北方皇太神宮 / 神奈川県横浜市

横浜市

神社情報

北方皇太神宮(きたがたこうたいじんぐう)

御祭神:天照皇大神
社格等:村社
例大祭:8月14日に近い土曜
所在地:神奈川県横浜市中区西之谷町73
最寄駅:山手駅・元町中華街駅
公式サイト:http://www.kitagatakoutaijinguu.com/

御由緒

 創建由来不詳なれど天永年間(1110-1112)勧請。
 新編武蔵風土記稿(1828)に「北方村字泉谷に太神宮あり」があり、本郷村の北に位置した北方村の皇太神宮は、横浜山手の高台に元は鎮座し、慶応年間、外国人居留地となり、明治三年(1870)現在地に鎮座した。
 北は横浜港を眺め、南は根岸森林公園を望み、東西に本牧、元町に通ずる山手地域と周辺の鎮守です。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2019/08/29

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

歴史考察

山手地域(旧北方村)鎮守の皇太神宮

神奈川県横浜市中区西之谷町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、横浜山手地域(旧北方村)の鎮守。
かつて北方村字泉と呼ばれた地に創建し、一帯は伊勢山(現在の山手地域)と呼ばれたと云う。
幕末に横浜が開港、その後は外国人居留地となったため現在地へ遷座。
現在は小さな神社となっているが、山手地域の鎮守を担う。

平安時代後期に創建・伊勢山と称された高台

社伝によると、天永年間(1110年-1112年)に創建と伝わる。

創建由来などは不詳と云う。

古くは北方村の高台に鎮座していて、これは現在の横浜山手地域にあたる。
伊勢信仰の当社が鎮座していた事から、一帯は伊勢山と呼ばれたとされる。

北方村(きたがたむら)
現在の山手町周辺の一部の旧村名。
久良岐郡本牧本郷村(現・本郷町)の北に位置していた事から付けられた地名。
旧鎮座地は現在の当社から見て北東、山手町の「ワシン坂上公園」付近で、見晴らしの良い高台であった。(当時は海が近く風光明媚な景色が見えたと思われる)

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(北方村)
太神宮
除地。五段。村の中程なり。東漸寺の持。

北方村の「太神宮」と記されているのが当社。
「村の中程なり」とあり、北方村の泉谷と呼ばれていた地域であった。

現在の鎮座地は北方村の南西にあたり、当時は西谷戸と呼ばれていた記述がある。現在の地名である西之谷町もその名残りであろう。
なお、「本牧十二天社(現・本牧神社)」の項目に境内社「若宮八幡社」が北方村の鎮守だったと記してあり、当社と共に北方村の鎮守であったようだ。

別当寺は「東漸寺」が担っていた。

「東漸寺」は村の北にあり、弘法大師(空海)作とも智証大師(円珍)作とも伝わる不動尊を御本尊とした寺院であった。

横浜開港・関内が外国人居留地となる

安政五年(1858)、江戸幕府がアメリカ合衆国と日米修好通商条約(安政五カ国条約)を締結。
これにより神奈川の開港が定められたものの、幕府は国防の面から東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け、対岸の寂れた漁村であった横浜村に開港場を新設することを決定。

神奈川宿(かながわしゅく)
東海道五十三次の3番目の宿場。
現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近。
近くには神奈川湊(かながわみなと)と呼ばれる港があった。

安政六年(1859)、横浜港が開港され貿易を開始。

横浜市は同年を開港年、6月2日を開港記念日に制定している。

(横浜交易西洋人荷物運送之図)

文久元年(1861)に歌川貞秀が描いた『横浜交易西洋人荷物運送之図』。横浜市立図書館」より引用。

横浜絵の第一人者と呼ばれた歌川貞秀の作品。
多くの外国の商船が往来している横浜を描いている。
古くは寂れた漁村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展していく。

横浜絵(よこはまえ)
江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式。
横浜港、商館風建物、異国人の風俗などが描かれているのが特徴。

古くは寂れた漁村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展。
周辺には外国人居留地が形成され、我が国最初の洋風の近代都市計画が導入された。

最初は横浜関内が外国人居留地として発展。

幕末に旧北方村が外国人居留地(現・山手地域)となる

慶応三年(1867)、北方村を中心とした周辺の村の高台部分が外国人居留地に指定。
外国人居留民の住宅やキリスト教系の学校などが建築される事となる。

これが現在の横浜山手地域。
山手と山下の地名由来
山手の地名は、最初に設置された関内の外国人居留地に対して、南の高台に設けられたことによる。
この事から山手に対して関内の外国人居留地は山下(現在は山下町や山下公園などに残る)とも呼ばれるようになった。

かつて伊勢山と称された高台に鎮座していた当社も、外国人居留地に含まれる事となり、移転を余儀なくされる。

現在地に遷座・明治以降の歩み・戦後の再建

明治になり神仏分離。
明治三年(1870)、現在地へ遷座。

幕末から外国人居留地となった北方村の高台エリアに鎮座していたため、北方村の南西であった西谷戸と呼ばれていた地に遷る事となった。

明治二十一年(1888)、社殿を再建。

明治三十二年(1899)、条約改正によって外国人居留地が廃止。
26か町の区域に山手町を設置し、これが現在の山手地域となっている。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地。
既に移転後のため明治の地図にも同じ位置に神社の地図記号が見える。
北方の地名も見る事ができ、当社は古くから周辺一帯の鎮守であった。

旧鎮座地は海の前の高台
橙円で囲ったのが旧鎮座地と見られる場所。
当時は新山下の埋め立ても行われておらず、海がとても近かった事が分かる。
こうした高台に鎮座し、さぞかし見晴らしのよい地だったのであろう。

大正八年(1919)、村社に列し、神饌幣帛料供進神社の指定を受けた。
同年に社殿の改築も行っている。

当社は山手町・上野町・北方町・千代崎町・麦田町の鎮守であった。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生し、鳥居や社務所が焼失。

山手地域は大きな被害を受けていて、以後は外国人居留民が激減した。

(神奈川県神社写真帖)

上画像は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。

「村社 、皇太神宮」として紹介されているのが当社。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が分かる。
旧社殿は神明造檜皮葺の社殿であった。

昭和二十年(1945)、5月29日に横浜大空襲が発生。
甚大な被害を受け、社殿が焼失。

昭和二十一年(1946)、社殿が再建。
昭和二十五年(1950)、神楽殿が再建。

平成六年(1994)、新社殿を造営。
これが現在の社殿となっている。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

本牧通り南の住宅街に鎮座する小さな神社

最寄り駅の山手駅からは徒歩10分ほどの距離。
本牧通りの上野町二丁目交差点を南へ進んだ住宅街に鎮座。
玉垣に囲まれた境内の比較的小さな神社。
平成三十年(2018)に建立されたばかりの社号碑。

鳥居のすぐ近くに一対の狛犬。
大正三年(1914)に奉納されたもの。
震災や戦火があった中、状態よく維持されている。

参道の左手に手水舎。
水が流れ身を清める事ができる。

平成になって新造営された神明造の社殿

参道の正面に社殿。
平成六年(1994)に造営された社殿。
旧社殿は戦災からすぐの昭和二十一年(1946)に復興を果たし、平成になって建て替えられた。
神明造で木目が特徴的な社殿。
戦前の社殿も神明造であったが、現在も神明造を維持している。
拝殿前には北方皇太神宮の木札。

境内社の福徳稲荷神社・小さな境内

社殿の向かい側、参道の左手裏に境内社。
福徳稲荷神社と称されるお稲荷様。

戦前の『神奈川県神社写真帖』には境内末社として諏訪神社、福徳稲荷が記載されているので、お稲荷様だけ残されている事になる。

社殿の右手に御籤掛・絵馬掛。
その右手に駐車場が広がり小さな境内となっている。

御朱印には朱印と山手の文字

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

御朱印は「北方皇太神宮」の朱印。
右下に山手と墨書きしてあり、山手地域の鎮守である事を伝える。

所感

横浜山手地域の鎮守である当社。
かつては海が近い高台(伊勢山)に鎮座し、風光明媚な地であったと推測できる。
幕末に外国人居留地に指定された事で、移転を余儀なくされ現在地に遷座。
その後は関東大震災や横浜大空襲といった被害を地域と共にし、再建と復興を果たした。
現在は小さな社地となっているが、今も山手地域の鎮守として崇敬を集めている。
横浜開港と外国人居留地となった山手地域の歴史を伝える良い神社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]



[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]


[ 社殿 ]






[ 絵馬掛・御籤掛 ]

[ 福徳稲荷神社 ]

[ 神楽殿 ]

[ 社務所 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

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