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概要
田園調布(旧上沼部村)鎮守の八幡さま
東京都大田区田園調布に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧上沼部村(現在の田園調布の一部)の鎮守。
旧下沼部村の鎮守だった「多摩川浅間神社」と共に田園調布の鎮守を担う。
社前にはかつての六郷用水を偲ぶ丸子川が流れている。
現在は神職の常駐はなく「雪ヶ谷八幡神社」の兼務社となっている。
神社情報
田園調布八幡神社(でんえんちょうふはちまんじんじゃ)
御祭神:誉田別命
社格等:村社
例大祭:9月上旬の土・日曜
所在地:東京都大田区田園調布5-30-16
最寄駅:田園調布駅・九品仏駅
公式サイト:https://yukigaya.info/denen/
御由緒
創建
田園調布八幡神社の創建は鎌倉時代の建長年間(西暦1249〜1256)と伝えられる。この時代、鎌倉幕府は執権の北条氏が実権を握り、国内基盤固めを行っていた。各地で武士達はもとより村人達も幕府に忠誠を尽くす意味もあり、源氏の氏神を祀る八幡信仰が盛んで、多くの八幡神社が建てられた。
当時、この村の西側、現在の雙葉学園南側の盆地は篭谷戸(ろうやと…今もそう呼ぶ年配者もいる)と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であり、物資を積んだ舟が盛んに出入りしていた。また、この村の高台部分には東より西へ貫いて鎌倉街道が通り、篭谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一体には多くの鎌倉武士が駐屯し、鎌倉街道の要衝の地となっていた。そして、この八幡神社の地は港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所であった。鎌倉武士はその重要な場所に祠を建て、八幡神社を勧請した。以来、この八幡神社の地は聖地となり、人々に崇められてきた。
中興
天正十八年(西暦1590)小田原北条氏滅亡後、八王子城主、北条氏照の旧臣、落合某がこの村に庵を結び、主家の冥福を祈った。そして、寛永年間(西暦1624〜1644)、落合某の孫、落合弥左衛門らによりこの聖地に新たな社殿が創建され、ご神体が祀られた。
江戸時代、この神社は武蔵国荏原郡世田谷領上沼部村に属し、明治中期の四村合併まで村社であった。寛政四年(西暦1792)には、この村の知行主となった神谷縫之助も氏神とするなど、今日まで常にこの地域の人々の心の拠り所として崇敬されて来たのである。(境内の掲示より)
歴史考察
鎌倉時代に創建・鎌倉武士による八幡信仰
社伝によると、鎌倉時代の建長年間(1249年-1256年)に創建と云う。
当地周辺に駐屯した鎌倉武士によって祠が建立されたと伝わる。
かつて当地周辺は上沼部村と呼ばれ、上沼部村の西側にある盆地には篭谷戸(ろうやと)と呼ばれる入江があり、当時は現在と多摩川の位置や流れも違い、その場所が自然の港として利用されていた。
更に高台部分には鎌倉街道が通り、篭谷戸の港に接続。
鎌倉との行き来には必ず多摩川を渡る必要があったため、物資や人を積んだ舟が盛んに出入りしていたため、篭谷戸の港は鎌倉街道の要衝の地として、多くの鎌倉武士が駐屯していたと云う。
当社の鎮座地は、篭谷戸の港の入口に突き出した台地(現在も高台に鎮座している)であり、舟の出入りを監視できる重要な場所であった。
こうした鎌倉武士が多く駐屯した地の重要な場所であったため、鎌倉武士によってこの地に八幡信仰の祠が建ててられたとされている。
鎌倉幕府が倒幕された後も、聖地として村民たちによって崇敬されていたと云う。
江戸時代に入り上沼部村の鎮守として中興
天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐によって、関東を支配していた後北条氏が滅亡。
同年、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
寛永年間(1624年-1644年)、落合某の孫である落合弥左衛門らにより、村内で聖地とされていた当地に、新たに社殿を造営、御神体が祀られた。
以後、上沼部村(現在の田園調布の一部)の鎮守として崇敬を集めた。
当時の多摩川は良く氾濫・洪水をする河川であり、高台に鎮座していた当社への崇敬が篤かった事は想像に難くない。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(上沼部村)
八幡社
除地五段畝。村の中央にあり。上屋2間四面、中に宮作りの祠を置。坤の方に向へり。神体は束幣にて馬上にのり弓筒を幣せし像なり。長6寸あまり。尤新作にて古像にあらず。此村の鎮守なり。毎年九月十四日祭礼なり。隣村東光院の持。
石華表。幅六尺、鳥居の外に石階あり。六級、七級、又鳥居の内にも六級あり。
末社稲荷社。本社の左にある小祠なり。
上沼部村の「八幡社」として記されているのが当社。
「村の中央にあり」「此村の鎮守なり」とあり、村の中央に位置し鎮守だった事が分かる。
石華表とは石鳥居の事で、鳥居の先に石段が続き当社が今と同様に高台にあった事と、境内末社に稲荷社があった事が記されている。
このように現在とかなり近い規模の境内だった事が推測できる。
明治以降の歩み・明治時代の古地図で見る当地
明治に入り神仏分離。
当社は上沼部村の鎮守として村社に列した。
明治二十二年(1889)、町村制の施行に伴い、上沼部村・嶺村の全域、下沼部村・鵜ノ木村の大部分が合併し、調布村が成立。
当社は荏原郡調布村大字上沼部の鎮守となった。
明治三十三年(1900)、社殿を造営。
この社殿が改修されつつ現存。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、当時も現在も鎮座地は変わらない。
上沼部という地名を見る事ができ、当社はこの一帯の鎮守であった。
当社の北側には篭谷(ろうや)の地名を見る事ができ、これが社伝に伝わる鎌倉武士が駐屯した篭谷戸(ろうやと)と云う入江の名残の地名と云える。
大正時代以降に田園調布が誕生・田園調布の鎮守
大正七年(1918)、渋沢栄一を中心として立ち上げられた「田園都市株式会社」によって、旧上沼部村と旧下沼部村の周辺は「理想的な住宅地である田園都市の開発」が行われる。
幕末から大正時代にかけての武士・官僚・実業家。
第一国立銀行など多くの銀行の設立を指導した他、東京証券取引所、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市(現・東急)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上と云われていている。
この事から「日本資本主義の父」とも称される他、「私利を追わず公益を図る」の理念を貫き通したため、財閥を作らなかった事でも知られる。
2024年度より発行予定の新一万円札の図柄に採用されたことでも注目を集めている。
大正十二年(1923)、田園都市株式会社が開発した当地を「田園都市多摩川台」として分譲を始める事となり、同年には目蒲線が開通し「調布駅」が開業。
大正十五年(1926)、田園都市の意味合いを持たせるために調布駅を「田園調布駅」へ改名。
昭和三年(1928)、町制を施行して調布村は東調布町となる。
昭和四年(1929)改修の古地図を見ると当時の当地周辺の地理関係を確認する事ができる。
(今昔マップ on the webより)
田園調布駅が開業し、地名としても田園調布の名が浸透しつつある時期。
東調布町や上沼部といった地名は残っていた。
昭和七年(1932)、東調布町・大森町・入新井町・馬込町・池上町が合併して大森区が誕生。
これを境に、東調布町(旧上沼部村と旧下沼部村)の一画は田園調布という地名となった。
かつては「上沼部村」「下沼部村」であった地が、明治以後に周辺の村と合併し「調布村(後に東調布町)」となり、都市開発の事業名と駅名から「田園調布」という名で浸透。
大森区が誕生した際に、旧上沼部村と旧下沼部村のエリアは田園調布と云う地名になった。
こうした経緯があるため、上沼部村の鎮守であった当社は、現在も田園調布の一部地域を氏子地域としている。
以後は、日本有数の高級住宅街である田園調布の鎮守として崇敬を集めめ現在に至っている。
境内案内
社前には六郷用水を偲ぶ丸子川
田園調布駅からは徒歩15分の距離にあり、田園調布らしい高級住宅街の一画に鎮座。
昭和十五年(1940)建立の一之鳥居。
その先には境内までの石段が続いている。
一之鳥居の先には小さな橋。
この橋の下には丸子川と呼ばれる川が流れる。
丸子川はかつての六郷用水の一部。
江戸時代以前から江戸時代にかけて完成した用水路。
1597年から14年かけて開削され、建設指揮監督者・小泉次大夫の名を取って次大夫堀(じだゆうぼり)とも呼ばれる。
多摩郡和泉村(現・東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領(現在の狛江市から世田谷区・大田区まで)まで延びた農業用の用水路であった。
明治維新後、さらに戦後に宅地化が進み、大半は1970年代までに埋め立てられている。
かつての六郷用水の殆どは埋め立てられたか、暗渠になっている。
当地の近くでは開渠となっており、今ではほぼ見る事ができない幻の六郷用水の面影を偲ぶ。
田園調布の高台に鎮座・江戸時代の鳥居
丸子川を渡る橋の先に急勾配の石段。
御由緒にあるように古くから高台に鎮座していた当社。
石段を上ると享和二年(1802)建立の二之鳥居が置かれている。
二之鳥居を潜ると右手に手水舎。
普段は無人の兼務社であるが平時は水が出るように管理されている。
吐水口は龍。
明治時代建立の趣のある木造社殿
参道の正面に社殿。
社殿は小さめながら年代を感じ趣がある良い造り。
明治三十三年(1900)建立の社殿が現存。
ところどころに彫刻も。
木鼻には獅子。
本殿部分は覆殿になっていて昭和四十六年(1971)に整備。
中に拝殿同様に明治三十三年(1900)建立の本殿が納められている。
田園調布が誕生するより前の狛犬・お稲荷様
拝殿前には一対の狛犬。
狛犬には大正十年(1921)奉納と記されている。
大正七年(1918)に田園調布の元となる田園都市の開拓が行われており、大正十二年(1923)に土地の分譲が始まった事から、まだ田園調布ができる前の奉納物である。
こちらも状態がよく残っている。
社殿の右手には境内社の稲荷社。
『新編武蔵風土記稿』にも末社として記されているお稲荷様。
今も氏子崇敬者からの幟旗が多く並び、崇敬されている事が伝わる。
御朱印は本務社の雪ヶ谷八幡神社にて
境内左手には立派な社務所。
こちらは普段は無人で、氏子の集会などに使われている。
社務所の窓にも掲示されているが御朱印は本務社である「雪ヶ谷八幡神社」の社務所にて。
御朱印は「田園調布八幡神社」の朱印と、三つ巴紋。
右下には八幡信仰の神使である鳩の印、さらに「田園調布八幡神社」の文字にも鳩が隠されている。
2023年正月に頂いた限定御朱印は干支のうさぎ入り。
所感
田園調布の一部区域の鎮守である当社。
源氏の氏神として鎌倉武士によって創建された歴史を持ち、現在も高台に鎮座し氾濫の多かった多摩川から、上沼部村を守る鎮守として崇敬を集めたのであろう。
現在は神職が常駐しない兼務社であるが、境内はとても綺麗に整備されている事からも、定期的な手入れが行われている事が窺える。
高級住宅街として発展した田園調布の氏神様であり、立派な社務所など境内はこうした氏子によって維持されているのが分かる。
社前を流れる丸子川はかつての六郷用水を偲び、境内には状態の良い木造社殿や、境内社の稲荷社にも多くの幟旗が立ち、今も氏子によって大切に崇敬されている事が伝わる良い鎮守である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
「雪ヶ谷八幡神社」社務所にて。
※御朱印は本務社「雪ヶ谷八幡神社」にて頂ける。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
参拝情報
参拝日:2023/01/15(御朱印拝受)
参拝日:2020/06/24(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/09/14(御朱印拝受)
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