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概要
幸多きおやしろ・幸稲荷神社
東京港区芝公園に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧岸之村の鎮守。
古くは「岸之稲荷」と称されていたが、氏子崇敬者に幸事が次々起こった事から「幸稲荷(さいわいいなり)」に改称。
地域から崇敬篤かった「瘡護神社」が合祀されたため、現在も「瘡護神社」の社号碑や扁額が残る。
境内には御祠石(みふくらいし)と呼ばれる霊石が置かれている事でも知られる。
東京タワーを含む芝公園一帯の鎮守の一社であり、東京タワーの大展望台に鎮座する「タワー大神宮」は当社の境外末社と云う形になっている。
神社情報
幸稲荷神社(さいわいいなりじんじゃ)
御祭神:伊弉冉命・倉稲魂命
社格等:村社
例大祭:8月14日・15日
所在地:東京都港区芝公園3-5-27
最寄駅:神谷町駅・御成門駅
公式サイト:http://www.saiwaijinja.or.jp/
御由緒
幸稲荷神社のいわれ
幸稲荷神社は、江戸初期の寛永年間に府内古社十三社に定められ、東京でも最も古い神社の一つと考えられています。
当社の創立は時代を更にさかのぼる応永元年(1394年)四月、武蔵国豊島群岸之村(現在の芝大門芝公園十号地)の鎮守として勧請されたと伝えられております。
古くから、この付近は鎌倉街道にあたり、人々の往来も盛んで、郭公の名所としても知られ、 江戸時代にいたって境内には講談寄席、大弓場、水茶屋等が常設され非常なにぎわいをみせていました。
社号ははじめ岸之稲荷と称せられておりましたが、氏子・信者中に幸事が続出したためいつの頃からか、幸稲荷神社と尊称されるようになりました。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
岸之村鎮守として創建・岸之稲荷と称される
社伝によると、応永元年(1394)に創建と伝わる。
武蔵国豊島郡岸之村の鎮守として創建。
岸之村の地名から「岸之稲荷」と称されていたと云う。
古くは当地周辺は古道である鎌倉街道が通っていた。
そのため人々の往来も多く、自然溢れる当地は郭公(カッコウ/鳥)の名所として知られていた。
氏子崇敬者に幸事が続いたので幸稲荷へ改称
寛永元年(1624)、「岸之稲荷」から「幸稲荷」へ改称。
氏子・崇敬者に幸事が続いた事から改称されたと云う。
寛永年間(1624年-1645年)、御府内古跡十三社のうちの一社に定められる。
古くは現在も当社に隣接する「光宝寺」(現・港区芝公園3)が別当寺を担っていた。
その後氏子たちの陳述によって神主単独による奉仕になったと云う。
現在地に遷座・江戸の観光地としても賑わう
正徳三年(1713)、当時の社地が徳川将軍家用地として上地。
旧社地は文昭院霊廟(六代将軍・徳川家宣の霊廟)の敷地として利用される事となった。
文化八年(1811)、芝切通の現在地に遷座。
「増上寺」近くであったため人の往来が多いエリアで多くの崇敬を集めたと云う。
その後、社地の一部を貸地として軍書講談・寄席・上弓場・水茶屋等を設置する事を許される。
以後、江戸の観光地としても大いに賑わった。
江戸切絵図から見る幸稲荷神社と瘡護神社
当宮の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。
こちらは江戸後期の芝・愛宕周辺の切絵図。
上が北の切絵図となっており、当社は図の中央付近に描かれている。
広大な「増上寺」の社地が描かれており、五重塔も見える。
この辺りが現在の芝公園一帯である。
赤円で囲ったのが当社の鎮座地で「イナリ・光宝寺」と記されている。
「光宝寺」は当社の別当寺を担った。
緑円で囲った箇所には「瘡守稲荷」の文字。
これが後に当社に合祀される事になる「瘡護神社(かさもりじんじゃ)」。
神仏分離・「増上寺」山内の神社を合祀
明治になり神仏分離。
「増上寺」山内に鎮座していた熊野神社・茅野天満宮・松野天満宮・瘡護神社と「金地院」山内に鎮座していた稲荷神社・三峯社を合祀。
徳川将軍家の菩提寺として、寺領一万石余、二十五万坪余の境内に子院約五十、学寮百数十軒を誇り、大いに隆盛を極めた「増上寺」であったが、徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小。
かつての「増上寺」の寺領の広範囲が、明治六年(1973)に「芝公園」として整備され開園した。
明治七年(1874)、村社に列している。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔も変わらない。
既に「増上寺」の境内の広い範囲が芝公園となっていて、当社は一帯の鎮守であった。
特に参拝者が多かった瘡護神社・土団子の風習
当社に合祀された数多くの神社のうちでも特に有名だったのが「瘡護神社」。
「瘡(かさ)から護る」の名の通り、腫れ物や出来物の守護神とされた。
「瘡護神社」には古くから以下のような民間信仰が伝わっていたと云う。
病気の際に土の団子を供え、平癒したら米の団子を供える風習。
当地に合祀された後もその風習が続き、崇拝者が多かったと伝わる。
当地には古くから「土の団子か、お米の団子か」と云う民謡が存在。
これは土団子を供える風習が元になっていると見られている。
こうした事情もあり、合祀後は「瘡護神社」への参拝者が特に多かったと云う。
現在も「瘡護神社」「幸神社」と2社の扁額が拝殿に掲げられているのも、こうした事情によるものであろう。
戦後の再建・東京タワーの鎮守・平成の境内整備
昭和二十年(1945)、東京大空襲で社殿などが焼失。
但し、神霊代・古文書・縁起書などは無事に持ち出され難を逃れた。
昭和三十三年(1958)、東京タワーが竣工。
当社は東京タワーを含む一帯の鎮守であった。
昭和三十五年(1960)、社殿を再建。
これが改修されつつ現存。
昭和五十二年(1977)、東京タワーを運営する日本電波塔株式会社は創立20周年を記念し、東京タワーのメインデッキに「タワー大神宮」を創建。
「伊勢神宮」より勧請され、当社の境外末社と云う位置づけとなっている。
平成二十八年(2016)、境内整備が行われる。
駐車場などが整備されかなりさっぱりと空間のある境内となり現在に至る。
境内案内
幸稲荷神社と瘡護神社・二社の社号碑
東京タワーや芝公園からもほど近い奥まった路地に鎮座。
鳥居は昭和十七年(1942)奉納で戦前のもの。
扁額には「幸稲荷神社(さいわいいなりじんじゃ)」。
氏子・崇敬者に幸事が続いた事から改称された縁起のよい社号。
特徴的なのは社号碑。
右には「幸稲荷神社」と当社の社号碑。
左には当社に合祀された「瘡護神社(かさもりじんじゃ)」の社号碑があり、2社の社号碑が並ぶ形となっている。
鳥居を潜って右手に手水舎。
この水盤は古いもので、萬延二年(1861)と幕末に奉納されたもの。
現在も使用できるのは嬉しい。
二社の扁額が掲げられた社殿・東京タワーとの共演
鳥居を潜ってやや右斜めに社殿。
東京大空襲によって旧社殿は焼失。
昭和三十五年(1960)に現在の社殿が再建された。
年季の入った木造社殿だが綺麗に維持管理。
拝殿の扁額には社号碑同様に「幸神社」「瘡護神社」の二社が掲げているのが特徴。
こうした事からも「瘡護神社」は当社に合祀された一社にも関わらず、現在も本社である「幸稲荷神社」と同格に扱われている事が見て取れる。
左手に回ると本殿、さらに東京タワーを奥に見る事ができる。
東京タワーは当社の氏子地域であり、こうした共演も美しい。
拝殿前には一対の狛犬。
台座のみ新しくなっている狛犬。
奉納年不詳だが岡崎現代型なのでそう古くはない。
茅野天満宮・松野天満宮・幕末の石柱
境内社は社殿の右手に天満宮が二社合祀殿。
茅野天満宮・松野天満宮で、特に茅野天満宮は「増上寺」山内にあり「茅野天神」として親しまれ、「江戸二十五天神」の一社にも数えられた程の神社であった。
天満宮の右手に碑。
さらにその右手に石柱。
石柱には「萬延二年辛酉二月初午」の文字があり、水盤と同様に萬延二年(1861)のものなのが分かる。
水をかけ願い事をすると熱病が癒える御祀石
社殿の右手には御祀石(みふくらいし)が置かれている。
慶長年間(1596年-1615年)より伝わると云われる社宝。
観智国師(増上寺十三世)が徳川家康の帰依を受け「増上寺」が芝の地に移転してきた際、国師の夢枕に岸之稲荷大明神(当社の御祭神)が現れ、この石に腰掛けて、荒廃した社殿を再建すれば、寺を守護し氏子崇敬者の繁栄を守ると託宣したと伝わる。
この事から、この石に水をかけ願い事をすると熱病は癒え、子供の夜泣きも止むと信仰を集めた。
現在も水をかけれるように水入れと柄杓が置かれている。
現在でも当社に参拝をして水をかける方が多い。(当面は新型コロナウイルス対策のため柄杓が撤去されている場合がある)
3種類の御朱印・タワー大神宮は当社の境外末社
御朱印は社殿右手を奥に行った先にある社務所にて。
いつも丁寧に対応して下さる。
御朱印は中央に「幸稲荷神社」、右上に「芝公園鎮座」、左下に「幸神社社務所之印」。
左が2015年に頂いたもの、右が2019年に頂いたもので変わりはない。
令和二年(2020)より御朱印の種類を追加。
中央は「幸」の文字が特徴的な御朱印で、さらに「瘡護神社」の御朱印も頂けるようになった。
2020年の初午に合わせて授与された初午限定御朱印で、狐面に幸が付いた印が押印。
2023年の初午当日に頂いたものには初午の文字入り。
2月最初の午の日。
稲荷信仰の総本社である京都「伏見稲荷神社」の御祭神が伊奈利山へ降りた日が初午であった事から、稲荷信仰の神社では例祭とされる事が多い。
2021年に頂いた御朱印。
病気への信仰が篤かった「瘡護神社」の御朱印には「疫病終息祈願」とアマビエの印。
江戸時代の史料に残る妖怪。
豊作・疫病などに関する予言をしたとされ、「疫病が流行したら、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と告げ海の中へと帰って行ったとされる。
新型コロナウイルス流行でネット上で注目を浴び、現在は様々な場所でイラストやグッズ展開などを見る事ができる。
夏詣期間には限定御朱印も用意。
2022年に頂いた夏詣限定御朱印。
2023年夏詣限定御朱印。
桜の開花期間限定の御朱印も。
幸仕様の御朱印に猪目(ハート型)が入り、模様も桜模様となっている。
東京タワーのメインデッキに鎮座する「タワー大神宮」。
こちらは当社の境外末社と云う位置付けとなる。
東京タワーで御朱印を頂く事が可能。(当社では頂けない)
詳細は下記の該当記事にて。
所感
旧岸之村(芝公園周辺)の鎮守として創建した当社。
「増上寺」が芝に移ってからは、2度の遷座を経て現在の鎮座地へ。
神仏分離後は「増上寺」山内の神社の多くを合祀した事からも、当社が芝公園一帯の鎮守だった事が窺える。
現在の規模はかなり小さく、場所的にも芝公園や東京タワーの近くにありながら少し奥まった場所にあり分かりにくいが、東京タワーを含む一帯の鎮守として今も多くの崇敬を集める当社。
氏子・崇敬者中に幸事が続いた事から「幸稲荷神社」と云う、この縁起のよい名前が有り難い。
幸せな事が色々起こる、そんな小さな神社として人気を博している。
地域の民間信仰含め、芝公園周辺の歴史を伝える良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※令和二年(2020)より「幸稲荷神社(幸仕様)」「瘡護神社」の御朱印を授与開始。
※夏詣や初午などに限定御朱印有り。
※以前は初穂料300円だったが、現在は500円に変更。
参拝情報
参拝日:2024/02/10(御朱印拝受)
参拝日:2023/07/13(御朱印拝受)
参拝日:2023/04/06(御朱印拝受)
参拝日:2023/02/05(御朱印拝受)
参拝日:2022/07/11(御朱印拝受)
参拝日:2021/01/25(御朱印拝受/ブログ内の画像撮影)
参拝日:2020/02/09(御朱印拝受)
参拝日:2019/07/08(御朱印拝受)
参拝日:2015/09/14(御朱印拝受)
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