向島秋葉神社 / 東京都墨田区

墨田区

目次から「御朱印画像一覧・御朱印情報」を選択すると過去の御朱印画像をすぐにご覧頂けます。

概要

火伏せの神として知られる向島(旧請地)の秋葉様

東京都墨田区向島に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧請地村鎮守のうちの一社。
古くは千代世稲荷と称しお稲荷様として創建。
江戸時代に秋葉権現を合祀し、火伏せの神として人気を集め、江戸の名所の1社であった。
鎮火・産業・縁結びの霊験があるとして、今もなお崇敬を集めている。
現在は「飛木稲荷神社」の兼務社と云う扱いになっている。

神社情報

向島秋葉神社(むこうじまあきばじんじゃ)

御祭神:火産霊命・宇迦御魂命
社格等:村社
例大祭:11月17日・18日(鎮火祭)
所在地:東京都墨田区向島4-9-13
最寄駅:曳舟駅・京成曳舟駅・押上駅
公式サイト(Instagram):https://www.instagram.com/akihajinja_mukojima/

御由緒

 昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応二年(1289)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者葉栄が神感得てこの社に参り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田与右衛門を通じ寺社奉行に願出て上州沼田城主本多正永の報賛にて、元禄十五年(1702)秋葉稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当となった。
 爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保二年(1717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行により、秋葉神社と称し別当満願寺を廃した。大正十二年の震災に社殿倒壊し、昭和五年復興したが、昭和二十年戦災にかかり昭和四十一年氏子崇敬者の奉賛により現社殿を再建した。(境内の掲示より)

歴史考察

鎌倉時代に千代世稲荷として創建

社伝によると、正応二年(1289)に創建と伝わる。

かつて当地周辺を五百崎(いおさき)と呼び、中でも当地は「千代世の森」と呼ばれていた。
その千代世の森に千代世稲荷大明神を祀った事が始まりと云う。

創建当時はお稲荷様を祀る「稲荷社」で小さな祠であったと見られる。

後に当地に村落ができて、請地村(うけじむら)と称された。

請地村(うけじむら)
請地(うけじ)は、この辺りが古くは江戸湾内奥の海上に浮かぶ洲であった事から「浮き地」と呼ばれ、これが転訛したものと推測されている。

江戸時代の初めに秋葉大神が祀られる

江戸時代の初め、善財と云う僧が当地に庵を結ぶ。
精修数年の後、秋葉大神の神影を彫った神像を社殿に納めて去ったと云う。

秋葉大神(あきばおおかみ)
当時は秋葉権現(あきばごんげん)と呼ばれ、秋葉山(静岡県浜松市)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。
火伏せ・火防の霊験で広く知られ、全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成。
「秋葉山本宮秋葉神社」(静岡県浜松市)は、現在の秋葉信仰を広めた「今の根本」と呼ばれ、当社はこちらからの勧請とされる。
秋葉山本宮秋葉神社
静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社の公式ホームページです。

以後、請地村の長百姓の屋敷内に邸内社として鎮座していた。

元禄年間に社殿が造営し中興・秋葉稲荷両社と称される

元禄年間(1688年-1704年)、修験者・葉栄が神感を得て当社に参詣。
祈願したところ霊験を得たと云う。

当時の当社は長百姓・岩田与右衛門の屋敷内にある小祠であった。

葉栄は長百姓・岩田与右衛門を通じて寺社奉行に社殿造営を願い出る。

元禄十五年(1702)、上野国沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営。
「秋葉稲荷両社」と称した。

別当として「千葉山満願寺」を建立。

当社の再興
葉栄は千葉葉栄を名乗り「満願寺」の僧となって当社の再興に尽力。
以後、当社は隆盛を迎える事となる。

鎮火・産業・縁結びの霊験、大奥や庶民からの崇敬

享保二年(1717)、神祇官吉田家から宗源宣旨により正一位の神位を拝受。

正一位(しょういちい)
神社における神階の最高位。
江戸時代の神社は、吉田神道の吉田家が、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いており、地方の神社に神位を授ける権限を与えられていた。

当社は火伏せの神として、諸大名や大奥から篤い崇敬を集める事になる。
現在も数多く残る石灯籠などが当時の名残となっている。

これらの石灯籠には秋葉大権現・稲荷大明神とあり、当社が「秋葉稲荷両社」として崇敬を集めた事が窺える。

更に鎮火・産業・縁結びの霊験により、庶民からも広く崇敬を集めた。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

%e5%88%87%e7%b5%b5%e5%9b%b3(隅田川向島絵図)

こちらは江戸後期の隅田川・向島周辺の切絵図。
下が北の切絵図となっており、当社は中央やや右上に描かれている。

(隅田川向島絵図)

北を上(180度回転)して、当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社で、「秋葉山」と記されている。
現在の当社は昔の面影は消えてしまっているが、広い社地を有して社勢を誇った。

当社の周辺に「料理家」があるように、当地は江戸庶民にとっての観光地でもあり、特に紅葉の名所として知られ、庶民たちからの人気も高かった。社前の料理茶屋で提供される隅田川産の洗鯉なども名物だったと云う。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(請地村)
秋葉千代世稲荷合社
秋葉の神体は天狗の形にて右に剣左に縛の縄を持、火焔を背負ひ白狐の上に立り長一尺余。本地佛は正観音にて長五寸余。元は村民与右衛門といへるもの持傳へし像なり。在家に置へきに非ずとて元禄十五年中興開山葉榮に譲与へりと云。祭礼十一月二十八日。千代世稲荷は右に剣左に宝珠を持、白狐の上に立り長九寸。本地佛十一面観音長六寸余。縁起あれど考証すべき事なければもらせり。
本社(拝殿幣殿ありて頗荘厳の宮社なり)。
供所。
神楽堂(不動を安し結界堂の三字を扁す)。
鳥居三基(一は銅にて造り一は石一は木にて造る)。
別當満願寺

請地村の「秋葉千代世稲荷合社」と記されているのが当社。
当社に祀られていた御神体、本地仏について詳しく記されている。
もともとは村民与右衛門が持っていたが、中興の葉栄に譲ったといった事も記してある。

荘厳の社殿
注目すべきは「荘厳の宮社」と記してある部分。
隆盛を誇った当社は、実に見事な社殿だったと伝わる。

なお、当社は請地村の鎮守の一社であったが新編武蔵風土記稿に「請地村の鎮守」と記されているのは「飛木稲荷神社」である。

飛木稲荷神社 / 東京都墨田区
旧請地村鎮守のお稲荷さま。銀杏の枝が飛来した伝承から飛木稲荷。樹齢千年を超えると伝わる御神木の大銀杏。大銀杏に隠れたお狐さま。身代わり飛木の焼けイチョウ。御朱印とポストカード。小粒御朱印・小粒御朱印帳。御神木とお狐さまが描かれた御朱印帳。
ちなみに現在の当社は「飛木稲荷神社」の兼務社と云う扱い。

江戸名所図会で見る当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「秋葉権現宮」「千代世稲荷社」として2ページに渡り描かれたのが当社。

別当寺「満願寺」も描かれているが、大変見事な境内を有していた事が分かる。
総門があり、広々とした御神池など、大名や大奥、庶民からも人気を集めた。
境内にあった松の洞から湧き出る神泉は諸病に効験ありとされ信仰を集めたとされる。

御神池は特に紅葉の名所としても知られた。(詳しくは後述)

(江戸名所図会)

社殿を中心に拡大したのが上図。

『新編武蔵風土記稿』では、「荘厳の宮社」とも記された社殿。
広く崇敬を集め、隆盛を極めた事が窺える。

江戸中一の紅葉の名所・歌川広重が描いた当社

隆盛を誇った当社は、「江戸中一の紅葉の名所」としても知られる事になる。
上述した『江戸切絵図』にも「料理家」の文字があったように、門前には料理屋も多く、参詣の人々で賑わった。

江戸の名所の1つであった当社は、歌川広重も描いている。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(名所江戸百景)

歌川広重『名所江戸百景』から「請地秋葉の境内」。

江戸中一の紅葉の名所とも云われた当社の境内を描いている。
『江戸名所図会』に描かれていたように、当社にあった御神池の様子。
実に風光明媚だったようで、多くの参拝者が訪れ、門前は料理店で賑わった。

明治以降の歩み・関東大震災後の復興遷座

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、当社は「秋葉神社」に改称。
一方で別当寺「満願寺」は廃寺。
当社は村社に列した。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
ただし境内の広さがかなり違うのが見て取れ、当時はまだ江戸時代の頃の隆盛を極めた見事な境内の名残があったようだ。
まだ国道6号線もなくその奥まで社地が続いていた。
請地や向嶋といった地名を見る事もできる。

明治が終わる頃には江戸時代の面影もかなりなくなっていった事が、今井栄著『墨東歳時記』に記されている。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に東京市公園課から発行された『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』に掲載されたもので、関東大震災以前の当社の境内・社殿を見る事ができる。
この頃には既に江戸時代の社勢はなく、境内も縮小されていたようだが、それでもなお崇敬篤く、例大祭では賑わったと伝わっている。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当社も大きな被害を受け社殿が倒壊。

江戸時代の頃から、門前には隅田川産の川魚料理を出す料理屋が軒を連ねていたが、この震災でそうした料理屋も姿がなくなってしまったと云う。

昭和五年(1930)、社殿が再建。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
仮殿での復興が行われた。

昭和四十一年(1966)、社殿が再建。
これが現在の社殿となっている。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

昭和レトロな姿が色濃く残る参道

最寄駅の曳舟駅からは国道6号線に出るのが分かりやすい。
向島五丁目の交差点近くに細い路地の参道。
昭和レトロな下町の雰囲気が色濃く残ったディープな参道。

以前は両脇にディープな飲食店が並んでいてより濃いエリアだったのだが2024年現在は幾つか取り壊しや閉業となっている。

空襲の名残を伝える戦前の鳥居や狛犬

ディープな一画を抜けると鳥居。
昭和六年(1931)に奉納された鳥居で、戦火の中でも現存している。

鳥居を潜ってすぐに一対の狛犬。
銘がないため奉納時期が不詳だが戦前のもの。
惜しくも顔や尻尾に破損が見られ、戦時中の空襲によって破損してしまったとの事。
戦火を偲ぶ。

鳥居を潜った左手に手水舎。
その先が社殿となる。

戦後に再建された朱色の社殿

社殿は昭和四十一年(1966)に再建されたもの。
朱色で美しい造形美。
東京大空襲で焼失してしまったが、氏子崇敬者の奉賛によって再建を果たした。
本殿も同様に朱色に彩られている。

社殿の右手にも神明造の社殿。
本社の旧本殿(仮殿)を移設したものになっている。

江戸時代の隆盛を偲ぶ石灯籠の数々

参道には数々の石灯籠が置かれている。
6基は墨田区登録有形文化財。
宝永元年(1704)に奉納された石灯籠は旗本・本多正永の奉納。
宝永二年(1705)に奉納された石灯籠は、前橋藩主・酒井忠挙の奉納。
寛保元年(1741)に奉納された石灯籠は、松平甲斐守吉里の室・源頼子による寄進。
他にも力石もあったりと、江戸時代の当社が隆盛を誇り、大名や大奥などから篤い崇敬を受けていた時代を偲ぶ。

参道右手に御神木の銀杏。
江戸中一の紅葉名所と呼ばれた面影はないが、今も銀杏や紅葉などが美しい。

東京スカイツリーを綺麗に望める境内

往年の紅葉名所の面影はないものの現在は東京スカイツリーを望める穴場スポット。
つつじと社殿と東京スカイツリー。
石灯籠と共に。
下町ならではの光景。

当社の歴史が伝わる御朱印・天狗の羽根団扇印も

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

御朱印には「千栄秋葉大権現 千代世稲荷大明神」の朱印で、秋葉大権現と千代世稲荷が合祀された歴史を伝える。
右下には秋葉信仰らしい天狗の羽根団扇。

所感

火伏せの神として崇敬を集めた当社。
古くは稲荷社として創建し小祠であったと云う。
江戸時代に秋葉大権現が合祀され、中興されてから隆盛を極めた。
諸大名や大奥、庶民からの篤い崇敬があっただけでなく、「江戸中一の紅葉の名所」と呼ばれる程の景勝地として賑わい、門前には川魚を出す料理屋が軒を連ねた程。
明治以降はそうした姿が薄れ、関東大震災・東京大空襲の被害によって、今ではその面影は殆どないが、それでも古い石灯籠などから当時を偲ぶ。
そうした石灯籠と共に現代の下町の象徴でもある東京スカイツリーを楽しめる境内は魅力的。
当地の歴史と信仰を伝える良い神社である。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

参拝情報

参拝日:2024/05/24(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2018/10/12(御朱印拝受)

Google Maps

コメント

タイトルとURLをコピーしました