神社情報
三輪里稲荷神社(みわさといなりじんじゃ)
御祭神:倉稲魂命
社格等:村社
例大祭:2月初午(こんにゃく御符授与)・9月第1土・日曜
所在地:東京都墨田区八広3-6-13
最寄駅:京成曳舟駅・八広駅・曳舟駅
公式サイト:https://www.miwasatoinari.jp/
御由緒
慶長十九年(1614)出羽国湯殿山の大日坊長が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し三輪里稲荷大明神として御鎮座致しました。 通称「こんにゃく稲荷」と呼ばれて人々の信仰を集めて参りました。「こんにゃく稲荷」のいわれは、初午の日に当社が「こんにゃくの護符」を授与され、これをいただき煎じて服用すれば、のどや風邪の病に効くとされることに依ります。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2020/01/14
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※祭事や季節に応じて限定御朱印あり。
御朱印帳
初穂料:1,500円
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
黄色を基調として狐とこんにゃく御符をデザインしたもの。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
歴史考察
喉や声に霊験あらたか・通称「こんにゃく稲荷」
東京都墨田区八広に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧大畑村(八広・東墨田・立花の一部)の鎮守。
毎年2月の初午祭に授与される「こんにゃく御符」は、のど気の病に効くと信仰を集めている護符で、そのため通称「こんにゃく稲荷」として広く知られている。
初午の日は「こんにゃく御符」を求め大変な賑わいを見せる。
「こんにゃく御符」の御神徳から、喉や声の神様として信仰されるため、様々な歌手のファンの方が祈願のために訪れる事も多い。
出羽国湯殿山より大畑村の鎮守として創建
社伝によると、慶長十九年(1614)に創建と伝わる。
出羽国湯殿山の大日坊長が、羽黒大神の御分霊を勧請して創建したと云いう。
出羽国は現在の山形県と秋田県にあたる。
湯殿山(ゆどのさん)は月山(がっさん)・羽黒山(はぐろさん)と共に出羽三山の1つとして、修験道の霊場として信仰を集めた。
山形県鶴岡市にある真言宗豊山派の寺院。
山号は「湯殿山」、院号は「金剛院」、寺号は「瀧水寺」。
本尊は湯殿山権現で、国の重要文化財「銅造如来立像」を有する。
湯殿山派4か寺の1寺で、古くから出羽三山に対する山岳信仰・修験道の寺として栄えた他、徳川将軍家祈祷寺として将軍家から庇護された。
また天明六年(1786)に96歳で入定した真如海上人の即身仏(ミイラ)がある事でも知られる。
羽黒大神の御分霊を勧請された当社は「三輪里稲荷大明神」として創建。
大畑村と称された当地の総鎮守とされ崇敬を集めた。
江戸切絵図から見る大畑村
江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。
こちらは江戸後期の隅田川や向島の切絵図。
下が北の地図で、中央やや左上に大畑村が記されている。
江戸時代の切絵図であるため実際の位置関係にズレが生じているものの、赤円で囲った箇所に「大畑ヶ村」と記されているのが当地周辺。
当社もこの一画に鎮座していて、大畑村の総鎮守を担った。
大畑村の村名からも分かるように一帯の殆どが「田地」になっていて、江戸外れの田畑ばかりの農村だった事が窺える。
稲荷神は五穀豊穣の神でもあるため、農村の鎮守として信仰を集めたのであろう。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(大畑村)
稲荷社
村の鎮守なり。本地十一面観音。正覚寺持。
大畑村の「稲荷社」として記されているのが当社。
「村の鎮守なり」とあるように、大畑村の鎮守であった。
また本地仏として十一面観音像が祀られていて、別当寺は現在も隣接する「正覚寺」が担った。
文久年間(1861年-1864年)、社殿を造営。
この幕末の社殿は戦災で焼失するまで残っていたと云う。
明治以降の歩み・戦災からの再建・八広の地名由来
明治になり神仏分離。
明治七年(1874)、村社に列する。
明治二十二年(1891)、市制町村制によって大畑村・木ノ下村・上木下川・下木下川村などの多くが合併して大木村が成立。
当社は大木村大畑の鎮守として崇敬を集めた。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、神社の地図記号はないものの鎮座地に変更はない。
大木村や大畑といった旧地名を見る事ができ、当社は大畑一帯の鎮守であった。
明治の古地図には荒川がなかったように、現在の当社近くの荒川は「荒川放水路」と呼ばれ、人工で造られた河川である。
荒川のうち隅田川と荒川を仕切る岩淵水門(北区)から江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川で、全長22kmに及ぶ。
大正二年(1913)から昭和五年(1930)にかけて行われた約17年がかりの難工事であった。
大正三年(1914)、荒川放水路設置に伴い、放水路以南が吾嬬町(あずままち)、放水路以北が本田村に分割編入され、大木村は廃止。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿など境内の一切を焼失。
その後、仮殿での復興が行われた。
昭和三十二年(1957)、社殿を再建。
これが現在の社殿となっている。
昭和四十年(1965)、住居表示によって吾嬬町の一部などが八広となる。
当社は八広など一帯の鎮守として今も崇敬を集める。
戦後になり境内整備が進み現在に至る。
境内案内
八広の住宅街に鎮座・細い路地の表参道
最寄駅の京成曳舟駅や八広駅からは徒歩10分程の距離に鎮座。
表参道はかなり細い路地に面しているため、かなり分かりにくい立地。
玉垣の右には社号である「三輪里稲荷神社」の文字で、左には通称の「こんにゃく稲荷」の文字が記してある。
玉垣の先に鳥居。
昭和三十二年(1957)に建立された鳥居で、社殿の再建と同じ年。
鳥居の右手に社号碑。
こちらにも通称である「こんにゃく稲荷」の文字を見る事ができる。
鳥居を潜り左手に手水舎。
綺麗に整備され身を清める事ができる。
戦後に再建された社殿・彫りの深い彫刻
参道の正面に社殿。
旧社殿は文久年間(1861年-1864年)のものだったと云うが、東京大空襲で焼失。
仮殿を経て、昭和三十二年(1957)に再建を果たした。
戦後の再建ではあるが、出来の良い彫刻が施されているのが特徴的。
彫りが深く細かい龍の彫刻。
躍動感のある獅子が施された木鼻。
一見すると江戸から明治にかけての彫刻とも思える程、出来は良い。
こうして見事な社殿で再建された事からも、氏子崇敬者の再建への気持ちが伝わる。
拝殿前に一対の神狐像。
神狐像としては比較的珍しい乳飲みの狐様。
昭和三十二年(1957)奉納で、やはり社殿の再建と同じ年のもの。
初午祭で授与・こんにゃく御符・喉と声の神様
当社が「こんにゃく稲荷」と通称される由来は、授与品である「こんにゃく御符」による。
毎年2月の「初午の日」に授与されるこんにゃくの御符。
当社が創建された慶長十九年(1614)より伝わっている当社の神事で、のど気の病や風邪に効くと信仰を集めた。
現在も初午の日は「こんにゃく御符」を求め大変な賑わいを見せる。
1袋10本入りで初穂料は1,000円。
「こんにゃく御符」が、のど気の病に効くとされる事から、喉や声の神様として信仰を集める。
そのため様々な歌手のファンの方が祈願のために訪れる事も多く、絵馬掛けにはそうしたファンの方々の願い事が並ぶ。
こんにゃく御符の御朱印・オリジナル御朱印帳
御朱印は「稲荷神社」の朱印、季節や祭事に応じて限定御朱印を用意。
こちらは令和二年正月の限定御朱印で、狐とこんにゃく御符の金印が押印されている。
オリジナルの御朱印帳も用意。
黄色を基調として狐とこんにゃく御符をデザインしたもの。
所感
大畑村の鎮守として崇敬を集めた当社。
出羽三山である湯殿山「大日坊」の修験道より勧請された伝承を持つ、面白い由来のお稲荷様。
古くから授与されていたと云う「こんにゃく御符」は、のど気の病に効くとされ信仰を集めていて、今も授与される初午の日には大賑わいになると云う。
当社が通称「こんにゃく稲荷」と称されている事からも分かり、当地周辺の特殊信仰とも云え、現在も続いている事が喜ばしい。
こうした喉へ霊験あらたかな評判から、現在は歌手のファンの方が祈願に訪れる方も多い。
現在は地名として消失しているが、大畑と呼ばれた当地の歴史と風習を伝える良い神社である。
神社画像
[ 玉垣 ]
[ 鳥居 ]
[ 社号碑 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 神狐像 ]
[ 神楽殿 ]
[ 倉庫 ]
[ 神輿庫 ]
[ ラジオ体操広場 ]
[ 絵馬掛・御籤掛 ]
[ 社務所 ]
[ 案内板 ]
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