池袋氷川神社 / 東京都豊島区

豊島区

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概要

旧池袋村鎮守の氷川さま

東京都豊島区池袋本町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧池袋村の鎮守。
現在の池袋駅周辺の一部や北側の池袋本町などを氏子地域とする。
正式には「氷川神社」であるが、他との区別のため「池袋氷川神社」とさせて頂く。
境内には立派な富士塚があり、周辺の富士講の拠点だった歴史を有する。
現在も7月1日と7月第1日曜のお山開きには登拝が可能となっている。

神社情報

池袋氷川神社(いけぶくろひかわじんじゃ)

御祭神:建速須佐之男命
相殿神:高皇産霊神・天照大御神・保食神・木花咲耶姫命・応神天皇・菅原道真命・日本武尊
社格等:村社
例大祭:9月中旬の土・日曜
所在地:東京都豊島区池袋本町3-14-1
最寄駅:下板橋駅・北池袋駅・板橋駅
公式サイト:https://ikebukurohikawa.org/

御由緒

 建速須佐之男命を主神としておまつりし、古い時代から今日にいたるまで、池袋村の鎮守、氏神さまとしてこの土地に住む代々の人々の守り神として崇敬されてきました。
 埼玉県大宮市鎮座の氷川神社(武蔵国一之宮、平安時代の延喜式神名帳所載の官幣大社)から分かれた神社とも言われています。
 池袋の名は、今から四百三十年前の室町時代永禄二年(西暦1559年)の「小田原衆所領役帳」に「武州豊島郡池袋村」として書かれ当内の長崎、菅面(巣鴨)、駒込、雑司谷、高田とともに当時すでに村が形成されていたことが記録されています。
 天保元年(1830年)の「新編武蔵風土記稿」の池袋村の条に「氷川社、村ノ鎮守」の記述があります。
 昭和の大戦に際して、東京大空襲の災禍にあいましたが、氏子中の一致協力により戦後の混乱下にもかかわらず御復興を成し遂げました。
 現在の御社殿は、昭和四十年の御造営氏子総奉賛事業として竣功した戦後二度目の建築です。
 当神社の境内から、およそ三千五百年前の縄文時代後期に使用されたと推定される土器片が発掘採集されています。また明治時代に境内から谷瑞川にいたる付近一帯から発見された貝塚は「池袋村貝塚」として知られ、曲玉、菅玉、土偶なども出土しています。この土地で生活した古代人の様子がうかがえますが、これは豊島区歴史年表の最初の項目を記すものです。(境内の掲示より)

歴史考察

創建年代は不詳・氷川信仰の神社として創建

社伝によると、創建年代は不詳。
武蔵国一之宮の「武蔵一宮氷川神社」から勧請されたと云う。

一説では天正年間(1573年-1593年)に創建とも伝わる。
氷川信仰(ひかわしんこう)
武蔵国一之宮とされる「武蔵一宮氷川神社」(埼玉県さいたま市大宮区)を総本社とし、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を御祭神とする信仰。
その数200社以上と言われているが、全国的に見ると東京・埼玉といった旧武蔵国以外ではほぼ見ることができない信仰なのが特徴。
様々な側面を持つが、開拓の神(出雲族が開拓したため出雲の神・素盞鳴尊が祀られている)として信仰を集める事が多かった。
武蔵一宮氷川神社 / 埼玉県さいたま市
武蔵国一之宮。氷川神社総本社。氷川の由来・大宮の地名由来。埼玉や東京に点在する氷川信仰。見沼の水神を祀る太古の信仰。出雲族の移住と出雲の神。明治天皇が関東の神社で最初に行幸。約2kmの氷川参道。国費で改築・楼門や社殿。限定御朱印。御朱印帳。

戦国時代には成立していた池袋村・池袋の地名由来

当地は古くから「池袋村」と呼ばれていた一画。
永禄二年(1559)の『小田原衆所領役帳』に「武州豊島郡池袋村」の名を見る事ができ、既に村として成立していた事が窺える。

当社周辺には古代から人の定住があったようで、当社境内から縄文時代後期の土器片が発掘採集されている。

池袋の地名由来は諸説ある。

池袋の地名由来
・現在の池袋駅西口のホテルメトロポリタン一帯(現・西池袋1丁目)にあった袋型の池が袋池(丸池)と呼ばれていたため、これが由来とする説。
※こちらの説が広く知られるが、この一帯はかつて池袋村ではなく雑司ヶ谷村であったため異論もある。
・「袋」には「川と川が合流しているところ」という意味があるため、池袋村内を流れていた川が合流している、旧池袋村北東部付近(現・池袋本町4丁目)を池袋と呼んだと云う説。
※池袋村の中心であった当地周辺にあたるので筆者としてはこちらの説を推したい。
現在は池袋駅周辺が池袋の中心地であるが、かつて池袋村と云うと池袋駅より北側、当社を中心とした現在の「池袋本町」周辺が中心であった。本町と付く事からも当社周辺が本村だった事が分かる。

当社はそうした古い地名の池袋の鎮守として創建された。
当社の創建を天正年間(1573年-1593年)とすると、村が開拓された後に鎮守として創建されたと見られる。

豊臣秀吉もしくは徳川家康が鷹狩りの際、当社で休憩したという伝承も残る。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(池袋村)
氷川社
村鎮守。重林寺持。
末社。第六天。稲荷。十羅刹女。

池袋村の「氷川社」と記されているのが当社。
「村鎮守」とあるように、池袋村の鎮守だった事が分かる。
当時は末社として第六天・稲荷・十羅刹女が祀られていた。

十羅刹女(じゅうらせつにょ)
仏教の天部における10人の女性の鬼神の事を云う。
神仏習合の中でスサノオの末娘とされることもあり、スサノオを祀る氷川信仰の当社と繋がりも深かったのかもしれない。

別当寺は「重林寺」が担っていた。

重林寺(じゅうりんじ)
当社の南側、現在の豊島区池袋本町2丁目にある真言宗豊山派寺院。
明王山重林寺と号し「不動院」と称する。
現在は、豊島八十八ヶ所霊場の13番の札所を担う。

縄文時代の遺跡や貝塚の発見・戦後の再建

明治になり神仏分離。
当社は池袋村の鎮守として村社に列した。

明治十七年(1884)、板橋大火で社殿を類焼。
その後、氏子崇敬者の尽力によって再建している。

板橋大火は板橋宿一帯を焼き尽くした大火。

明治十八年(1885)、当社の裏手から谷端川に至る付近一帯より貝塚が発見。
さらに勾玉や土偶なども発掘されている。

氷川神社裏貝塚(ひかわじんじゃうらかいづか)
かつては「池袋村貝塚」として知られ、東京でも著名な遺跡の1つだった。
現在の豊島区歴史年表の最初として記録される重要な発見であった。
縄文時代中期-晩期(約4000-3000年前)の土器や石器が発見されている。
豊島区№1遺跡「氷川神社裏貝塚」 | toshima-iseki.org
豊島区№1遺跡「氷川神社裏貝塚」   氷川神社裏貝塚は、池袋本町三丁目にある遺跡です。海から遠く離れた豊島区に貝塚があった、というと意外な気もしますが、かつて大正年間にこの貝塚で縄文土器を採集していた地元の稲垣喜平・義松さん親子(故人)のお...

明治二十二年(1889)、市制町村制施行によって、巣鴨村の一部・池袋村・新田堀之内村・堀之内村飛地・長崎村飛地・中丸村飛地が合併して巣鴨村が成立。
当地は巣鴨村池袋とされ、当社はその一帯の鎮守を担った。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当社の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔も変わらない。
巣鴨村と云う地名と、当社周辺は池袋本村と云う地名を見る事ができる。

池袋駅周辺の発展は昭和に入ってから
当社周辺が「池袋本村」と称されていたように、当時は池袋と云うと当社周辺を指した。
明治三十六年(1903)に池袋駅が開業するもの、明治の古地図を見て分かる通り、当時は駅周辺には何もないのどかな一帯であった事が分かる。
昭和に入って1930年代に「菊屋デパート」(後の西武百貨店)が池袋駅に開店、東京市電(後の都電)が池袋駅前に乗り入れるようになってから、駅周辺は賑わいを見せるようになっていく。

明治四十五年(1912)、境内に富士塚が築かれる。
これが現存している富士塚で通称「池袋富士塚」。

昭和七年(1932)、豊島区が成立。
旧池袋村は、池袋1-8丁目となる。

戦後の住居表示で池袋1-4、上池袋2-4、池袋本町1-4、西池袋1-5、南池袋1、目白3-4などとなり、現在もその一部が当社の氏子地域となっている。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿を焼失。

戦後になり氏子中の一致協力により復興を遂げた。

昭和四十年(1965)、現在の社殿を竣工。
平成二十八年(2016)、平成の改修事業が行われ社殿の改修など境内整備が行われた。
現在の美しい朱色の社殿は改修後のもの。(それ以前は朱色ではなかった)

令和五年(2023)、池袋富士塚の修復事業を竣工。

その後も境内整備が行われ現在に至る。

境内案内

池袋本町の住宅街に鎮座・桜並木の参道

最寄駅の下板橋駅からは徒歩5分ほどの距離に鎮座。
池袋本町交番の右手が当社の表参道入口。
現在は住宅街となっている地だが、古くはこの池袋本町が池袋村の中心であった。
一之鳥居は昭和四十年(1965)に建立されたもので、社殿の造営と同じ年。

一之鳥居を潜ると住宅街を通る参道。
参道に植えられているのはいずれもソメイヨシノで、桜の時期になるとちょっとした桜の名所となる。

二之鳥居・ユニークな狛犬・開門は6時-17時まで

桜並木の参道の先に二之鳥居。
大正四年(1915)に建立された鳥居が現存。

その手前に一対の狛犬。
こちらも社殿や一之鳥居同様の昭和四十年(1965)に奉納されたもの。
戦後の狛犬としては珍しいかなり個性的な造形。
どこか人面っぽさすら残るユニークな造形で、子獅子はお尻を高く突き上げている。

境内の開門時間
二之鳥居より先は門が設けられている。
開門時間は6時-17時までとの事なので、参拝する際は時間内に参拝したい。

二之鳥居を潜り右手に手水舎。
水が張られ身を清める事ができる。
その手前に百度石。

戦後に再建された社殿・平成の改修事業

参道のやや右奥に美しい社殿。
旧社殿は東京大空襲にて焼失。
戦後すぐに復興を果たし、昭和四十年(1965)には現在の社殿が建立。
平成二十八年(2016)に平成の改修事業が行われ社殿の改修・塗り替えが行われた。
現在は朱色と黒を基調とし、氏子町会の提灯が並ぶ美しい社殿となっている。
鉄筋コンクリート造による社殿が大切に改修されつつ現存。

富士講の拠点となった池袋富士塚・7月1日と7月第1日曜に登拝可能

社殿の左手には立派な富士塚。
池袋富士塚と呼ばれる富士塚で高さは5mほど。
明治四十五年(1912)に築かれたものが現存し、豊島区指定史跡。
地域の富士講の拠点となり崇敬を集めた。
富士塚には富士講による多くの石碑。
山頂には浅間神社の祠が設けられている。
豊島区指定史跡となっていて2024年に修復事業を竣工している。

お山開きの日のみ登拝可能
普段は登拝は不可。
7月1日と7月第1日曜のお山開きの日のみ登拝が可能となっている。
富士塚
富士講(ふじこう)
江戸時代に成立した民衆信仰で、オガミ(拝み)と富士登山(富士詣)を行う講社。
地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、特に江戸を中心とした関東で流行したため、各地に数多くの講社があり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と云われる程であった。

境内社と明治の狛犬・境内には土俵も

社殿の右手に境内社。
応神天皇・菅原道真命・日本武尊を御祭神としている。
両脇にある一対の狛犬は明治三十九年(1906)奉納。
どこか柔和な表情をした柔らかい狛犬。

参道の左手に土俵。
普段は保護されていてその姿を見る事ができないが中には土俵。

この土俵では7月頃に池袋本町宮元青年会主催で青少年相撲大会が行われる。

その左手に古い神輿庫。
大谷石製の石造り神輿庫が並ぶ。

池袋氷川神社と池袋富士浅間神社の御朱印・御朱印帳

御朱印は社務所にて。
書き置きのみとなるが丁寧に対応して頂いた。

御朱印は「氷川神社」の朱印と三つ巴紋の社紋。
2019年に頂いたものは「奉祝天皇陛下御即位」の墨書きも。
2024年4月に頂いた端午の節句御朱印と池袋富士浅間神社の御朱印。

祭事などに応じて限定御朱印を用意する事あり。

オリジナル御朱印帳も用意。
富士山柄と三つ巴紋の御朱印帳で、池袋氷川神社・池袋富士浅間神社の御朱印入り。

所感

池袋村の鎮守として崇敬を集めた当社。
当地には古くから人の定住があり、当社の境内から裏手にかけては縄文時代の遺跡が発掘。
そうした地に神社が建立され、村の鎮守として信仰された事が窺える。
現在は池袋と云うと池袋駅を中心に大変発展した副都心を浮かべるが、かつて池袋村と云うと当地を中心とした地域で、明治以降も当地が池袋本村と呼ばれていた事からも分かる。
当社はそうした池袋村の鎮守であり、池袋の発展を支えた神社と云えるだろう。
境内にある池袋富士塚はとても立派で素晴らしい。
平成の改修事業が行われて以降は社殿も美しく整備され、境内の雰囲気も明るくなったように思う。
池袋村の歴史を伝える良い神社である。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※季節や祭事に応じて限定御朱印あり。
※「池袋富士浅間神社」の御朱印もあり。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:2,500円(2社の御朱印代込)
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
富士山柄と三つ巴紋の御朱印帳。
「池袋氷川神社」「池袋富士浅間神社」の御朱印入り。

※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。

参拝情報

参拝日:2024/04/25(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2019/08/18(御朱印拝受)

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