胡録神社 / 東京都荒川区

荒川区

神社情報

胡録神社(ころくじんじゃ)

御祭神:面足尊・惶根尊
社格等:村社
例大祭:6月1日
所在地:東京都荒川区南千住8-5-6
最寄駅:南千住駅・京成関屋駅・牛田駅・堀切駅
公式サイト:http://koroku.com/

御由緒

胡録神社は、永禄四年八月川中島合戦の折、上杉の家臣高田嘉左衛門(たかだかさえもん)なる者戦に敗れ、計らずも集いたる十二名の同志と、関東に厄難を逃れて落ちのび、当地の汐入に高田、竹内、杉本等数名と永住の地と定めて土着し、村落生活の安寧を祈願するため、守護神として永禄四年九月十九日、面足尊・惶根尊の両神を一祠に奉齋崇敬されたと伝えられます。
当社は古くは大六天と称したが明治二年太政官達により、神仏分離がされた際、往時武士が矢を支える武具を胡録と申した事と、また、当地汐入の生業として盛んであった胡粉作りの胡の字と大六天の六にあやかり、御社号を胡録神社と改称されました。
神殿は嘉永五年九月十九日改築造営されたものです。
汐入の辺りはその昔、蛎殻を石臼にかけ胡粉という人形の上塗りの塗料を造り出荷する生業が盛んであったが、境内には古き石臼が奉納されています。
八代目嘉左衛門の頃には、汐入大根の栽培地と変革し人気の高い作物であったが、今はその畑もなく、昭和末頃から汐入地区の再開発計画が進められ、平成の初期には見られた木造建築の旧家も取り壊され、多くの地主は、高層住宅へとその生活を移されました。
当社もその限りにあらず、平成十年の計画により、境内地を前方に遷座する事となりました。
平成十五年九月十九日には遷座を終え、竣工奉告祭が執り行われました。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2020/01/14

御朱印

初穂料:各500円
社務所にて。

※月替り・祭事や季節に応じて限定御朱印あり。
※境内社「道祖神」の御朱印もあり。
※不在時は社務所前に書き置き御朱印あり。

御朱印などの最新情報は公式Twitterにて。

[2019/12/04拝受]
(2020年正月)

[2015/08/12拝受]
(2020年)

歴史考察

旧汐入の鎮守・南千住の胡録神社

東京都荒川区南千住に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧橋場村汐入の鎮守。
神仏分離までは「第六天社」と称され、武蔵国中心に数多くあった第六天信仰の1社であった。
明治になり汐入の名産であった胡粉の「胡」と、第六天の「六」に因み「胡録神社」と改称。
都内東部から千葉西部にかけて「胡録神社」の社号の神社が幾つか鎮座するため、現在は「南千住の胡録神社」として信仰を集めている。
周辺の発展に伴い平成に入り境内をやや前方に移して遷座が行われた。

上杉謙信の家臣が落ち延び汐入の地に定住

社伝によると、創建は永禄四年(1561)と伝わる。
上杉謙信の家臣で高田嘉左衛門と云う者が「川中島の戦い」で敗れ、12人の同志と共に関東へ落ち延びたと云う。

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)
越後国(現・新潟県)の上杉謙信と、甲斐国(現・山梨県)の武田信玄の間で、北信濃の支配権を巡って幾度も行われた戦い。
天文二十二年(1553)から永禄七年(1564)にかけて第五次合戦まで行われた。
中でも永禄四年(1561)に行われ、最大の激戦となった第四次合戦が川中島(現・長野県)を中心に行われた事から総称して「川中島の戦い」と呼ばれる。

嘉左衛門らは橋場村の汐入(しおいり)と呼ばれたに土着し、鎮守として当社を創建したと伝わる。
神仏習合の時代は「第六天社」と称された。

御由緒には面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)の両神を祀り創建とあるが、神仏習合の時代は「第六天社」と呼ばれたように第六天魔王を祀っていたとみられる。

第六天魔王を祀る第六天社として創建

「第六天社」と称された当社は、神仏習合の時代に第六天魔王を祀っていた事が分かる。

第六天魔王(だいろくてんまおう)
天魔とも称される魔。
第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位にある他化自在天(たけじざいてん)を云う。
仏道修行を妨げている魔王と畏れられ、織田信長は第六天魔王を自称したと云う伝承でも知られる。

第六天魔王を祀る「第六天神社」は、関東圏、特に武蔵国に多く創建された神社。

江戸時代の地誌『新編武蔵国風土記稿』には300社以上もの数を見る事ができる。

悪疫退散の御神徳を念じて祀られる事が多く、当社もそうした信仰の中で創建されたのであろう。

明治の神仏分離によって多くの第六天信仰の神社では、改称・御祭神の変更が行われ、当社もその流れを汲む。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(橋場町在方分)
第六天社
小塚原町熊野別当圓蔵院持。

橋場町在方分の「第六天社」として記されているのが当社。
町奉行所による支配となった橋場町の外れにあった事が分かる。
当時、当地周辺は「汐入(しおいり)」と呼ばれていた田舎村であった。

「小塚原町熊野(南千住熊野神社)」の別当であった圓蔵院(現・廃寺)が、当社の別当寺も担っていたと云う。

嘉永五年(1852)、社殿を造営。
この時の本殿が改修などされつつ現存。

明治の神仏分離の影響・胡録神社の社号由来

明治になり神仏分離。
当社は無格社(後に村社に昇格)であった。

明治二年(1869)、神仏分離の影響で「胡録神社」へ改称。
御祭神も面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)に改めた。

第六天信仰の多くは御祭神を改められる
「第六天社」は、第六天魔王を祀ると云う神仏習合の色合いが濃い信仰であった。
そのため神仏分離の際に、関東に鎮座していた多くの「第六天社」は、御祭神や社号の変更を余儀なくされ、各社に合祀されるなど衰退の一途を辿る。
御祭神は「大六天」の社号から、神世七代における第六代のオモダル・カシコネ(アヤカシコネ)に変更される事が多く、当社もそうした流れを汲む変更となった。
オモダル・カシコネは、面足尊・惶根尊の字を充てる事が多い。
多くの第六天信仰の神社は「第六天」の社号の変更も行われていて当社もその流れを汲む。
胡録神社の社号由来
武士の名残を留めるため、武士が矢を支える武具を胡簶(やなぐい)を採用したと云う説。
汐入と呼ばれた当地の生業として盛んであった胡粉(ごふん/貝殻から作られる白色顔料)作りの「胡」の字と、旧社号である大六天の「六」にあやかり「胡録神社」と改称した説。
以上の2説が御由緒には記されている。
都内東部から千葉西部にかけて「胡録神社」社号の神社が幾つか鎮座し、その殆どが当社と同じくかつて「第六天社」だった神社が「胡録神社」へ改称されたものであるため、何らかの共通由来があったと推測できる。

明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い、千住南組・三ノ輪村・千束村・三河島村・地方橋場町(当地周辺含む)の各一部・下谷三ノ輪町の飛地・下谷通新町が合併し、南千住町が成立。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社で、当社の鎮座地は今も昔もほぼ変わらない。(正確には平成になってからやや南に移っている)
南千住町の他、「汐入」の地名も見る事ができる。
紺円で囲ったのが「汐入渡」で、まだ渡し船があった事を意味する。

汐入の渡し(しおいりのわたし)
現在の千住汐入大橋付近にあったとみられる渡し船。
江戸時代の頃より小規模の渡し船があったとされるが、頻繁に使われるようになったのは明治に入って、汐入と千住曙町の紡績会社を結び女工たちの通勤用として運行されるようになってから。
戦後の昭和四十一年(1966)まで使われていて、隅田川で最後まで運行されていた渡しとされる。
カネボウとユニチカの二大工場
橙円で囲った箇所にある「鐘ヶ淵紡績会社」は、現在の「カネボウ」。
緑円で囲った箇所にある「東京紡績工場」は、「ユニチカ(旧・ニチボウ)」。
隅田川を挟み二大工場がある地域で、工業の町として発展。
汐入の渡しもこうした工場で働く女工たちの通勤用として運行されていた。

昭和二年(1927)、拝殿などが再造営。
昭和十八年(1943)、無格社から村社へ昇格。

戦後になり境内整備が進む。

平成十五年(2003)、社殿を現在の位置(やや南に移す形)に移設し遷座祭が行われた。

旧汐入地区の再開発によって、高層マンションが建ち並ぶようになった事が原因で、当社の境内もやや南に移る事となった。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

南千住の汐入再開発地区に鎮座

最寄駅の南千住駅からは徒歩10分程の距離に鎮座。
南に面して平成十五年(2003)に建立された一之鳥居。
「胡録神社」の社号碑、隣には保育園、周囲は再開発された高層マンションなどが建ち並ぶ。

再開発された旧汐入地区
高層マンションが建ち並ぶ旧汐入地区は、かつて旧家が並ぶ戸建住宅の地域であった。
昭和の終わりから平成にかけて旧汐入地区を中心とした大規模な再開発が開始。
旧家が並ぶ戸建住宅の地域をほぼまっさらにして再開発し、高層マンション・公園・学校・複合商業施設などが計画的に造られたと云える。
汐入の鎮守であった当社もその再開発に合わせて、やや南へ移る形で整備され、一帯の鎮守として崇敬を集めている。

鳥居を潜ると広く取られた境内。
鳥居を潜ってすぐ右手に手水舎。
龍の吐水口より水が出て身を清める事ができる。

堂々とした獅子山・江戸時代の狛犬

参道の途中、二之鳥居の手前に獅子山。
奉納年代は不詳ながら堂々とした造り。
堂々と睨め付ける獅子。
躍動感のある造り。
下には子獅子も置かれていて愛らしい。

獅子山の先に二之鳥居。
正月期間に参拝したため、正月飾りが設けられていた。

二之鳥居を潜った先に狛犬。
天保十年(1839)奉納の狛犬が現存。
若干痛みがあるものの、とても綺麗な毛並みで彫りも丁寧で実に良い出来。

戦前の拝殿・江戸時代の本殿が現存

参道の正面に社殿。
拝殿は昭和二年(1927)に造営されたものが改修されつつ現存。
平成十五年(2003)には旧汐入地区の再開発に伴い、やや南へ社殿も移された。
向拝部分などには龍の細かい彫刻。
木鼻には獏と獅子の姿。

本殿は嘉永五年(1852)に造営されたものが改修されつつ現存。
拝殿同様に平成十五年(2003)に現在地へ移され遷座祭が行われた。
木造の本殿で関東大震災や戦災などを免れ現存しているのが有り難い。

境内社の道祖神と刀塚社・石臼の奉納

境内社は一之鳥居を潜って左手に2社。
左に鎮座するのは道祖神。
汐入の出入口に置かれていた道祖神。
旅の安全祈願や足の病気平癒の神様として信仰され、草履やお椀を奉納する風習が残る。
右に鎮座するのが刀塚社で、当地を開拓し当社を創建した武士・高田嘉左衛門らが刀を地中深く埋めたと云われる場所(当社より南側)に祀られていたが、再開発に伴い当社に遷座された。

社殿の左手に石臼が展示。
汐入の生業であった胡粉作りに使用された石臼。
当社に奉納されこうして保管されている。

胡録神社の社号由来にも
胡粉(ごふん)とは貝殻から作られる白色顔料で、日本画や日本人形の絵付けに使用。
汐入と呼ばれた当地では、生業として胡粉作りが盛んであったと云う。
胡粉の「胡」の字と、旧社号である大六天の「六」にあやかり「胡録神社」と改称した説が記されている。

月替りなど豊富な種類の御朱印

御朱印は社務所にて。
基本的に神職の常駐がある事が多いが、不在時は社務所前に書き置きを用意している。
引き出しの中にも様々な御朱印(限定)があるので、御朱印を頂き隣の賽銭箱に納める形。

「胡録神社」「道祖神」の御朱印あり。月替りや祭事や季節に応じて限定御朱印あり。

御朱印は「胡録神社」の朱印、月替りや限定などは他に印などが押される。
左は正月の御朱印で他にも様々な種類が用意、右は令和二年の御朱印。

御朱印などの最新情報は公式Twitterにて。
https://twitter.com/aaqmhz4zkskzsfz/

所感

第六天信仰の神社として崇敬を集めた当社。
神仏分離で「胡録神社」へ改称されており、都内東部から千葉西部にかけて「胡録神社」社号の神社が幾つか鎮座し、その殆どが当社と同じくかつて「第六天社」だった事から、何らかの共通した理由があるとも思われるのが興味深い。
昭和後期から平成にかけてかつて汐入と呼ばれた地区の再開発が開始。
かつての旧家が並ぶ町並みは1から再開発され、現在の高層マンションなどが建ち並ぶ地区へと変貌を遂げ、当社も合わせて境内整備と若干の移転、そして遷座祭が行われた。
古くから汐入の鎮守だった当社をしっかりと維持しつつ再開発が行われたのは喜ばしい事であり、今も当地周辺の鎮守として、再開発された中でも大切に信仰を集めている。
新興住宅地の中でも地域の歴史を伝える良い神社である。

神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]


[ 参道 ]

[ 手水舎 ]


[ 二之鳥居 ]


[ 獅子山 ]




[ 狛犬 ]


[ 拝殿 ]









[ 本殿 ]



[ 道祖神・刀塚社 ]







[ 神楽殿 ]

[ 神輿庫 ]

[ 石碑 ]


[ 東鳥居・社号碑 ]


[ 社務所 ]

[ 石臼 ]

Google Maps

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