三圍神社(三囲神社) / 東京都墨田区

神社情報

三圍神社/三囲神社(みめぐりじんじゃ)

御祭神:宇迦之御魂命
旧社格:村社
例大祭:4月上旬
所在地:東京都墨田区向島2-5-17
最寄駅:本所吾妻橋駅・とうきょうスカイツリー駅・押上駅
公式サイト:─

御由緒

當社の草創は、實に壹千餘年前の事にして其間屢々の變遷あり。元亀年間火災に罹り社殿を再建し、慶長年間には隅田川築堤に際し旧社地より約南二丁の現地に移さる。
靈験妙なるが、中にも元禄六年六月の大旱魃の時俳聖晋其角献句雨乞によりて、靈験立ちどころに顕れ翌日大雨あり之より御神德天下に普く。特に京都の巨商三井家江戸に進出するや、三圍大神の信仰厚く當家の守護神と仰ぎ、享保元年三井髙治三井高久三井高房相議りて、神祇の司職吉田家に神位を乞請け捧け奉り。又享保十二年五月には從二位卜部朝臣兼敬に請ひて、更に靈璽を當社に遷し鎭め奉り田地を捧け社地を擴張し神殿瑞垣を改築せり。
爾來二百餘年子孫代々祖先の志を継ぎ、敬神以て今日に至る。迠昔の隨々に當社の維持經營に努め又三圍講を創設して祭祀に力を致す。
境内末社多く中にも大國神惠比壽神は、隅田川七福神の一として其名髙く、額殿に奉揭せる額は三井家に関係のもの大部を占め、又樹間に點綴せる諸名家の碑石は其の數多く興趣掬すべし。
 昭和十七年一月二十五日(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/04/06

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

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考察

三井家の守護社を担ったお稲荷さま

東京都墨田区向島に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧小梅村の鎮守。
稲荷信仰の神社で、古くは「三囲稲荷」と呼ばれる事が多かった。
正式には旧字体の「三圍神社(みめぐりじんじゃ)」だが、新字体の「三囲神社」と表記される事も多い。
江戸時代より三井家(現・三井財閥)の守護社として庇護された神社で、今も三井家からの崇敬が篤いく、三井と関わりのある奉納物が多いのが特徴で、三柱鳥居やライオン像など珍しいものも多い。
現在は隅田川七福神のうち恵比寿・大国神を祀っている。

弘法大師による創建の伝承

創建年代は不詳。

社伝には、弘法大師(空海)による創建と古くから伝わっている。
弘法大師が自ら稲荷神の御神体を彫り、瑞祥によって創建したとされる。

真偽の程は定かではないものの、この社伝通りなら平安時代初期の創建となる。そのため御由緒には千年以上昔の古社と伝えている。

創建時は現在よりやや北方に鎮座しており、隅田川流域の田地の広がる農地であった。
田地の中にあるお稲荷さまであったので、古くは「田中稲荷」と呼ばれた。

三井寺の僧による再興と白狐の伝説

文和年間(1352年-1356年)、近江国の「三井寺」の僧・源慶が再興している。

「三井寺(みいでら)」(現・滋賀県大津市)は、正式には天台寺門宗総本山「園城寺(おんじょうじ)」と云う。本尊は弥勒菩薩で、日本三不動の一である黄不動で知られる。同寺に涌く霊泉が天智天皇・天武天皇・持統天皇の3代の天皇の産湯として使われた伝承から「御井」(みい)の寺と呼ばれ、転じて「三井寺」と呼称するようになったと伝わっている。
滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山。一千百余年にわたる歴史や文化、多くの文化財や伝説を紹介しています。

源慶は、東国を行脚をしている際に、隅田川流域の当地を通った。
そこには荒れ果てた小さな祠があり、村人に御由緒を尋ねると弘法大師(空海)の創建であると聞かされ、社殿を再興するに至った。

社殿を再興する際に、土中から壺が出土。
壺の中には、白狐に跨った老爺の神像が入っていたと云う。
その際、どこからともなく白狐が現れて、神像の周りを三度回っていなくなった。

こうした伝承から「三囲(みめぐり)」と称するようになったと伝わる。

中世から江戸時代にかけての社殿の再建と遷座

元亀年間(1570年-1573年)、火事によって社殿が焼失。
建物の他、鎮守の杜まで悉く焼失したと云う。

天正年間(1573年-1593年)、創建の地よりやや南に遷座し再建。

慶長年間(1596年-1615年)、隅田川に堤防が築かれた際に現在の鎮座地へ遷座。
小梅村の鎮守として崇敬を集めた。

「牛御前」と呼ばれた「牛嶋神社」とは、ほぼ隣り合わせに鎮座しており、共に地域からの崇敬を集めた。
牛嶋神社 / 東京都墨田区
本所総鎮守。東京スカイツリーの氏神様。珍しい三ツ鳥居(三輪鳥居)・東京屈指の社殿。撫牛信仰と珍しい狛牛。葛飾北斎が過ごした地。スサノオを祀り創建。牛御前社の勅号。牛鬼の如き妖怪の伝承。関東大震災後の遷座。御朱印。

俳諧師其角による故事で江戸に名が広まる

元禄六年(1693)、小梅村では旱魃(かんばつ)が発生。
地域の農民が当社で雨乞い祈願をしていたところ、偶然通りがかった俳諧師・宝井其角が、農民から哀願され句を当社の神前に奉納。

夕立や 田を見めぐりの 神ならば

すると翌日に雨が降ったとされる。
この故事により、当社の名が江戸に広まる事となった。

宝井其角(たからいきかく)は、松尾芭蕉の門弟であり、蕉門十哲の第一の門弟とされた俳諧師。芭蕉の没後は江戸俳諧では一番手勢力となり知られた。赤穂浪士討ち入り前夜に、四十七士の1人・大高忠雄と会い、はなむけに「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠んだという逸話も残っている。

三井家の守護社として庇護される

享保年間(1716年-1735年)、江戸に進出し豪商として事業を拡大していた三井家が当社を江戸における守護社として定めた。

三井家は、伊勢国松坂(現・三重県松坂市)で創業をした商人一族で、江戸に進出し「越後屋(現・三越)」という呉服店が大商店として発展。江戸時代を通じて豪商として地位を保ち、明治以降は「三井財閥」の当主一族となり、現在の「三井グループ」となっている。

三井家は「越後屋(現・三越)」の本支店に当社の分霊を祀り、大いに崇敬をした。

当社を江戸における守護社としたのには、その社号が挙げられる。
「三囲稲荷社」とされた当社の社号から、「三井」の井を囲う=「三井を守る」と考えられた事による。
更に「越後屋」の本店は、江戸本町4丁目にあり、当地は江戸本町から北東=鬼門にあったため、鬼門守護の神社と云う意味も持っていた。

享保元年(1716)、神祗管領吉田家から正一位の神階を賜る。
享保八年(1723)、三井家3代目当主・三井高房によって社殿が造営され境内整備が行われた。

こうして小梅村の鎮守としてだけでなく、江戸を代表する豪商である三井家の守護社として崇敬を集めた当社は、大いに発展を遂げる事となる。

江戸切絵図と葛飾北斎の絵から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(隅田川向島絵図)

こちらは江戸後期の隅田川向島周辺の切絵図。
下が北の切絵図となっており、当社は図の中央右に描かれている。

(隅田川向島絵図)

北を上に(180度回転)して、当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲った箇所が当社で「ミメグリ稲荷社」と記されている。
道を挟んで北側に「牛ノ御前」と記された「牛嶋神社」が鎮座。

現在と位置関係が違うのは「牛嶋神社」は関東大震災後に遷座したため。

当社と「牛嶋神社」の両社は、葛飾北斎も描いている。

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こちらは当社と「牛嶋神社」を描いた『三囲牛御前両社之図』出典
西洋の遠近法を取り入れた浮世絵技法の一つで浮絵とよばれるもの。
右手に「三囲神社(当社)」、そして左手に「牛御前(牛嶋神社)」が描かれている。
両社は共に江戸町民に愛された神社であり、中でも当社は三井家の守護社として整備をされた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(小梅村)
三圍稲荷社
村の鎮守なり。小梅代地町延命寺持。古は田中稲荷と號す。縁起に云、當社は昔弘法大師の勧請にて文和年中近江国三井寺の住侶源慶僧都再興す。(或書に文和元年壬辰の起立とあり)其由緒を尋るに、源慶常に伝教大師の刻める延命地蔵を持念せしか、或夜夢想の感を得て東国に来り。隅田川辺牛島を過林中に壊社あり。偶老農に逢て尋ぬれは弘法大師の建る所なり。大師当時に於て自ら稲荷の神体を彫刻せし時、洒水器のうちに忽然と梅一粒を感得す。大師誓て云梅にもし瑞あらは有縁の地に生へ我を待へしとて虚空に投けるに、不思議や此島に生して此所を梅香原と云。後に大師こゝに尋来て社を築きしに、時移りて一燈をかゝくる人もなし堂宇塊となり侍りと語り終りて去れば、源慶泪を催し梅樹の下に立よりてかくなん。春はなを色まさりなん梅ヶ原、宮戸にひらく花の玉垣、其夜奇異の告ありて、翌日衆人を集て共に社壇を掘、一つの壺を得たり。是を開くに神体老翁の姿にて白狐にうちのり右の手に宝珠を持、左の手に稲を荷へる像なり。時に白狐現して神体を三たび圍りて失たり、是より三圍と號す。源慶すなはち草堂を作りて神体と地蔵とを仮に移し、時を得て社を造営し精舎を建立して延命寺と名つく。其余薬師弁財天太子堂をも造立せり。然に元亀年中煌火起りて社閣林木まで灰燼となり。天正年中寺院を社頭の南に轉して再建し、其後慶長年中堤を築かるゝ時、又今の地に移されしといふ。(蓍地へ今荒川の中に入と云)源慶文和元年七月二十六日寂す。
末社。幣殿拝殿等建續て荘厳の造営なり。
奥院。本社の裏東の方竹林中に石祠あり。
神楽道。絵馬堂。
鳥居四基。一は銅にて造り本社の前にあり。三は石にて表門裏門前及大川堤の下に建り。
末社主夜神社。飯綱権現不動を相殿とす。
道了権現十勝明神合社。
五座社。白藤稲荷金毘羅宇賀神不動辨天を一宇とす。
大黒恵比寿合社。此餘小社の稲荷藪宇あり。
石像二軀。(中略)
三圍山祠碑。銘文左の如し。(中略)
雨乞發句碑。(中略)

(新編武蔵風土記稿)

小梅村の「三圍稲荷社」と記されているのが当社。
イラスト付きで記載されている。
小梅村の鎮守であるという事や、当社の御由緒が詳しく記されている。
いずれも上述した御由緒は、こちらに記載されている内容となっている。
奥院や末社なども多くあり、立派に整備された境内だった事が伝わる。

その後、安政の大地震によって社殿が倒壊。
文久二年(1862)に社殿を再建している。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「三圍稲荷社」として見開きで描かれている。
隅田川東岸とあり、江戸から見た向こう岸、いわゆる向島の一角である。
隅田川の堤防から参道が伸びていて、堤防より低い位置に鎮座していたため、対岸からは当社の鳥居の頭だけが見えるといった様子であったようで、名所となっていた。

(江戸名所図会)

社殿を中心に拡大したものが上絵。
隅田川の堤防から参道が伸びていて名所になっていたが、表参道は右手で現在の参道。
鳥居の先に神門もあり、とても立派な境内だった事が分かる。
配置などは現在とかなり近く、この頃に整備された姿を今もある程度残している。

浮世絵・銅版画・泥絵に描かれた当社

三井家より庇護された当社は、江戸の名所にもなっていたため、浮世絵・錦絵の題材として描かれる事も多かった。

(歌川豊国・東都名所合)

歌川豊国による『東都名所合』に描かれた「三廻」。
対岸より女性が釣りをしている姿を描いており、隅田川を挟んで奥に当社を見る事ができる。
更に奥には筑波山が描かれている。

堤防よりも低地にあり、土手の下に鳥居が立っていたため、対岸から眺めると、鳥居は土手にめりこんだように見え、鳥居の頭だけ出ているのが特徴的。

(歌川広重・江戸高名会亭尽)

歌川広重による『江戸高名会亭尽』の「三圍之景」。
有名料理茶屋を描いたシリーズものの錦絵で、当社に隣接するように「平石」という料理屋があった。
こちらも土手の下に鳥居が見え、その奥が当社となっている。
境内には桜の姿も見る事ができ、隅田川の土手は当時から桜の名所として知られていた。

他にも数々な題材として当社が描かれている。

(司馬江漢・三圍景図)

こちらは司馬江漢による『三圍景図』。
西洋画法を駆使した一枚で、当時の隅田川と堤防(土手)、当社への参道が描かれている。

司馬江漢(しばこうかん)は、日本における洋風画の開拓者の1人であり、西洋画法と油彩の技法を駆使した作品を多く残している。天明三年(1783)、この『三圍景図』で日本初のエッチングによる銅版画の制作に成功した。

(東都名所泥絵)

こちらは『東都名所泥絵』に描かれた「向島三囲社」で、江戸時代後期の作品と見られる。
隅田川の美しさと桜並木、頭だけ見える当社の鳥居や社殿、遠景には筑波山を描いている。

泥絵(どろえ)とは、江戸時代から明治時代にかけて描かれる事が多かった浮世絵の一種。顔料に胡粉を混ぜ、筆によって不透明な色調で描かれた画法。その事から「胡粉絵」とも云われる。泥絵には作画者の落款がない事が多く作者不明な事が殆どである。

通常の浮世絵の他、こうした様々な画法で描かれた当社は、江戸の名所であったという他に、スポンサーとして豪商・三井家の庇護を受けていたという事も関係していたのであろう。

明治以降の歩みと三圍神社への改称

明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。
明治六年(1873)、社号を「三圍稲荷社」から「三圍神社(三囲神社)」に改称。

明治十七年(1884)、社殿の大修繕が行われる。
この時の社殿が現存している。

明治二十二年(1889)、市制町村制の施行によって、南葛飾郡小梅村・押上村・柳島村・須崎村・中之郷村・請地村・亀戸村・北本所出村・南本所出村の各一部が本所区に編入。
当地は本所区の小梅瓦町となり、当社はその鎮守であった。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

こちらは大正十一年(1922)に東京都公園課が出版した『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』に掲載された当社の古写真。
隅田川から当社へ向かう参道が映っており、現在の首都高が通るあたりから撮影したものであろう。
江戸時代の頃から戦後まで、隅田川方面からの参道が名所であった。

戦後も、境内整備が進み現在に至っている。

現在も三井グループとの繋がりが深く、境内の奉納物は三井家によるものが多い。
平成二十一年(2009)、池袋三越店頭に設置されていたライオン像が当社に奉納・移されている。

現在は隅田川七福神のうち恵比寿・大国神を祀っている。

歴史を伝える社殿や多くの奉納物

隅田川の東岸、言問橋からやや北へ進むと社頭となる。
社号碑や扁額などには「三圍神社」「三圍社」とあり、旧字体を使用している。
一之鳥居の先は玉垣に囲まれた境内となり、その先に二之鳥居。

手水舎は二之鳥居を潜って左手に置かれている。
こちらで清めてから社殿へ向かう。

社殿は文久二年に再建されたもの。
明治十七年(1884)に大修繕が行われ、その時のが改修されつつ現存。
派手さはないが渋みを感じるよい拝殿。
本殿の裏手からは東京スカイツリーを見上げる事もできる。

参道に置かれる一対の狛犬はどっしりとした造り。
延享二年(1745)に奉納されたもの。

拝殿前には一対の神狐像。
笑うような柔らかい表情なのが特徴で、享保二年(1802)に奉納された。

他にも数々の石碑や句碑が残っており、多くが墨田区登録有形民俗文化財となっている。

境内左手には、かつて主流の参道となった隅田川側の参道が残る。
神門の先には鳥居。
この先が隅田川の土手になっており、現在は首都高や道路の整備でこちら側は開放されていないものの、かつては隅田川から舟で渡り、こちらから参詣するのが主流であった。

三井家と繋がり深い境内社

境内社は多数鎮座。

社殿の左手には大国神と恵比寿神を祀る境内社。
元々「越後屋」に祀られていたと云い、現在は隅田川七福神の恵比寿・大国神を担う。

その奥には「顕名霊社」。
こちらは三井家の祖先を祀る境内社で、明治七年(1874)に造営されたものが、平成七年(1995)に当社境内に遷座された。
大変見事で細やかな彫刻が施された社殿で、三井家の庇護を感じる。

社殿の右手には多くの奉納鳥居と稲荷社が鎮座。
白狐祠や稲荷社。
その途中には社守をしていたという老翁老嫗像。
他にも多くの稲荷社や境内社が鎮座している。

珍しい三柱鳥居や手水鉢・ライオン像など

社殿の裏手には珍しい三柱鳥居(三角石鳥居)が置かれる。
元々、三井家の邸内にあったものを当社に移したもの。
正三角形平面に組み合わされた実に珍しい鳥居。
原型は「木嶋神社」(蚕の社・京都市右京区太秦)にあり、模倣して造られたという。

その前には手水鉢。
こちらも個性的な形をしており三本柱の屋根となっている。

石灯籠も古いものが多く奉納されている。
境内に残る最古の石灯籠は、宝永三年(1707)に伊賀上野城主・藤堂高睦が奉納したもの。

当社の石灯籠は、火袋に三つの穴が空いているため、三つ穴灯籠とも呼ばれる。

このように三柱鳥居・三本柱屋根手水鉢・三つ穴灯籠と、「3」にまつわる奉納物が多い。
三井家による庇護を受けたため、「3」という数字が特別なものであったのであろう。

参道左手にはライオン像。
平成二十一年(2009)、「池袋三越」店頭に設置されていたライオン像が、同店の閉店に伴い当社に奉納・移されたものとなっている。

その横には越後屋(三越)の社紋が入った台座。
三越の屋上には必ず当社から勧請された神社が祀られている。

現在も三井グループ各社からの崇敬が篤く、当社の歴史を伝えてくれる。

所感

弘法大師による古い伝承が伝わるお稲荷さま。
特に江戸時代に豪商・三井家の守護社となってから、大いに崇敬を集めた。
現在も三井グループからの崇敬が篤く、企業神社として当社の分霊を祀られている。
江戸庶民からも崇敬篤く、隅田川からの景色は名所の1つであった。
現在も立派に整備された境内には、歴史を伝える多くの奉納物が残っているのが素晴らしい。
三井家からの奉納物も多く、珍しい奉納物を多く見る事ができる。
当地と三井家の歴史を伝える良社である。

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神社画像

[ 社号碑・一之鳥居 ]

[ 一之鳥居 ]

[ 二之鳥居 ]

[ 参道 ]

[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]


[ 神狐像 ]


[ ライオン像 ]



[ 台座 ]

[ 大国神・恵比寿神 ]

[ 句碑 ]



[ 富士見稲荷社 ]

[ 隅田川側参道 ]


[ 木遣音頭碑 ]


[ 顕名霊社 ]



[ 石碑 ]


[ 三柱手水鉢 ]

[ 三柱鳥居(三角石鳥居) ]



[ 石碑 ]

[ 境内社 ]


[老翁老嫗像 ]


[ 稲荷社 ]




[ 石碑 ]

[ 社務所 ]

[ 力石 ]

[ スタンプ台 ]

[ 神楽殿 ]

[ 石灯籠 ]


[ 句碑 ]


[ 案内板 ]

Google Maps