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概要
市川大野に鎮座・平将門公を合祀した神社
千葉県市川市大野町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、大野町(旧大柏村)の鎮守。
平安時代に香取信仰の経津大神を御祭神にして創建。
市川大野の地に残る平将門伝説から将門公を合祀。
氏子には今も将門公を篤く信仰している方も多く毎月のお籠りや禁忌などを守っている。
神社情報
駒形大神社(こまがだだいじんじゃ)
御祭神:経津主神・平将門公
社格等:村社
例大祭:10月20日(大祭)・1月20日(にらめっこおびしゃ)
所在地:千葉県市川市大野町4-2757
最寄駅:市川大野駅
公式サイト:─
御由緒
駒形大神社は経津主神を主神に、大野の地域に伝説として残っている。平将門を合祀した神社です。
この、駒形大神社には、古くから五穀豊穣と村内安全を祈願する御奉謝の行事が伝えられています。かつては一月十九日、当番宿に集まった氏子たちによって、神社に飾る注連縄がつくられ、次に三臼の餅がつかれました。
最初の一臼は供物の下に敷く、経五寸(15cm)ばかりの煎餅をつくり、二臼目は烏帽子型兜・擬宝珠型兜・皿頭型兜の型をした供物をつくります。三臼目の餅は集まった氏子たちが、互いに投げあう餅ぶつけに使います。餅に当たるとその歳の厄を払うといい、またこの餅は、風邪除けに効き目があるともいわれています。これで一日目の行事は終わりです。
二十日は前日用意した供物・注連縄・酒肴等を捧げて神社に参拝、太鼓を打ち鳴らして題目を唱え、終わって御神酒を頂き、当番宿に引きあげます。このあと、宿では二組に分かれて行事役を中央に、両組から一人ずつ出て向い合い、互いににらみ合って行事役の合図をまち酒を呑みあいます。このとき笑った方が負けとなり、さらに大盃につがれた酒を呑むことになります。こうした行事のあるところから、俗に「にらめっこおびしゃ」の異名が付けられています。
これらの行事は安政六年(1859)の記録を、明治十一年(1878)に書き写したものによって踏襲されてきましたが、太平洋戦争後は一月二十日の一日で、総ての行事を済ませるように改められ、毎年、神社の社務所で行われています。この行事は昭和四十年、市の民俗文化財に指定されています。(境内の掲示より)
歴史考察
昭和後期に氏子総代が編纂した資料より歴史を紐解く
創建年代は不詳。
創建についてはかなり不詳な点が多い。
昭和五十五年(1980)に編纂された資料。
大変詳しい記録が書かれており貴重。(詳細画像:X(旧Twitter)
資料によると、今から2,000年以上昔より土着の神がお祀りされてたとある。
古代に住民の守護神として小さな祠があったとされる。
平安時代に平良将(平将門の実父)が香取神宮より経津主神を勧請
平安時代、平良将(平将門の実父)が「香取神宮」より経津主神を勧請。
元々土着の神が祀られていた当地に、東国開拓の神であり下総国一之宮の「香取神宮」を勧請し、当時の地名から「駒形明神」と称された。
平将門の実父。
昌泰元年(898年)に父の平高望が上総介に任じられた際に共に坂東に下向。
その後、下総国・豊田郡(現在の常総市・下妻市の一部)を拠点にし未墾地を開発。
鎮守府将軍(陸奥国に置かれた軍政府の長官)を勤め坂東平氏の勢力を拡大した人物。
下総国の一之宮であり、東国随一の古社。
日本神話で大国主(おおくにぬし)の国譲りの際に活躍する経津主神(ふつぬしのかみ)を祭神としており、全国に約400社ある「香取神社」の総本社。
古くから茨城県鹿嶋市の「鹿島神宮」とは深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在。
古来、朝廷からの崇敬が大変篤く、東国に置いて大変に重要な役割を果たしてきた。
当時は下総国の国府(国司が政務を執る施設が置かれた都市)が現在の市川市国府台にあったため、そこからも比較的近い当地に一之宮であった「香取神宮」の神を勧請したのは自然な事であろう。
市川大野に伝わる平将門伝説
その後、平将門が当地に出城を設ける。
将門は農業生産の発達を指導し、村民からの信仰も高まったと記されている。
平安時代中期の関東の豪族・桓武天皇の五世子孫。
下総国・常陸国で伯父の平国香・平良兼ら一族と将門との争いが発生し、一族の争いが、やがては関東諸国を巻き込む争いへ発展する事になり「平将門の乱」が勃発。
争いの延長でやむを得ず将門は国府を襲撃して印綬を没収、関東一円を手中に収め京の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇(しんのう)」を自称し、独自に岩井(現・茨城県坂東市)に政庁を置いて東国(坂東)の独立を標榜した。
朝廷は将門を朝敵とみなし討伐軍を結成、天慶三年(940)2月14日、藤原秀郷・平貞盛らとの戦いで、飛んできた矢が将門の額に命中し討死。
将門が設けた出城は大野城と呼ばれた。
古くから市川大野近くの台地一帯を「城山」と呼び、昔の字名には御門・戸ノ内・殿台・馬寄場のように中世城郭の形跡を偲ぶ地名が残されていた。
平将門が築いたとする出城。
現在の市立第五中学校を中心とした台地一帯。
中学校の敷地の北端に小さな石の祠があり「将門さま」と呼び今も供養を続けている。
また近くに鎮座する「天満宮」は将門が創建したと云う。
※但し大野城については将門の時代の遺構が見つかっていないため実際は中世の城と推測されている。
このように市川大野の地には歴史的な真偽・支配域などは定かではないものの数多くの将門伝説が残る。
古くから将門公に対して篤い信仰があった地であった事は間違いない。
江戸時代に将門公を合祀・駒形大明神へ
建治三年(1277)、日蓮聖人の大檀越曽谷教信が「法蓮寺」を開山。
当社の別当寺となり崇敬を集めたと云う。
寛永年間(1624年-1648年)、別当寺「法蓮寺」の住職が、将門公の霊夢を見たため当社に将門公を合祀し「駒形大明神」と称した。
法蓮寺の住職の枕元に馬に乗った3人の武者が現れた。
彼らを祀れば村の守護神となって永遠に守ると言い残し山門を抜けて消えた。
住職は翌朝境内で蹄の跡を見つけたため追って行くと当社のある雑木林で消えていたと云う。
住職はこれらの話を村人たちに話すとこれは平将門公に間違いないとして、当社に村の守護神として合祀する事にした。
その後、二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光の時代に、検地が行われ、境内地を住民に払い下げ氏子にて管理するようになったと云う。
氏子達は境内地を払い下げてもらった事を非常に喜んだとされ、これは将門公の御神徳によるものと深く感謝するようになり、将門公への崇敬はますます増していったと記録されている。
文政十年(1827)、参道改修の記録も残る。
明治以降になり御祭神不明に・その後の歩み
明治になり神仏分離。
この際に「駒形神社」へ改称、御祭神が不明となる。
朝廷に弓を引いた平将門は朝敵であるとして明治政府が問題視。
古くから将門公を祀っていた「神田明神」では将門公を御祭神から外す事になり、将門公の首を祀っていた「築土神社」でも将門公を相殿に格下げする措置を行っている。
当社も御祭神を不明とする事にして将門公を御祭神からお護りしたと推測できる。
明治三十六年(1903)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、現在も変わらない。
「駒形神社」と記されているように当地の目印にもなる神社であった。
青円で囲ったように大柏村、駒形、殿台、大野、御門、迎米といった古い地名も残っていて、こういった地名からも当地周辺に城があった事がよく伝わる。
明治四十一年(1908)、殿台に鎮座していた「御霊神社」が当社境内に遷される。
大正九年(1920)、大柏村の村社に列する。
現在の「駒形大神社」に改称。
大正十年(1921)、拝殿を造営。
こちらは2014年8月撮影の旧社殿。
平成二年(1990)、境内に新たに「殿台天満宮」の社殿を造営。
平成二十七年(2015)、拝殿を改築。
10月4日に新拝殿の落慶式が斎行された。
境内案内
市川大野の北東の台地に鎮座
最寄り駅の市川大野駅からは徒歩15分ほどの距離。
現在ではかなり奥まった一帯の台地に鎮座。
南に面して鳥居。
扁額には「駒形大神社」の文字。
社号碑には「大柏村社 駒形大神社」とあり村社に列していた事を伝える。
緑に囲まれた石段の参道
鳥居を潜ると緑に囲まれた参道。
現在は神職の常駐がない兼務社だが氏子によって綺麗に維持管理されている。
参道右手に境内案内図。
このような図を見ても実に立派な境内なのが分かる。
参道は比較的長い石段が続く。
石段の先に二之鳥居。
その右手に手水舎。
無人社ながら水が綺麗に張られていて、頻繁に氏子が管理に訪れている。
平成に改築された拝殿・彫刻が見事な本殿
石段を上り切ると正面に社殿。
社殿は大正十年(1921)に造営。
平成二十七年(2015)に拝殿を改修し新しくなった。
改修当初は真新しかった木材も現在は中々年季が入り馴染んできている。
本殿には見事な彫刻。
細かな造形の龍と獅子。
鎌倉景政を祀る御霊神社
社殿の左手に境内社の御霊神社。
御祭神は鎌倉景政と伝わる。
古くは殿台(現・大野4丁目)西部に鎮座していた神社だが、明治四十一年(1908)に当社境内に遷座。
桓武平氏の流れを汲む平安時代後期の武将。
居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ヶ浜とも伝わる。
『歌舞伎十八番之内 暫』の主役としても有名。
神奈川県の鎌倉や横浜に多くある「御霊神社」の御祭神は鎌倉景政とされる事が多い。
殿台天満宮などの境内社
石段途中、手水舎の向かい側に殿台天満宮。
江戸時代中期に当地に祀られた天神様。
平成二年(1990)に昭和から平成への御大典事業の一環として社殿を新しくし京都の「北野天満宮」より新たに御分霊を迎え「天神様」として親しまれている。
石段を上った右手には多くの境内社が鎮座する一画。
古くから当地に祀られていた多くの神々。
根本明神・崇随礼神・姫宮大神社・大権現。
山王神社・稲荷大明神・雷神宮。
江戸時代の灯籠・明治奉納の狛犬
拝殿前には古い石灯籠。
嘉永二年(1849)奉納。
江戸時代の石造物がこうして残っている。
参道に明治二十七年(1894)奉納の一対の狛犬。
戯れるような子を抱く阿形。
吽形も子持ちでこちらは抑えるような形。
1月20日に行われる奇祭・にらめっこおびしゃ
当社の例祭は10月20日となっているが、1月20日に行われる「にらめっこおびしゃ」が奇祭として知られている。
案内板にも記されている御奉謝(おびしゃ)。
行司を中に2人ずつ相対してにらみ合い、笑うと両者が大盃の酒を飲まなければならない。
にらめっこをして無病息災を願う独特な御奉謝。
市川市の指定文化財となっている。
平将門公を信仰する氏子に伝わる禁忌
平将門公を合祀している当社では今も氏子による将門公への崇敬が篤い。
年間行事の箇所に「毎月末 おこもり」とあり、これは元々は将門公の御命日である2月14日から毎月14日に行われていたもので、今もお籠りの風習が残っている。
更に「神田明神」など将門公を崇敬する氏子が守る共通の禁忌も伝わっている。
将門公を崇敬する当社を含めた一部氏子には、「成田山新勝寺へ参詣してはいけない」という禁忌が代々伝わっている。
これは成田山「新勝寺」は、平将門の乱鎮圧のために建立されたという起源をもつ事から。
子供の頃からきつく言い伝えられて今も守る方が多いと云う。
御朱印は正月三が日やにらめっこおびしゃ限定
御朱印は授与所にて。
普段はこのように無人で社務所も閉まっている。
御朱印は基本的に氏子が総出のタイミング。
元日-3日までの正月三が日、1月20日のにらめっこおびしゃ、10月20日の大祭のみ。
本務社は「葛飾八幡宮」だがそちらでは御朱印の授与を行っていない。
御朱印は別紙での授与。
中央に「駒形大神社」の印、左下にも印が押印されている。
所感
市川大野駅からはやや距離があるが奥まった一画に立派な境内を有する当社。
古くは土着の信仰、その後の香取信仰を基礎としながらも、平将門公を合祀した事により将門信仰の神社として知られるようになっている。
市川大野の北部は古くから将門伝説が色々と残り将門信仰の篤い土地。
現在は「葛飾八幡宮」の兼務社という扱いで神職は常駐していないのだが、現在も毎日氏子による清掃などの管理が行われ、この地の鎮守として大切にされているのが伝わってくる。
江戸時代の頃より、村人に境内地を払い下げられ氏子によって管理されていた事を、今も脈々と受け継いでいるのだろう。
「駒形大神社」と「大神社」の社号を付けた事からも氏子の思いが伝わる。
近くには「市川市動植物園」や24時間営業のテーマパーク「大慶園」といった施設もあるため、合わせて参拝に訪れてみるのもよいだろう。
将門伝説を伝える地の謎多き信仰を伝える良い鎮守である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:300円
授与所にて。
※正月三が日・1月20日のにらめっこおびしゃ・10月20日の大祭など氏子が総出のタイミングに限り書き置きを授与。
※本務社は「葛飾八幡宮」だが平時は無人社のため御朱印の授与は行っていない。
参拝情報
参拝日:2024/03/31(ブログ内画像撮影)
参拝日:2024/01/02(御朱印拝受)
参拝日:2014/08/21(ブログ内画像撮影)
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