神社情報
吾妻神社(あづまじんじゃ)
御祭神:日本武尊
社格等:村社
例大祭:1月17日前後(春祭り)・7月17日前後(夏祭り)
所在地:神奈川県横浜市中区本牧原29-18
最寄駅:山手駅
公式サイト:─
御由緒
もとは吾妻権現社・吾妻明神社などと称した。本牧原一円の鎮守である。江戸時代の書新編武蔵風土記稿や江戸名所図絵にもすでに見えている。
繊細で焼失する前まであった御神体は、その背面に「文和甲午三年(1354)正月十七日祠基新謹平重廣」と銘記してあったという。新田義貞の家臣篠塚伊賀守の勧請したものという説の出る所以である。
また、木更津の吾妻社の御神体が波に漂っていたところを、当地の漁師吉太夫が網ですくい上げ天和三年(1683)に祀ったとの説もある。
尚、明治維新の神仏分離に際し、天徳寺の別当を廃した。(頒布の資料より)
参拝情報
参拝日:2019/08/29
御朱印
初穂料:500円
「お三の宮日枝神社」社務所にて。
※本務社「お三の宮日枝神社」(横浜市南区山王町)にて御朱印を頂ける。
歴史考察
本牧原一円の鎮守・お吾妻さま
神奈川県横浜市中区本牧原に鎮座する神社。
旧社格は村社で、本牧領本郷村原地区(現・本牧原一円)の鎮守。
戦災で焼失してしまった御神体は、江戸湾(東京湾)の向こう側・木更津の「吾妻神社」(木更津市吾妻)の御神体が流れ着いたとも伝わる。
古くから小児の病難に御利益があるとされ、安産の神・子供の神として信仰を集め、お礼参りの際には粟餅をお供えすると云う風習があり、「お吾妻さま」と呼ばれ信仰を集めた。
現在は神職の常駐がなく「お三の宮日枝神社」の兼務社となっている。
新田義貞の家臣・篠塚重広による勧請説
創建年代は不詳。
文和三年(1354)、新田義貞の家臣・篠塚重広によって勧請されたと云う。
これは当社の御神体に刻銘されていた文字が基礎となって伝わる説。
南北朝時代の南朝方の武将で、重廣とも称される。
篠塚伊賀守重廣としても名を知られている。
南朝の総大将・新田義貞(にったよしさだ)の側近で、後代に新田四天王の1人に数えられた。
御神体の背面に刻銘されていた文字は以下の通り。
文和甲午三年正月十七日祠基新謹平重廣
この重廣の文字から篠塚重広による勧請と云う説が一部ではあったのだと云う。
木更津の御神体が流れ着いた伝承・小児の守り神
天和三年(1683)、当地の漁師・吉太夫(吉兵衛とも)が漁をしていると木立像が網にかかったと云う。
吉太夫はこの木立像を御神体として祀り社殿を建立したと伝えられている。
神を束ね、右手に剣を持ち、左手を帯にはさまれた長さ1尺8寸2分(約55cm)の木立像。
上述した「文和甲午三年正月十七日祠基新謹平重廣」の刻銘が背面にあったと云う。
昭和初期には既にすすや埃で真っ黒であったとされ、横浜大空襲の際に焼失。
この流れ着いた御神体は、当地(本牧)から見て「向こう地」と呼ばれた上総国木更津吾妻村の「吾妻神社」(現・千葉県木更津市吾妻)の御神体で、「お吾妻さま」と称されていた吾妻権現であったと云う。
お吾妻さまは実に子供好きの神様であったと云い、ある寒い日、焚き火を囲む子供たちを見て、子供の姿に化身し仲間に加わろうとしたが、子供たちは見知らぬ者と怪しみ、火中に突き転ばして逃げ去ってしまった。
あまりの熱さにお吾妻さまは海に飛び込み、そのまま本牧の浜に流れ着き、地元の漁師・吉兵衛の網にかかりすくい上げられ、吉兵衛は焦げたお吾妻さまの腹部に布を巻いて本牧の地に祀ったと云う。
酷い目に遭ったお吾妻さまではあるが、子供好きである事に変わりはなく、本牧の地でも小児の病難を救い、癇の虫を封じてくれたため、安産の神様・子供の神様・虫封じの神様として信仰を集めた。
お礼参りする人々は、いつしか神前に粟餅を供えるのが恒例の風習になったとされる。
当社によると、7月の例祭日には焦げた腹部の帯を交換する「腹帯巻換の神事」(現在は神事のみが執り行われている)が行われていたと云い、本社格にあたる木更津の「吾妻神社」には御神体がないため、祭日の前には海を渡って当社までやって来ては幣束を持ち帰り、祀っていたと云う。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社について記してある。
(本郷村)
吾妻権現社
除地五畝八歩。巽の方なり。神體は甲冑を穿ち劔を持たる像なり。いつの頃か此浦に漂着せり。此像もと上總国木更津吾妻村の神體なりしと云傳ふ。小兒の病或は癪を患ふもの祈れば験あり。快復の後は粟の餅を供すると例とす。天徳寺の持。
末社。稲荷社。
本郷村の項目に「吾妻権現社」と記してあるのが当社。
当社の御神体についても記されている。
「上總国木更津吾妻村の神體なりしと云傳ふ」とあり、当時から木更津「吾妻神社」の御神体が流れ着いたと伝わっていた事が分かる。
また「小兒の病或は癪を患ふもの祈れば験あり。快復の後は粟の餅を供すると例とす。」とあるように、小児の病難に御利益があるとされ、お礼参りする人々は粟餅を供える風習があった事も窺える。
末社の「稲荷社」は現在も末社として残る。
別当寺は同じく本郷村にあった「天徳寺」が担っていた。
横浜市中区和田山にある高野山真言宗の寺院。
創建年代は不詳ながら、元祿十三年(1700)に本牧へ移転したと云う。
東国八十八ヵ所霊場四十三番、横浜觀音三十三観世音霊場十七番、横浜弘法大師二十一箇所二十番。
江戸名所図会に描かれた当社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「本牧 吾妻権現宮」として描かれている。
中央に描かれているのが当社。
下に描かれているのが「本牧原宿」とあり、当時は海岸沿いの漁師町で、当社はこうした本牧原一帯を鎮守とした。(古くはもっと海岸が近かった)
現在の境内とはかなり様子が違う。
立派な両部鳥居が設けられ、茅葺きの社殿が鎮座。
稲荷社は社殿の右手にあった事が窺える。
また御神木として松が描かれていて、当社の名所でもあったようだ。
明治以降の歩み・戦前の古写真・戦後の再建
明治になり神仏分離。
「天徳寺」から独立し「吾妻神社」と改称。
明治六年(1873)、村社に列した。
明治十一年(1878)、郡区町村編制法により久良岐郡本牧本郷村が成立。
明治二十二年(1889)、市制町村制の施行により、本郷村・北方村が合併し本牧村が成立。
当地は本牧村の原(現・本牧原)と呼ばれた地域の鎮守を担った。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
本牧や原と云う地名を見る事ができ、当社など原(現・本牧原)と呼ばれた地域は町家が並び発展していた事が窺える。
『江戸名所図会』にも描かれていたように、本牧原宿と呼ばれ栄えていた。
明治の地図を見ても分かるように、古くは海岸がもっと近かった事が分かる。
現在の湾岸道路より外側は全て海で、後に埋め立てられた土地。
海がもっと近く漁師町であった本牧原の鎮守として崇敬を集めた。
また海が近い事で景勝地としても知られ賑わった。
同年、社殿を建立。
現在も当社に残る砲弾狛犬も同年に建立。
「村社 吾妻神社」として紹介されているのが当社。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が分かる。
石段の手前に現存する狛犬、さらに玉垣、石段の神明造と現在の境内にかなり近い。
小児の守神として有名な吾妻神社は基は吾妻権現社と称し本牧町原一円の鎮守である。(神奈川県神社写真帖)
江戸時代の『新編武蔵風土記稿』にも記してあったが、戦前の史料にも「小児の守神として有名」とあるように、小児の守り神として多くの信仰を集めた事が窺える。
昭和二十年(1945)、横浜大空襲が発生。
甚大な被害を受け、社殿が焼失、御神体も焼失してしまったと云う。
戦後になり再建。
その後も境内整備が進み現在に至る。
現在は神職の常駐がなく「お三の宮日枝神社」の兼務社となっている。
境内案内
本牧原の住宅街に鎮座・鳥居や百度石
最寄駅は山手駅になるが徒歩30分以上と距離がある。
神社近くに横浜駅・桜木町駅・保土ヶ谷駅から出ている横浜市営のバス停「吾妻神社前」があるので、公共交通機関を利用する場合はそちらが望ましい。
発展した本牧通りの東側、本牧原の住宅街に鎮座。
南向きに玉垣と鳥居、向かいには本牧元町公園がある立地。
鳥居は昭和三十七年(1962)に建立。
戦後の再建にあたって鳥居や玉垣なども建立された。
扁額には「吾妻神社」の文字。
鳥居を潜ると左手に百度石。
昭和十年(1935)に奉納されたもの。
左手に手水舎。
兼務社ではあるが水が張られている。
横浜の漁業関係者からの奉納である水盤で、漁師町だった本牧原の歴史を伝える。
全国的にも珍しい砲弾狛犬(獅子山)
鳥居を進むと広く取られた参道。
石段の近くに両脇に一対の狛犬が置かれている。
実に立派な獅子山となっていて上に狛犬。
阿には子獅子がお尻を上げて睨む。
子も共に周囲を睨む。
明治三十九年(1906)に建立されたもの。
砲弾を抱えているのが特徴。
いわゆる「砲弾狛犬」と呼ばれるもので、日露戦争後の時勢で建立されたものであるが、全国的に見ても大変珍しい。
通常の狛犬は玉持ち子持ちといったものであるが、砲弾を抱えている狛犬を云う。
全国的にも大変珍しく、当社の他、本務社「お三の宮日枝神社」(横浜市南区山王町)など、おそらく同じ石工による作品と思われる神社が神奈川県(横浜市・川崎市)に4社ある。
漁業関係者の名が多い玉垣・再建された社殿
石段の先には社殿。
社殿を守るように奉納された玉垣が囲む。
玉垣には本牧魚問屋組合や組合一同の名が残る。
当時は海がもっと近く漁師町として栄えた本牧の歴史を伝え、現在も本牧漁港などが時代を偲ぶ。
社殿は戦後に再建されたもの。
簡素ながら神明造の社殿。
横浜大空襲によって焼失、その際に御神体も焼失する憂き目に遭っている。
戦前の古写真で見る社殿も同じ神明造だったため、再建にあたり参考にしたと思われる。
簡素ではあるが状態よく維持され、兼務社ながら手入れが行き届いている。
古くから末社として祀られていた稲荷神社
社殿の左手に稲荷神社。
本社と同様に玉垣で囲まれ、その先に朱色の小さな鳥居。
『新編武蔵風土記稿』にも末社として名が載るように、古くから祀られていたお稲荷様。
戦前の『神奈川県神社写真帖』には、「妻戀稲荷社」とあったので「妻恋神社」(現・東京都文京区湯島)からの勧請か。
境内には幾つかの石碑。
『神奈川県神社写真帖』には境内に「日本絹織物貿易開発者ゼーメンデルソン氏の記念碑がある。」と記されていたが、どれがそれにあたるか現存しているのかは不明。
御朱印は本務社である「お三の宮日枝神社」にて
境内には社務所(授与所)も整備。
但し、当社は神職の常駐がない兼務社であるため、こちらで御朱印対応はしていない。
御朱印は本務社である「お三の宮日枝神社」(横浜市南区山王町)で頂ける。
御朱印は「吾妻神社」の朱印。
「本牧原 吾妻神社」の墨書き。
所感
本牧原一円の鎮守として崇敬を集める当社。
木更津の「吾妻神社」の御神体が流れ着いたと云う伝承が残り、江戸時代の地誌にもそう記されているように、江戸湾(東京湾)を挟んだ向こう岸から流れ着いた御神体と云うのはロマンがある。
小児の守り神として古くから信仰を集め、お礼参りでは粟餅を供えるが恒例だったと云う、当社独自の風習があったのも特筆すべき点で、戦前の『神奈川県神社写真帖』では「小児の守神として有名」と記されていたように、名の知れた神社だったようだ。
戦前まではもっと海が近く、漁師町として栄えた本牧原の鎮守として、漁業関係者からの崇敬も篤く、そうした部分は奉納の玉垣や水盤などからも窺う事ができる。
本牧と云う地は、戦後に米軍によって中央部が接収されたり、埋め立てがあったりと、色々と時代の変化が激しかった地でもあり、そうした本牧、中でも本牧原の歴史を伝える良い神社だと思う。
神社画像
[ 鳥居 ]
[ 百度石 ]
[ 手水舎 ]
[ 参道 ]
[ 砲弾狛犬 ]
[ 玉垣 ]
[ 社殿 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 神輿庫 ]
[ 石碑 ]
[ 社務所 ]
[ 本牧原町内会館 ]
[ 案内板 ]
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