石濱神社(石浜神社) / 東京都荒川区

荒川区

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概要

橋場一帯の鎮守・信仰を集めた神明さん

東京都荒川区南千住に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、旧橋場村など一帯の鎮守。
大変古い歴史を持つ伊勢信仰の古社で、地域からは「神明さん」と親しまれている。
中世には地域一帯から崇敬を集めた大社であった。
江戸時代には現在の境内社「真先稲荷」と共に景勝地として知られた。
現在は浅草名所七福神の寿老神も担っている。
令和六年(2024)は御鎮座1,300年を迎えた。

神社情報

石濱神社(いしはまじんじゃ)

御祭神:天照大御神・豊受大御神
社格等:郷社
例大祭:5月下旬
所在地:東京都荒川区南千住3-28-58
最寄駅:南千住駅・鐘ヶ淵駅
公式サイト:https://www.ishihamajinja.jp/

御由緒

 聖武天皇の神亀元年(724)九月十一日勅願にり鎮座。文治五年(1189)源頼朝の奥州藤原氏攻めに際しての社殿の寄進、弘安四年(1281)蒙古襲来の折には必勝を祈念しての鎌倉将軍家お取次ぎによる官幣の奉幣などを経て、中世初めには大社としての発展する。殊に、千葉氏、宇都宮氏などの関東武将の信仰は篤く、関八州より多くの参詣者を集めたと伝えられる。東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、江戸近世における社運はさらに隆昌、『江戸名所図会』などにも大きく納められるところとなり、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せ、明治五年(1872)には社格が郷社に列せられた。(頒布のリーフレットより)

歴史考察

聖武天皇の勅願によって創建の古社

社伝によると、神亀元年(724)に創建と伝わる。
聖武天皇の勅願によって創建された。

聖武天皇(しょうむてんのう)
第45代天皇。
災害や疫病(天然痘)が多発したため、仏教に深く帰依した事で知られる。
国家鎮護のため「国分寺」を諸国に建立を命じた他、奈良の大仏で知られる「東大寺」盧舎那仏像の造立の詔を出している。
東大寺
華厳宗大本山 東大寺の公式サイトです。歴史や参拝のご案内、年中行事や御朱印を紹介しています。
聖武天皇は諸国の神社にも勅願していて、当社もその一環で創建されたとみられる。

古くから地域を代表する古社であった。

令和六年(2024)は御鎮座1,300年
神亀元年(724)に創建のため令和六年(2024)は御鎮座1,300年の節目の年。
奉祝で色々な境内整備が行われた。

源頼朝の寄進など大社として崇敬を集める

文治五年(1189)、源頼朝が奥州征伐の際に当社へ立ち寄る。
「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」の歌を献じて戦勝祈願。
凱旋の際に社殿を寄進したと伝わる。

頼朝は当社から「伊勢神宮」を遥拝したと云う。
伊勢神宮
「お伊勢さん」と親しく呼ばれる、伊勢神宮の公式サイト。正式には「神宮」といい、2000年の歴史を有する日本人の「心のふるさと」です。

弘安四年(1281)、蒙古襲来(弘安の役)の際には、必勝を祈念して鎌倉将軍家お取り次ぎによる官幣の奉納も行われた。

弘安の役(こうあんのえき)
元寇や蒙古襲来として知られる戦いの1つ。
当時、東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)よって2度に渡り行われた来襲のうち、1度目を文永の役、2度目を弘安の役と呼ぶ。
弘安の役で日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。
鎌倉幕府は執権・北条時宗や、九州の地頭・御家人によって対抗し、九州北部が主な戦場となり日本が勝利している。

こうした鎌倉将軍家からの信仰からも分かるように、中世には千葉氏・宇都宮氏など関東武将からの崇敬も篤かったと云う。
また関八州(関東8か国)の庶民が「伊勢神宮」の代わりに当社に詣でたとも伝わり、関東における伊勢信仰の中心の1つの大社として栄えた。

当地は奥州街道に近い交通の要衝でもあったため、陸奥・出羽・関八州の人々で「伊勢神宮」に参詣するのが難しいものは、当社に参詣して祓えを受けたと伝えられる。

このように鎌倉時代には、当時の有力な武将、さらには庶民からも多くの崇敬を集め、関東における伊勢信仰の中心の一つとして栄えた事が分かる。
当地は、奥州街道に近い交通の要衝でもあったため、この頃は大社として発展したと伝わる。

石濱神明社や朝日皇太神宮などと称される
古利根川(現在の隅田川)西岸地域を、古くから石濱(石浜)と呼んでいたため「石濱神明社」と称された他、「朝日皇太神宮」とも称された。

中世には当地周辺に石浜城が築かれる

現在の当社鎮座地は中世の城である「石浜城」があった場所と伝わる。

石浜城(いしはまじょう)
当地周辺にあったと推定される中世の城。
江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、文和元年(1352)には新田義興の追撃を受けた足利尊氏が石浜城で追撃を退けたと伝わる。
千葉氏の内紛では下総国を追われた宗家生き残りが石浜城を拠点として武蔵千葉氏とした。
武蔵千葉氏は後北条氏に従ったものの、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡、武蔵千葉氏も没落し石浜城も廃城となったと云う。
石浜城の所在地は諸説あるが、当社周辺にあった説が有力な説の1つとなっている。

この事から推測できるのは、鎌倉時代には大社として栄えた当社であったが、石浜城が築かれてからは戦乱の世に巻き込まれる事も多く、最盛期よりは少しずつ衰退していったものと思われる。

橋場村の鎮守・江戸時代の橋場地域

当地周辺はかつては石浜庄の橋場村と呼ばれた地域であった。
当社は橋場村の鎮守として地域からの崇敬を集めた。

橋場(はしば)の由来
源頼朝が挙兵して当地を通る際に浮き橋を架けたと『義経記』『源平盛衰記』などに記載があり、それが地名の由来とされる。

(江戸名所古跡伝)

歌川広重が描いた『江戸名所古跡伝』より「橋場地名の起源」。頼朝が隅田川に浮き橋を架けた様子を描いていて、これが橋場の起源としている。東京都立図書館より)

当地周辺には古くから橋場の渡しがあり、交通の要衝とされた。
江戸時代になると風流な場所として知られ、大名や豪商の別荘が河岸に並び料亭も多かった。

橋場の渡し(はしばのわたし)
現在の白鬚橋付近にあった渡し船・渡船場。
隅田川には数多くの渡船場があったが、最古の渡しとされるのが橋場の渡し。
承和二年(835)の太政官符で記録が残る他、『伊勢物語』で主人公が渡った場所としても知られる。

橋場村の発展につれ、橋場村が町奉行所支配と農村で分離。
現在の台東区側は町奉行支配で町として発展した「橋場町」、農村だった荒川区側が「橋場町在方分」と呼ばれる事となった。

当社は両地域の鎮守として栄え、多くの崇敬を集めた。
また当社の摂社である「真先稲荷」(現・境内社)も多くの信仰を集めた。

後に橋場町が台東区、橋場町在方分が荒川区に分かれたため、当社の氏子地域は現在も荒川区と台東区に跨っている。

江戸切絵図から見る当社と真先稲荷

江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(今戸箕輪浅草絵図)

こちらは江戸後期の今戸・浅草の切絵図。
右が北の地図で、当社は右端に描かれている。

(今戸箕輪浅草絵図)

当社周辺を拡大し半時計回りに90度回転させ北をほぼ上にしたものが上図。

赤円で囲った箇所に「神明」と記されているのが当社。
橙円で囲った箇所に「真嵜イナリ」と記されているのが摂社「真先稲荷」。
2社が並ぶ形で鎮座していて、多大な崇敬を集めた。

隅田川沿いに橋場町の文字も見え、当社は一帯の総鎮守であった。
摂社の真先稲荷(まさきいなり)
当社と共に崇敬を集めた当社の摂社であり、当社の一之鳥居の左手に鎮座していた。
石浜城城主となった千葉之介守胤が、一族一党の隆昌を祈って宮柱を築き、先祖伝来の武運守護の尊い宝珠を奉納安置したと伝えるお稲荷様。
「真先かける武功」という意味にちなみ、真先稲荷として世に知られたと伝わる。

新編武蔵風土記稿に記された当社と真先稲荷

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(橋場町在方分)
神明社
村の鎮守なり。石濱神社朝日皇太神宮と称す。祭神は天照太神月読の尊なり。社地の外十石一斗の地を社領に免除せらる。当社は神亀元年九月十一日此地に鎮座すと云。例祭九月十六日社地にて生花の市あり故に生花祭と云。
末社
天満宮。社地の内にあり。随神門を構へ別に一区をなせり。明和四年六月五日高辻大納言家長勧請す。則同人の扁額あり。
妙義。御霊二。力明神。以上天神社地にあり。力明神は石像にて覆屋なし。
荒香。祭神は手置帆負命彦狭知命なり。又手彦明神とも号す。工匠を司とる神なり。安永八年八月八日御大工棟梁溝口内匠か勧請なり。以下十三宇共に神明社の左右にあり。
牛頭天王。町分の鎮守なり。別に供免三段五畝の地を附す。例祭六月十五日神輿を船に乗て町中を渡す。
稲荷九。疱瘡神。淡島。大黒。水神。
智庸靈社。神主山城か祖父鈴木智庸社再建の功あり、故に此に祀と云。
弘祷靈社。是も神主鈴木弘祷を祀れり。
摂社 真先稲荷社
神明社、東一町許を隔て別に一区をなせと神明除地の内なり。幣殿拝殿建続て頗る荘厳をなせり。社伝に拠に、昔千葉介平兼胤か家に傳へし神璽あり。此奇瑞により数の戦場に先懸の高名を得さることなし。其子季胤に至り神璽を常に膚に着ること恐ありとて、稲倉魂の神像を鋳させ戦場に出ることに草摺の内にこめしと云。天文年中千葉守胤石濱の城主たりし時、此地に宮柱を建かの神璽を祀り季胤か鋳させし像を前立として真先稲荷と崇祀ると云。其後往々祈願をなす者ありしか、延享の頃より殊に渇仰の輩多く、其頃一橋宗尹卿信仰ありて社頭を再建し祈願所とせられ、御子豊之助君(儀同三司冶済公御幼名)仙之助君疱瘡の時酒湯も当所より捧げしと云。今幣殿に掲たる鶴鷹の額は、宗尹卿浮田邊放鷹の時当社に祈念し鶴二羽まで得られし時、納られしものなりとなり。又将軍家いまた豊千代君と称し奉りし頃御参詣の時神符を捧け後御養君に立せ給ふに及ひて、御懐中の御守及ひ神符奉りしと云。此社前荒川の岸にて毎年夏越の祓をなす。其式京加茂の祓に異ならすと云。
社寶。白狐玉一顆。八形の鏡一面。(中略)
随身門。額殿。榎一株、稲荷社前にあり、神木なり、老樹にて大さ三囲許。
神主鈴木山城。京吉田家の配下なり、真光稲荷の側に住す、本社摂社共兼司れり。

(新編武蔵風土記稿)

絵図付きで説明があり、江戸時代もかつての大社の名残を残している。

橋場町在方分の「神明社」と記されているのが当社。
村の鎮守である事、更に「石濱神社朝日皇太神宮」と称した事も記されている。
この頃から大変多くの境内社が置かれており、伊勢信仰としてだけでなく、当地周辺の信仰の中心だった事が窺える。

また当社に隣接していた「真先稲荷社」が摂社として記されている。
当社と共に多大な崇敬を集めていた。

「此社前荒川の岸にて毎年夏越の祓をなす」とあるように、「夏越しの祓」は江戸市中に知られた名高い行事であった。

江戸歳時記にも描かれた夏越の祓

『新編武蔵風土記稿』にも記されていた「夏越の祓」については、天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸歳時記(東都歳時記)』にも記されている。

(江戸歳事記)

江戸の歳時記として季節の代表的な祭事が色々と描かれているが、その中に「真先神明宮 夏越祓」として当社の夏越の祓が描かれている。
当社と真先稲荷の前にある川辺(隅田川)で行われた大祓。

夏越の祓(なごしのはらえ)
毎年6月の末に神社で行われる大祓。
民間では毎年の犯した罪や穢れを除き去るための除災行事として定着。
年に2回行われ6月のものを「夏越の祓」、12月のものを「年越の祓」などと呼ぶ。
現在は殆どの神社で行われていて、神社に普段から参拝する方ならお馴染みの大祓だが、神仏習合の影響もあり明治になるまでは殆ど廃絶されていて、極一部の神社に形式的な神事が伝わるのみであった。

当社の夏越の祓は江戸市中を代表する祭事として描かれているように、当社の大祓は古くから脈々と続いていた事を示している。
江戸時代から夏越の祓をする貴重な神社だったと云える。

江戸名所図会に描かれた当社と真先稲荷

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「石濱神明宮」と描かれたのが当社であり、当時から見事な境内であったのが伝わる。

(江戸名所図会)

当社の社殿を中心に拡大したのが上図。

境内はとても広く数多くの境内社を有した。
社殿は実に立派で見事だったのも窺える。
中世から大社として信仰を集めた当社であるが、江戸時代になっても大社としての面影が残っている。

(江戸名所図会)

「真先稲荷」を中心に拡大したのが上図。

当社の下側に鎮座していた「真崎稲荷社(真先稲荷神社)」。
当社と共に崇敬を集めた当社の摂社であり、当社と並ぶように鎮座していた。
多くの鳥居が設けられ、社殿も立派なものが用意されていた。

歌川広重など数多くの浮世絵の題材に

江戸時代の当社は景勝地として知られた。

隅田川を渡る最古の渡し「橋場の渡し」が近くにあった事、東に隅田川、西に霊峰・富士山、北に名山・筑波山といった名勝に恵まれた事による。

数多くの浮世絵の題材として取り上げられたのがその証拠で、特に歌川広重が好んで描いた。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

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歌川広重による『東都名所図絵』では「隅田川渡しの図」として描かれている。

左手にあるのが「橋場の渡し」であり、小さく「真先稲荷神社」と当社。
そして正面には筑波山を見る事ができ、名勝として人気が高かった。

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広重による『東都名所』から「真崎暮春之景」。

同じような構図であるが当時の橋場の渡しと隅田川の様子を見る事ができる。
左手の鳥居が「真先稲荷」の鳥居で、その奥にあるのが当社へ繋がる一之鳥居。
奥には筑波山を望む事ができ、やはり美しい景観。

右手に描かれたのが「水神の森」で現在の「隅田川神社」。
隅田川神社 / 東京都墨田区
隅田川一帯の守り神・水神さま。旧隅田村鎮守。水神が亀に乗り現れる。水神の森と呼ばれた当地。狛犬ならぬ一対の狛亀。歌川広重が浮世絵で描いた水神の森。源頼朝が当社へ祈願した伝承。首都高建設で現在地へ遷座。江戸時代の社殿。御朱印。ポストカード。

%e7%9c%9f%e5%b4%8e%e3%81%ae%e5%a4%a7%e9%9b%aa(東都名所)

広重の『東都名所』より「真崎雪晴ノ図」。

美しい雪景色の当地周辺を描いており、やはり「真先稲荷神社」を描いている。
右手にある鳥居が当社へ続く参道の一之鳥居で、奥にうっすらと見えるのが当社。

(名所江戸百景)

広重による『名所江戸百景』から「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」。

当社側から関屋方面を見た様子を描いたもの。
この構図は当社のオリジナル御朱印帳にも採用されている。

他にも数々の浮世絵で描かれており、当社と摂社「真先稲荷神社」は江戸庶民から崇敬を集めた神社であり、景勝地でも人気であった。

当社が描かれた浮世絵については公式サイトでも数多く公開している。
http://www.ishihamajinja.jp/ukiyoe/index.php

明治以降の歩み・戦後の遷座

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、郷社に列した。

明治二十二年(1889)、町村制が施行され当地は地方橋場町(後の南千住)となる。
橋場周辺の総鎮守として多くの崇敬を集めた。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが当社の鎮座地で今も昔も変わらない。
橋場や真先といった地名も見る事ができる。
緑円で囲ったのが橋場の渡しで、現在の白鬚橋のあたりにあった隅田川最古の渡船場。

大正時代まで橋場の渡しが機能
白鬚橋が架かったのは大正三年(1914)のこと。
近在の人々によって設立された白鬚橋株式会社が造った木橋であった。
橋に番小屋を置き、大人一人1銭の通行料を取ったが、当時はまだ渡し舟も多く走っていたため経営は苦しく、後に橋の維持に支障をきたすようになり、大正十四年(1925)に東京府が買い取り。
関東大震災後の震災復興事業の一環として現在の橋に架け替えられ、渡し船も消滅していく。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
大正十五年(1926)、関東大震災による震災復興事業の影響もあり摂社「真先稲荷神社」とその奥宮「招来稲荷神社」が当社境内に遷座。

浮世絵に描かれた姿はこの頃を境に見れなくなったと云える。

昭和九年(1934)、放火とみられる火災で社殿が焼失。
昭和十二年(1934)、建築家である伊東忠太設計により本殿が建立。

伊東忠太(いとうちゅうた)
明治から昭和期の建築家で、日本建築史を創始。
それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めた人物。
昭和十八年(1943)には建築界で初めて文化勲章を受賞し日本建築を見直した第一人者。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって境内の多くが焼失。
幸いにも本殿の焼失は免れ、戦後に諸施設が再建。

昭和六十三年(1988)、白ひげ西地区再開発事業によって境内をやや東の当地に遷座。
拝殿などもこの時に新築されている。

その後も境内整備が行われ現在に至る。

境内案内

御鎮座1,300年記念事業で整備・石濱茶寮〜楽〜

南千住駅から東の隅田川沿い白髭橋の近くに鎮座。
鳥居より手前は2024年の御鎮座1,300年記念境内整備計画で整備された一画。
手前には水琴窟。
さらに御神水なども整備。
参拝時はつつじも綺麗であった。

この一画に2020年オープンしたのが「石濱茶寮〜楽〜」。
江戸時代に浮世絵にも描かれた境内茶屋で名物だった豆腐田楽などを用意した飲食店。

石濱茶寮 | 石浜神社
石濱茶寮〜楽〜
営業時間:11:30-21:00(LO.20:30)
定休日:水曜日

文化財となっている二基のカマボコ型な石浜鳥居

石濱茶寮のある一画を抜けると、大きく取られた参道の入り口に立派な大鳥居。
一之鳥居は安永九年(1780)に建立されたもので、荒川区登録有形文化財。
笠木の断面がカマボコ型となっている石浜鳥居。

石浜鳥居(いしはまとりい)
笠木の断面がカマボコ型となった当社の鳥居。
おそらく全国的にも当社のみに見られる非常に珍しい鳥居のため、当社の名を取り「石浜鳥居」と称される。

一之鳥居の先には二之鳥居。
二之鳥居は一之鳥居より更に古い寛延二年(1749)に建立され、こちらも荒川区登録有形文化財。
一之鳥居と同様に笠木の断面がカマボコ型となっている石浜鳥居。

参道の先、左手に手水舎。
大きな龍の吐水口。
存在感のある龍が水盤にくっついている。

注連柱とその先にある立派な社殿

参道途中に昭和六十三年(1988)建立の注連柱。
「修理固成 光華明彩」の文字が特徴的。

修理固成 光華明彩(しゅうりこせい こうかめいさい)
「修理固成」は、『古事記』に記されている言葉で、イザナギ・イザナミが「このただよへる国を修(おさ)め理(つく)り固め成せ」として、国土を創世のために天の沼矛を授かった言葉。
「光華明彩」は、日本書紀に記されている言葉で、天照大神を「はなやかに光り麗しく国中を照らし」として万物は育成すると形容した言葉。
当社との関連は不明ながら、神道十三派の一つ教派神道の神道修成派では、この八字を御称号としている。

注連柱の先に立派な神明造の社殿。
拝殿は昭和六十三年(1988)に当地に遷座した際に新築されたもの。
神明造で少し変則的ながら大変立派な造りとなっている。
木造の美しい社殿。
本殿は昭和十二年(1934)伊東忠太設計により造られたもの。(覆殿になっていて中に本殿が納められている)

拝殿前に一対の狛犬。
大正四年(1915)に奉納された狛犬。
立体感のある毛並みが特徴的。

一般的には見る事が叶わないが、本殿の近くには麁香神社(あらかじんじゃ)が鎮座。安永三年(1774)に建造されたものと伝わっている。大工の祖神・工匠守護として建築関係者から崇敬を集めた。

摂社の真先稲荷神社と奥宮の招来稲荷神社

拝殿の右手には境内社が並ぶ。
左より江戸神社、北野神社、妙義八幡神社、寿老神、宝得大黒天、真先稲荷神社。

多くが江戸時代の頃より当社の境内社として鎮座しており、遷座した際にこうしてまとめられた。

中でも有名なのが摂社・真先稲荷神社。
江戸時代の頃より浮世絵の題材として多く取り上げられた神社であり、本社である当社よりも「真先稲荷神社」のほうを多く見る事ができるくらいに知られていた。
かつては当社に隣接するように鎮座していたが、関東大震災の影響もあり大正十五年(1926)に当社境内に遷座した。

石浜城城主となった千葉之介守胤が、一族一党の隆昌を祈って宮柱を築き、先祖伝来の武運守護の尊い宝珠を奉納安置したと伝えるお稲荷様。「真先かける武功」という意味にちなみ、真先稲荷として世に知られたと伝わる。

真先稲荷の奥宮として設けられたのが招来稲荷神社。
真先稲荷神社と共に大正十五年(1926)に当社境内に遷座。

江戸庶民からは奥宮・招来稲荷神社の人気が高く、門前の茶屋の田楽が評判だったと伝わる。

江戸後期の随筆家・喜多村筠庭は風俗百科事典『嬉遊笑覧』にこう記している。

かたはらに野狐の住める穴あり。真崎いなりの奥の院とぞ、志願あるもの、狐の好む食物を用意して、此穴際に来り。神主は御出々々と手をうてば、狐出てこれを食ふ。食はざるは願かなはずなん。(嬉遊笑覧)

穴の前に油揚げを置いて、神主が「おいでおいで」と手を打って、出てきて食べてくれれば願いが叶うというエピソード。そこからこの神社は「招来(おいで)稲荷」となった。

この狐穴はいまも白狐祠として祀られている。
赤い鳥居の先が白狐祠であり、逸話によるもの。
こちらも真先稲荷や招来稲荷と共に境内に遷された。

富士塚・庚申塔・力石など

白狐祠の右手には富士塚や庚申塔。
当地周辺の信仰を知る事ができる。

富士塚(ふじづか)
富士信仰(浅間信仰)に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。
本物の富士山に登拝するのは困難でも富士塚に登って富士を拝めば霊験あらたかとされ、江戸を中心に関東圏には数多くの富士塚が築山される事となった。
庚申塔(こうしんとう)
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。

近くには獅子頭。
神楽獅子の姿。

その向かいには数多くの力石や歌碑。
当地の歴史が伝わる。

池波正太郎著『剣客商売』の舞台にも

真先稲荷神社は、池波正太郎の小説『剣客商売』の舞台としても知られる。

剣客商売(けんかくしょうばい)
池波正太郎による時代小説。
1972年から1989年まで『小説新潮』で断続的に連載された作品で、テレビ・舞台・漫画化されていて、『鬼平犯科帳』や『仕掛人・藤枝梅安』(必殺仕事人)と並ぶ池波正太郎の代表作。

『剣客商売』では、主人公の1人である秋山大治郎が、真先稲荷神社の近くに道場を構えたという設定になっていて、池波正太郎ファンの方にはお馴染みのエリアである。

荒川が大川(隅田川)に変って、その流れを転じようとする浅草の外れの、真崎稲荷明神社に近い木立の中へ、秋山大治郎が無外流の剣術道場をかまえてから、そろそろ半年になろうか。(剣客商売)

絵図や浮世絵を見るからに当時の真先稲荷神社の裏手のあたりが秋山大治郎の道場。
現在の白髭橋近くだと思われる。
いわゆる聖地巡礼のように、参拝に訪れる方もいるようだ。

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石濱神社と真先稲荷の御朱印・浅草名所七福神の寿老神

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

御朱印は「石濱神社」の御朱印の他、境内社「真先稲荷神社」、浅草名所七福神「寿老神」の御朱印も頂ける。

御朱印は「石濱神社」の朱印、御祭神の「天照皇大神」の印。
浅草地方橋場町鎮座の印も押されている。
江戸時代の頃から当社と共に信仰を集めた摂社・真先稲荷神社の御朱印も頂ける。

また当社は「浅草名所七福神」の寿老神も担う。
寿老神の御朱印も頂く事ができる。

浅草名所七福神

広重の名所江戸百景をデザインした御朱印帳

オリジナルの御朱印帳も用意。
上述した歌川広重が『名所江戸百景』で描いた「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」の絵柄をデザイン。
金の箔押し仕様。
紫色、青色、臙脂色の3色展開。

2024年は御鎮座1,300年・限定御朱印も

令和六年(2024)は御鎮座1,300年の節目の年。
5月24日-26日は御鎮座1,300年奉祝大祭が行われた。
5月26日には群馬県下仁田町に譲渡されていた江戸山車と人形が118年ぶりに里帰り。
5月24日宵宮午前中に撮影した宮神輿。
準備中の町神輿。

御鎮座1,300年記念に特別御朱印も授与。
和紙に手書きで墨書きされた特別御朱印。
印は明治時代に使われていたものを復刻したと云う。

所感

橋場一帯の鎮守として崇敬を集めた当社。
聖武天皇の勅願によって創建、源頼朝の社殿寄進など、中世には大社として発展し、江戸時代も庶民からの崇敬が篤く、景勝地としても人気を博した神社であった。
特に摂社の真先稲荷神社は当社と共に浮世絵の題材としても多く描かれている。
現在も見事な境内を維持しており、今もなお多くの崇敬を集めている事が伝わる。
新しい拝殿と、歴史を感じさせる建造物や奉納物、そして多くの境内社や摂社などがうまく融合しており、とても心地よい空気を感じる境内。
御鎮座1,300年にあたり境内がさらに綺麗に整備された。
東京を代表する一社であり良い神社である。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※境内社「真先稲荷神社」、浅草名所七福神「寿老神」の御朱印も頂ける。

最新の御朱印情報
1月1日-年内は「御鎮座壱千参百年記念御朱印」
※書き置きのみ。年内の授与予定だが和紙の都合で数量限定になる可能性もあり。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
表面には金の箔押しで歌川広重が描いた『名所江戸百景』より「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」の絵柄をデザイン。
裏面には社紋と社号。
中の紙はクリーム色。
紫色、青色、臙脂色の3色。

参拝情報

参拝日:2024/05/24(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2019/12/16(御朱印拝受)
参拝日:2016/10/19(御朱印拝受)

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