大綱金刀比羅神社 / 神奈川県横浜市

横浜市

神社情報

大綱金刀比羅神社(おおつなことひらじんじゃ)

御祭神:大物主神・金山彦神・日本武尊・大山津見神
社格等:村社
例大祭:5月17日
所在地:神奈川県横浜市神奈川区台町7-34
最寄駅:神奈川駅・横浜駅・反町駅
公式サイト:http://www.yokohamakonpira.jp/

御由緒

古来、飯綱大権現、金刀比羅大権現と称してきたが、明治44年両社を合祀し大綱金刀比羅神社と改称した。創建1188年 寛永19年社殿造営 宝暦13年 紀伊国屋 灯篭奉納 他 筑前の国 阿波廻船問屋 灯篭奉納45 昔より神奈川湊には菱垣廻船、樽廻船、尾州廻船、北前廻船などの海運勢力により、弁財船等 多くの船が神奈川湊に出入りし、江戸と上方の物流拠点とし栄え、正に現在の横浜港の発展の基盤になった。
今でも横浜の金刀比羅(こんぴら)さんの御神徳を知る多くの船舶関係者を始め、農業、建築関係、医療関係者、民衆にいたるまで崇敬の捻 頗る厚く十六神の御神徳を頂ける神社であります。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2017/01/06

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

歴史考察

横浜のこんぴらさん

神奈川県横浜市神奈川区台町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧神奈川宿にあった下台町の鎮守。
元々は台町の小山の山頂に「大綱神社(飯綱権現)」があり、山の中腹に「金刀比羅神社(金刀比羅権現)」が鎮座していたのだが、山の崩壊を機に明治に両社が合祀され、現在の「大綱金刀比羅神社」となった。
現在では横浜のこんぴらさんとして親しまれている。
度々裏山が崩壊して社殿が倒壊しており、現在の社殿はかつての神楽殿を利用した仮殿であり、仮殿のまま30年以上経て現在に至っている。

源頼朝による創建の伝承・勝軍飯綱大権現

社伝によると、文治年間(1185年-1189年)に源頼朝が創建したと伝わる。

治承四年(1180)、頼朝は石橋山の戦いで敗北し逃亡。
海を渡り安房国(現・千葉県南部)へ小舟で脱出した。
波は荒れており小舟で渡る事は無謀であったが、飯綱権現の霊示により風や波の難を逃れ、無事に安房国に辿り着く事ができた。

後に天下を取ってから、この恩を忘れなかった頼朝が、文治年間(1185年-1189年)に当地の山上に祠を建てたと云う。
こうした伝承から「勝軍飯綱大権現」と崇め奉られた。

こういった伝承は、天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』などで見る事ができる。

飯綱権現は長野県の飯縄山に対する信仰

この「飯綱権現」であるが、一般的には「飯縄権現(いづなごんげん・いいづなごんげん)」と表記する事が多い。

長野県(古くは信濃国上水内郡)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰による神。
権現の名の通り、神仏習合の神となっており、天狗の姿で表現される事も多い。
元禄三年(1690)の刊行の「仏像図彙」を見るとよく分かる。

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一般に「戦勝の神」として信仰される事が多く、中世には多くの武将に崇敬されている。
代表的なのが上杉謙信の飯綱権現前立兜であり、兜の前立に飯綱権現像が置かれている。

現在でも関東圏では、東京都八王子市「高尾山薬王院」、千葉県君津市「鹿野山神野寺」、栃木県日光市「日光山輪王寺」などで、熱心に信仰されている。

当地にも古くからそうした飯綱権現の信仰があったのだろう。

江戸時代初期に社殿造営・史料から見る当社

寛永十九年(1642)、代官であった伊奈半十郎忠治が社殿を造営。
神主の長塚常陸守重氷が勧請したと伝わり、この棟札が残っていたと云う。

実質的に神社として創建になったのはこの頃と見られる。
現在の裏山の山頂に社殿が造営され崇敬を集めた。
飯綱権現が祀られていた事で、この山は飯綱山と呼ばれたと伝わる。

安永五年(1776)、太田備中守が社殿を再建。

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(神奈川宿 下臺町)
飯綱権現社
海道の西側にて上台町の境にあり。社地は八九丈許の高き山なり。前に石階ありて羊膓の道なり。社傳に云寛永十九年伊奈半十郎忠冶建立す。今の社は安永五年太田備中守が再建せる所なりと。本社七尺四方拝殿四間に二間。本社まで二間に三間の廊下をまうく。この社も今は破壊に及びたれば、山下へ別に仮殿を構まへて神体を遷座せり。ここに勝軍飯綱権現の六字をかかぐ。山下に両控作の鳥居をたつ。両柱の間一丈許。刻して云慶安元戌子年八月吉日飯綱権現本地地蔵神主重之と。社前に井あり、是を供水に用ゆ。普門寺持。
末社
疱瘡神社。本社に向ひて右にあり。
稲荷社二ヶ所。同邊にあり。
子権現社。本社に向ひて左にあり。
稲荷社。同邊にあり。
聖天金毘羅合社。山の半腹にあり。ここに金勝院と云修験者ありて祀を司れり。
舟玉社。坂の中腹にあり小祠なり。

神奈川宿の下臺町(下台町)の「飯綱権現社」と書かれたのが当社。
神奈川台町と呼ばれた地域であり、社地は高き山にあると記されている。
上述した社殿造営についての記録があり、山頂にあった本社は倒壊したとある。
この時代は山の麓に仮殿が建てられており、そちらに御神体が祀られていた。
「勝軍飯綱権現」の扁額があったとも書かれている。

後に合祀される事になる「金刀比羅神社」は、「聖天金毘羅合社」と書かれている。
山の中腹にあって当社の境内末社の扱いであったようだ。

この後の文政十一年(1828)に社殿が造営。
弘化三年(1846)には「金刀比羅神社」の社殿が修繕されている。

飯綱権現だけでなく末社の金刀比羅権現も崇敬を集めた事が伝わる。
どちらも修験道と関わりが深く、天狗伝説も残る事から、当社には大天狗が祀られていたと云う。

金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されていたため、上述した源頼朝が無事に安房国へ逃れた伝承と共に、船舶関係者からの崇敬を集めた。
特に横浜は開港以来、港町として発展したため、正に現在の横浜港の発展の基盤になった。

浮世絵で見る江戸時代の神奈川宿

当時の当地は神奈川宿として賑わった地。
東海道五十三次、3番目の宿場であった。

(歌川広重・東海道五十三次)

こちらは歌川広重の代表作『東海道五十三次』に描かれた神奈川宿。
現在の青木橋付近から横浜駅西口方面を望んで描かれており、右側に描かれた坂が台町である。
当社はこの台町に鎮座しており、ほぼ当社の前から描いたとも云えるであろう。
こうした賑わう宿場町において、大いに崇敬を集めた事が分かる。

飯綱権現と金刀比羅権現の合祀・戦前に描かれた当社と記録に残る古写真

明治に入り神仏分離。
飯綱権現、金刀比羅権現は共に神仏習合の色合いが濃いため、明治二年(1869)にそれぞれ「大綱神社」「金刀比羅神社」と改称された。
明治十五年(1882)、村社に列する。

明治四十三年(1910)、裏山が崩壊。
これによって「金刀比羅神社」が半壊。

明治四十四年(1911)、「金刀比羅神社」の社殿を再建。
この際に山頂に鎮座していた「大綱神社」を遷座させ、両社を合祀。
こうして現在の「大綱金刀比羅神社」に改称された。

大正四年(1915)、今も残る弁天社の岩屋が造られる。

昭和五年(1930)、煙管亭喜荘が編纂した地誌『金川砂子』に当社が描かれている。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

当社の前に一里塚が置かれており、当社は高台に鎮座している事が分かる。
飯綱社と金刀比羅が合祀された立派な社殿であり、その裏山がかつて本社が鎮座していた場所である。

この後の昭和十年(1935)、神楽殿を新築している。

(神奈川県神社写真帖)

上の写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
戦前の社殿であるが参道の先、石段を上ったところに社殿がある事が分かる。

昭和二十年(1945)、横浜大空襲によって被災。
建物の一切を焼失し、古くから祀られていた大天狗も焼失してしまったと云う。

同年、本殿を再建させ、昭和二十四年(1949)に拝殿と神楽殿を再建。
昭和二十六年(1951)には鳥居を再建させたりと、戦後に境内整備が進んだ。

しかしながら昭和六十年(1985)、再び裏山が崩壊。
これによって戦後に再建された社殿も倒壊し失ってしまう。
そのため、神楽殿を仮殿として使用する事となった。

現在の社殿は、この仮殿であり、仮殿のまま現在に至っている。

境内案内

高台の上に鎮座・かつて社殿があった地と仮殿

最寄駅の神奈川駅からは徒歩数分の場所に鎮座。
朱色の鳥居の横には「大綱大神・金刀比羅宮」と記された社号碑が建つ。

参道は石段が続く。
こうした高台に鎮座しているのはかつての様子と変わらない光景。
参道途中の右手に手水舎があり、さらに石段を上る。

石段を上りきると正面には空き地のようなスペースができている。
奥に倒木がある一画なのだが、実はここに昭和六十年(1985)までは社殿が建っていた。
裏山の崩壊によって社殿が壊れ、再建されぬまま空き地となっている。

現在、社殿の役割を果たしているのは、石段を上った左手にある仮殿。
簡素な造りの社殿であるが、こちらは昭和六十年(1985)から今も使われている仮殿。
かつては神楽殿だったと云い、社殿が倒壊した後にこうして仮殿として整備され、使用され続けている。

石段を上った先に社殿がなく、左手の奥まった場所に社殿(仮殿)があるのは、こうした事情によるもの。
そのため現在の境内の立地は中々変わった造りとなっている。

天狗の像・岩屋にある弁天社など

社殿(仮殿)の隣には天狗の像が置かれている。
飯綱権現、金刀比羅権現ともに天狗との関わり合いが深いため、当地には天狗伝説が残る。
特に江戸時代には、顔の長さ四尺五寸巾参酌の鼻高々とした大天狗が祀られていた。

大天狗は、江戸から四国(香川県)の金毘羅信仰総本宮である「金刀比羅宮」へ奉納しようと、大天狗を担いで東海道を渡る際、神奈川宿で一泊したところ、翌日に大天狗が大岩の如き重さになり進まなくなってしまう。
仕方なくその日も神奈川宿で宿泊すると、夢に「飯綱の宮に住みたいのでここに置くように」とお告げがあったため、当社に奉納し、飯綱権現の眷属として祀られたと伝わる。

残念ながら昭和二十年(1945)、横浜大空襲で焼失してしまう。

他にも裏山にあった老松が「天狗の腰掛松」とされていたりと、天狗に纏わる話が多い。
現在は大松の立木に天狗の面容を施して、こうして天狗様を祀っている。

その隣には平成元年(1989)に造営された三宝荒神社。
静岡県にある秋葉山本宮「秋葉神社」から勧請されたという。

さらに隣には稲荷社。
『新編武蔵風土記稿』にも稲荷社が末社としてあるので、古くから当地に祀られているものと思われる。

その奥に弁天社と弁天池がある。
弁天池には鯉が泳ぎ、その奥の岩屋に弁天様が祀られている。
大正四年(1915)に岩屋を造っており、整備されながらもこうした形で祀られているのだろう。

御朱印は授与所にて。
丁寧に対応して頂いた。
また詳しい資料が記載された冊子を頂き大変有り難い。

所感

神奈川台町の鎮守である当社。
かつては山頂に飯綱権現を祀る神社であり、山腹に金刀比羅権現を末社として祀っていた。
明治になり合祀される事となって、現在の「飯綱金刀比羅神社」となっている。
横浜のこんぴらさんと称される事もあるように、金毘羅信仰の神社と思われがちだが、基礎となっているのは飯綱権現を祀る飯綱信仰である。
裏山は度々崩壊したようで、参道の正面にあった社殿は現在はその姿がなくなっている。
仮殿での運営を30年以上続けており、社殿の再建は難しいようではあるが、それでも当地からの崇敬は篤く、今も多くの人々が参拝に訪れる神社である。
御由緒や金毘羅信仰からも、特に海上交通の守り神として信仰されており、港町として発展した横浜を支えた神社とも云えるだろう。

神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]

[ 石段 ]

[ 狛犬 ]


[ 石段 ]

[ 旧社殿の鎮座地 ]

[ 社殿(仮殿) ]




[ 天狗像 ]

[三宝荒神社]

[ 弁天社(岩屋) ]



[ 稲荷社 ]

[ 石碑 ]


[ 授与所 ]

[ 御籤掛・絵馬掛 ]

[ 歌碑 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

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