隅田川神社 / 東京都墨田区

墨田区

神社情報

隅田川神社(すみだがわじんじゃ)

御祭神:速秋津日子神・速秋津比賣神・鳥之石楠船神・大楫木戸姫神
社格等:村社
例大祭:6月15日
所在地:東京都墨田区堤通2-17-1
最寄駅:鐘ヶ淵駅
公式サイト:─

御由緒

 治承の頃、源頼朝が関東下向の折、暴風雨に遭い、当社に祈願したと伝えられているが、御鎮座の年代は未詳。墨田の鎮守、船頭や荷船仲間に広く深く信仰されていた。明治五年に隅田川神社と改称。東京神社庁より)

参拝情報

参拝日:2020/01/14

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

授与品・頒布品

ポストカード
初穂料:─
社務所にて。

※書き置きの御朱印を頂いた際に一緒に頂いた。

歴史考察

隅田川一帯の守り神・水神さま

東京都墨田区堤通に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧隅田村の鎮守、隅田川一帯の守り神とされる。
古くは「水神社」「水神宮」「浮島宮」などと称し、「水神さま」と呼ばれ崇敬を集めた。
水上安全の守護神として船頭や荷船仲間など川で働く人たちの信仰を集めただけでなく、「水神」の名から水商売の人々にも信仰された。
現在の境内は戦後の開発や高速道路整備のためやや遷されて整備。
境内には神使である亀の像が置かれていて、狛犬ならぬ狛亀が置かれている。

水神が亀に乗り現れる・水神の森と呼ばれた当地

社伝によると、創建年代は不詳。
また創建についても殆どが不詳となっている。

創建について諸説あるが、戦前の『隅田町誌』に記されている伝承を記載。

神代の頃、水神が亀に乗って隅田川に出現。
水神は当地に鎮座したため、当地は「水神の森」と称されたと云う。

神代(かみよ/じんだい)
日本神話において、神々が支配していた時代。
天地開闢から神武天皇が即位するまでの時代のこと云う。

隅田川の守り神とされ「水神社」「水神宮」と呼ばれ信仰を集めた。
また「水神の森」は小高い浮洲であったため、隅田川が増水しても沈まず「浮島宮」とも呼ばれたと云う。

江戸の語源にもなった水神の森
「水神の森」は現在の東白鬚公園を含む広い一帯を指す。
鬱蒼とした森が広がっていて、当地から入江が始まり海になっていた。
そのため「江の口」、これが「江戸」の語源になったとも云われる。
語源については諸説があるが「江の入り口」に由来すると云うのが有力。

源頼朝が暴風雨に遭い当社へ祈願

治承四年(1180)、伊豆国(伊豆半島)に配流されていた源頼朝が平家追討のため挙兵。
「石橋山の戦い」に破れた頼朝は、安房国(房総半島)へ逃れ千葉氏・上総氏を勢力に加えて再挙。

源頼朝(みなもとのよりとも)
鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
鎌倉を本拠として関東を制圧し、源義仲や平氏を滅亡させ、戦功のあった弟の源義経を追放、奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定。

頼朝は安房国・上総国・下総国と通り、当地へ差し掛かった時、暴風雨に遭ったと云う。
そこで水神を祀る当社へ祈願し、鎮静を願ったところ水神の霊験があったと伝えられている。

頼朝は社殿を建立したとも云い、当社は頼朝によって創建されたと云う説もある。

江戸切絵図から見る当社と隅田川

江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(隅田川向島絵図)

こちらは江戸後期の隅田川や向島の切絵図。
下が北の地図で、右下に当社が記されている。

(隅田川向島絵図)

当社周辺を拡大し180度回転させ北をほぼ上にしたものが上図。

赤円で囲った箇所に「水神」とあり、これが当社。
青円で囲った箇所に「隅田村」とあり、当社は一帯の鎮守であった。

当社の西にあるのが隅田川で、当社は隅田川の守り神でもあった。

当社の南側には多くの桜の木が描かれていて、隅田川沿いの堤は桜の名所として知られていた。
また当社近くには渡し船があり「水神の渡し」と呼ばれた。

当地は河川交通の要所であった事から隅田川流域の船主の信仰を集めた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(隅田村)
水神社
村の鎮守とす。神體龍神にて長七寸。例祭六月十五日。多聞寺持。

隅田村の「水神社」として記されているのが当社。
「村の鎮守とす」とあるように、隅田村の鎮守であった。
御神体は龍神の像だったと云い、「水神=龍神」の信仰があったのであろう。

例祭は現在と同じく6月15日。
ここには記されていないものの隅田川で水上渡御祭が盛大に行われていたと云う。

昭和中頃まで水上渡御祭は行われていた。

別当寺は「多聞寺」が担っていた。

「多聞寺(たもんじ)」は、現在は隅田川七福神のうち毘沙門天を祀る寺院として知られる他、茅葺の山門は区内最古の現存建造物として墨田区指定文化財となっている。
真言宗 智山派 隅田山 吉祥院 多聞寺
TAMONJI web site

江戸名所図会に描かれた水神の森

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「木母寺 梅若塚 水神宮 若宮八幡」と描かれた見開きページ。
隅田川東岸を描いたもので当社は「水神宮」として左下に描かれている。

(江戸名所図会)

当社を中心に拡大したのが上図。

「水神」として描かれているのが当社。
この一帯を水神の森と呼び、鬱蒼とした森であった。
手前が隅田川で隅田川に面していたのが分かる。
小高い土地にあったため、増水でも沈むことがなかった事から「浮島宮」とも呼ばれ信仰を集めた。

この後の嘉永元年(1848)に本殿を造営、更に安政五年(1858)には本殿が再建され、元治元年(1864)には拝殿が造営。これらが改修されつつ現存している。

歌川広重が浮世絵で描いた水神の森

河川交通の要所であり隅田川の守り神として、船頭など川で働く人たちの信仰を集めた当社。
景勝地としても知られたため歌川広重の浮世絵の題材としても取り上げられている。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(名所江戸百景)

歌川広重による『名所江戸百景』では「隅田川水神の森真崎」として描かれている。

隅田川の東岸より描いた1枚。
右手に描かれているのが「水神の森」で、いわゆる当社になる。
隅田川に面し、船頭などから崇敬を集めた。
奥に見えるのは筑波山。

なお「真崎」とあるのは隅田川の西岸にあった「真先稲荷神社」。現在は「石濱神社」の境内社となっている。
石濱神社(石浜神社) / 東京都荒川区
橋場一帯の鎮守・神明さん。摂社・真先稲荷神社。聖武天皇の勅願で創建・源頼朝の寄進など大社として発展。多くの浮世絵の題材に。文化財となっている二基の石浜鳥居。池波正太郎著『剣客商売』の舞台。夏越の祓。浅草名所七福神・寿老神。御朱印。御朱印帳。

(名所江戸百景)

歌川広重による『名所江戸百景』では「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」として描かれている。

こちらは先程とは逆に隅田川西岸の「真先稲荷神社」「石濱神社」あたりから描いた1枚。
右奥に見えるのが隅田川東岸で、木々が生い茂った一画が「水神の森」である。

やはり筑波山が描かれていて、名勝として人気が高かった。

明治以降の歩み・戦後に首都高建設で現在地へ遷座

明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。

明治五年(1872)、「水神社」と呼ばれていた社号を「隅田川神社」へ改称。
隅田川の守り神として分かりやすい社号となったのが窺える。

明治二十二年(1891)、市制町村制によって隅田村・善左衛門村・若宮村・他各村の飛地などが合併して、隅田村が成立。
当社は隅田村隅田の鎮守として崇敬を集めた。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが当社。
明治の古地図には「水神森」として表記されているのが窺える。
現在よりやや北に神社の地図記号があって、当時は今よりやや北に鎮座していた。
「水神渡」と記されているように、当社へ繋がる渡し船が当時もまだあった事が分かる。

当社周辺は江戸時代の頃から景勝地として名高く、現在の当社がある一帯などは料亭や茶屋などが立ち並んでいた。
カネボウとユニチカの二大工場
緑円で囲った箇所にある「鐘ヶ淵紡績会社」は、現在の「カネボウ」。
緑円で囲った箇所にある「東京紡績工場」は、「ユニチカ(旧・ニチボウ)」。
隅田川を挟み二大工場がある地域であり、水神渡もこうした工場で働く女工たちの通勤用にも使われていた。

関東大震災や東京大空襲では当社も被災したものの、社殿の倒壊や焼失は免れた。
改修されつつ現存している。

戦後になり境内整備が進む。

昭和五十年(1975)、首都高速建設や区画整備の影響を受けてやや南の現在地へ遷座。
昭和五十五年(1980)、各施設の移動や整備などが完了。
昭和六十一年(1986)、「水神の森」と呼ばれた一画も東白鬚公園として整備。

現在の社地は江戸時代の頃、景勝地として栄えた当地の料亭「水神八百松」の跡地。森鴎外や小山内薫の小説、落語などにも登場した名料亭。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

首都高建設などの影響で遷された境内

最寄駅の鐘ヶ淵駅からは徒歩10分以内の距離に鎮座。
当社に隣接するように「東白鬚公園」があり、かつて「水神の森」と呼ばれた当社の境内であった。

東白鬚公園
都道461号線沿いに当社の一之鳥居があり、都営白髭東アパートの6号棟・7号棟の間、さらに東白鬚公園が参道となっている。

「東白鬚公園」を西へ抜けた先に二之鳥居。
鳥居のすぐ奥には首都高速を見る事ができ、当社は首都高速などの建設に伴い現在地へ遷座した歴史を持つ。(かつては現在の首都高速がある位置、もう少し北側に隅田川に面して鎮座していた)

二之鳥居を潜ると左手に参道が続く。
その先に三之鳥居。
参道や鳥居など境内の配置が変わっているのも、遷座した事によって社地を有効活用しようとした現れであろう。

三の鳥居を潜るとその正面に手水舎。
水が出て身を清める事ができる。

参道には狛犬ならぬ一対の狛亀

手水舎から右向きに参道が伸びる。
参道の途中には一対の亀の像。
狛犬ならぬ狛亀と云える亀の像。
水神を祀る当社ならではと云える。
かつて水神が亀に乗って当地へたどり着いたと云う伝承。
水神が鎮座した事で当地は「水神の森」と呼ばれ信仰を集めた。
そのため亀は当社の神使であり、こうして参道を護るのは狛犬ではなく狛亀なのであろう。

亀の姿をしているが耳や牙があるため、実際は中国の伝説上の生物「贔屓(ひき)」の姿と思われる。龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子の1つとされる。

狛亀の近くには百度拝参標。
百度参りの際に使ったもので、当地にそのまま移された。

江戸時代の社殿が改修されつつ現存

狛亀の先に木造社殿。
拝殿は元治元年(1864)に造営されたもの。
関東大震災や戦災などで被災はしているため、その都度改修が行われている。
見事な彫刻は綺麗に維持。
木鼻の位置には獅子や獏が彫られる事が多いが、当社の木鼻には龍の姿。
江戸時代の御神体は龍神だったと云い、「水神=龍神」として龍が施されているのだろう。
「水」の文字からも当社が「水神さま」として信仰を集めた事が窺える。

本殿は安政五年(1858)に再建されたものが現存。
こちらも幾度も改修を経ているが現存。
すぐ裏が首都高と云う光景であるが、境内の移転も経て社殿は大切に維持されている。

古い亀の石像・首都高下の鳥居・多くの境内社

社殿の右手に当社の歴史を伝える一画。
小祠の右手には古い亀の像。
奉納年などは不詳ながらかなり古さを感じる石の亀。
狛亀もそうだが、当社の神使として古くから亀が関わっていた事が窺える。

この近くには鳥居。
関東大震災で倒壊した後に再建された鳥居だと云う。
現在は後ろが首都高なので置かれているだけだが、かつて旧社地に当社があった時は、隅田川に面して置かれた鳥居で、水神渡の渡し船から当社へ参拝する際に使用された。
その近くには力石などが置かれた一画も。

右手前に境内社が幾つも並ぶ。
三才稲荷神社・若宮八幡神社。
粟島社・金神社・天神社。

境内社の近くには錨。
「水神さま」と慕われ、船頭や海運・運送業者からも崇敬を集めた当社らしい奉納物。

水神と狛亀の御朱印・ポストカードも

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

御朱印は「隅田川神社」の朱印、更に「水神」と記され社殿と狛亀がデザインされた印も押印。
御朱印を頂いた際に美しいポストカードも下さった。

御朱印は基本的に書き置きでの対応になる事が多いとのこと。

所感

隅田村の鎮守として崇敬を集めた当社。
明治になり「隅田川神社」と改称したように、当社は古くから隅田川の守り神として信仰された。
今も「水神さま」「水神さん」と称して信仰する方も多く、水上安全の守護神として崇敬される。
江戸時代の頃から戦前頃までの「水神の森」は景勝地として知られ、広重の浮世絵にも残る他、当社の近くには隅田川堤の桜も見事であったため、有名料亭や茶店などが軒を連ねて賑わったと云う。
戦後になり首都高速の建設などで現在地に遷る事となったが、現在の社地はかつての名料亭である「水神八百松」の跡地であり、社殿などもそのまま遷され、大切に維持されている。
社殿の裏がすぐ首都高という光景ではあるものの、境内には古いものも多く、「水神さま」として信仰を集めた当社の歴史を伝える。
地域の開発や首都高速の整備などがありつつも、こうして神社が維持されているのは喜ばしい事であり、かつての隅田川を偲ぶ良い神社である。

神社画像

[ 二之鳥居・社号碑 ]


[ 参道 ]

[ 三之鳥居 ]


[ 手水舎 ]


[ 参道 ]

[ 狛亀 ]





[ 百度拝参標 ]

[ 拝殿 ]









[ 本殿 ]


[ 絵馬掛 ]

[ 鳥居 ]

[ 力石・石碑 ]

[ 小祠 ]

[ 石亀像 ]



[ 粟島社・金神社・天神社 ]

[ 三才稲荷神社・若宮八幡神社 ]

[ 錨 ]

[ 神楽殿 ]

[ 石碑 ]

[ 欄干 ]

[ 社務所 ]

[ 石碑 ]


[ 案内板 ]

Google Maps

コメント

タイトルとURLをコピーしました