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概要
久我山鎮守のお稲荷様
東京都杉並区久我山に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧久我山村の鎮守。
正式名称は「稲荷神社」だが、他との区別から「久我山稲荷神社」とも称される。
7月24日の夏祭りでは杉並区唯一の「湯立神事(湯の花神楽)」が行われる事でも知られる。
現在は神職は常駐しておらず、「下高井戸八幡神社」の兼務社となっている。
神社情報
久我山稲荷神社(くがやまいなりじんじゃ)
御祭神:受持命
社格等:村社
例大祭:7月24日(夏祭り)・10月第1日曜(秋祭り)
所在地:東京都杉並区久我山3-37-14
最寄駅:久我山駅
公式サイト:https://www.shimotakaido.org/kugayama/
御由緒
久我山稲荷神社
久我山稲荷神社は、『新編武蔵風土記稿』の多摩郡久ヶ山村の条に稲荷社として掲載され、「除地、二段五畝十五歩、堂屋舗にあり、小社にて上屋九尺に二間、拝殿二間に三間、南向、前に鳥居を立つ、石階鳥居の外に三級内に二十数級あり、村内の鎮守、例祭十一月にて日定らず、光明寺の持」と記されています。創建の由来については詳かではありませんが、古来からの久我山村の鎮守で、祭神は保食命です。
明治四十年(1907)四月に字北原にあった天祖神社(祭神大日孁貴神)が合祀され、昭和十六年(1941)二月に村社となりました。境内末社には八雲神社・天満天神社があります。
例祭日は十月一日ですが、本社では、七月二十四日に夏祭りが行われ、「湯の花神楽」が奉納されます。湯の花神楽は、大釜に熱湯を沸かし、小笹を浸して打ち振りながら行われます。杉並区内では極めて珍しい行事で、その昔、この地に疫病が流行した際、村人が神楽を奉納し、祈願したところ、疫病がやんだという故事によるものです。
境内には明治三十二年(1899)に氏子が奉納した金玉均(朝鮮の李王朝末の政治亡命家)の手跡を刻んだ「人心同」の碑があります。金玉均は、久我山に生まれて幼くして小笠原にわたり、砂糖王と呼ばれた飯田作右衛門から、「遠く離れている父に朝夕仕えることもできず、心で思うばかりである。せめて父の住むところに自分の不孝をわびる石碑を建ててくれ」と頼まれ、その心根に強く打たれてこの筆跡を残しました。
なお、境内には元禄十六年(1703)造立の庚申塔があります。かつて村人がこの庚申様に砧の槌を納めて養蚕の無事を祈願したと言い伝えられています。
また、昭和五十七年(1982)に新築された「額堂付神楽殿」には多数の絵馬が保存されています。(境内の掲示より)
歴史考察
久我山村の開墾とその鎮守
社伝によると創建年代は不詳。
久我山村(久ヶ山村)の鎮守として創建されたと云う。
久我山村の成立年代は不詳だが、久我山村の周囲の村は主に万治年間(1658年-1660年)に開墾された地が多い。
これは承応二年(1653)に玉川上水が引かれるようになった事から、新たに農地として開墾される事となったためで、久我山も同様にこの年代に開墾された地と推測ができる。
また久我山の地名由来は不明ではあるものの、陸地や空閑地を表す「くが」を意味し山は森林を意味していると思われるため「武蔵野の森林を切り開いた地」、すなわち開墾地を意味していると推測できる。
境内には元禄十六年(1703)の庚申塔が残る。
そのためこれ以前には村として人々の定住があった事が窺える。
新編武蔵風土記稿に記された稲荷社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(久ヶ山村)
稲荷社
除地二段五畝十五歩。堂屋舗にあり。小社にて上屋九尺に二間、拝殿二間に三間。南向、前に鳥居を立つ。石階鳥居の外に三級内に二十数級あり。村内の鎮守。例祭十一月にて日定らず。光明寺の持。
神明社
除地一町三段二畝二歩。小名札野の西にあり。小祠にて光明寺持。
久ヶ山村の「稲荷社」と記されているのが当社。
拝殿を設けた鳥居や石段のあるしっかりした神社であった事が窺える。
村の鎮守であった事と「光明寺」が別当寺であった事が記してある。
同村の「神明社」は明治に当社に合祀された神社。
こちらも同様に「光明寺」が別当寺となっていた。
弘化年間(1844年-1847年)、現在も行われている湯立神事「湯の花神楽」が行われるようになったと伝わる。
明治以降の歩み・村社へ昇格
明治になり神仏分離。
当時は無格社(後に村社へ昇格)であった。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い上高井戸村・中高井戸村・下高井戸村・大宮前新田・久我山村・松庵村が合併し高井戸村が誕生。
当地は高井戸村久我山となる。
明治四十年(1907)、周囲にあった「天祖神社」を合祀。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で現在の鎮座地とほぼ同じ場所に鎮座。
高井戸村の地名の他に久我山の文字を見る事ができる。
まだ現在の久我山駅ができる前で久我山の鎮守として崇敬を集めた。
大正二年(1913)、神楽殿を建立。
昭和十一年(1936)、社殿を造営。
この社殿が現存。
昭和十六年(1941)、村社に昇格。
明治の頃から氏子が長年願った昇格であったと云う。
戦後になり境内整備が進む。
昭和五十七年(1982)、額堂付神楽殿を建立。
昭和六十三年(1988)、社務所を新築。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
久我山駅近くに鎮座・綺麗に整備された境内
最寄駅の久我山駅から近く西側に数分歩いた場所に鎮座。
表参道は南側にあり石段の上に鳥居と社号碑。
昭和六十三年(1988)奉納の一之鳥居は石造りで扁額には「稲荷大明神」の文字。
一之鳥居を潜った先に石段がありその先に二之鳥居。
二之鳥居は朱色の両部鳥居。
三之鳥居を潜ってすぐ左手に手水舎。
平時は水も出ていて使用する事ができた。(コロナ禍は使用中止)
東側にも細い参道が整備。
こちらは朱色の両部鳥居となっている。
戦前の木造社殿が現存
参道正面に綺麗に手入れされた社殿。
昭和十一年(1936)に造営された木造社殿。
立派な社殿で状態も良い。
龍の彫刻。
獅子の木鼻。
拝殿・幣殿・本殿の権現造。
凛々しい神狐像・元禄年間の庚申塔
社殿の前に一対の神狐像。
凛々しさのシュッとした神狐像。
明治二十八年(1895)に奉納されたもので、台座には彫刻が施されている。
こちらは可愛らしい小狐が施された台座で実に良い造り。
一之鳥居の手前右手には庚申塔。
元禄十六年(1703)の銘が残る。
青面金剛と三猿の姿。
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
境内社は2社・2つの神楽殿
その近くに昭和五十七年(1982)に建立された額堂付神楽殿。
囃子堂とも呼ばれ1F部分は額殿となっていて多数の絵馬を保管。
参道の右手には木造の神楽殿。
こちらは大正二年(1913)のもので舞殿とも呼ばれる。
金玉均の人心同・力石
社殿の右手裏には「人心同」の碑。
明治三十二年(1899)に氏子が金玉均の手蹟を刻して奉納したもの。
久我山出身の「小笠原の砂糖王」と呼ばれた飯田作右衛門の親を想う心に打たれて書いた手跡。
李氏朝鮮後期の政治家で朝鮮独立党の指導者。
朝鮮の近代化を目指し日本・清(中国)と同盟する「三和主義」を提唱、朝鮮でクーデター「甲申事変」を起こしたものの清の介入で失敗。
その後、日本に亡命し岩田秋作を名乗っていた。(後に上海で暗殺)
小笠原諸島に幽閉状態で暮らしていたが、その際に久我山村出身で小笠原諸島で砂糖栽培で成功し「小笠原の砂糖王」と称された飯田作右衛門と知り合い、お互い遠く離れた地で親孝行もできない身の上で共感。
金玉均は「体は離れていても心は同じ」との文を贈り、それが「人心同」として碑とされて当社に残されている。
その隣には力石。
新しい台座に置かれていて氏子による手入れがよく伝わる。
7月24日の夏祭りで行われる湯立神事(湯の花神楽)
7月24日の夏祭りでは都内では珍しい「湯立神事」が行われる。
杉並区では唯一の湯立て神事で「湯の花神楽」が奉納される。
大釜に湯を沸かして行なう神事。
当社の湯立神事では沸かした湯に笹を浸して打ち振り「湯の花神楽」を奉納。
疫病の全治を祈願する。
弘化年間(1844年-1847年)頃から行われたと伝わり、その昔に疫病が久我山村に蔓延した際に、村人が神楽を奉納祈願し病が平癒した、という故事によって続けられているもの。
日清戦争の影響で一時中断したものの、疫病が再び流行したため再開されその後は1度も中断する事なく続いていると云う。
御朱印は本務社の下高井戸八幡神社にて
境内には社務所(参集殿)も整備。
また拝殿前には授与所も。
但し、普段は神職が常駐していないため御朱印はこちらで頂く事はできない。
御朱印は本務社「下高井戸八幡神社」にて頂ける。
御朱印は「久我山稲荷神社」の朱印と社紋。
以前は「稲荷神社」の朱印だったが久我山が頭に付く朱印に変更となっている。
下高井戸八幡神社と兼務社を巡る高井戸五社詣で
11月7日-12月15日まで「高井戸五社詣で御朱印」
※昨年実施した五社巡りの第2弾。詳細は公式X(Twitter)にて。御朱印は全て本務社の「下高井戸八幡神社」で頂く形。
2022年8月21日−9月19日にかけて本務社「下高井戸八幡神社」では「高井戸五社詣で」を開催。
当社と上述した兼務社4社の5社を参拝する御朱印巡り。
御朱印は全て「下高井戸八幡神社」で頂く事ができるので、各神社に参拝した上で頂きたい。
開催期間:2022年8月21日−9月19日・10月1日-再開
御朱印は全て本務社の「下高井戸八幡神社」にて。
初穂料は各500円。
※9月19日で一旦終了するが10月1日より再開。
御朱印は「高井戸五社詣で」のスタンプと各神社に関するスタンプ入り。
当社は湯立神事の様子をデザインしたスタンプ。
こちらは各神社の御朱印。
所感
久我山村の鎮守として崇敬を集めた当社。
創建年代や歴史などは火災による焼失や旧別当寺の廃寺などの影響で不明な部分が多いものの、地誌などから推察するに久我山村の開墾と共に鎮守として祀られたものと思われる。
久我山村の発展と共に歩んで来たのであろう。
明治以降も氏子からの崇敬が篤く、昭和初期には念願の村社への昇格を果たしており、氏子によって維持され整備されていった事を窺い知る事ができる。
そうした氏子からの崇敬は今も変わらず、現在は神職の常駐がない兼務社ながら立派な境内を有し、境内も綺麗に手入れが行き届いている事が素晴らしい。
地域と密に関わり大切にされている良い鎮守である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
「下高井戸八幡神社」社務所にて。
※普段は神職が常駐していないため本務社「下高井戸八幡神社」にて頂ける。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
参拝情報
参拝日:2022/08/22(御朱印拝受)
参拝日:2022/04/25(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/06/29(御朱印拝受)
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