神社情報
神明社(しんめいしゃ)
御祭神:天照皇大神(本社)・豊受大御神(摂社)
社格等:村社
例大祭:8月第4土・日曜
所在地:神奈川県横浜市保土ケ谷区神戸町107
最寄駅:天王町駅
公式サイト:https://www.shinmeisya.or.jp/
御由緒
今から一千年以上むかし、保土ヶ谷の地が榛谷と呼ばれていた平安時代の中頃、天禄元年(970)当社の御祭神・伊勢の天照大御神が、武州御厨の庄の内、榛谷の峯に影向し、それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年(1225)神託があって、神明の下宮を造り、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数10人の禰宜・社人・供僧・巫女が仕え、年に七十五度の祭祀を営み隆盛を極めたという。
その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年(1590)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、四石一斗の御朱印地が安堵された。また元和五年(1619)宮居を神戸山々頂から現在の場所に遷し、社殿の造営・境内の整備が行われた。
明治二年の修営には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の御用材を下賜された。明治六年村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
平成十年、鎮座1030年祭・当地遷座770年祭・伊勢神宮鎮座2000年祭を記念して「平成の大造営」が行われ、380年ぶりに本社・摂末社・神楽殿等総ての境内建物十二棟が一新された。
平成十二年、神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定された。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2019/12/23(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/01/06(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
授与所にて。
授与品・頒布品
交通安全ステッカー
初穂料:300円
授与所にて。
歴史考察
旧神戸町や程ヶ谷町鎮守のお伊勢さま
神奈川県横浜市保土ケ谷区神戸に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧神戸町・旧程ヶ谷町の鎮守。
かつて「伊勢神宮」の荘園であった榛谷御厨の総鎮守とされ、そのため「伊勢神宮」のように本社(内宮)に天照大御神を祀り、摂社(外宮)に豊受大御神を祀る。
現在は神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定されており、地域を代表する一社である。
平安時代創建の古社・神戸(ごうど)に鎮座
社伝によると、天禄元年(970)に創建と伝わる。
天照大御神が榛谷(はんがや)と称された当地周辺の峰に影向。
これが当社の起源とされている。
高天原(たかあまはら)を統べる主宰神で、皇祖神であり日本国民の総氏神。
「伊勢神宮」内宮の主祭神として特に知られる。
全国の「神明神社」「天祖神社」なども天照大御神を祀る神社。
その後、川井・二俣川・北保土ヶ谷宮林へ3度遷座。
嘉禄元年(1225)、神託によって下宮を造り、当地を「神戸(ごうど)」と号した。
神宮寺を「満福寺」と名付け、経蔵堂を「神照寺」と称したと云う。
神戸山と呼ばれた山の頂きに鎮座していたとされる。
伊勢神宮の荘園である榛谷御厨の総鎮守
保安三年(1122)、当地一帯を支配していた小山田氏(秩父氏の一族)が、当地周辺を「伊勢神宮」へ寄進し、榛谷御厨が成立。
平安時代末期に「伊勢神宮」に寄進された当地一帯の荘園。
古くから榛谷(はんがや)と称された土地であったため、榛谷御厨と称された。
小山田家の祖・小山田有重の四男・重朝が、支配を任された榛谷御厨に因んで榛谷氏を称した。
榛谷重朝(榛谷四郎)と称し、鎌倉幕府の御家人として当地を支配したと伝わっている。
当社は「伊勢神宮」の荘園であった榛谷御厨の総鎮守とされた。
広大な社領を所有し隆盛を極めたと云う。
中世の衰退・江戸時代の再興・朱印地を賜る
中世以降は、戦乱の世において一時衰退。
当地を支配した榛谷氏は元久二年(1205)に畠山氏と北条氏の抗争に巻き込まれ滅亡。
榛谷氏が滅亡後は鎌倉幕府に没収され、室町時代は公卿・西園寺公重の支配、更に後北条氏が支配した事で一帯は分与され消滅した。
天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
その際に当社の社殿が再建され、四石一斗の朱印地を賜っている。
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。
元和五年(1619)、神戸山の頂から現在地に遷座。
社殿の造営・境内の整備が行われた。
江戸時代の当地周辺は、程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)の一画として発展。
東海道近くの神社として地域や旅人からの崇敬を集めたと云う。
浮世絵で見る江戸時代の程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)
慶長六年(1601)、徳川家康によって五街道整備が行われる。
東海道の宿場は「東海道五十三次」と称され、当地周辺は4番目の宿場「程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)」として発展した。
保土ヶ谷宿とも記す。
東海道五十三次の4番目の宿場で、武蔵国最西端の宿場。
程ヶ谷町(保土ヶ谷町)・岩間町・神戸町・帷子町の4つの町からなる。
当社は程ヶ谷宿のうちの神戸町に鎮座。
神戸町と程ヶ谷町の鎮守として崇敬を集めた。
帷子川に架かる帷子橋と呼ばれた橋を描いている。
現在は川の流れが変わっているため、帷子橋はなくなってしまっているが、現在の天王町駅前付近の様子。
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。
東海道の宿場町として発展した程ヶ谷宿の一画に鎮座していた当社は、伊勢詣に向かう旅人たちが立ち寄ったと思われる。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(神戸町)
神明社
神戸町の内にあり。下岩間町まで大門通れり。今保土ヶ谷及び神戸町の鎮守とす。四石一斗の御朱印は慶安元年に賜へりと云。社地も其内なれば別に歩敷も定らず。此餘田畑四ヶ所皆此近きあたりにあり。按に天文二十四年しるせしと云。當社の縁起に天禄元年庚午伊勢太神宮武州御厨屋の庄、榛谷の峯に影向あり、それより川井へうつりたまひ、又二俣川へ鎮座あり。其後又下保土ヶ谷の宮林と云所へ移りたまひしかば、同所八坂と云所に祀れり。この後二俣川の宮を假宿と號しけり。然るに嘉禄元年神託ありて宮作りのことを起こけるといへり。今神主かもとに傅ふる所はこの時始て鎮座なしけるやうにもいへり。もとより天禄の影向と云ものはいとふるき世の事なれば、果して其實をつたへしや否を知へからず。祭禮毎年六月十六日、九月十六日。
鳥居。神戸町の中ほど坤のにあり。木にて造れり。
大門。両脇にわつかの石垣あり。高さ二尺ばかり、上に竹の矢來をなせり。この所は前に今井川流れて一の鳥居より十二町ばかりをへたつ。
石鳥居。大門の内にあり。
拝殿。石鳥居より十二三丁程の間をへたててあり。
本社。二間四方、東南に向てたてり。この社へ御打入の後、再まて造営ありしと云。棟札の文に云、武蔵國榛谷御厨八郷の鎮守保土ヶ谷神戸村元和五年己未年彌生とありて、裏に但馬守越後守和田村田口平兵衛青木隼人佐星川郷和山加兵衛小帷子足立久右衛門苅部清兵衛丹解和泉守家秀小野筑後守岡崎米田皆平柏木七九郎なと交名見え、又その後に修造のときの棟札あり。權大僧都覚祐としるせり。其年代は傅へす。
末社
五坐相殿社。社地に入て左の方にあり。豊受大神宮日神天神切部見目の五座の神を祀れり。
四座相殿社。本社の左の方にあり。月神雨神風神山神等の四坐を祀れり。
御嶽社。社の後の方にあり。
神主岡部形部。(以下略)
神戸町の「神明社」と書かれたのが当社。
「保土ヶ谷及び神戸町の鎮守とす」とあるように、保土ヶ谷町や神戸町の鎮守であり、程ヶ谷宿の多くの部分の鎮守とされていた事が窺える。
また上述した社伝に関する内容も詳しく記されている。
一之鳥居、大門、二之鳥居と長い参道があり、大変大きな社地を有していた。
このような様子は下の『江戸名所図会』で見る事ができる。
江戸名所図会に描かれた当社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「帷子里・神戸村・神明宮」として描かれた1枚。
当社は「神明宮」として描かれている。
2ページに渡り描かれており中々に広大な敷地、特に長い参道が特徴的だろう。
下の街道が東海道(現・旧東海道)であり、町家が並ぶ様子からも保土ヶ谷宿である事が分かる。
東海道に面して一之鳥居があり、長い参道が続き二之鳥居跡の文字も見る事ができる。
現在の大門通りが当社の参道だった。
大変多くの境内社を有していて、社殿はやや高台に鎮座。
かなり大規模な神社であったのが窺え、こうした様子からも崇敬の篤さが伝わる。
明治以降の歩み・平成の大造営
明治に入り神仏分離。
明治二年(1869)、明治天皇御東幸の際、保土ヶ谷宿の本陣・苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦(天皇陛下の御車)安置所の御用材を下賜され、社殿が修造された。
明治六年(1873)、村社に列し、神饌幣帛料供進社に指定。
明治二十二年(1889)、市町村制施行によって、橘樹郡の保土ヶ谷町・上岩間町・下岩間町・上神戸町・下神戸町・帷子町・帷子田町・帷子上町・岡野新田が合併して保土ケ谷町が成立。
これが後の保土ケ谷区の基礎となっていき、当社は保土ヶ谷町や神戸町周辺の鎮守を担った。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
「神明社」と記してあるように、地図上にも目印になる程の神社であった事が窺える。
保土ヶ谷町や神戸といった地名を見る事もでき、当社は一帯の鎮守であった。
やや黒つぶれした画像ではあるが、戦前の社殿の様子を見る事ができる。
元和五年(1619)に社殿が造営されてから、修繕をしながら残っていたものである。
昭和二十年(1945)、横浜大空襲によって境内の一部が被災。
社殿は焼失を免れている。
戦後になり境内整備が進む。
平成十年(1998)、鎮座1030年祭・当地遷座770年祭・伊勢神宮鎮座2000年祭を記念して「平成の大造営」が行われ、境内が大幅に整備。
当地に遷座以来、初めて社殿などが新築された。
平成十二年(2000)、神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
大門通り沿いに鎮座・長い参道が続く
最寄駅の天王町駅からは徒歩10分程の距離に鎮座。
大門通り沿いに鎮座している。
通りから入る形で鳥居。
平成の大造営で美しく整備された境内で、鳥居は平成八年(1996)に奉納されたもの。
鳥居を潜ると長い参道。
江戸時代は東海道から当社へ参道が伸びていて、今よりも更に広大であった。
整備された境内だが、計2万平方メートルにも及ぶ鎮守の社を有し、市街地の近くにありながらも優れた自然環境に恵まれている。
参道途中に古い一対の石灯籠。
寛政四年(1792)に奉納されたものが現存。
綺麗に整備された参道であるが、こうして古いものも残る。
長い参道の先に注連柱。
大祓が近くなるとここに茅の輪が用意される。
注連柱の先、すぐ左に手水舎。
センサー式で近づくと水が流れる仕組み。
本社である天照太神宮
参道の正面に立派な社殿。
社殿は平成十年(1998)の平成の大造営で新たに建てられたもの。
本社にあたり当社では天照太神宮と称している。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る社殿。
神明造になっておりとても立派な建物。
本社・天照太神宮の御祭神は天照大御神で、いわば「伊勢神宮」の「内宮」にあたる。
本社の右隣にある摂社・豊受大神宮
本社の右手に摂社の豊受大神宮。
こちらは拝殿と祈祷待合室を兼ねているが、この奥に豊受大神宮の本殿が鎮座。
元和五年(1619)に造営された旧本殿の木材を一部使用しているため、継ぎ接ぎのように見えるのが特徴的。
豊受大神宮の御祭神は、豊受大御神(とようけのおおみかみ)であり、いわば「伊勢神宮」の「外宮」にあたる。
清流人形流しができる神池・お水取りも可能
手水舎の近くには水神社。
近くには小さな神池が整備されている。
こうした水場の守護を行っており、御祭神は水波能女神・御井神。
神池では人形流しをする事ができる。
神池に浮かぶ数多くの人形。
水神社の近くにお水取り場所。
蛇口をひねると境内地下70mから汲み上げた井戸水の御神水。
数多くの境内社・本社の下を潜る参拝順路
本社の左手には稲荷社。
稲荷神である宇迦之御魂神の他、素盞鳴命も合祀されている。
その先には月読社と風宮。
いずれも「伊勢神宮別宮」として鎮座している。
参拝順路としてはここから右手、本社の下を潜る形になっているのが面白い。
こうして本社の下に通路が設けられている。
古い農耕具なども展示。
ここを通ると本社の右手に出る事ができる。
本社の右手には、三社が並ぶ。
日之王子社・切部之王子社・鹿島社の三社。
ここから摂社を迂回してさらに右手に天満宮。
その横に多くの境内社が並ぶ。
厳島社・見目社・山神社・山王社・白鳥社・火神社・雷神社となっている。
広大な社地は風致保安林・リスなど動物の生息も
当社は、境内地約1万平方メートル、神社林約1万平方メートルと合わせて2万平方メートルにも及ぶ鎮守の社を有した広大な神社となっている。
特に神社林は明治時代に「風致保安林」に指定。
伐採を禁じ保護された地域のこと。
自然林としての姿が残されている。
駐車場の隣が風致保安林の神社林で、現在は神戸緑地などと呼ばれる事が多い。
さらに背後の山は通称「神戸山」と呼ばれ、標高50-70mの丘陵地が続いている。
かつては当社もこの神戸山の頂きに鎮座していたと伝わる。
こうして自然林が保存された社地には、多くの生物が生息。
当社によく参拝する方は、そうした珍しい生き物を見かける事もよくあるそうなので、参拝の折には境内や神社林の木の枝などを注目してみるのも面白いかもしれない。
御朱印・安産祈願のアワビ絵馬
御朱印は中央は墨書きと重なっていて判別不能ながら、「神明社印」が左下。
保土ヶ谷神戸の文字。
当社の個性的な絵馬に「アワビ絵馬」がある。
アワビの殻の内側はキラキラ光っているため、目のパッチリした子供に恵まれると伝わる。
安産祈願向けにアワビの殻を使った絵馬があり、役目を終えると一箇所に集められる。
所感
横浜市内でも最も由緒の古い一社ともされる当社。
「伊勢神宮」の荘園であった「榛谷御厨」の総鎮守とされた当社。
保土ヶ谷宿が成立後は、その一画として発展し、有数の神社として崇敬を集めた。
平成になってからは「平成の大造営」によって、約380年ぶりに境内を一新。
新しく整備された社殿や境内はとても綺麗で、参拝者の事を考えられた造りにもなっている。
社地には古い自然林を残したままの神社林も有しており、広大な神社となっているのが特徴。
綺麗で整備された境内、広大な社地など、とても素敵な一社。
現在では神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定されているように、横浜市を代表する見事な一社であろう。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 石灯籠 ]
[ 注連柱 ]
[ 手水舎 ]
[ 本社(天照太神宮) ]
[ 摂社(豊受大神宮) ]
[ 水神社 ]
[ 神池(清流) ]
[ お水取り ]
[ 稲荷社 ]
[ 風宮・月読社 ]
[ 参拝順路 ]
[ 日之王子社・切部之王子社・鹿島社 ]
[ アワビ絵馬 ]
[ 天満宮 ]
[ 水盤 ]
[ 厳島社・目見社・山神社・山王社・白鳥社・火神社・雷神社 ]
[ 神楽殿 ]
[ 授与所 ]
[ 絵馬掛・御籤掛 ]
[ 社務所 ]
[ 神社林 ]
[ 神輿庫 ]
[ 山車庫 ]
[ 案内板 ]
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