馬橋稲荷神社 / 東京都杉並区

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神社情報

馬橋稲荷神社(まばしいなりじんじゃ)

御祭神:宇迦之魂神・大麻等能豆神
相殿神:伊弉册神・美都波能賣神・菅原道真朝臣
旧社格:村社
例大祭:9月第2日曜と前日
所在地:東京都杉並区阿佐谷南2-4-4
最寄駅:高円寺駅・阿佐ヶ谷駅
公式サイト:http://www.mabashiinari.org/

御由緒

 この神社は、旧馬橋村の鎮守で、祭神は宇迦之御魂神と大麻等能豆神です。
 神社の由緒書によると、鎌倉末期の創立といわれます。
 当社近くの墓地に「文安四年丁卯閑二月五日」と刻んだ板碑が現存することから、室町期にはこの地域に人々が住んでいたことがわかります。
 また、江戸初期延宝二年(1674)『武州多摩郡馬橋村寅御縄打帳』の中に「いなり明神社内福仙寺」の記があることから、すでに稲荷社が祀られていたことがうかがわれます。
 天保二年(1831)、拝殿改築に際して氏子五十三人が拠金して、京都白川神祇伯家御役所(神社を司どる役所)に上申し、翌年「正一位足穂稲荷大明神」の御神号を拝受したということです。
 明治四十年、本殿改築後、村内の御嶽神社・白山神社・天神社・水神社を相殿として合祀しました。
 昭和四十年十月住居標示の改正に伴ない、馬橋の地名を保つため神社名を「馬橋稲荷神社」と改めました。
 現在の拝殿は昭和十三年の改築ですが、本殿前の朱塗りの随神門は、昭和五十年鎮座七百年記念事業の建立で、左右に随神像を祀り、中央天井に都内最大といわれる開運の大鈴(直径75㎝)がつるされています。当社の神輿は大正11年の東京博覧会に出品されたもので高さ2.5m、台幅1m重さ1.5tの白木造りの大神輿で区内でも一、二の大きさといわれています。
 正面の石造大鳥居は、高さ8mで昇龍・降龍が刻されてあり、東京三鳥居の一つといわれています。また、江戸末期から力くらべに使われたという力石や、多くの絵馬・奉納額も保存されています。
 初午祭は、餅つき唄を歌いながらついた餅を神前に供える神事で、毎年たいへん賑わっています。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/10/13(ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/04/05(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:お気持ち(志納)
社務所にて。

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考察

旧馬橋村鎮守のお稲荷様

東京都杉並区阿佐谷南に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧馬橋村の鎮守。
見事な境内で、二之鳥居は双龍鳥居となっており東京三鳥居の一つと云われる。
近年ではパワースポットの神社としても注目を浴びている。

鎌倉時代末期の創建・馬橋の地名由来

創建年代は不詳とされているが、鎌倉時代末期の建治年間(1275年-1277年)に創建と伝わる。

当地周辺は馬橋村という村が成立しており、当社は馬橋村の鎮守であった。
村の成立時期も不詳ながら、近くから「文安四年丁卯閑二月五日」と刻んだ板碑が現存。
この事から文安四年(1447)までには、当地周辺に人の定住があった事が分かり、村としての集落となっていた可能性も高い。

馬橋の地名由来は諸説あるのだが、当社の裏手にある桃園川の湿地帯を軍勢が通った時、「馬を橋代わりにして渡った」ので、「馬橋」の地名が生まれたという説が有力。

当社ではその根拠として、室町時代後期に太田道灌と豊島泰経との間で行われた合戦「江古田原合戦」を例に挙げている。
当時、合戦の戦法で馬を橋代わりに湿地を渡る事があり、馬橋村中央部「桃園川流域」はかなりの湿地でだったため、馬の背を橋代わりにしたとしている。

このように遅くとも室町時代には村が成立していたと見られ、当社の創建が鎌倉時代末期と伝わるのも頷けるものであろう。

江戸時代の史料と正一位足穂稲荷大明神

当地周辺の史料が増えるのは江戸時代以降となる。

江戸時代の馬橋村は大変のどかな農村であり、江戸時代後期になると、村内には56軒の村民が住む集落となっていた。
そうした農村集落の鎮守として崇敬を集めた。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(馬橋村)
稲荷社
除地、一畝十二歩。小名西ノ久保にあり。村の鎮守なり。本社二間四方、拝殿四間に二間、未申の方に向。前に鳥居をたつ。鎮座の年代は詳ならず。
御嶽社
除地、四段二十五歩。小名後原にあり。小祠にて上屋もわづかに六尺四方。鳥居をたつ。
天満宮
除地、四畝二十四歩。前の並にあり。小祠平地にして雑木生茂れり。例祭九月二十五日。右の三社いづれも村内福泉寺の持なり。

「稲荷社」とされているのが当社で、馬橋村の鎮守だった事が分かる。
創建年代はこの頃から不詳とされていた。
続いて記載されている「御嶽社」「天満宮」は、いずれも明治に入って当社に合祀されている。
当社含めてこれらの神社は、同じ村内にあった「福泉寺」が別当寺であった。

この後の天保二年(1831)、氏子53人が拠金して京都に使者を送り、京都白川神祇伯家御役所に上申し、御神体及び神号の宣下を願い出たという。
天保三年(1832)、「正一位足穂稲荷大明神(たるほいなりだいみょうじん)」の御神号を拝受した。
本殿はこの当時のものと見られている。

合祀政策・馬橋の地名保存のために改称

明治になり神仏分離。
『新編武蔵風土記稿』には「稲荷社」が鎮守とあるのだが、当時は「御嶽社」が馬橋村の氏神とされていた事が戸籍などから分かっている。

明治二十二年(1889)、町村制が施行され馬橋村・高円寺村・阿佐ケ谷村・天沼村・成宗村・田端村の6か村が合併し、杉並村が成立。
馬橋村は杉並村大字馬橋となる。
大正十三年(1924)、町制施行して杉並町が成立し杉並町大字馬橋となった。

明治四十年(1907)、村内に点在していた「御嶽社」「天神社」「水神社」「白山社」を、村の中央に鎮座していた当社(稲荷社)に合祀。
そのため当時は「稲荷神社」が正式名称であったが、地域からは「五社神社」と呼ばれていたようだ。
img_1500現在も拝殿の扁額には「稲荷宮」を中央に「天満宮」「御嶽宮」の扁額が掲げられている。
これらは合祀政策の影響を受けてのものであろう。

昭和二年(1927)、村社に列する。
昭和七年(1932)、東京市が成立し杉並区馬橋となる。

昭和十三年(1938)、拝殿を改築しこれが現存している。
これは村社に昇格した事で計画された事であり、末社や社務所なども新築された。

戦後の昭和二十五年(1950)、氏子中の戦没者の御魂と、神社関係物故者の合わせて500余柱の御霊を祀る斎霊殿を新設。

昭和四十年(1965)、住居表示が実施。
かつての馬橋1-4丁目が廃止され、現在の阿佐谷北1-5、高円寺北3-4、高円寺南2-3、阿佐谷南1-2、梅里2などに分けられた。
こうして長年続いた「馬橋」の地名が公式に消滅してしまう。

同年、馬橋村の鎮守であった当社が「馬橋」の地名が消滅する事を憂慮し、これまでの「稲荷神社」から、旧地名を号した「馬橋稲荷神社」に改称。

こうした時と共に忘れ去られてしまう旧地名を保存する、という活動は実に素晴らしい。
神社にはこうして旧地名を号するところがあるのだが、いずれも鎮守として旧地名を大切に残したいという気持ちによるものであり、当社からもそうした神社や氏子の気持ちが伝わる。

昭和五十年(1975)、鎮座700年記念行事として随神門が新築。
その後も多くの境内整備が行われ、現在では大変立派な境内となっていく。
それも氏子からの崇敬によるものであろう。

東京三鳥居の双龍鳥居

高円寺駅と阿佐ヶ谷駅のほぼ中間の位置の住宅街に鎮座する。
img_1480立派な社号碑は昭和四十年(1965)に改称した際に建てられたもの。
立派な朱色の一之鳥居は平成八年(1996)に建立された。

その先にある二之鳥居が見事な双龍鳥居となっている。
img_1483昭和七年(1932)に建立された石造の大鳥居で、昇龍と降龍が鳥居に巻き付くように彫刻されており大変に見事な造形。
img_1487品川神社」「高円寺」境内の稲荷社(当社と同じ石工作)と合わせて都内で3つしかないため、東京三鳥居と呼ばれる。

見事な参道・水路には蛍の姿も

その先にはとても綺麗な長い参道が続く。
img_1488神橋や両脇には小さいながら水路が設けられており、かつての桃園川を偲ばせてくれる。
img_1485こうした水路は神社や氏子による努力によるもので、とても綺麗に維持されている。

当社では告知を行っていないし、広く知られてはおらず、一部の氏子しか知らない事であるのだが、実は当社の境内では初夏になると蛍の姿を見る事ができる。
2015年の初夏の夜、ふらりと当社に参詣した際、境内に蛍が飛んでいて驚いた。
何も知らずに参拝したため撮影機材を持っていなかったのが惜しいが、実に幻想的な光景であった。
これらは自然に繁殖したものではなく、数年前より神職の方や近隣大学の学生が育てた蛍を境内に放っているそうで、都内ではとても貴重な光景。
蛍が生息できるように、参拝者もこの綺麗な境内を維持できるよう協力したいものである。

随神門にある都内最大の鈴はパワースポットとしても

そうした綺麗な参道が続き、その先に三の鳥居。
img_1492三の鳥居を潜った左手には立派な手水舎が置かれている。
img_1494さらにその先に随神門。
img_1496昭和五十年(1975)、鎮座700年記念行事として新築されたもの。
この随神門の上には、都内最大の大きさを誇る鈴が置かれている。
開運鈴とも呼ばれ、パワースポットとしても一部では知られている。

瑞垣の朱塗りが鮮やかな社殿・境内社など

随神門の先に社殿があり、瑞垣の朱塗りが鮮やか。
img_1513拝殿は、昭和十三年(1938)に増築されたものが現存している。
本殿は、天保三年(1832)のものと見られている。
img_1501神狐像も随所に置かれており、朱色の瑞垣と共に稲荷神社らしさを引き立てる。

社殿の左手に斎霊殿。
img_1507昭和二十五年(1950)、氏子中の戦没者の御魂などを祀っている。

その奥には厳島神社と水神社の合祀殿。
img_1509かつての馬橋村には弁天池と呼ばれた小さな池があり、日照りがいくら続いても水は枯れなかったため、雨乞いに使われていたという。
そうした弁財天が水神社に合祀されたものとなっている。

その左手には小さな稲荷社や祠などが置かれている。
img_1511これらは氏子区域でかつて邸内社として祀られていた稲荷社が遷されたものだという。

御朱印は社務所にて。
img_1503とても丁寧に対応して下さった。
以前参拝した時は氏子が集合している祈願祭であったが、色々とお話を聞かせて下さり有り難い。

所感

旧馬橋村の鎮守として地域からの崇敬を集めた当社。
整備された参道はとても美しく素晴らしい。
神社側や氏子による努力が伝わってきて、地域に親しまれる鎮守なのが伝わる。
そして当社の「馬橋稲荷神社」の社号も、公式地名からは消滅してしまった「馬橋」の旧地名を保存するための改称であり、こうして鎮守が旧地名の保存に努力されているのは、とても素敵な事だと思うし、現代において大切にしたい部分ではないだろうか。
規模は小さいながら素晴らしい境内を堪能できる都内屈指の良社である。

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神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]
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[ 一之鳥居 ]
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[ 二之鳥居(双龍鳥居) ]
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[ 水路 ]
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[ 参道 ]
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[ 三之鳥居 ]
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[ 神狐像 ]
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[ 参道 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 随神門 ]
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[ 社殿 ]
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[ 神狐像 ]
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[ 社務所(参集殿) ]
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[ 東参道 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 神輿庫 ]
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[斎霊殿]
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[ 水神社 ]
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[ 稲荷社 ]
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[ 西参道 ]
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[ 旧神輿庫 ]
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[ 案内板 ]
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