橘樹神社 / 神奈川県横浜市

神社情報

橘樹神社(たちばなじんじゃ)

御祭神:素盞男尊
旧社格:村社
例大祭:6月第2土・日曜
所在地:神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町1-8-12
最寄駅:天王町駅
公式サイト:─

御由緒

当神社は、文治二年(1186年 約八百三十年前)源頼朝公天下の平和を賀し国中の大小の神衹に奉幣し祭祀の典を行った時の創建と伝えられる、即ち京都の衹園社(現在の八坂神社)の御分霊を勧請奉祀した。故に当社も衹園社 牛頭天王社 天王宮 橘樹社等社名が変わり大正十年正式に現在の社名となった。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/01/06

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

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考察

保土ヶ谷のお天王様

神奈川県横浜市保土ヶ谷区天王町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧帷子町(現・天王町)や旧岩間町などの鎮守。
祇園信仰の神社であり「保土ヶ谷のお天王様」と呼ばれ親しまれている。
現住所の天王町は当社が鎮座している事が由来となっている。

源頼朝の時代に創建・祇園信仰の神社

社伝によると、文治二年(1186)に源頼朝が、天下の平定を祝し国中の大小神祇を奉幣して祭祀を行った時の創建と伝えられている。

祇園信仰の総本社である京都「祇園社(現・八坂神社)」から勧請したため、当社も「祇園社」と称された。

祇園信仰とは、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王(ごずてんのう)を祀る信仰の事。
牛頭天王は神仏習合の元、スサノオと習合したため、明治の神仏分離後は、御祭神として素盞鳴尊を祀る神社となっている事が多い。
京都祇園の「八坂神社」を総本社としている。
八坂神社 京都市東山区 祇園さんとも呼ばれています。由緒や年中行事、祇園祭について紹介。

古くは現在の保土ケ谷区西久保町にある「安楽寺」の場所に当社が鎮座していたと云う。

中世以降は度重なる兵火に遭う

永正七年(1510)、関東管領・扇谷上杉家の家臣であった上田蔵人が、小沢原の戦いにおいて、当社やその周辺を兵火で焼いてしまう。
永正八年(1511)、社殿の再建を行ったと伝えられている。

このように中世になると度重なる兵火によって社殿などを焼失。
史料なども失われており、あまり詳しいものは残っていない。

再建や復興を繰り返すうちに現在の鎮座地に遷座したものと思われる。

浮世絵で見る江戸時代の程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)

江戸時代に入ると、慶長六年(1601)に徳川家康によって「五街道整備」が行われる。
これによって5つの街道と、それぞれの宿が制定され、街道の1つとして東海道が成立。
それぞれの宿駅は「東海道五十三次」と称された。

当地周辺は、東海道五十三次の4番目の宿場「程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)」であった。
保土ヶ谷宿は程ヶ谷町、岩間町、神戸町、帷子町の4つの町家からなり、当社は帷子町に鎮座。
帷子町や隣町の岩間町の鎮守として崇敬を集め、「牛頭天王社」と呼ばれていた。

(歌川広重・東海道五十三次)

こちらは歌川広重の代表作『東海道五十三次』に描かれた保土ヶ谷宿。
帷子川に架かる帷子橋という橋を描いている。

現在は川の流れが変わっており、この橋はなくなってしまっているのだが、現在の天王町駅前付近の様子。
駅前に「天王町駅前公園」(岩間町1丁目)があり、そちらにこの広重の浮世絵を模した一角がある。

東海道の宿場町として発展した保土ヶ谷宿の一角に鎮座していた当社は、「保土ヶ谷のお天王様」と呼ばれ崇敬を集めたようである。

江戸時代の史料・後ろ向きの天王様の伝説

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(帷子町)
牛頭天王社
帷子川の邊縄手にて江戸の方より宿へ入る所の右にあり。相傳ふ當社の神体はもと佛向村の内宝寺と号する寺にありしものなりしが、戦争の間破却せられし頃、此神体帷子川へ入て流れ来きたりしを、其の邊の百姓等三人にて取あげ、今の所へ社を造りまつれりと、此によりて今も社修造の後遷坐のたびごとに、彼三人の子孫進退せりと云。本社七尺四方、東に向ふ。神体秘物なればとて後へそむけて坐せり。故に祈願の事ある者は社の後の方へ廻りて拝すと云。拝殿は三間に二間これも東向なり。例祭六月十五日なり。村内遍照寺持。
末社
五坐相殿社。本社の左の方にあり。山王權現天神三寶荒神第六天藏王權現の五社なり。小祠。
四坐相殿社。本社の右の方にあり。御嶽權現稲荷八八幡宮宮辧財天の四坐を合祀せり。

帷子町の「牛頭天王社」と書かれたのが当社。
別当寺は「遍照寺」(現・保土ケ谷区月見台)であった。

また、御神体について詳しく記述されているのが興味深い。
これによると、佛向村(現・保土ケ谷区仏向町)にあった「内宝寺」が戦乱によって廃寺。
「内宝寺」の寺宝が帷子川に流れていたのを、当地の百姓3人が拾い上げ、当社の御神体として祀ったと記されている。
この御神体は秘物につき後ろ向きに置かれていたと云う。

昭和初期の『神奈川県神社写真帖』によると、こうした後ろ向きに置かれた御神体によって「後ろ向きの天王様」とも称されていたと云う。
御神体の正面に向かえば不思議と御神像から光にさして拝む事ができず、それならばと秘物にして後ろ向きの安置としたという伝説。

こうした伝説によって、当社には社殿の裏に回って、御神体の正面から拝むつもりで詣でるという土着の俗習が発生していたようで、江戸時代から戦前頃まではこうして拝む人々が多かったと云う。

また「社修造の後遷坐のたびごと」とあるように、度々遷座が行われたようだ。
この事は隣町である岩間町「安楽寺」(現・保土ケ谷区西久保町)の項目にも記されている。

牛頭天王社
今は社なくして暫く仮殿に安ず。岩間町の鎭守にして昔はここに社ありしと云。

これが当社であったと見られており、現在の鎮座地に遷座する前は岩間町の鎮守として、「安楽寺」付近に鎮座していた事が分かり、江戸後期には旧鎮座地には仮殿のみ残されていたようだ。

『新編武蔵風土記稿』に記された後の、天保十三年(1842)には当地の代官や名主・年寄など氏子崇敬者によって社殿の再建が行われている。

明治と大正の歩み・橘樹神社への改称

明治に入り神仏分離。
明治六年(1873)、村社に列する。

明治二十二年(1889)、市町村制施行によって、橘樹郡の保土ヶ谷町・上岩間町・下岩間町・上神戸町・下神戸町・帷子町・帷子田町・帷子上町・岡野新田が合併して保土ケ谷町が成立。
これが後の保土ケ谷区の基礎となっていく。

大正五年(1916)、神饌幣帛料供進社に指定。

大正十年(1921)、現在の「橘樹神社」へ改称。
これは当地が橘樹郡に鎮座していた事によるもの。

余談になるが関東圏には「橘樹神社」の社号の神社がいくつか鎮座していて、その多くが日本武尊と妃の弟橘媛の伝説を基にした神社である。
千葉県茂原市の上総国二之宮「橘樹神社」が特に有名である。
しかしながら、当社は祇園信仰の神社であり、橘樹の社号の由来がこれらの神社とは違うため関連性はない。

橘樹神社 / 千葉県茂原市
上総国二之宮。式内社。弟橘媛・日本武尊の伝説。弟橘比売命御陵(古墳)。吾妻池。御朱印。御朱印帳。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
社殿が大破する被害を受けている。

昭和以降の歩み・天王町の地名由来・戦前の古写真

昭和二年(1927)、保土ケ谷区が成立し、当地周辺は天王町となった。
この天王町の地名は、「牛頭天王社」と称された当社が鎮座している事に由来するもの。
なお、この後の昭和五年(1930)には天王町駅が開業している。

昭和四年(1929)、新しい社殿にて再建。
こうして関東大震災からの復興を遂げる事となる。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

上の写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
再建された戦前の社殿の様子を見る事ができる。
この後に戦災によって焼失してしまうのだが、現在と造りもかなり近いのが分かる。

昭和二十年(1945)、横浜大空襲によって被災。
建物の一切を焼失し、多大な被害を受ける事となる。

昭和二十六年(1951)、現在の社殿が再建される。
昭和三十六年(1961)、神楽殿などが造営。
このように戦後になり境内整備も進み、現在に至っている。

綺麗に整備された境内・戦後再建の社殿

最寄駅の天王町駅からは徒歩数分で、帷子川を渡った先に鎮座。
商店などが並ぶ発展したエリアに鎮座していて、社頭は人通りも多く、当社へ参拝する方も多い。
鳥居は大正十四年(1925)に建てられたもの。
綺麗に整備された境内となっていて丁寧に管理されている様子が伺える。

参道の右手に手水舎。
昭和三十六年(1961)に整備された際に新しく造られたと云う。

社殿は戦後の昭和二十六年(1951)に再建されたもの。
総檜の権現造となっており、状態もよく管理されている。
都市部に再建された神社は鉄筋コンクリート造の社殿も多い中、こうして旧社殿にかなり近い総欅造りで再建されたのは、氏子崇敬者による気持ちによるものであろう。

境内社は境内の右手に神明社。
天照大神・稲荷大神・猿田彦大神をお祀りしている。

社殿裏手の駐車場近くには神楽殿。
昭和三十六年(1961)に造営されたもの。

当地周辺の歴史を伝える境内

社殿などは空襲によって全焼してしまったため、戦後の再建となっているが、当社の境内には当地周辺の歴史を伝えるものが多く残っている。

参道の両脇にある一対の狛犬。
こちらには嘉永五年(1852)や願主などの文字が彫られている。

社殿の左手奥には江戸時代に地域の若者が力比べをした力石。
さらにその奥にあるのが石盥盤。
延宝六年(1678)に奉納されたものだと云う。

さらに社殿後方左手には、古い庚申塔が並ぶ。
いずれも江戸時代のもので、特に古いのが寛文九年(1669)の庚申塔。
こちらは横浜市内最古の庚申塔と伝えられている。

その隣には不動堂である「神田不動尊」が鎮座。
文化八年(1811)の銘があるが、昭和十年(1935)に模して再建されたものだと云う。
神仏分離が進んだ中、こうして境内に不動堂が残されているのは珍しい。

参道途中には明治天皇東幸遺蹟碑。
境内を浄地として内待所を奉安したため、この記念碑が建立された。

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。
この社務所の左手には立派な参集殿も用意されている。

所感

天王町周辺の鎮守である当社。
かつては保土ヶ谷宿の一角として発展し、現在の天王町の地名や駅名は、当社に由来したものであり、こうした事からも当地周辺の中心であった事が伺える。
中世には幾度もの兵火に遭い、関東大震災での被災や、横浜大空襲での全焼など、憂き目に遭いながらもその度に再建されており、現在も綺麗に整備された境内を有しているのは、氏子崇敬者からの崇敬の賜物であろう。
現在の社号は「橘樹神社」であるが、古くから「保土ヶ谷のお天王様」と親しまれたように、今も「天王さま・天王さん」と呼ぶ方も多く、地域から愛される神社である。

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神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]


[ 狛犬 ]


[ 神明社 ]


[ 明治天皇東幸遺蹟碑 ]

[ 参集殿 ]

[ 社務所 ]

[ 御神木 ]

[ 力石 ]

[ 石盥盤 ]

[ 南西鳥居 ]

[ 庚申塔 ]


[ 神田不動尊(不動堂) ]


[ 神楽殿 ]

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