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概要
徳持村鎮守の八幡さま
東京都大田区池上に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧徳持村の鎮守。
古くは現在の池上7丁目に「八幡神社」として創建。
明治に池上競馬場の建設のため当地へ遷座、「稲荷神社」を合祀、旧地名から「徳持神社」と称した。
現在は多くの神社の本務社を担う地域の中核神社の一社となっている。
神社情報
徳持神社(とくもちじんじゃ)
御祭神:誉田別之大神(応神天皇)
相殿神:宇迦之御魂大神
社格等:─
例大祭:7月20日前後の土・日曜
所在地:東京都大田区池上3-38-17
最寄駅:池上駅
公式サイト:http://tokumochi-jinja.tokyo-jinjacho.or.jp/
御由緒
当社の創建は、建長年間(1249〜1255)に、豊前(現在の大分県)の宇佐神宮より御分霊を勧請したと伝えられています。荏原郡池上村大字徳持の住民の守護神として崇敬され、御旗山八幡宮とも称されました。もともとは、徳持の南地区(現池上7丁目曹禅寺付近)に鎮座しておりましたが、明治三十九年(1906)に、池上競馬場(当時日本一の規模)設置のため、現在地(旧大字徳持809番地)に移転しました。
明治四十一年五月に再建されると、同年九月十五日に徳持上宿に鎮座しておりました稲荷神社を合祀し、八幡神社の社名を徳持神社に改称いたしました。
大東亜戦争中、惜しくも社殿が空襲により失われたため、焼失を免れた境内末社を本殿跡に移転し、昭和二十三年(1948)4月、徳持神社奉賛会を設立。二十四年八月に仮社殿(木造十三坪)を建設し、二十九年八月には社務所を建設、同年境内を整備・植樹しました。
昭和三十四年五月、社殿復興のため、徳持神社復興会を設立、三十九年二月起工式、同年八月に上棟祭、四十年八月に正遷座祭が斎行され、昭和四十一年九月三日、竣工奉祝祭を行い、社殿が復興されました。
創建から約750年、今も変わらず池上徳持の地に鎮座し、人々の暮らしをお護りいただいております。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
鎌倉時代に宇佐神宮より勧請・御旗山八幡宮と称される
社伝によると、建長年間(1249年-1255年)に「宇佐神宮」より勧請されたと伝わる。
創建当時は現在地よりも南側、現・池上7丁目「曹禅寺」付近に鎮座していた。
大分県宇佐市に鎮座する神社。
豊前国一之宮で、全国にある八幡信仰の神社の総本社。
古くから「宇佐八幡」と呼ばれ崇敬を集めている。
当地には古くから人の定住があり徳持村という村が成立。
その徳持村の鎮守として当社が創建されたと云う。
古くは「徳乗院(御旗山真勝寺)」という寺院(現・廃寺)があり、これが当社の別当寺を担った。
そのため、当社は「御旗山八幡宮」とも称され、以後地域からの崇敬を集めた。
新編武蔵風土記稿に記された八幡社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(徳持村)
八幡社
社地一段四畝十四歩・免田二十二歩。小名本村辻子徳乗院の地続きにあり村の鎮守なり。勧請の年歴詳ならず。本社一間半四方、拝殿二間四方。前に鳥居あり両柱の間八尺。祭礼八月十五日。徳乗院の持。
末社。天神社。本社の右にあり、小祠。稲荷社。天神祠の並にあり、是も小祠、正一位伏見稲荷と号す。
「八幡社」であった事と、「村の鎮守なり」とあるように徳持村の鎮守だった事が記されている。
「徳乗院」が別当寺で地続きに鎮座していたとあり、神仏習合の中で地域から信仰を集めていたのだろう。
規模は現在よりやや小さい事が窺える。
境内末社は天神社と稲荷社となっている。
明治に池上競馬場建設のため遷座・徳持神社へ改称
明治になり別当寺と分離。
旧別当寺の「徳乗院」はこの頃に廃寺。
当社は無格社であった。
明治二十二年(1889)、徳持村・下池上村・桐ヶ谷村・久ヶ原村・道々橋村・堤方村・市野原村・雪ヶ谷村・池上村・石川村の10村が合併し、池上村が成立。
当地は荏原郡池上村徳持と呼ばれるようになり、その後は池上町徳持となっていく。
明治三十九年(1906)、「池上競馬場」建設のため遷座を余儀なくされてしまう。
明治三十九年(1906)から明治四十三年(1910)まで池上村の南方にあった1周1マイルの競馬場。
日本人の手による初の馬券が発売され、所有者・運営者は東京競馬会。
明治四十三年(1910)に東京競馬会を含む東京周辺の競馬4団体が合同で目黒競馬場に移る事となり池上競馬場は僅か5年で廃止された。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが現在の当社の鎮座地で、まだ当社が地図上には記載されていない。
緑円で囲った箇所が「池上競馬場」で、元々はこのあたりに当社は鎮座していた。
当社の現鎮座地はかつて「千本松」と呼ばれていた地域である事も窺える。
橙円で囲った鳥居の地図記号があるのだが、これが後に当社に合祀される「稲荷神社」。
明治四十一年(1908)、かつて千本松と呼ばれていた現在地に遷座し再建。
同年、上述の「稲荷神社」を合祀。
その際にこれまでの「八幡神社」から現在の「徳持神社」に改称している。
昭和二十年(1945)、東京大空によって社殿が焼失。
昭和二十四年(1949)、仮社殿を建設。
昭和二十九年(1954)、社務所を建設し境内を整備。
昭和三十四年(1959)、社殿復興のための徳持神社復興会を設立。
昭和三十九年(1964)、復興工事の起工。
昭和四十一年(1966)、社殿が竣工され再建を果たしている。
その後も境内整備が進み現在に至る。
昭和四十二年(1967)、順次行われていた住居表示によって池上徳持町が廃止。
現在は周辺の多くの神社の本務社となり、地域の中核神社となっている。
境内案内
池上通りに面して鎮座
最寄り駅の池上駅から徒歩で5分ほどの距離。
池上通り沿いに鎮座しているので分かりやすい。
鳥居前に綺麗に際ていたツツジ。
古くは現在よりやや南側の池上7丁目に鎮座していたが明治四十一年(1908)に当地へ遷座。
元々は「八幡神社」であったが旧徳持村の鎮守として「徳持神社」に社号を改めた。
綺麗に整備された境内・立派な手水舎
鳥居を潜ると緑が多めの境内。
境内の一部は駐車場として利用されているが中々に緑が多く綺麗に整備された境内。
藤棚なども整備されている。
参道の右手に手水舎。
立派な水盤が置かれている。
この大きさの水盤はあまり見かけないため、当社への崇敬の篤さが伝わる。
戦後に再建された鉄筋コンクリート造社殿
参道を進むと正面に社殿。
旧社殿は東京大空襲で焼失。
現在の社殿は昭和四十一年(1966)に再建されたもの。
銅葺・鉄筋コンクリート造。
状態もよく綺麗に維持されている。
朱塗りで鮮やかな社殿。
拝殿前のユニークな健康歩道・健康長寿の御神徳
拝殿の前には「健康歩道」という一画が整備。
健康・長寿に御神徳があると云う。
当社の名物にもなっている一画。
左手にある長寿石。
右手にある健康石の間を8の字を描いて素足で歩くとよいと云う。
地面には那智黒石が敷き詰められており、いわゆる足つぼマッサージのようになっている。
中々ユニークな試みで面白い。
境内社の徳持田中稲荷神社など
境内社は参道の右手に徳持田中稲荷神社。
社殿が再建された昭和四十一年(1966)にこちらも再建。
朱色が鮮やかで『新編武蔵風土記稿』に記されていた境内末社であろう。
神楽殿は社務所がある建物に併設されるように置かれている。
この建物の1Fが社務所。
駐車場側に周り社殿の左手にひっそりと狛犬。
奉納年代は不明ながら造形からして江戸後期から明治頃であろう。
御朱印は兼務社5社含め計6社を頂ける
社務所窓に掲示があるように当社の御朱印の他、兼務社の御朱印も用意している。
兼務社の「久が原西部八幡神社」「久が原東部八幡神社」「多摩川諏訪神社」「東八幡神社」「十寄神社」の御朱印も頂けるので希望に応じてお願いしてみるのも良いだろう。
所感
元は八幡神社として創建された徳持村の鎮守。
明治に池上競馬場の建設の影響で遷座再建、戦中の戦火による焼失、戦後の再建など、激動の時代の中こうして今も綺麗に整備された境内からは、多くの氏子崇敬者からの崇敬や再建への尽力を窺う事ができる。
現在は比較的多くの兼務社を抱えこの一帯の中核神社の一社となっている。
歴史ある「徳持」の地名は公式では消失してしまっているが、個人的には「徳持」という地名は縁起よく聞こえて好みであり、当社が旧地名を冠した「徳持神社」を称する事で、今も徳持という旧地名が保存されている事が喜ばしい。
旧徳持村の歴史を伝える良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。
※兼務社の「久が原西部八幡神社」「久が原東部八幡神社」「多摩川諏訪神社」「東八幡神社」「十寄神社」の御朱印も頂ける。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
参拝情報
参拝日:2024/05/11(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/05/29(御朱印拝受)
参拝日:2015/11/30(御朱印拝受)
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