上目黒氷川神社(大橋氷川神社) / 東京都目黒区

神社情報

上目黒氷川神社(かみめぐろひかわじんじゃ)
大橋氷川神社(おおはしひかわじんじゃ)

御祭神:素盞嗚尊・天照皇大神・菅原道真
社格等:村社
例大祭:8月第4土・日曜
所在地:東京都目黒区大橋2-16-21
最寄駅:池尻大橋駅・神泉駅
公式サイト:http://kamimeguro-hikawajinja.jp/

御由緒

祭神は素盞嗚命を主神とし、天照大御神、菅原道真を合祀しています。旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573-1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。
正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。
また、石段の下には「武州荏原郡菅刈目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道の道標があります。大山道は江戸時代、石尊参り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
境内には、目切坂上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/12/07(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/11/16(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

御朱印帳

初穂料:1,000円
社務所にて。

近くを流れる目黒川の桜をモチーフにした御朱印帳。
昼桜版と夜桜版が存在。(こちらは昼桜版)
詳細は公式ブログにて。

[ 表面 ]

[ 裏面 ]

授与品・頒布品

交通安全絆ステッカー
初穂料:500円
社務所にて。

※こちらは「大橋氷川神社」の名になっている。

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歴史考察

上目黒鎮守の氷川さま

東京都目黒区大橋に鎮座する神社。
旧社格は村社で、上目黒村の鎮守。
社号碑などには「上目黒氷川神社」とあり、現在は統一してその社号を使う事が多いのだが、以前は現在の地名から「大橋氷川神社」と称されてる事が多かったため、現在もその名残が境内や授与品などに残っている。
江戸時代に築山された「目黒元富士」が、取り壊し後に当社境内に遷座しており、新たに当社境内に「目黒富士」が築かれ、小さな登山道が設けられているのが特徴。

天正年間に加藤氏が勧請して創建

社伝によると、天正年間(1573年-1592年)に創建と伝わる。
甲州武田家の家臣・加藤丹後守信重が、上野原(山梨県)より上目黒村に土着する際、上野原の産土神を勧請したと伝えられている。

武田家の家臣である加藤氏が上野原(山梨県)の産土神を勧請とあるが、氷川信仰である「氷川神社」は埼玉県の「武蔵一宮氷川神社」を総本社にしており、埼玉県や都内の一部、特に荒川流域に数多く見る事ができる。
上野原とはあまり縁のない信仰であり、現に上野原には氷川信仰の神社は存在していない。
武蔵国一之宮。氷川神社総本社。勅祭社。宮中の四方拝の一社。2kmにも及ぶ氷川参道。大宮の地名由来。御朱印。御朱印帳。

中々と不思議で興味深い流れとなっている。

武田家家臣の加藤氏とは・目黒の加藤

武田家の家臣であった加藤氏を見てみると、その歴史は源頼義の郎党・藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったと見られており、源氏と繋がりが深い。

建暦三年(1213)に和田義盛が乱を起し滅亡した際に、甲斐国(山梨県)に拠点を得ている。
加藤氏が拠点としたのが上野原という地であり、戦国時代になると上野原城主として加藤駿河守虎景が、武田信玄の旗本武者奉行を務めた。

天正十年(1582)、武田氏は織田氏の侵攻によって滅亡。
加藤氏は一族をつれて武蔵国に逃れたが、多摩郡箱根ケ崎で百姓一揆の手にかかって討ち死にしたと伝えられている。
しかしながら生きながらえた後裔が、豊島・練馬へ逃れ「練馬の加藤」「目黒の加藤」と呼ばれたという記録が残っている。

当社に関わるのは「目黒の加藤」。
先祖の氏神をお祀りしたものなのかもしれないが、加藤氏の氏神が氷川神だったという記録は見つからず、上野原という地からして可能性は薄いように思う。

討ち死にした西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎に「加藤神社」という加藤氏が祀られる神社があり、そちらは古くから「八幡さま」とも呼ばれていたため、おそらく氏神は源氏ゆかりの八幡神であったと思われる。

当地で暮らした「目黒の加藤」は、上目黒村石川組の名主となり、当地周辺を開発していく事となる。

氷川神は開拓の神として崇敬された歴史を持っているため、当地周辺を開拓する際に氷川神を勧請したのかもしれない。

上目黒村石川組の鎮守

江戸時代になると上目黒村石川組の鎮守として崇敬を集める。
上目黒村は、石川組・五本木組・宿山組・上知組といった小名があり、それぞれの組に鎮守があったようで、当社は石川組の鎮守であった。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(上目黒村)
氷川社
除地一段四畝。村の西北の方駒場道にあり。小名石川組の鎮守なり。天正年中村民定右衛門が先祖当所へ移りし頃彼が持地へ始て移し祀れりと。本社八尺四方、前に拝殿あり、三間四方。正一位氷川大明神と扁す。社地すべて古松老檜生茂れり。前になだれの坂あり。この中腹に鳥居を建、両柱の間八尺。祭礼毎年九月二十九日。村民持。
末社。稲荷社。本社の右にあり。

上目黒村の「氷川社」として記されている。
小名・石川組の鎮守であり、天正年間(1573年-1592年)に名主である加藤定右衛門の先祖が当地へ勧請したという事が記載されていて、やはり加藤氏の末裔が創建したという事になるのであろう。
別当寺はなく村民持ちで管理されていたのが分かる。

歌川広重が描いた目黒元富士

ここで後に当社に遷座する事となる「目黒元富士」についても触れておこう。
歌川広重が描くことになる富士塚である。

江戸時代初期に角行が教義を整え「富士講」を組織。
それ以来、江戸で富士講は隆盛を極める事となった。
安永九年(1780)、高田村(現・新宿区戸塚)の高田籐四郎という人物が、富士の麓から溶岩塊を運び「高田水稲荷」境内に人造の富士を築いた。
これが富士塚の歴史であり、本物の富士山に登拝するのは困難でも富士塚に登って富士を拝めば霊験あらたかとされ、江戸を中心に数多くの富士塚が築山される事となる。

目黒では「目黒元富士」と「目黒新富士」の2つの富士塚が名を馳せた。
当社に遷座する事になるのは「目黒元富士」である。

「目黒元富士」は、現在の代官山駅と中目黒駅のほぼ中間地点、上目黒1丁目の目切坂上にあった富士塚で、現在は「キングホームズ代官山」という高級マンションが建っているあたりになる。

文化九年(1812)、目黒村(下目黒村・中目黒村・上目黒村)の富士講員たちが築山。
高さは12mほどで、登山道があり山頂には「浅間神社」が祀られていた。
江戸の名所として賑わったと伝わる。

(歌川広重・名所江戸百景)

歌川広重が『名所江戸百景』に描いた「目黒元不二」。
時期としては秋の紅葉シーズンになるのだろう。
行楽名所としての様子が描かれており、こうして富士塚から本物の富士山を遥拝する事ができた。
手前の風景が中目黒村・上目黒村あたりであり、大変のどかな場所だった事が伝わる。

明治以降と戦後の歩み

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、上目黒村の鎮守として村社に列した。

明治十一年(1878)、上述した目黒元富士が取り壊される事となり、富士塚の山頂に鎮座していた「浅間神社」を当社境内に遷座させている。

明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、上目黒村・中目黒村・下目黒村・三田村が合併して目黒村が成立。
当社は目黒村上目黒の鎮守として崇敬を集めた。

明治三十八年(1905)、当社前の大山道(現・玉川通り)拡張のため石段を改修。
文化十三年(1816)に造られた石段で、同年に現在の石段に整備された。

明治四十五年(1912)、近くにあった「天祖神社」と「北野神社」を合祀。
これは当時の合祀政策によるものであろう。

当地周辺、特に池尻方面は「駒沢練兵場」など軍事地域として発展していく事となる。
そのため当地周辺は戦時中には空襲の標的とされる事が多かった。
昭和二十年(1945)の東京大空襲では、当地周辺は悉く被災し、当社も多くが焼失してしまっている。

戦後になり再建。
昭和三十九年(1964)、空襲で焼失した境内社「浅間神社」なども再建している。
昭和五十二年(1977)、新たに「目黒富士」が築かれる。
戦後は地名より「大橋氷川神社」と称する事が多かったのだが、現在は「上目黒氷川神社」に統一。
旧上目黒村の鎮守であった事によるもので、こうした旧地名を冠し現在に至っている。

急な石段の上に鎮座

大橋ジャンクション近く、かつての大山道である国道246号線(玉川通り)沿いに鎮座。
明治三十八年(1905)に整備された急な石段の上に鎮座している。
東側にも参道がありそちらから上る事もできる。

鳥居の左手には古い碑が残る。
大山道と記された道標で天保十三年(1842)に建てられたもの。
国道246号が大山道と呼ばれ、相模国大山の「大山阿夫利神社」(神奈川県伊勢原市)への参詣者が通った古道だった事を伺わせてくれる。

関東総鎮護の神社です。神奈川県伊勢原市。ご祈願・各種行事・アクセスガイド・大山のハイキングコースなどについてご紹介しております。

急な石段を上ると正面に社殿、右手に手水舎。
手水舎の右手には江戸時代に氏子が植えたという御神木。

社殿は鉄筋コンクリート造で再建されたもの。
大きな社殿ではないが、綺麗に整備されているのが伝わる。

社殿の左手に境内社の稲荷神社。
『新編武蔵風土記稿』に末社として記されているもの。
古くは当地を「稲荷山」と呼んだと云われており、当社が創建する前より当地に鎮座していたものと思われ、この地の地主神であったのだろう。

新たに整備された目黒富士・当社に遷座した浅間神社

当社の急な石段の左手には「目黒富士」への登山口が整備されている。
昭和五十二年(1977)に新たに整備され造られた「目黒富士」である。
当社と交番の間の階段が、その登山口。
目黒富士登山口という印があるので分かりやすい。

階段を上るとその先に鳥居。
ここから五合目・八合目といった風に富士を模した小さな登山道となっている。
当社の社殿のある高さがいわゆる山頂。
目黒富士山頂上とあり、境内に新たに造られた富士塚という形。

社殿の右手に目黒富士浅間神社が鎮座。
かつて歌川広重が描いた「目黒元富士」の山頂にあった浅間神社が、当社境内に遷座したもの。
東京大空襲によって焼失してしまったものの、昭和三十九年(1964)に再建された。
「目黒元富士」にあった石碑や祠なども境内に移されている。
毎年7月1日には山開きの例祭が行われる。

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。
目黒川の桜をデザインしたオリジナルの御朱印帳も用意している。

所感

上目黒村の鎮守であった当社。
江戸の名所の1つでもあった目黒元富士が取り壊された際も、当社に浅間神社が遷されたように、上目黒周辺の鎮守として崇敬を集めた事が分かる。
地主神であったと思われる稲荷神社、そして名主加藤氏の先祖が創建した当社こと氷川神社、さらに遷座された浅間神社など、当地周辺の歴史が詰まった神社となっている。
戦災や地域の発展によって古いものはあまり見かける事はできないが、戦後になっても新たに目黒富士として登山道を築いたりと、地域の鎮守として大切にされているのが伝わる。
現在は大橋ジャンクションや高層マンションなどが立ち並び、車通りの多い国道246号沿いに鎮座しているものの、高台の上に鎮座しているため、境内は静かで清々しい空間となっているのが嬉しい。

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神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]


[ 石碑 ]

[ 石段 ]


[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 稲荷神社 ]


[ 目黒富士浅間神社 ]

[ 案内板 ]

[ 社務所・御神木 ]


[ 東側参道鳥居 ]


[ 目黒富士 ]







[ 百度石 ]

[ 案内板 ]

Google Maps