御穂鹿嶋神社 / 東京都港区

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神社情報

御穂鹿嶋神社(みほかしまじんじゃ)

御祭神:藤原(萬里小路)藤房卿・武甕槌命
旧社格:村社
例大祭:6月10日
所在地:東京都港区芝4-15-1
最寄駅:田町駅・三田駅
公式サイト:─

御由緒

御穂神社 御由緒
 御穂神社の創祀は室町時代、大永五(1525)年に鎮座したと伝えられています。後村上天皇の頃、ひとりの老人が都からこの地に至り庵を結びました。当時、芝浜の地は戸数幾ばくもない小さな漁村だったため、村民に忠孝の義を教え導いたとされます。その老人が藤原藤房卿(萬里小路藤房)であり、藤房卿の亡きあと、その高徳を慕って庵跡に宮所が設けられ、祭祀が続けられてきたと伝えられています。
 明治四十五年五月二日 神饌幣帛料供進神社に指定される
 平成十六年八月 芝四丁目鎮座鹿嶋神社と合併する
鹿嶋神社 御由緒
 その昔、沖より芝浜に流れ着いた神殿がありました。波達海の中にあって、神殿の中に納められていた幣帛は少しも濡れることがなかったといいます。日を経て、常陸の国の人が神殿を探し求めて尋ねてきました。これは鹿嶋に鎮座するお社であるとして舟につないで漕ぎ帰りました。ところがこの神殿は再び芝浜の地に流れつき、「この浦に鎮まり坐すべし」との神託があったことから、この地でお祀りされるようになりました。
 明治四十五年五月二日 神饌幣帛料供進神社に指定される
 平成十六年八月 芝四丁目鎮座御穂神社と合併する(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/11/15(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/10/08(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

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考察

本芝鎮守の御穂神社と鹿嶋神社が合併

東京都港区芝に鎮座する神社。
旧社格は村社で、本芝地区(現・芝4丁目)の鎮守。
元々は「御穂神社」と「鹿嶋神社」という別の神社であったが、どちらも本芝地区の鎮守であったため、古くから「本芝両社」と称されていた。
平成十六年(2004)に両社が合併し、現在の「御穂鹿嶋神社」となり、平成十八年(2006)に現在地へ新社殿が造営され遷座された。
古典落語の中でも屈指の人情噺である『芝浜』は、当社前の芝浜が舞台であったと知られている。

藤原藤房の伝説が残る御穂神社

「御穂神社」の創建は、大永五年(1525)と伝えられている。

後村上天皇年間(1339年-1368年)、都からやってきた老人が、芝浜の地に庵を構え、小さな漁村であった当地の村民に、忠孝の義を教え導いたと云う。
この老人は藤原藤房と云う人物であったとされ、彼が没した後に慕った村人たちが庵のあった場所に宮所を設け、祭祀が続けられてきたとされる。

後村上天皇年間(1339年-1368年)と、大永五年(1525)には開きがあるため、藤房の話を伝え聞いていた村民の子孫たちによって創建されたのであろう。
そのため当社の御祭神は、全国的にも大変珍しい藤原藤房となっている。

伝承が散見する万里小路藤房

藤原藤房という人物は、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)という名で知られる。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿で、後醍醐天皇の側近。
『太平記』でも随一の公家として称えられ、江戸時代の儒学者・安東省菴は、平重盛・楠木正成とともに万里小路藤房を日本三忠臣の1人に数えている。

藤房は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動に参画。
元弘の変で倒幕計画が露見したため、後醍醐天皇と共に逃れるも捕縛され解官。
一時は鎌倉幕府により常陸国への流罪などを経験している。
鎌倉幕府が滅亡後、元弘三年/正慶二年(1333)に上洛し復官を果たした。

建武政権では要職を担ったが、不正や不当が横行した政権を糾弾。
再三諫言を繰り返すも、聞き入れない政権に失望して、岩倉で出家。
後醍醐天皇は慌てて藤房を呼び寄せようとしたが、既に行方をくらましており、その後の消息は不明とされている。

出家後の動向に際して数々の伝承が残されている。
いずれも信憑性は定かではないものの、全国各地に伝承が散見している伝説的な人物とも云えるだろう。

当社の御由緒もそういった伝承によるもの。
こうした伝承はいずれも信憑性に欠けるものであるが、全国的にも藤房を御祭神としている神社は見かける事がなく、当地にはそれに値する故事があったのかもしれない。

駿河国三宮「御穂神社」からの勧請説

別の説として『江戸名所図会』などの古い地誌には、駿河国三保(現・静岡市清水区三保)から移り住んだ漁師たちが、故郷の氏神である「御穂神社」から勧請して創建と記されている。

「御穂神社」は、富士山と共に世界文化遺産となっている三保の松原の範囲内。
式内社であり駿河国三宮として、古くから篤い崇敬を受けていた。

駿河国「御穂神社」の御祭神は三穂津彦命(大己貴命)と三穂津姫命となっている。
当社の御祭神・藤原藤房とは齟齬が生じてしまうが、『江戸名所図会』には当社の御祭神は、御穂津彦と御穂津姫とされていて一致している。

この事からも駿河国三保から移り住んだ漁師たちによって、「御穂神社」から勧請された説のほうが信憑性は高い。

戦前の地誌「芝區誌」には、「當社の神號から見ても、位置から見ても、傳説から考へても、それが駿河の三保神社の分霊であることは疑へない。」と記されているように、こちらが正しいとしている。
かつては名もない小さな祠も、江戸が大都会になって参詣者が増えるため、縁起の必要性が高まり、都合良いように作られたものだとも記している。

筆者としても、「御穂神社」から勧請説がしっくりくるが、現在の御祭神が藤原藤房(万里小路藤房)であるように、ある時からは藤房を崇敬し大切に祀ったのは事実であり、興味深い神社である。

寛永年間に創建した鹿嶋神社

「鹿嶋神社」の創建は、寛永年間(1624年-1644年)と伝えられる。

ある日、芝浜の当地に祠が漂着した。
中を見ると、海を渡って流れ着いたにも関わらず、納められていた幣帛が少しも濡れていなかったと云う。

後日、常陸国の人が祠を探し求めて尋ねてきて、常陸国一之宮「鹿島神宮」境内に鎮座していた一社であるとして舟に繋いで持ち帰った。
しかし、再び同じように流されて当地に漂着し、「この浦に鎮まり坐すべし」との神託があった事から、この地でお祀りする事となった。
そのため「鹿島神宮」と同じ武甕槌命が御祭神となる。

鹿島神宮 / 茨城県鹿嶋市
常陸国一之宮。鹿島神社の総本社。東国三社。奥宮。国の重要文化財の社殿。奈良の鹿の発祥。御朱印。御朱印帳。

村人はこの奇瑞を畏み敬い、長く海の幸を護り給ったと伝わる。

本芝両社と呼ばれ崇敬を集める

江戸時代までは柴村という村であったが、徳川家康が入府し江戸幕府ができてからは当地周辺は急速に発展。
柴町・芝町と呼ばれ、寛文二年(1662)に町奉行支配となってからは本芝と呼ばれるようになる。

こうして本芝地区には、古くから祀られていた「御穂神社」と、江戸時代に入ってから創建した「鹿嶋神社」の二社が鎮座する事となる。
どちらも本芝の鎮守として崇敬され、「本芝両社」とも呼ばれた。

別当寺は「正福寺」で両社を管理、宮司も両社を兼任していた。
更に祭礼も同日の3月15日に行っており、古くから「本芝両社」として二社が一体となって、地域からの崇敬を集めていたのが分かる。

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

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「御穂神社」「鹿嶋神社」と、やはり両社をまとめて描かれている。
江戸の海(東京湾)に面していたのが「鹿嶋神社」で、「御穂神社」はそれよりも東奥に鎮座していたという位置関係もよく捉えている。
現在の当社は「鹿嶋神社」の社地で合併している事になる。
なお、この「鹿嶋神社」の付近の浜辺を「芝浜」と呼び、古典落語「芝浜」の舞台として知られる。

文章にて詳しい説明もあるのだが、「御穂神社」については駿河国三保から移住し駿河国三宮「御穂神社」からの勧請という旨が記されており、「鹿嶋神社」については、流れ着いた「鹿島神宮」の伝承が記されている。
別当寺も同じで祭礼も同日に行うといった事も記しているように、既に両社が一体となっていた事が伝わる。

明治以降の歩みと平成の合併

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、「御穂神社」が村社に列した。
明治七年(1874)、「鹿嶋神社」が村社に列した。

明治以後も両社が本芝地区の鎮守として崇敬を集めている。
祭礼になると本芝の海岸にあった花柳界の賑わいと共に露店も多数並び、大勢の参拝者が訪れたと伝わる。

戦後の昭和三十九年(1964)、住居表示の実施に伴い、港区の多くの町名が廃止。
本芝も大部分が芝4丁目となり、現在は公式地名に本芝は消滅してしまっているものの、現在は当社に隣接する本芝公園などに、その名を見る事ができる。

平成十六年(2004)、社殿の老朽化や地域の再開発事業の影響を受け、「御穂神社」「鹿嶋神社」の両社が合併し、現在の「御穂鹿嶋神社」と改称した。

同年、「鹿嶋神社」の社地に新社殿を造営を開始。
竣工までは「御穂神社」に合祀されていた。

平成十八年(2006)、新社殿が竣工し遷座。
img_2654現在も拝殿の扁額には「御穂神社」と「鹿嶋神社」の2つが掲げられている。

新しく造営された綺麗な境内

田町駅もしくは三田駅から第一京浜に出て浜松町方面へ向かうと、三菱自動車工業本社の脇に「江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見之地」と記された石碑が置かれているので、その石碑の角を右折すると正面が当社の裏手となる。

鳥居は東京湾側の南に面している。
img_2652ここはかつての「鹿嶋神社」の社地であり、合併に際して新しく造営された。

鳥居を潜ってすぐ左手に手水舎。
img_2660正面には社殿と、境内はとても狭い。

社殿は平成十八年(2006)に造営されたもの。
img_2653また新しさを感じる鉄筋コンクリート造の社殿となっている。
img_2663上述したように拝殿の扁額には「御穂神社」と「鹿嶋神社」の2つが掲げられている。

社殿の手前右手には境内社。
img_2657稲荷社・天満宮・住吉社の三社が祀られている。

境内は新しいものであるが、当地に残る古いものもいくつか置かれる。
img_2655鳥居すぐの対となった狛犬は嘉永年間(1848年-1854年)に奉納されたもの。
img_2662境内左手には力石も置かれている。
他にも社殿前の天水桶など、古い奉納物を利用して再建されたのが分かる。

社殿裏手には二頭が一緒になった狛犬。
img_2664中々素晴らしい意匠でよい出来となっている。

御朱印は社務所にて。
img_2661何度か訪れたのだがご不在の時が多いので、その旨は予め理解しておくとよいだろう。

古典落語「芝浜」の舞台

当社は、落語好きにも見逃せない要素がある。

古典落語の演目である『芝浜』。
夫婦の愛情を暖かく描いた屈指の人情噺。

この芝浜と云うのが当社の前・隣接していた砂浜で、落語の舞台になった場所である。

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こちらは芝・三田・高輪付近を描いた江戸後期の切絵図。(北が右側)
右下が本芝と呼ばれた当地周辺となっている。

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本芝周辺を拡大したもの。
左手に赤く囲ってあるところが「鹿島明神」とあり、現在の当社の鎮座地。

『江戸名所図会』でも分かるように、当社の前は海であった。
現在のJR山手線などの線路は海岸沿いにあった事が分かる。
当社の右手に「沙濱(砂浜)」の文字があり、これが「芝浜」と呼ばれた砂浜であり、古典落語『芝浜』の舞台である。

明治維新後は、昭和三十九年(1964)頃まで漁船の入る入江になっており、魚市場本芝組の雑魚場(ざこば)として有名で、この雑魚場が整備されたのが現在の「本芝公園」である。

このような縁もあり、鳥居の隣に「芝浜囃子の碑」が建っている。
img_2666橘右近という元落語家が寄進したもの。

橘右近は、戦前から戦後にかけて活躍した元落語で、落語家を廃業した後に、寄席文字の復興をさせた人物。
当社近くの東京芝浜松町出身であり、落語家時代は『芝浜』が十八番であったと伝わる。

所感

本芝地区(現・芝4丁目)の鎮守である当社。
江戸時代の頃から「御穂神社」と「鹿嶋神社」の二社で「本芝両社」と呼ばれたように、古くから二社が本芝の鎮守であった。
古くから別当寺や宮司が両社を兼任しており、祭礼も同日に行われるなど、地域からも両社は切って離せない存在であった事が伺える。
様々な事情により平成になって合併する事となるのだが、古い歴史を見るに合併すべくしてしたようにも思え、まさに本芝の信仰を集めた一社となっている。
都心のビジネス街に新しく造営された社殿や境内は、とても綺麗に整備されており、小さな神社ながら参拝者の姿が後を絶たない。
地域の歴史と信仰が詰まった、今も崇敬を集める神社である。
また、落語好きにも『芝浜』の舞台として楽しむ事ができると思う。

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神社画像

[ 鳥居・社号碑・社殿 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 境内社(稲荷社・天満宮・住吉社) ]
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[ 東門 ]
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[ 力石 ]
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[ 社務所 ]
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[ 狛犬 ]
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[芝濱囃子の碑]
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[ 石碑 ]
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