亀塚稲荷神社 / 東京都港区

港区

神社情報

亀塚稲荷神社(かめづかいなりじんじゃ)

御祭神:伊邪奈伎大神・伊邪奈美大神・宇賀霊大神
社格等:─
例大祭:5月9・11日
所在地:東京都港区三田4-14-18
最寄駅:三田駅・田町駅
公式サイト(Facebook):https://www.facebook.com/kamezukainari/

御由緒

 昔月の岬(現在の三田台町)に出没した亀が一夜のうちに石と化した。里人この亀の霊を祀り祠を設けた。のち、太田道灌がこの地に物見台(燈台)を置くにあたりこの祠を守護神として社を創立した。ご神体はこの霊亀であると伝える。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2017/08/03

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※隣のマンションの202号室が社務所となっている。

歴史考察

聖坂途中のお稲荷様

東京都港区三田に鎮座する八幡神社。
旧社格は無格社で、旧芝三田功運町の鎮守。
三田の聖坂の途中に鎮座する大変小さなお稲荷様。
亀の霊を祀ったと伝わり、境内には区内最古の板碑が残る。

更級日記に記された竹芝寺伝説

創建年代は不詳。
『更級日記』に記された「竹芝寺」伝説に関わる伝承が残っている。

『更級日記』(さらしなにっき)は、平安時代中頃に書かれた回想録。作者は菅原孝標女(父は菅原道真の玄孫の菅原孝標。)。

『更級日記』は様々なエピソードで構成されていて、その中に「竹芝寺」の伝説が記されている。

今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、泥のやうにて、むらさき生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生ひ茂りて、中をわけゆくに、たけしばといふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所の、らうの跡の礎などあり。(以下略)(更級日記より)

現代語訳:今は武蔵の国となった。別段情緒のある所も見えない。浜も砂が白い訳でもなく、泥土のようで、紫草の産地として詠まれた武蔵野も、蘆荻ばかりが高く生えていて、馬に乗って弓の先が見えないほどに、高く生え茂っていて、中を分けて行くと、竹芝寺というのがあった。遥かにははそうなどと云う所の、建物の跡の礎が残っていた。(以下略)

かつて当地周辺にあったという「竹芝寺」の伝説が記してある。
現在の「亀塚公園」と隣接する「済海寺」の付近にあったとされ、『江戸名所図会』にもそうした内容が記されている。

(江戸名所図会)

こちらは「竹芝寺」の故事を描いたもので、姫を自分の故郷の武蔵国の屋敷へ連れて行った衛士のもとへ朝廷より使いがやって来たシーンを描いており、この屋敷が後の「竹芝寺」。

当地周辺の故事とも云えるであろう。

酒壺の霊亀の伝承と亀塚

『更級日記』の「竹芝寺」伝説には、物語の中にある酒壺が登場する。

「などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ」(更級日記より)

現代語訳:「何故このような苦しい目を見るのか。我が国には七つ三つ作り置いてある酒壺に、瓢箪をたてに割った柄杓をさし渡して、その瓢箪が南風が吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびのも見ないで、このような事をしているなんて。」

都で仕えていた武蔵国の衛士が、武蔵国を懐かしんで呟いた独り言であり、この独り言をたまたま帝の姫君が聞いて「酒壺」のエピソードに興味を持ち、連れてって欲しいと頼み、衛士が故郷まで姫君を連れ出すという物語。
その衛士の故郷というのが、武蔵国の当地周辺であり、衛士の屋敷が後に「竹芝寺」となる。

当社には、その「酒壺」にまつわる伝承が残っている。

物語に登場した酒壺の下に、白い霊亀が住み着いたと云う。
その亀が一夜のうちに石と化したと云い、里人はこの亀の霊を祀り祠を設けた。
御神体はこの霊亀の石であり、祠は亀塚として信仰を集めた。

これが当社の起源と云えるであろう。

太田道灌による社の建立

文明年間(1469年-1486年)、太田道灌が当地に物見台(燈台)を置くにあたり、霊亀を祀った祠を守護神として社を建立したと云う。

太田道灌(おおたどうかん)は、武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将で、江戸城を築城した事で知られる。当時の江戸城の城主であった。

道灌は当社を「河図」と呼び、深く崇敬した。

河図(かと)とは、古代中国における伝説上の瑞祥。

当時は現在の「亀塚公園」(当社よりやや南西)あたりに社があったと云う。
亀塚と呼ばれる塚があり、その頂上に鎮座していた。

亀塚公園
東京都港区ホームページです。

いつしか「亀塚稲荷」と称されるようになり、地域からの崇敬を集めた。

切絵図から見る三田周辺

正徳四年(1714)、亀塚周辺は沼田藩主・土岐家の下屋敷となる。
当社は下屋敷の邸内社になったものと思われる。

宝歴四年(1755)、寺の要請により「功運寺」境内へ遷座。
これが現在の鎮座地となっている。

「功運寺」は、慶長三年(1598)に当地に創建。当地は「功運寺」の門前として発展したため、後に三田功運町という町名となっている。大正十一年(1922)に中野区上高田へ移転。昭和二十三年(1948)に「萬昌院」と合併したため、現在は「萬昌院功運寺」となっていて、三田には存在していない。

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(芝高輪辺絵図)

こちらは江戸後期の三田・芝・高輪周辺の切絵図。
右が北の地図で、当社は図の中央やや右に描かれている。

(芝高輪辺絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが当社が境内に遷座したと云う「功運寺」。
現在地もほぼこの「功運寺」のあたりとなっていて、切絵図にも「聖坂」の文字が見える。

青円で囲った「土岐美濃守」が沼田藩主・土岐家の事で、土岐家の下屋敷が置かれていた。
ここが現在の「亀塚公園」であり、当社創建の地と云える。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

聖坂の「済海寺」「功運寺」を描いている。
右手奥にあるのが現在も三田にある「済海寺」。
「済海寺」のさらに奥が田藩主・土岐家の下屋敷で、当社発祥の地であり、今は亀塚公園になっているところ。

手前にあるのが現在は三田にはない「功運寺」。
この当時の当社は「功運寺」の境内にあったとされる。

(江戸名所図会)

「功運寺」を中心に拡大したのが上図。
山門を入ってすぐ右手に鳥居が描かれ「いなり三社」と記されている。
当社が「功運寺」境内に遷座したという由緒通りなら、おそらくこれが当社であろう。

神仏分離とその後の歩み

明治になり神仏分離。
明治五年(1874)、神仏分離の影響で御神体であった霊亀の石を紛失。
御祭神を伊邪奈伎大神・伊邪奈美大神・宇賀霊大神の三柱に改め、芝三田功運町の鎮守とした。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当社の鎮座地は今も昔もほぼ変わらない。
おそらく今よりも広い境内であったものと思われる。
まだ隣に「功運寺」が置かれていた頃で、今はなき功運町の文字も見る事ができる。
今と同様に聖坂の途中に鎮座していて、当社はそうした功運町の鎮守として崇敬を集めた。

大正十一年(1922)、「功運寺」が中野区に移転。
その後も戦後の住居表示実施まで芝三田功運町という地名は残された。

昭和八年(1933)、紛失していた御神体が発見される。
霊亀の石が当社の社宝として再び遷された。

昭和二十年(1945)、東京大空襲で社殿が焼失。
御神体は境内地中に埋めていたため戦火は免れた。

昭和二十三年(1948)、社殿を再建。
昭和五十一年(1976)、損傷の激しかった社殿を新たに造営。
これが現在の社殿となっている。

境内案内

聖坂途中に鎮座する小さなお稲荷様

第一京浜と桜田通りの間を通る「聖坂」という坂道の途中に鎮座。
坂の途中にあるとても小さなお稲荷様。

余談になるが、当社の通りを挟んで向かいには聖坂のディープスポットとして知られる「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」がある。手作りで造られ続けている鉄筋コンクリート造のセルフビルド建築。異形で不思議なスポット。
蟻鱒鳶ル保存会
「蟻鱒鳶ル」読みは「アリマストンビル」、友人マイアミが名付け親です。2005年の着工以来、沢山の友人達に手伝ってもらいながら、植物のように、ゆっくりゆっくり出来ている小さなビルです。 蟻鱒鳶ルのコンクリートは、上質の砂とジャリを使い、水セメ...

マンションの横に小さな社地を有した小さなお稲荷様。
石鳥居の先に石段があり、社殿という造り。

鳥居の近くには小さな社号碑。
社号碑には「亀塚神社」の文字があり、鳥居を潜って左手には手水石。
このような小さな社ながら、水が張られ柄杓も置かれており、管理されているのが窺える。

小さな朱色の社殿と古い狛犬

正面に小さな社殿。
昭和五十一年(1976)に再造営された社殿。
お稲荷様らしく朱色に塗られ簡素な造りながら、綺麗に手入れされているのが伝わる。

両端には一対の狛犬。
奉納年代は不詳ながら古さを感じるもの。
江戸流れ型とも云える造りなので、江戸後期から明治頃のものであろうか。

狭い境内に小さな神社であるが、草木が綺麗に整備されている。

区内最古の弥陀種子板碑

鳥居を潜ってすぐ右手に色合いが特徴的な板碑が残る。
「弥陀種子板碑」と呼ばれる板碑が5基で、阿弥陀信仰に基づく供養石塔の一種。
色合いが全体的に青みがかっており、これは秩父青石製によるもの。

いずれも大変古いもので、文永三年(1266)・正和二年(1313)・延文六年(1361)の銘が残り、残り2基は風化のため解読不能。
鎌倉時代から南北朝時代の板碑である事が分かり、文永三年(1266)のものは区内最古の板碑とされている。

これらの板碑は、新田義貞一族の霊を弔うための碑だと伝えられている。

新田義貞(にったよしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で、新田氏の棟梁として鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。その後、足利尊氏が反旗を翻すと、南北朝時代が始まる。義貞は南朝の総大将として忠節を尽くし続け戦死している。

時期的に最も古い文永三年(1266)のものは、新田義貞の生誕より古いため、元は阿弥陀信仰に基づく当地周辺の人物への供養石塔であったと思われる。これらの板碑は当地にあったものとも、古くは現在の品川区上大崎周辺にあったものが、当地に遷されたとも云われている。

御朱印は隣のマンションにて

こうした大変小さなお稲荷様であるが、御朱印を頂けるのが有り難い。
隣のマンションの扉を開けると、その先がオートロックの扉となっている。

左手に郵便受けが並び、202号室が当社の社務所を兼ねている旨が記されている。
インターホンで202号室を押してお願いすると、対応して頂ける。
マンションの一室であるため、お願いする際や待つ際は、他の住民のご迷惑にならないように気をつける事。

所感

三田の聖坂途中に鎮座する小さなお稲荷様。
街角に数多く見かけるお稲荷様であり、気にも留めない方が多いであろう。
しかし歴史を紐解くと『更級日記』の「竹芝寺」伝説に行き当たり、亀塚の伝承などに繋がる。
今はとても小さな社であるが、綺麗に手入れされているのが伝わる。
道行く途中にある小さな社にも、それぞれ興味深い歴史と信仰がある事が分かる、そんな良い神社であり、今もこうして残されている事が喜ばしい。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]


[ 社号碑 ]

[ 境内 ]

[ 手水舎 ]

[ 社殿 ]



[ 狛犬 ]


[ 弥陀種子板碑 ]




[ 社号碑 ]

[ 石碑 ]

[ 玉垣 ]

[ 社務所 ]

Google Maps

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