花園神社 / 東京都新宿区

神社情報

花園神社(はなぞのじんじゃ)

御祭神:倉稲魂命・日本武尊・受持神
旧社格:郷社
例大祭:5月下旬(大祭)・11月酉の日(酉の市)
所在地:東京都新宿区新宿5-17-3
最寄駅:新宿三丁目駅・新宿駅
公式サイト:http://www.hanazono-jinja.or.jp/

御由緒

花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていました。徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとされています。
花園神社は寛永年代(1624~1644)までは現在の場所より約250メートル南、今の伊勢丹デパートの付近にありました。しかし、寛政年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまったのです。そこで幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになりました。その場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。
初めて史料に花園神社の名が登場するのは、享和3年(1803)のこと。大火に遭った社殿復興を願って内藤新宿町より奉納された額面に「花園社」と記されていました。「花園」という名称が正式なものになるのはずっと後代のことで、稲荷神社または三光院稲荷とも呼ばれ、さらに江戸時代には地名にちなんで四谷追分稲荷とも呼ばれていたようです。
三光院稲荷と呼ばれたのは、明治維新以前には神仏習合により神社と仏教寺院が同時に祀られることが多く、花園神社も真義真言宗豊山派愛染院の別院である三光院が合祀され、住職が別当(管理職)を兼ねる慣わしだったためであるといわれています。
しかし、その三光院は明治元年(1868)3月に維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏分離令を発布し、廃仏毀釈が進む中で花園神社と分離され、本尊は愛染院に納めて廃絶となりました。
明治に入ると、「村社稲荷神社」が正式名称とされました。これは神名帳を提出した際に、誤って花園の文字を書き漏らし、「稲荷神社」で届出をしてしまったからだそうです。
しかし、江戸時代から当神社は「花園社」と呼ばれており、単に「稲荷神社」といえば総本山である伏見稲荷神社を指すのが一般的で紛らわしいことから、大正5年1月25日、当時の社掌・鳥居成功と氏子総代・坂田寅三郎ら13人が東京府知事に対し社号の改名願を提出しました。この社号改名願は同年2月26日に許可され、「花園稲荷神社」となったのです。
さらに昭和40年に、それまで末社だった大鳥神社を御社殿建替えと共に本社に合祀したことから、ようやく「花園神社」が正式名称となりました。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2016/12/22

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

御朱印帳

初穂料:1,000円
社務所にて。

御朱印帳を用意している。
えんじ色の汎用タイプの御朱印帳に裏に金の箔押しで神紋と社号が押されたもの。
掲示されていないので声をかけると奥から出して見せて頂ける。

※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。

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歴史考察

江戸時代以前より続く新宿総鎮守

東京都新宿区新宿に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、「十二社熊野神社」と共に新宿の総鎮守。
江戸時代に甲州街道の宿場である内藤新宿が成立して以来の新宿の氏神。
元は稲荷信仰の神社であり「花園稲荷」と呼ばれていた。
現在は11月酉の日の「酉の市」が大変賑わう事で有名。

徳川家康入府以前より創建

社伝によると、創建年代は不詳。

天正十八年(1590)、徳川家康が江戸入府した頃には既に鎮座していたとある。
大和国吉野山よりの勧請したと伝えられている。

当時は現在よりも250mほど南に鎮座していたとされる。
今の伊勢丹があるあたりが社地であったと見られている。

当地周辺(現・新宿)の鎮守で、元は稲荷信仰の神社であり、稲荷社として崇敬を集めた。

まだ甲州街道が整備される前で内藤新宿が成立する前の話であり、当地は農村であったと思われる。

尾張藩下屋敷へ遷座・花園の由来

寛永年間(1624年-1644年)、掛川城主であった朝倉筑後守(朝倉宣正)が当社周辺に下屋敷を拝領。
そのため、当社は朝倉氏の下屋敷に囲まれる形となり、氏子の参拝ができなくなってしまう。

氏子がその旨を幕府に訴えたところ、尾張藩下屋敷の庭の一部であった現在地を拝領。
こうして現在の鎮座地に遷座した。

尾張藩の藩主は尾張徳川家で名古屋城を居城とした格式高い藩。

尾張藩の尾張徳川家、紀州藩の紀州徳川家、水戸藩の水戸徳川家の3家を「徳川御三家」と呼ぶ。
徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のことで、そのうちの筆頭格が尾張徳川家であり、徳川将軍家の次ぐ格式のある藩であった。

そうした格式高い尾張藩の下屋敷の庭には多数の花が咲き乱れていたと伝わる。
美しい花園の跡地に遷座したため、「花園稲荷神社」と呼ばれていた。
これが現在の花園の由来とされている。

また当社の別当寺を「三光院」(現・廃寺)が担っていたため、「三光院稲荷」とも呼ばれたり、地名に因んで「四谷追分稲荷」とも呼ばれていたという。

内藤新宿の開設と鎮守・新宿の地名由来

慶長九年(1604)、幕府により日本橋が五街道の起点として定められる。

五街道のうちの1つが甲斐国(山梨県)へと繋がる甲州街道であった。

各街道沿いに宿場が整備されたものの、当時の甲州街道最初の宿場は高井戸宿。
これは日本橋から約4里(約16km)と遠く離れた宿場町であり、街道の利用者にとって不便であり、甲州街道以外の五街道の最初の宿場町は、いずれも日本橋から約2里(約8km)ほどの距離の江戸近郊が宿場となっていた事からも、甲州街道だけが不便であった事が分かる。

現在の新宿は、そうした日本橋と高井戸宿の中間に位置していたため、旅人達に非公式ながら「内藤宿」と呼ばれるようになっていった。
これは、内藤清成という人物が家康より四谷から代々木周辺を拝領していた事による。

元禄十年(1697)、幕府に対して浅草商人達が、甲州街道の日本橋-高井戸宿の間に新しい宿場を開設したいと願い出で、翌年許可を得て新たな宿場が設けられる事となった。
これが当時、非公式ながら内藤宿と呼ばれていた、現在の新宿である。
正式に内藤家の下屋敷の一部に宿駅が整備される事となった。

元禄十二年(1699)、商人らによって整備された内藤新宿が開設。
内藤宿に新しく整備された宿で「内藤新宿」。
これが現在の「新宿」の地名由来である。

こうした内藤新宿の総鎮守とされたのが当社である。
内藤新宿の人々、さらに尾張徳川家からの崇敬も篤く、元禄十一年(1698)、正徳二年(1712)には社殿を造営した記録が残っている。

江戸時代に描かれた賑わう内藤新宿

その後、内藤新宿は廃止と再開を経て、江戸時代後期には大いに栄えた。
文化五年(1808)の記録には、旅籠屋が50軒・引手茶屋80軒とある。
江戸四宿の中でも東海道の品川宿に次ぐ賑わいを見せる事となる。

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「四谷内藤新宿」として描かれている。
大変な交通量であった事が伺え、江戸庶民にとっても重要な宿場町であった。
旅籠には飯盛女・茶屋女として、いわゆる遊女に近い女も置かれたため、岡場所(色街)としても発展していく事となる。

(歌川広重・名所江戸百景)

こちらは歌川広重が『名所江戸百景』にて描いた「四谷内藤新宿」。
馬の後ろからの大胆な構図となっていてインパクトのある作品。
当時の整備された町並み、多くの旅籠も見る事ができる。

こうして内藤新宿が発展し、利用者が増えるにつれ、自然と内藤新宿の鎮守であった当社も崇敬を集める事となる。
幾度か大きな火災の類焼によって社殿の焼失もあったとされ、享和三年(1803)には大火に遭った社殿復興を願って内藤新宿の氏子より奉納された額面に「花園社」と記されていたとある。
このように正式ではないものの、当時から「花園」と呼ばれていた事が伺える。

明治以降と戦後の再建

明治になると神仏分離。
別当寺であった「三光院」は、その後の廃仏毀釈によって廃寺。
当社は村社に列し、社号は単に「稲荷神社」となった。
これは届け出の際に「花園」を書き忘れたからと云われている。

明治二年(1869)、内藤新宿は内藤新宿町となる。
当社は内藤新宿町の鎮守であった。

大正五年(1916)、東京府知事に改名願を提出し、同年「花園稲荷神社」に改称。
現在も表参道の社号碑には「花園稲荷神社」の文字が残っている。

大正九年(1920)、内藤新宿町が四谷区に編入される。
これによって新宿、旭町、番衆町、三光町、花園町といった町名に編成され、公式地名からは内藤新宿が消える事となり、こうして現在の「新宿」という地名が誕生する事となる。
これら一帯の総鎮守として崇敬を集めた。

昭和三年(1928)、現在の新宿4丁目に鎮座していた「雷電稲荷神社」を合祀。
同年、昭和天皇の御大典に際して郷社に昇格している。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
戦後に再建している。

戦後の昭和二十二年(1947)、四谷区・淀橋区・牛込区と合併して新宿区となる。
こうした経緯があり、当社は新宿の総鎮守となっている。

なお、淀橋区の郷社であった「十二社熊野神社」も西側の総鎮守であったため、当社と共に新宿の総鎮守と云う事ができるだろう。
新宿総鎮守。十二社(じゅうにそう)と呼ばれる所以。中野長者と呼ばれた鈴木九郎。角筈村の成立。景勝地として浮世絵に描かれた当社・十二社池・熊野の滝。新宿中央公園の隣に鎮座。立派な社殿・境内社や文化財。御朱印。

昭和四十年(1965)、現在の社殿が再造営される。
この際に末社・大鳥神社を本殿に合祀し、社号を現在の「花園神社」に改称した。

現在はこの合祀した大鳥神社に由来する、11月酉の日の「酉の市」が特に有名。
沢山の人手で賑わい現在に至っている。

朱色に統一された境内と再建された社殿

最寄駅の新宿三丁目駅からはE2出口を出てすぐで、新宿駅からも徒歩圏内。
入口は複数あり、表参道は明治通り沿いとなっている。
表参道の朱色の大鳥居は平成八年(1996)に建てられたもの。
表参道の社号碑には改称前の「花園稲荷神社」の文字。
靖国通り沿いにある南参道から参拝に訪れる方も多く、例祭や酉の市ではそちら側に露店が並ぶ。

朱色の大鳥居を潜ると広々とした境内と参道。
参道の途中左手に手水舎。
境内にある建造物の殆どが朱色となっており、朱色で統一感のある明るい境内となっている。

参道途中にやや石段があり、その先が立派な拝殿。
昭和四十年(1965)に造営された社殿で、鉄筋コンクリート造となっている。
新宿総鎮守らしい立派な社殿。
拝殿に掲げられた扁額には、当社こと「花園神社」、昭和三年(1928)に合祀された「雷電神社」、昭和四十年(1965)に合祀された「大鳥神社」の3社が並ぶ。
よって御祭神は「花園神社」の倉稲魂命、「雷電神社」の受持神、「大鳥神社」の日本武尊の3柱となっている。

境内社の稲荷社や芸能浅間神社など

境内社は参道途中右手に威徳稲荷神社。
奉納された鳥居が並んでいて稲荷社らしい境内社となっており、女性や外国人からの人気も高い。
昭和三年(1928)に建てられたと伝えられており、近くに祀られていたものが遷座したのかもしれない。

境内の右隅には芸能浅間神社。
小さな富士塚となっており、昭和四十二年(1967)に移築されたもの。
江戸時代から当社では芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、芸能関係の奉納が多い。
玉垣にも芸能関係の人物や事務所などの名が並ぶ。

宇多田ヒカルの母親として知られる藤圭子の歌碑も隣に建っている。

他にも神楽殿や宝物殿、神輿庫など。
いずれも朱色に統一されている。

靖国通りに繋がる南参道は例祭や酉の市になると露店が多く出る。
この南参道から参拝される方も多く、一之鳥居前には文政四年(1821)の銅製狛犬(唐獅子)が置かれている。

御朱印は社務所にて。
とても丁寧に対応して頂いた。

大変な賑わいを見せる酉の市

当社で特に有名なのが11月酉の日に行われる酉の市。

酉の市は関東圏の大鳥信仰の神社で行われる祭りで、「花畑大鷲神社」が起源となっている。
花畑(旧花又村)鎮守。「酉の市」発祥の神社。酉の市の起源とその歴史。日本武尊と源義光(新羅三郎)の伝承。江戸時代に描かれた当社の姿。本殿の柱にある見事な彫刻・改修工事された社殿。滝のある立派な神苑。御朱印。

当社では明治時代より始まっており、新宿の発展と共に賑わいを増していった。
当社の「大鳥神社」は、尾張徳川家に祀られていたと伝わり、かつては境内社であった。
昭和四十年(1965)に本殿に合祀され、更に賑わいを増すようになり、現在では毎年60万人もの人が訪れ、江戸時代から日本一の賑わいと称された「浅草鷲神社」、武蔵国総社「大國魂神社」と共に関東三大酉の市の1つにも数えられている。

日本一の酉の市。浅草名所七福神・寿老人。下町八福神。御朱印。御朱印帳。
武蔵国総社。武蔵国の国魂神・一之宮から六之宮を祀る六所宮。くらやみ祭と淫靡な風習。国府が置かれた府中の歴史。馬場大門のケヤキ並木。広大な境内と見事な随神門・社殿。御朱印。御朱印帳。

当社の酉の市は11月の酉の日の0時から24時まで24時間開催。
その前日から前夜祭が行われており、新宿の繁華街も近いとあって大いに賑わう。
境内には大変多くの奉納提灯が並び実に壮観。
多くの熊手商も立ち並び、勢いのある掛け声はお馴染みの光景。

更に当社の酉の市では、今では大変珍しくなった見世物小屋の興行が行われる。
昔ながらのディープでアングラな見世物小屋。

かつては「靖国神社」のみたままつりなどでも見かける事ができたが、現在では都内で見世物小屋が出るのはおそらく当社の酉の市くらいではないだろうか。
色々と覚悟の上でご覧されたし。

こうした大変な賑わいと昔ながらの雰囲気も残す酉の市は、当社の見所であろう。

所感

新宿の総鎮守である当社。
甲州街道が整備され内藤新宿が開設された後は、その内藤新宿の鎮守となった。
この内藤新宿が現在の新宿の基礎を作ったとも云え、新宿の総鎮守と云われる所以である。
新宿の繁華街にありながら広々とした境内と立派な社殿は、多くの氏子崇敬者によって崇敬を集めている証拠とも云え、常に多くの参拝者を見かける事ができ、その姿は絶える事がない。
また新宿という場所柄もあって、外国人観光客もよく訪れるようで、多国籍な参拝者を見る事ができ、こうした懐の深さも当社の魅力であろう。
5月に行われる例大祭、そして11月酉の日の酉の市は、境内が大いに賑わいつつも、どこかレトロな雰囲気を漂わせるのが魅力の良社である。

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神社画像

[ 大鳥居・社号碑 ]


[ 狛犬 ]


[ 参道 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]

[ 授与所 ]

[ 絵馬掛 ]

[ 納大明神 ]

[ 社務所 ]

[ 旧手水鉢 ]

[ 山車庫 ]

[ 神楽殿 ]

[ 宝物殿 ]

[ 神輿庫 ]

[ 威徳稲荷神社]






[ 芸能浅間神社 ]

[ 二宮金次郎像 ]

[ 掲揚台 ]

[ 石碑 ]

[ 南参道 ]

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