東玉川神社 / 東京都世田谷区

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神社情報

東玉川神社(ひがしたまがわじんしゃ)

御祭神:建御名方命・大山咋命
社格等:─
例大祭:8月25日前後の日曜
所在地:東京都世田谷区東玉川1-32-9
最寄駅:雪が谷大塚駅・奥沢駅・田園調布駅
公式サイト:─

御由緒

[ 立地 ]
世田谷区の南東端部、大田区と境を接する所。東玉川の町中央部を南北に走る自由通りは、多摩川と並行しており、風水の龍脈にあたります。その真中に社が鎮座しております。
[ 創立 ]
東玉川神社は、今から三百有余年前に、長野県諏訪大社から御分霊を勧請して鎮守の森に建立しました。
[ 発展 ]
明治以前は、民家が十戸しかない小さな純農村でした。昭和七年十月世田谷区成立までは、「諏訪分」と呼ばれ、等々力(当時の玉川村大字等々力)の飛地でした。諏訪分という地名の由来は、諏訪神社があったためです。代々の神職は、氏子・崇敬者の家内安全・厄除・農耕繁栄・商売繁盛等の祈願をしてきました。境内には、消防署が設置した、防水用水があります。
[ 社殿 ]
現在の社殿は、昭和十四年に渋谷の地から移築されたものですが、「新編武蔵國風土記稿」に慶長十年(1605年)徳川二代将軍秀忠の頃と記されており由緒ある建物です。また、向拝の天井版には、「火焔龍神像」(正面座臥)が水墨で描かれており、あたりを祓う高位尊厳と龍気のすざましさが、火焔となって立ち昇り、邪悪を祓う御姿が参拝者たちに感動を与えております。絵の左下には、弘化二年(1845年)と著されております。(世田谷区教育委員会より登録有形文化財に指定されています。)(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/05/12

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

東玉川神社

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歴史考察

東玉川の鎮守

東京都世田谷区東玉川にある神社。
東玉川町の誕生と共に再興された地域の鎮守。
元は諏訪信仰の「諏訪神社」を起源としており、村の統廃合、明治政府の合祀政策により一時廃社からの再興と紆余曲折を経て創建となっている。
社殿は「渋谷氷川神社」の旧社殿が移築された世田谷区の登録有形文化財。

諏訪分という飛地と諏訪社

当社の起源を見ていく上で欠かせないのが、東玉川の歴史。

東玉川地区はかつては荏原郡等々力村の飛地であった。
飛地とは行政区画の内、地理的に分離している一部分の事で、この地域は本来、下沼部・奥沢本村・雪ヶ谷村の3村に囲まれた地であったが、村の区分としては等々力村に属していたため、等々力諏訪分(大平分とも)という飛地とされていた。

十戸ほどの村民が住むだけの小さな集落だったという。

諏訪分と称された地名由来は、この地に「諏訪社」と呼ばれる諏訪信仰の神社があった事による。

その「諏訪社」が当社の起源となる。

「諏訪社」の創建年代は不詳ではあるが、社伝には今から300年余前に信濃国一之宮「諏訪大社」より勧請して創建と伝えられており、江戸時代初期-中期に創建したと見られている。

等々力村の別当寺西光寺

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(等々力村)
諏訪社
字を則諏訪と称する所なり。勧請年月を詳にせず。社二間に九尺。同村西光寺の持なり。

やはり等々力村に属していた事と、当地が諏訪と称する事になった由来という事が記されている。
別当寺は等々力村にあった「西光寺」とあり、現在は廃寺となっている。

別当寺の「西光寺」は文化六年(1809)の火事で本堂・宿坊が焼失した記録がある。
その後、仮の建物が建てられ、庵室は明治初期まであったという。
明治七年(1874)に玉川小学校の創立のときには、この西光寺の庵室が改修されて使われたとされ、現在も寺小屋跡とされた石碑が立っている。

このように等々力村の「西光寺」が管理していたのが、この「諏訪社」であったため、等々力村に接していない当地の氏子区域が、飛地となったものと思われる。

明治になり玉川村の成立・合祀政策

明治になり神仏分離。
明治二十二年(1889)、 新市町村制実施に際して等々力村を含む8ヶ村が合併して玉川村が成立。
当地は「荏原郡玉川村大字等々力字諏訪分」となる。

明治四十一年(1908) 、「諏訪社」を等々力の「熊野神社(現・等々力玉川神社)」に合祀。
こうして諏訪分から神社が消滅する事になる。

等々力鎮守。元は熊野信仰の神社。世田谷城主・吉良頼康による創建。明治以後の玉川村成立・近隣神社の合祀による改称。玉川村耕地整理の歴史。緑豊かな境内。面白い形のとっくりクス。御朱印。

これは当時の明治政府が一村一社にする合祀政策を推進していたためであり、この年代には各地で多くの神社が、地域の主要神社に合祀され取り壊されている。
「諏訪社」もその影響を受け、合祀され取り壊された。

明治の古地図で見る諏訪社の鎮座地

まだ「諏訪社」が合祀される前の、明治三十九年(1906)の古地図がある。
当時の諏訪分の地理関係を確認する事ができる。

諏訪社今昔マップ on the webより)

当時の古地図では「諏訪分」の文字が見え、その諏訪分の区画に鳥居の記号が載っている。
おそらくこれが「諏訪社」であったのだろう。
現在の「東玉川神社」の鎮座地と比較すると、今よりやや西側にあり、雑木林の中にあったようだ。

昭和に入り諏訪社再興の動き

昭和三年(1928)には、諏訪分の西部を走る池上電気鉄道新奥沢線が開業。
諏訪分駅、新奥沢駅が設置された。

新奥沢線は昭和十年(1935)に廃線となっている。

こうしてこの周辺が整備されるにつれ、十戸余りの集落だった諏訪分の人口も増加。

昭和四年(1929)、諏訪分には神社がなくなっていたため、地域の鎮守として「諏訪社」再興の動きがあり、新たに境内地を確保して当社を創建。

「諏訪社」よりも、やや東側、現在の自由通りに面して創建された。
こうして諏訪分の鎮守が復活する事となったのだが、まだ東京府庁からの許可が下りてはおらず、正式には認可されていない状況であった。

昭和七年(1932)、荏原郡は東京市に編入され、玉川村は世田谷町、松沢町、駒沢町と合わせて、世田谷区を形成。
諏訪分も名前を変えて、「東玉川町」となる。

渋谷氷川神社の旧社殿を移築

昭和十四年(1939)、「渋谷氷川神社」より拝殿、翌年には本殿を移築する事となる。
渋谷氷川神社」では前年に社殿の造替をしており、旧社殿の再利用を募集。

宮司様によるといくつか希望する神社があったため「くじ引き」が行われた。
このくじ引きの結果、当社が譲り受ける事となり、現在の社殿として移築された。
imageこれが戦火も逃れ現存しており、中々運命的な素晴らしさを感じる。

その「渋谷氷川神社」の旧社殿は、天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

渋谷氷川神社国立国会図書館デジタルコレクションより)

「渋谷氷川明神社」と描かれた「渋谷氷川神社」。
ここに描かれた社殿が、移築された当社の社殿という事になる。
茅葺屋根から銅板屋根への変更はあるものの、姿形などもそのままで、当時の姿が現存している。

寛永年間(1624年-1644年)に建てられた社殿と伝えられている。
渋谷区南端一帯(旧下渋谷村・旧下豊澤村)の総鎮守。江戸氷川七社の一社。渋谷最古とされる神社。江戸郊外三大相撲である金王相撲。常盤御前の伝説が残る御神木の常盤松。江戸切絵図や江戸名所図会に描かれた当社。戦火を免れた立派な社殿。御朱印。

協議の結果「東玉川神社」に改称

こうして立派な社殿も譲り受けたものの、未だに鎮守として東京府庁の許可が下りなかったと云う。

明治から行われている合祀政策の影響を色濃く残していたためであろう。
再興という形であっても、新しく神社を造るのには、それだけ苦労があったようだ。

そこで東京府庁と協議の結果、昭和十六年(1941)に野毛に鎮座していた「日枝神社」を遷座するという形を取る事となる。

野毛六所神社」に合祀されていた「日枝神社」と思われる。
野毛総鎮守。多摩川の洪水時に府中から祠が漂着・府中「大國魂神社(六所宮)」から「六所明神」と称され創建。江戸時代に成立した野毛村の歴史。明治になり当地へ遷座。静かで立派な境内。境内社の水神社の伝承・多摩川の水中御渡。御朱印。

既に当地の住所は東玉川町となっていたため、地名から「東玉川神社」と改称。
こうして当社が正式に認可される事となり、東玉川の鎮守として再スタートを切り、現在に至っている。

そのため、当社は諏訪信仰(諏訪社)である建御名方命と、山王信仰(日枝神社)である大山咋命が御祭神となっている。

拝殿天井絵の火焔龍神像

自由通りに面し鎮座している当社は、地域の鎮守といった雰囲気がよく出ている。
imageお隣は東玉川交番であり、合わせて地域を守るといった格好だ。

やはり当社で特徴的なのはその社殿だろう。
image上述した通り「渋谷氷川神社」の旧社殿(拝殿・本殿)を移築。
image幣殿はこれに合わせるようにして、氏子などの出資により造られた。
拝殿・本殿は寛永年間(1624年-1644年)の建造物とされており、今もなお修復されながらも現存しているのが実に素晴らしい。
平成十一年(1999)には、屋根など社殿の改修が行われている。

この向拝の天井板には、「火焔龍神像」という水墨画が描かれている。
image絵の左下には弘化二年(1845)の文字があり、江戸後期に描かれたものなのが分かる。
大変状態がよく素晴らしい表情の龍神であり、その力強さに圧倒される。

さらに親子龍の彫刻など、江戸時代の建築美を感じさせる造りが本当に素晴らしい。
imageこの手前にも龍の彫刻があり親子龍とされている。

くじ引きにより、こうして当社に移築され、それが戦災などを逃れ現存。
なんとも素晴らしい縁であろうか。
こうした社殿は世田谷区の登録有形文化財に指定されている。

境内社は稲荷神社と御嶽神社。
庚申塔の姿も見る事ができた。

御朱印は社務所にて。
宮司様や氏子さんが色々と詳しく社殿について教えて下さった。
渋谷氷川神社」の御朱印の隣にお願いしたところ、嬉しそうにお話してくれたのが印象的。

所感

東玉川の鎮守である当社。
元は諏訪信仰の「諏訪社」が起源であり、その後の紆余曲折が興味深い。
飛地の集落の鎮守が、明治になり政府の合祀政策によって合祀され廃社。
その後、人口の増加に伴い再興の動きがあり、「渋谷氷川神社」からの旧社殿の移築、そして東玉川の成立と共に府庁との協議など、様々な努力を経て、現在の姿となった事が分かる。
それだけ地域の鎮守というのは、その地域の人々にとっては大切な存在だという事を、改めて認識させてくれる歴史であろう。
江戸時代までの小さな集落が今では高級住宅地となっており、新しい人々の流入によって新興住宅地となったこの地域において、鎮守としての意味合いは薄れていっているのは間違いなく、当社もその影響は受けてはいるのだろう。
しかし、小さい境内ながら今も江戸初期の社殿を綺麗に維持できているのも、氏神様を大切にする氏子や神職による努力の賜物に違いない。
地域の鎮守という存在を改めて感じる事ができる、そんな神社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]
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[ 参道 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 拝殿彫刻 ]
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[ 扁額 ]
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[ 拝殿天井絵(火焔龍神像) ]
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[ 拝殿・幣殿・本殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 社殿横 ]
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[ 社務所 ]
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[ 記念碑 ]
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[ 稲荷神社 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 倉庫 ]
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[ 北側鳥居 ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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