茶ノ木神社 / 東京都中央区

中央区

概要

火伏せの神として信仰を集めたお茶ノ木様

東京都中央区日本橋人形町に鎮座する神社。
かつては佐倉藩主・堀田家の中屋敷に祀られていた邸内社。
お稲荷様として年1回初午の日だけ開門して一般の参拝を許可、火伏せの神として信仰を集めた。
周囲にぐるりと茶の木がぐるりと植え込まれていた事から「お茶ノ木様」と呼ばれ親しまれた。
現在は再開発によって高層マンション「リガーレ日本橋人形町」の敷地内に境内を整備。
現在は日本橋七福神の布袋尊も担う。

神社情報

茶ノ木神社(おちゃのきじんじゃ)

御祭神:倉稲魂大神
社格等:─
例大祭:2月初午の日(初午祭)
所在地:東京都中央区日本橋人形町1-12-10
最寄駅:人形町駅・水天宮前駅・浜町駅
公式サイト:https://chanoki-jinja.net/

御由緒

 「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様とされている。
 史実とは異なる解釈もあるが、昔この土地は徳川時代約三千坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷とされ、
 当社はその守護神として祀られたものであり、社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝の茶の木の緑が見事であったとされている。
 また、中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころからか誰言うとなく火伏せの神と崇められ、堀田家では年一回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にされた由「お茶の木様」の愛称で町の評判も相当であったとされている。
 また、新たに昭和六十年布袋尊を御勧請合祀申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。布袋尊は実在した中国唐代の禅僧で福徳円満の相が喜ばれ、世の清濁を併せ呑む大きな腹をして袋の中にいっぱいの宝物を入れ、人々に福運大願を成就させる和合成就の神様として崇められている。(頒布の用紙より)

参拝情報

参拝日:2024/03/13

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※「茶ノ木神社」「日本橋七福神・布袋尊」の2種類の御朱印あり。

歴史考察

佐倉藩主・堀田家の中屋敷に祀られた邸内社

創建年代は不詳。
江戸時代に当地にあった佐倉藩主・堀田家の中屋敷の邸内社として祀られていたと云う。

佐倉藩(さくらはん)
佐倉藩は下総国印旛郡佐倉(現・千葉県佐倉市周辺)に置かれた藩。
佐倉藩は諸藩中最も多くの老中を輩出したため、佐倉城(現・千葉県佐倉市)は「老中の城」とも称された。
堀田家(ほったけ)
最初に堀田家で佐倉藩主になったのは。江戸時代前期に徳川家光によって老中に取り立てられた堀田正盛(ほったまさもり)。
その後藩主家は頻繁に交替したが、延享三年(1746)に老中・堀田正亮(ほったまさすけ)が藩主となると、以後は明治まで堀田家が藩主として定着した。
堀田家が佐倉藩主となったのは寛永十九年(1642)-万治三年(1660)までの前期堀田家時代、延享三年(1746)以降の後期堀田家時代の2期間があり、どのタイミングで中屋敷が置かれ邸内社になったのは不明。
佐倉(堀田相模守正順) | 藩情報 - 武鑑全集
日本古典籍データセットで公開する寛政武鑑(1789)の藩に関する情報の一部を翻刻しました。IDは寛政武鑑(1789)での出現順に付与しており、原本に存在する誤りはそのまま残しています。

稲荷信仰の神社として祀られていた。

火伏せの神「お茶ノ木様」・年1回初午の日に一般開放

長年の間、堀田家中屋敷をはじめ、周囲の町で火災が起こらなかった事から「火伏せの神」として信仰を集める事に。
また、周囲に巡らされた土堤の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、その茶の木の緑が見事だった事から「お茶ノ木様」と呼ばれ崇敬を集めた。

現在も地域の方は「お茶ノ木様」と親しんで呼ぶと云う。

堀田家では年に1回、初午祭が開かれた初午の日のみ開門。
一般の参拝を自由に許可したと云う。

初午(はつうま)
2月最初の午の日。
稲荷信仰の総本社である京都「伏見稲荷神社」の御祭神が伊奈利山へ降りた日が初午であった事から、稲荷信仰の神社では例祭とされる事が多い。

江戸切絵図から見る当社

江戸時代の当社や松島町については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(日本橋北神田浜町絵図)

こちらは江戸後期の日本橋や人形町周辺の切絵図。
当地周辺は右下あたりに描かれている。

(日本橋北神田浜町絵図)

当地周辺を拡大したものが上図。

当社の鎮座地に神社が記されてはいないものの当社の鎮座地は赤円あたりにあたる。
松島町の隣、当時はこの地には森川紀伊守(生実藩主・森川家)の上屋敷があった。

生実藩(おゆみはん)
下総国千葉郡生実(現・千葉県千葉市中央区生実町)を居所とした藩。
寛永四年(1627)に森川重俊が藩主となり、以後は森川家が12代続いて明治を迎えた。
房総半島の諸藩の中では江戸時代前期に成立してから廃藩置県まで転封がなかった数少ない藩の1つ。
(生実)(森川源之丞) | 藩情報 - 武鑑全集
日本古典籍データセットで公開する寛政武鑑(1789)の藩に関する情報の一部を翻刻しました。IDは寛政武鑑(1789)での出現順に付与しており、原本に存在する誤りはそのまま残しています。
当社は堀田家の邸内社として引き続きどこかに祀られていたのか、それともこの場所で小さな社として祀られていたのかは不明。

明治以降の歩み・再開発によって高層マンションを建設

明治になり神仏分離。

社伝によると明治以降は誰の手で祀られてきたのか不明だと云う。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
以後は喜誠会と云う地域の人々がこの土地に社殿を建立して維持管理を行った。

昭和八年(1933)、帝都復興計画の一環として蛎殻町や人形町が周辺の町を編入。
以後は蠣殻町二丁目北部町会・人形町一丁目西部町会(現・人形町一丁目)が維持管理。

地域によってお守りされた神社だったようで戦前も無格社以上の公認神社ではなかったと思われる。

昭和三十五年(1960)、日比谷線が建設するにあたり当社が計画路線にあったため解体。
工事中は御神体を「東伏見稲荷神社」(東京都西東京市)に遷したと云う。

日比谷線は昭和三十九年(1964)の東京オリンピックに間に合わせるために突貫工事で建設された。

昭和三十九年(1964)、日比谷線が全線開通。
新社殿の建立まで大変な苦労があったと云う。

昭和六十年(1985)、布袋尊を合祀。
日本橋七福神の布袋尊を担う。

日本橋七福神めぐり 公式サイト
日本橋七福神は他所とは異なり、すべて神社で構成され、しかも日本で一番巡拝が短時間にできるという特長を持っています。日本橋通りや人形町通りは、江戸下町の伝統を持つ繁華街です。下町情緒に触れながら、参拝いただきますよう、御案内申し上げます。

平成十九年(2007)、周辺の再開発によって地上39階建ての高層マンション「リガーレ日本橋人形町」が竣工。

リガーレ日本橋人形町オフィシャルサイト

平成二十年(2008)、マンションの敷地内1階に新社殿を造営し現在に至る。

茶ノ木神社
初午祭が、2月17日(土)に茶ノ木神社にて執り行われます。 初午祭とは、2月最初の午の日に稲荷神社で行われる祭礼です。 稲荷神社は農耕や食物を司る倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀ったもので、季節がら、春の農事を始める前の豊作祈願をし、都...
現在は茶ノ木神社世話人会が維持管理する神社となっている。

境内案内

人形町の高層マンション敷地内に鎮座

最寄駅の人形町駅から徒歩すぐの距離に鎮座。
すぐ近くにある地上39階建ての高層マンション「リガーレ日本橋人形町」の敷地内。
近年ではすぐ近くに大行列ができる人気の神社「小網神社」があるため、こちらまで参拝する方が非常に多い。

小さなお稲荷様

社殿の前に鳥居。
鳥居には茶ノ木神社の文字。
社殿、小さな手水舎、神狐像と云うシンプルな構成。
現代的な神狐像。
狛犬のように阿吽になっていてこちらは宝珠持ち。

御朱印・日本橋七福神の布袋尊も担う

御朱印は授与所にて。
当社の御朱印は通常時は2種類用意。

「茶ノ木神社」「日本橋七福神・布袋尊」の2種類の御朱印を用意。

御朱印は上に「茶ノ木神社」の印、下に「茶ノ木神社参拝之章」の印。
左には「東京日本橋」の印。

日本橋七福神の福禄寿の御朱印は通年で頂ける。
日本橋七福神めぐり 公式サイト
日本橋七福神は他所とは異なり、すべて神社で構成され、しかも日本で一番巡拝が短時間にできるという特長を持っています。日本橋通りや人形町通りは、江戸下町の伝統を持つ繁華街です。下町情緒に触れながら、参拝いただきますよう、御案内申し上げます。

所感

火伏せの神として地域から崇敬を集めた当社。
かつては佐倉藩主・堀田家の邸内社として祀られていたと云う。
江戸時代後期や明治以降などの経緯は不明であるが、関東大震災以後は地域の人々によって守られていた記録が残る。
現在は高層マンションの敷地内に鎮座する形で「お茶ノ木様」と親しまれている。
以前は本当に地域の方の姿しか見る事もなかったのだが、近年は近隣かつ同じく日本橋七福神の「小網神社」が大行列になる人気の影響で、参拝者がとても増えた印象を受け、この日も行列ができる程だった。
小さな神社であるが地域の方から大切にされているのが伝わる神社である。

Google Maps

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