に知れ渡る事になった。
[ID:101474] 宝井其角「ゆうだちや」の句碑(雨乞いの句碑) : 資料情報 | データベース | すみだ文化財・地域資料
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三越のライオン像・珍しい三柱鳥居や手水鉢

表参道の左手にはライオン像。
「池袋三越」店頭に設置されていたライオン像。
平成二十一年(2009)に同店の閉店に伴い当社に奉納・移されたもの。
奉納には三越の文字。

その横には越後屋(三越)の社紋が入った台座。
三井家(現・三井グループ)の守護社として信仰されたため、三越の屋上には必ず当社から勧請された神社が祀られている。

現在も三井グループ各社からの崇敬が篤い当社。
表参道の鳥居の右手、玉垣の奥には石垣。
日比翁助による石垣の歌碑。

日比翁助(ひびおうすけ)
明治時代から昭和前期にかけての実業家。
明治三十七年(1904)年に株式会社三越呉服店が設立、専務取締役に就任。
このときに「デパートメントストア宣言」を行ったため、三越百貨店を創業し、日本初の百貨店をつくった人物として知られる。
このように三越など三井グループにまつわる奉納物が多い。

社殿の裏手付近には珍しい三柱鳥居。
三角石鳥居とも呼ばれ正三角形平面に組み合わされた実に珍しい鳥居。
三井家の邸内にあったものを当社に移したもの。
原型は「木嶋神社」(蚕の社・京都市右京区太秦)にあり、模倣して造られたと云う。

その手前には手水鉢。
こちらも個性的な形をしており三本柱の屋根となっている。

その他、境内に置かれた江戸時代の多くの石灯籠。
当社の石灯籠はいずれも火袋に三つの穴が空いているため、三つ穴灯籠とも呼ばれる。

三井家と3の縁
三柱鳥居・三本柱屋根の手水鉢・三つ穴灯籠と、「3」にまつわる奉納物が多い。
三井家による庇護を受けたため、「3」という数字が特別なものであった事が窺える。

隅田川七福神の恵比寿神と大国神・三井家と繋がり深い境内社

社殿の左手には月読社。
元々「越後屋(三越の前身)」に祀られていたと云う。
現在は隅田川七福神の恵比寿神と大国神を担う。

隅田川七福神めぐり
隅田川七福神 | 日本 | 隅田川七福神めぐり

その奥には顕名霊社。
こちらは三井家の祖先を祀る境内社。
明治七年(1874)に造営されたものが、平成七年(1995)に当社境内に遷座された。
大変見事で細やかな彫刻が施された社殿で、三井家の庇護を感じる。

社殿右手に鎮座する数多くの稲荷社・老婆の伝説

社殿の右手には多くの奉納鳥居と稲荷社が鎮座。
白狐祠や稲荷社。
稲荷信仰の神社としての篤い崇敬を伝える。
その間には宮守をしていたという老翁老嫗像。
狐との伝説が残る。

老婆と狐の伝説
元禄年間(1688年-1704年)に当社の白狐祠を守っていた老婆の像。
願い事があるとこの老婆に頼み、田んぼに向かうと狐がやって来る。
狐は願い事を聞いて消えてしまい、不思議なことに他の人が呼んでも決して狐は現れなかったと云う。

三囲神社の御朱印・隅田川七福神巡りも

御朱印は社殿右手の社務所にて。
平日は不在の時も多いが丁寧に対応して下さる。

御朱印「三圍神社」の朱印・右上は「隅田川七福神」の文字。
墨書きは新字体の「三囲神社」。

元日から7日までは「隅田川七福神」の恵比寿神・大国神の御朱印を頂ける。
隅田川七福神めぐり
隅田川七福神 | 日本 | 隅田川七福神めぐり

所感

弘法大師による古い伝承が伝わるお稲荷さま。
特に江戸時代に豪商・三井家の守護社となってからは大いに崇敬を集めた。
現在も三井グループからの崇敬が篤く、企業神社として当社の分霊を祀られている。
江戸庶民からも崇敬篤く、隅田川からの景色は名所の1つであった。
現在も立派に整備された境内には、歴史を伝える多くの奉納物が残っているのが素晴らしい。
三井家からの奉納物も多く、江戸時代の古い奉納物や珍しい奉納物を多く見る事ができる。
当地と三井家の歴史を伝える良い神社である。

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