菅原神社 / 東京都世田谷区

神社情報

菅原神社(すがわらじんじゃ)

御祭神:菅原道真
社格等:村社
例大祭:9月第4日曜
所在地:東京都世田谷区松原3-20-16
最寄駅:下高井戸駅・明大前駅
公式サイト:─

御由緒

 社伝によると寺子屋を開いていた石井兵助直慶が寛文五年(1665年)二月吉日に勧請したと石碑・勧請札に記されている。(現存)
 境内には江戸時代の力石又文政の年の天満宮の扁額等現存し、学問の神様として、広く崇敬をあつめております。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2017/08/17

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。


歴史考察

松原鎮守・せたがやの菅原天神

東京都世田谷区松原に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧松原村鎮守。
菅原道真を祀る天神信仰の神社で、「せたがやの菅原天神」「松原の天神様」とも称される。
梅や神牛像といった天神信仰らしい境内に、絵馬殿や弁天池も整備されているのが特徴。

寺子屋を開いていた人物が学問の神を祀る

社伝によると、寛文五年(1665)に創建とされる。

石井兵助直慶という人物が、当地に移住して寺子屋を開業。
学問の神として信仰を集めていた菅原道真を祀り、「大願成就南無天満宮自在天神」と刻まれた石碑を建立したのが始まりと伝えられている。

石碑には以下の記述が記されている。

南無天満天自在天神 寛文五年願望主建立 生国武州江戸石井兵助

当時の松原地域は赤堤村の一角であり、まだ松原村が成立する前の出来事となる。
元禄十年(1697)から正徳三年(1713)の間に、赤堤村の一部を新たに開墾。
開墾した土地を分村させて松原村が成立。

代田・羽根木・松原の地名の由来を紹介します。

宝暦十一年(1761)、社殿が造営。

松原村には神社が当社しかなかったと見られており、当社が村の鎮守として整備されたのであろう。

以後、学問の神として、松原村の鎮守として「菅原社」「天満宮」「天神社」などと称され地域からの崇敬を集めた。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(松原村)
天神社
村の北へよりてあり、勧請の年月はつまびらかならず。

松原村の「天神社」と記されているのが当社。
村の北にあり、勧請年月は不詳とされる。
大変簡素な記述しかないが、これは松原村が比較的新しく成立した村で、赤堤村から分村した事によるものであろう。

松原村には当社の他に神社仏閣が「十王堂」「十三佛堂」しか記されていない。
神社は「天神社」のみだった事が分かり、当社が村の鎮守を担っていた事が伺える。

明治以降の松原と当社の歩み

明治になり神仏分離。
明治七年(1874)、村社に列した。
同年「菅原神社」に改称しており、社号碑にも「村社 菅原神社」の文字が残る。

明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、上北沢村・松原村・赤堤村が合併し、松沢村が成立。
当地は松沢村松原となり、当社は松原地域の鎮守として崇敬を集めた。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
橙円で囲った箇所は現在「区立弁天児童遊園」という公園になっているのだが、かつてはここに当社の飛地境内社「厳島神社」が鎮座していたと云う。
松澤村と松原という地名も見る事ができ、当社は松原一帯の鎮守として崇敬を集めた。

当社の絵馬殿には旧社殿の古写真が残る。
戦時中は戦火を免れたと云う。

戦後になり境内整備が進む。

昭和四十年(1965)、現在の社殿が造営。
昭和四十一年(1966)、神楽殿を建立。

飛地境内社「厳島神社」のあった弁天池が枯れてしまったため、土地を公演地として世田谷区に売却しており、その資金を元手に氏子崇敬者からの奉賛金も含めて、境内整備が行われた。

平成十四年(2002)、管公御神忌千百年祭を斎行。
境内再整備が行われ現在に至っている。

境内案内

せたがや百景に選定・朱塗りの社殿

最寄駅は明大前駅もしくは下高井戸駅で、その中間に鎮座。
やや入り組んだ住宅街に鎮座しており、玉垣に囲まれた境内となっている。

鳥居の先に社号碑があり、その横には「せたがや百景」の記念碑。
「松原の菅原神社」として選定されている。

せたがや百景は、昭和五十九年(1984)に世田谷区民によって選定。まず百景の候補となる風景を区民の推薦で選び、区民の投票を経て、得票順に上位100位までを「せたがや百景」と選定している。

参道の左手に手水舎があり、正面に社殿。
昭和四十年(1965)に造営された鉄筋コンクリート造の社殿。
朱塗りの社殿が目を引く。
綺麗に維持されているのが分かる。

社殿の前には一対の狛犬。
大正十五年(1926)に奉納されたもの。
眼力の強い睨みを効かせた狛犬となっている。

天神信仰らしい神牛像や梅のある境内

参道の右手には神牛像が置かれている。
昭和五十七年(1982)に、菅公千八十年祭として氏子によって奉納されたもの。
御祭神の菅原道真と縁の深い神使である牛の像は、撫で牛として撫でる方も多い。

御祭神の菅原道真公と牛にまつわる由来で、梅と共に天神信仰では篤く崇敬されている。道真は乙丑の生まれで、牛を大層可愛がった事から、天神信仰の神使は牛とされている。

拝殿の手前右手には菅原道真が愛した梅の木。
夏の撮影のため分かりにくいと思うが、梅の季節になると鮮やかな色を付ける。

菅原道真公は梅の木を愛でた事で知られ、飛梅伝説なども残る。
政争に敗れて京から太宰府(九州)に左遷された際に以下の歌を詠んでいる。

東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな

現代語訳:東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。

絵馬掛には多くの合格祈願絵馬。
学問の神である菅原道真公への崇敬によるもの。

住宅街に鎮座するこぢんまりとした境内ではあるが、神牛像・梅・合格祈願絵馬といった天神信仰らしい境内となっているのが分かる。

境内の一角に整備された美しい弁天池

境内の左手には、綺麗に整備された弁天池。
人工で池が整備され、鳥居・神橋と用意されている。
奥には厳島神社が鎮座。

この厳島神社は、かつて当社の飛地境内社であった厳島神社が遷されたもの。
現在の「区立弁天児童遊園」(松原3-22-12)には、湧き水による弁天池があったものの、宅地化が進んだ事で枯れて荒廃したため、世田谷区に土地を売却し、その資金を元手に境内整備が行われた。
かつての弁天池の跡地は「区立弁天児童遊園」として、今も弁天の名を残している。
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境内社は他に社殿の左手に江戸時代の頃から祀られているという御嶽神社・稲荷神社。
神牛像の隣に、大黒・恵比寿社。
こちらは氏子の邸内社だったものが遷されたと云う。

当社の歴史を伝える絵馬殿や力石

鳥居を潜ってすぐ左手には絵馬殿が整備。
奥には牛車に使われたと思われる車輪も置かれている。
絵馬殿の内部には、古い奉納絵馬や扁額などが多く掛けられている。
梅を描いたものが多く、天神様への崇敬の篤さが伝わる。
松原の歴史を伝える一角であり、長い間眺めてしまう良い空間。

境内の右手奥には神楽殿。
昭和四十一年(1966)に建立されたもので、手前には複数の力石が置かれている。
のが力比べに使われたもので、古い銘には安政四年(1857)と残る。

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

所感

旧松原村の鎮守として崇敬を集める当社。
寺子屋を開いていた人物が、学問の神を祀った事が始まりとされており、今も学問の神として崇敬を集める天神様らしい神社と云えるだろう。
住宅街の一角に鎮座するこぢんまりとした境内ではあるが、神牛像・梅・合格祈願絵馬といった天神信仰の神社らしい要素が詰まっており、地域からの崇敬が伝わる。
綺麗に整備された弁天池や、都内の神社では珍しい絵馬殿など、見どころも多い。
境内にはベンチが置かれており、地域の憩いの場にもなっていて、平日でも地域の方が頻繁に参拝に訪れる神社となっていて、地域に密着した素敵な鎮守である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 社号碑 ]

[ 手水舎・参道 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 神牛像 ]

[ 大黒・恵比寿社 ]

[ 御嶽神社・稲荷神社 ]


[ 絵馬掛 ]

[ 記念碑 ]

[ 厳島神社・弁天池 ]




[ 神楽殿 ]

[ 力石 ]


[ 社務所 ]

[ 絵馬殿 ]





[ 石碑 ]

[ 神輿庫 ]

[ 案内碑 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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