蒲田八幡神社 / 東京都大田区

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神社情報

蒲田八幡神社(かまたはちまんじんじゃ)

御祭神:誉田別命(応神天皇)
旧社格:村社
例大祭:8月8日前後の土・日曜
所在地:東京都大田区蒲田4-18-18
最寄駅:京急蒲田駅・蒲田駅
公式サイト:http://kamatahachiman.org/

御由緒

 当社の創祓は不祥ですが、境内に小円墳があったこと、また、言い伝えや伝説、史実などから、相当古くから聖地として村人の信仰の場であったものと思われます。この地は多摩川の河ロにあたり、水の便が良く、交通の要衝にして物資の集散地ともなり、都からの文化の伝播ももっとも早く、関東における文化の先進地でありました。したがって縄文式文化時代の原始信仰と共に形づくられた斎場が時代とともに推移して今日の姿になったものと思われます。
 蒲田村より新宿分村に当たり、鎮守の神として、稗田神社から行基作の神体三座のうち、春日の像一体を分ちお祓りしたところ、霊験あらたかであったといいます。新宿分村は慶長の頃と言われていますが、一説には平安末期か鎌倉初期とも言われ、決定的な資料は残されていません。しかし、諸般の事情を推論して慶長五年を新宿分村、当社御鎮座とさだめ、平成十二年に御鎮座四百年祭を施行しました。
明治維新となり、神仏分離によって春日の像は別当妙安寺に移されましたが、戦災によって焼失しました。
 昭和二十年四月十五日、戦災により社殿は焼失しましたが、たちまち再建気運が勃興しました。戦後復興していく蒲田の中心にあったため、昭和二十四年八月、新宿八幡神社を改め【蒲田八幡神社】と称えるようになりました。
 氏子崇敬者の奉賛によって現在に見る壮麗な社殿は竣工し、昭和三十三年八月八日、御社殿復興遷宮祭を執行、その後多くの記念事業、記念大祭を執行しました。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/10/04(ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/03/21(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※兼務社の「薭田神社」「椿神社」「御園神社」「北野神社」「女塚神社」の御朱印も用意しているとの事。

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考察

蒲田地区の中心的神社

東京都大田区蒲田に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧新宿村(蒲田)の鎮守。
分村の際に、当社の兼務社である「薭田神社」より勧請し創建している。
蒲田周辺の多くの神社の本務社であり、現在は蒲田周辺の中心的役割を担っている。

古くから神聖な土地に鎮座

創建年代は不詳とされているが、当社では慶長五年(1600)を創建年と推定している。

当地の境内からは古墳時代の小円墳が発見されているため、古くから神聖な土地であったのだろう。
そうした神聖な土地に、後になって神社が建てられたのだと推測できる。

当社の他にも、蒲田の地からは、古墳・貝塚などが多く発見されている。
その大半が古墳時代のもので、古くから蒲田には人の生活があった事が分かる。
また、これらの多くが当社のように神社の境内から見つかっており、当社が兼務している「薭田神社」などからも同様に古墳や祭祀遺構が見つかっている。

こうした古墳や祭祀遺構などに、後になって神社を建てるケースは全国的によく見られる例で、都内でも境内から古墳が発見されるケースは多く、これらは偶然ではないと思われる。
特に多摩川下流域には古くから生活圏があったため、こうした例が多い。

古くから人々が生活をし、祭祀権・信仰の場であった場所に神社ができる。
信仰の結びつきへの想像は容易であり、自然な事に思う。
当社にもそうした背景があった事は間違いないだろう。

新宿村の分村と鎮守として創建

そうした古くからの信仰の場と推定される当地に、当社が創建したとされるのは慶長年間(1596年-1615年)とされており、上述のように当社では慶長五年(1600)を創建年と推定している。
これは当社が鎮守していた「新宿村(蒲田)」の成立と関連性が深い。

慶長年間(1596年-1615年)に、蒲田村が分村。
蒲田村は北蒲田村となり、分村した村は新宿村となる。
この新宿村の鎮守として創建したのが当社である。

分村の際に蒲田村の鎮守であった「薭田神社」より勧請して創建。
薭田神社」には、行基作とされる神体像三体があり、その中から春日の像一体を遷し、神体として鎮祭したところ、霊験あらたかだったという。
このように「薭田神社」の分社とも云う事ができるだろう。
分村した新宿村の鎮守として創建したため、「新宿八幡神社」と呼ばれていた。

薭田神社(稗田神社) / 東京都大田区
延喜式内社(小社論社)。北蒲田村鎮守。日本三代実録・蒲田神。延喜式神名帳の考察。三柱の御神体。蒲田八幡神社の兼務社。御朱印。
この北蒲田村より新宿村(蒲田新宿村)が分村した時期には諸説あり、上述の通り慶長年間(1596年-1615年)というのが一般的のようだが、一説には平安末期・鎌倉初期とも云われる。
分村した新宿村の鎮守として創建したのは間違いないようなので、新宿村の成立が当社の成立とも言え、その村の成立時期によって当社の創建年代は大きく変わってくる事になる。

とは言え、当社では諸般の事情を推論した上で、慶長五年(1600)を新宿分村成立・当社御鎮座と定めており、平成十二年(2000)に御鎮座400年祭を執行している。

江戸時代の史料と禁忌

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(新宿村)
八幡社
海道より1町許西の方にあり。宇佐八幡宮を勧請せしと云のみにて、其年暦を傳へず。されども社頭に古木あまた生茂りたるさま、古社なることは疑ふべからず。村の鎮守なり。本社7尺に6尺。神体は立像にして世尊の像に似たり。左手に軍配団扇をとり、右手に巻物を持つ。総て朽やつれて殊勝に見ゆ。寺伝には行基菩薩の作なりといひ傳ふ。拝殿3間に2間。前に鳥居2基をたつ。一は木にして一は石なり。むらうち妙安寺もちなり。
末社
第六天社。稲荷社。以下二社わづかなる祠にて、社前の両側にたてり。
古塚
社地に入て右の方にあり、塚上に老松四根ありて、廻りに注連をはり置けり。土人に問に昔何物か神霊あるものを埋めし印の塚なりといひ傳へて、塚の邊を葦毛の馬に乗て過るときは、必落馬すといへども其故をしらずといへり。隣村北蒲田栄林寺の云傳へによれば、彼村八幡宮神体三体の中、春日の像一体を分ちここに移して当村の鎮守とせしに、神霊あらたにして、土人の信仰なきものにはまま祟りありしにより、恐れて此地に埋みしといふ。此説うけがたけれども、しばらくしるせしなり。

こちらには八幡信仰の総本社「宇佐神宮」より勧請されたという旨が記されているが、彼村八幡宮(「薭田神社」の事)より春日の像一帯を分祀した事も書かれており、やはり「薭田神社」からの勧請という事になるのだろう。
現在も近くにある「妙安寺」が別当寺であった。

中でも「創建年代は不詳ながら、境内に古木が数多くあったといい古社である事は疑いようもない」といった文章があり、こちらが大変興味深い。
当時から見て古社という表現は、慶長五年(1600)創建ではあまり使わない表現。
この事からやはり古くから聖地として村民たちより崇められていた土地なのだと思われる。

当時は古塚があったようで、これが古墳時代の古墳だったのかもしれない。
この古塚には、逸話として不思議な伝承が記されている。

古墳の塚上に回りに注連縄をした松があり、この塚は古くから神霊あるものを埋めた塚として信仰対象だったという。この塚の周囲を芦毛の馬に乗って通ると必ず落馬すると伝わる。

といった伝承で、これは禁忌(タブー)とも取れる文章。

古墳を守る為に後世に作られた禁忌の言い伝えの例は多くあり、この伝承もそういった禁忌にまつわるものなのかもしれないが、芦毛の馬に限定した禁忌というのも実に興味深い。
いつの時代か、この地で芦毛の馬にまつわる出来事があったのだろうか。

江戸時代に残る伝承なので、やはり当地が古くからの信仰の場所であった事は、間違いないのだろう。

神仏分離・戦後の再建・蒲田の中心として発展

明治になり神仏分離。
薭田神社」より分祀した春日像は、別当寺であった「妙安寺」に遷された。
明治五年(1872)、新宿村の鎮守として村社に列した。

明治二十二年(1889)、町村制の施行に伴い、北蒲田村・新宿村・鵜ノ木村・女塚村・御園村が合併し、蒲田村が成立。
当地は荏原郡蒲田村大字新宿と呼ばれるようになり、その後は新宿町となっていく。

明治四十三年(1910)、近くの「天祖神社」が境内に遷座。
合祀政策の影響を受けたものだと思われる。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿が焼失。
また神仏分離前に別当寺であった「妙安寺」も戦禍をこうむっており、この際に当社の御神体であった春日像も焼失してしまったという。

戦後の昭和二十四年(1949)に、旧新宿村の鎮守であった「新宿八幡神社」から、現在の「蒲田八幡神社」へ改称。
戦後復興していく蒲田の中心にあったため、蒲田の名を付けたという。
昭和三十三年(1958)には、社殿復興遷宮祭を行い再建を果たしている。

昭和四十二年(1967)、順次行われていた住居表示によって新宿町が廃止。
旧新宿村は、主に蒲田周辺と見ればよいだろう。

以後、蒲田の中心として、この周辺の多くの本務社となり現在に至っている。

京急蒲田駅近くに鎮座・戦後再建の社殿

京急蒲田駅からほど近い位置に鎮座している。
img_1354立地がよく、戦後に蒲田の中心神社として発展したのがよく分かる。

立派な朱色の鳥居があり、その先に綺麗に整備された参道。
img_1357参道左手に手水舎があり正面に社殿となる。

社殿は、戦後の昭和三十三年(1958)に再建されたもの。
img_1358八幡造・鉄筋コンクリート造の社殿で、状態もよく維持されている。

社殿の右手には境内社の天祖神社。
img_1364元々はお伊勢の森と呼ばれた蒲田4丁目の一角に鎮座していたが、明治四十三年(1910)に、当社境内へ遷座している。

戦火を免れた満願火伏稲荷・兼務社の御朱印にも対応

参道左手には「満願火伏稲荷神社」。
img_1375 古くから当社境内にあったとされ、『新編武蔵風土記稿』に記されている末社の稲荷社がこちら。
東京大空襲の際、蒲田の町の多くが焼け野原となり焼失した中、数少ない建物として残った事から、稲荷神社でありながら火災予防の守り神として「満願火伏稲荷神社」と称えられるようになった。

現在の社殿は新しく見えるのだが、実はこれは覆屋になっている。
外からは見る事ができないのだが、戦禍を免れた旧社殿は当時の姿のまま、この中に納められている。

当社の御由緒や『新編武蔵風土記稿』にもある小円墳(古塚)は、現在は存在していない。
『新編武蔵風土記稿』には、「社地に入て右の方にあり」という記述がある。
右手には神輿庫が建っており、そうした古塚の痕跡はなし。
img_1373右手という事で考えると、社殿の右手には上述した境内末社の天祖神社が鎮座している。
img_1363ひょっとしたらこの天祖神社のあたりに古塚が存在していており、その地に天祖神社が遷座したのかもしれない。
現在はその痕跡が見られないが、第二次世界大戦の戦禍で境内の多くが焼失したといい、その影響もあったのだろう。

御朱印は授与所にて。
兼務社の御朱印も用意しているため、「薭田神社」「椿神社」「御園神社」「北野神社」「女塚神社」の御朱印も拝受可能。
img_1359大変丁寧に対応して頂いた。

薭田神社(稗田神社) / 東京都大田区
延喜式内社(小社論社)。北蒲田村鎮守。日本三代実録・蒲田神。延喜式神名帳の考察。三柱の御神体。蒲田八幡神社の兼務社。御朱印。
女塚神社 / 東京都大田区
西蒲田(旧女塚村・旧御園村)鎮守。新田義興と少将局の悲劇。女塚の地名由来。少将局を祀る女塚と鎮守の八幡神社。明治になり八幡神社が女塚に遷座・女塚神社へ改称。本務社は「蒲田八幡神社」。御朱印。

所感

蒲田駅からもほど近い場所に鎮座する当社。
伝承や禁忌など、江戸時代の頃から興味深い言い伝えが残っており、色々と興味深い。
創建には諸説あり不確定要素も多いのだが、新宿村(蒲田)の鎮守として、北蒲田村より分村した際に創建したというのは有力であり、かつては北蒲田村鎮守で式内社とされる「薭田神社」からの分社的な立場であったと思われる。
それが現在は、「薭田神社」は当社の兼務社であり、当社が蒲田の中心的神社となっているのが面白い。
立地的にも蒲田駅からも近く、蒲田の中心として「蒲田八幡神社」と称した事が、現在の発展と崇敬に繋がっているのだろう。
この日も多くの方が参拝に訪れていた。
よく整えられた境内で地域の崇敬を感じる事ができる良い神社だと思う。

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神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]
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[ 鳥居 ]
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[ 参道 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 社殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 天祖神社 ]
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[ 裏参道鳥居 ]
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[ 御籤掛・絵馬掛 ]
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[ 満願火伏稲荷神社 ]
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[ 藤棚 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 社務所 ]
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[ 授与所 ]
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[ 案内板 ]
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Google Maps

『蒲田八幡神社 / 東京都大田区』へのコメント

  1. 名前:トシカズ 投稿日:2016/10/11(火) 21:59:11 ID:fbb33a10a 返信

    はじめまして、トシカズと申します。
    凄いですね!ここまで詳しく投稿してびっくりです。
    応援していきますね。

  2. 名前:神社メモ 投稿日:2016/10/12(水) 00:57:12 ID:48837c5c2 返信

    ありがとうございます。
    色々と神社の魅力を伝えられたのなら何よりです。
    神社巡りの参考になりましたら幸いです。
    これからもよろしくお願い致します^^