穴澤天神社 / 東京都稲城市

神社情報

穴澤天神社(あなざわてんじんしゃ)

御祭神:少彦名命
相殿神:菅原道真公・大己貴命
社格等:延喜式内社(小社)・郷社
例大祭:8月25日までの第3又は第4日曜
所在地:東京都稲城市矢野口3292
最寄駅:京王よみうりランド駅
公式サイト:http://anazawatenjinja.jp/

御由緒

穴澤天神社略誌
孝安天皇四年の創建にして、主祭神は少彦名命を御祀りした社で、この命は人民に医療法や造酒の術を授けられ、特に薬の神から健康増進の神として、又、国土経営に偉功を遺された著名な御方であります。
天正十八年(1590)に社殿を再建し元禄七年(1694)社殿の造営が行われ、その時菅原道真公を合祀され、公は古くより文学の神として親しまれ、広く仰ぎ祀られております。
大正七年(1918)国安神社・大己貴命(大国主命)を合祀、縁結、開運の神として以後崇敬されており、境内下三澤川右岸沿いに、横穴巌窟がありましたが、昔の巌窟は崩れ、現在の洞穴は二度目ですがこれがすなわち穴澤の起源であります。この洞窟内には元石仏の安置跡も残っており、明治四年神仏分離の際、石仏像は当時別当職であった威光寺に移さられました。
延喜式内神明帳所載(延喜五年、905年撰上)に記されている古社で多摩八社の内一社であり、明治六年郷社に列せられました。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2018/05/01

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。


歴史考察

式内社に比定される古社

東京都稲城市矢野口に鎮座する神社。
延喜式内社(小社)に比定される古社であり、旧社格は郷社。
主祭神に少彦名命を祀り、江戸時代になり菅原道真公が合祀された。
三沢川沿い境内下に洞窟(洞穴)があり、社号の「穴澤」はそれに因むと云う。
古い洞窟は崩れ落ち、現在は2度目の洞窟となっているが、「東京の名湧水57選」に選定された湧水が湧き出ていて、お水取りをする人が絶えない。

紀元前創建と伝わる古社・御祭神の少彦名命

社伝によると、孝安天皇四年(BC389)に創建と伝わる。
御祭神として少彦名命を祀った。

少彦名命(すくなびこなのみこと)は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の国造りに際し、天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って彼方より来訪したとされる神。
国造りの協力した事から開拓神・古来薬の1つとされた酒造技術を人に広めた事から医薬の神・酒造の神・知識の神など多用な性質を持つ神でもある。
大国主命が「国津神」と云われたのに対して、天より来訪した少彦名命は「天津神」、すなわち「天神」と云われ信仰を集めた。
現在、天神様と云うと菅原道真公が一般的であるが、菅原道真公が生誕するよりずっと前からの信仰であり、当社の天神は「天津神」の意味から取られている。

他説として、古くは当地の土地神「穴澤神」を祀っていたとも考えられている。
土着の信仰があり、その後、天津神である少彦名命を祀るようになったと云う説。

いずれにせよ関東屈指の古社で、太古より信仰を集めた神社とされる。

三沢川沿いにあった洞窟が穴澤の由来

当社が「穴澤天神社」と呼ばれるようになったのは、洞窟に由来する。

当社の前を流れる三沢川沿い、境内下に「横穴厳窟(岩の洞窟)」があったと云う。
これが「穴澤」の起源となった。

当社は三沢川沿いの多摩丘陵の中腹に鎮座する。
その多摩丘陵の麓・境内直下の崖下に、現在も洞窟が残る。

創建当時の巌窟は崩れ落ちてしまい、現在は2度目の洞窟(洞穴)。
神仏分離以前の石像が安置された跡が残っている。

この洞窟の祠から東京の名湧水57選に選ばれている湧水が出ており、お水取りが可能。

延喜式内社としての格式

古社である当社は、延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、小社に列格する「武蔵国多磨郡 穴澤神社」と記載。
当社は延喜式内社(式内社)とされる。

『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。

武蔵国多磨郡には式内社が8社あるため、武蔵国多摩郡八座のうちの一社。
現在の社号碑にも「延喜式内」の文字を見る事ができる。

式内社「穴澤神社」は当社の他に、「谷保天満宮」(国立市谷保)・「穴沢天神社」(あきる野市深沢)・「羽黒三田神社」(西多摩郡奥多摩町氷川)が論社として挙げられる事がある。
東日本最古の天満宮・関東三大天神。交通安全祈願発祥の地。日本一キレイでかわいい御朱印帳。谷保の由来・読み方。あじさい園・梅園・弁天池。御朱印。御朱印帳。

他にも論社があるものの、当社が最有力であり『延喜式神名帳』を取り上げた研究書などでも、当社を比定する事が通常となっている。

平安時代末期から戦国時代まであった小沢城

平安時代末期、稲毛三郎重成により「小沢城」が築城。
三沢川沿いの多摩丘陵の中腹に鎮座していた当社に対し、多摩丘陵の先端に位置していた。

当社が鎮座する多摩丘陵を「天神山」と呼んだため「天神山城」とも呼ばれる。稲毛氏は当地周辺の領主であり、北条氏に滅ぼされるまで鎌倉御家人として活躍。

小沢城は戦乱の中で、幾度かの焼失と再建・改修が行われている。
中でも後北条氏三代目当主・北条氏康は小沢城から出陣して初陣を飾ったとされる。

享禄三年(1530)、「小沢原の戦い」が発生。
小沢城から出陣した北条氏康が、上杉朝興を迎え討ち大勝したと伝わる。

小沢城は、戦国時代以降は廃城となる。
現在も当社の境内から小沢城址へ繋がる入口(登山道)があり、当社とも密接な関係にあったと推測できる。

史料としては残っていないものの、小沢城を巡る戦乱の中で、当社も焼失や再建を繰り返したと見られる。

天正十八年(1590)、社殿が再建。

この年は豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡した年でもあり、やはり戦火に巻き込まれたのであろう。

江戸時代に菅原道真公が合祀

元禄七年(1694)、社殿が造営。
この際、菅原道真公が合祀された。

上述したように、当社の元々の御祭神は少彦名命であり、当社の「天神」は「天津神」の意味から取られている。しかしながら、江戸時代には既に「天神」と云えば、菅原道真公を指すのが一般的であった。そうした事から、菅原道真公が合祀されるに至ったものと見られている。

菅原道真公が祀られて事によって、学問の神として崇敬を集めるようになる。

現在も当社の主祭神は少彦名命であり、相殿神として菅原道真公が祀られている。

延宝三年(1675)、「威光寺」が当社の別当寺を担う。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(矢野口村)
穴澤天神社
除地。凡六千三百坪。村の巽城山の中腹にあり。天満宮を相殿とす。「延喜式神名帳」当郡小社八座の内、穴澤天神社といへるは則この社なりと云。「風土記」爾布田郷の下に云。穴澤天神圭田三十六束三毛田、考安天皇四年壬辰三月所祭少彦名神也と、これによりてみれば則この地、もとは布田郷に属せし所にて、後世川流の變遜なとありてより分割して別村となりたるが、又祭神も少彦名命なるを天神の号より後人あやまり覚えて、妄に社を尊くせんがために、天満宮を配し祀りて、今は鳥居も天満宮の扁額あるに至れり。又何者か縁起をつくりて云、鎌倉右大将頼朝の時、稲毛三郎重成、当国小澤七郷を領せし比、此地にすめる農夫の子十二三歳の童俄に狂気を起し、口はしりて云、此山に一社を建て天満天神を祀らば百日の間に験あらんと。よりて正冶元年七月五日農夫こぞりて一社を草建せしかば、やがて水溢して玉川の瀬五町ほと北へ移りけると。これよりさき玉川此山の麓を流れて、里人のすめるあたりもいとせばく便あしかりしば、ここに於て若干の平地出来しかば、其まま水田をひらき、村内さかへけり。かの童子が子孫梅元坊とて、別当寺なりしが遥の後地頭加藤太郎左衛門の時、かの梅元坊掃部といひしものに、屋敷をあたへしとてその旧地山の麓に残れりと云々。又口碑に傳へたるは、昔の神体はいつの比か紛失して、今の神体とする所は後に作りしものなりと云。されどもこれも左まで近きものともみへずその図右の如し。又天満宮像も別当所にあり、これは後世渡唐の天神と称するものなり。かかることの誤より式内の神と云ことも、おのづから世にしらざるやうになり行し故にや、三田領棚澤天神、及び氷川村羽黒権現相殿に祀れる天神など、いづれも式内穴澤天神なりと云説あるに至れり。棚澤村のは穴澤を誤りて後に棚澤とし、氷川村のは社の邊に足澤と云地名あるより、これもあなざはを唱あやまりしなどといへどもうけがたし。猶かの二村、神社の條と照し見るべし。その社を穴澤と号することは、さたかなる傳へもあらざれど、里人のいふ所は社前の坂を下りて清水あり。その向なる山の切岸に穴あり。今は正面に白蛇の形を安し、穴の口に大黒・毘沙門二天の像あり。此穴春より秋までは草木おひしけりて入ことあたはすと也。穴の前なる清水は近郷百村の境大夫谷土と云。高岸の崩れたる所より涌出して細谷川となり。ここへ流れ来ると云。穴澤の号はこれよりおこりしならんと。
本社。宮造にて覆屋二間半に三間西向なり。例祭七月廿五日。
拝殿。二間に二間半。
鳥居。石にて作る両柱の間八尺。

矢野口村の「穴澤天神社」と書かれているのが当社。
『延喜式神名帳』の「穴澤天神社」は当社の事だと比定している。

他の論社についても取り上げていて、当社が有力である事を論じている。

興味深いのが「祭神も少彦名命なるを天神の号より後人あやまり覚えて、妄に社を尊くせんがために、天満宮を配し祀りて」の部分。
古くから「穴澤天神社」と呼ばれていて、御祭神は少彦名命であったが、「天神」とある事から神社の尊さを増すために、後の人が菅原道真公を配祀させたと云う一文。
当時は「天満宮」という鳥居扁額があった事や、鎌倉時代に天満宮を祀ったという縁起も創作された事などが記してある。

やはり江戸の人々にとって天神様と云うと菅原道真公を指すのが一般的で、そうした事情の中、菅原道真公を後から合祀した事が伺える。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「谷之口 穴澤天神社」として描かれているのが当社。
当社の山頂には小沢城址があるといったことも記されている。

(江戸名所図会)

当社の社殿を中心に拡大したのが上図。
多摩丘陵の中腹にあるのが当社の境内。
穴沢天神と記されていて社殿や手水舎、鳥居の姿を見る事ができる。

(江戸名所図会)

巌窟(洞窟)を拡大したのが上図。
既にこの頃には2度目の洞窟になっていて、現在も残る洞窟がこれである。
当時は神仏習合のもと、『新編武蔵風土記稿』によると、白蛇の形を安置して、穴の入口に大黒・毘沙門二天の像が置かれていたと云う。

現在も洞窟の祠から御神水が出ているが、当時はもっと水量があり三沢川まで流れて落ちる小川になっていた事が分かる。

明治以降の神仏分離・国安神社を合祀

明治になり神仏分離。
明治四年(1871)、神仏分離の影響を受け、当社の巌窟内に安置されていた仏像は、旧別当寺「威光寺」へ遷された。

この際「威光寺」境内に新たに「弁天洞窟」を設けて仏像を遷しており、この「弁天洞窟」は後に「新東京百景」の1つに選定されている。

明治六年(1873)、郷社に列する。
現在も古い社号碑には「郷社」の文字が残る。

明治二十二年(1889)、市制町村制の施行によって、矢野口村・東長沼村・大丸村・百村・平尾村・坂浜村が合併し、稲城村が成立。
この稲城村が戦後になって稲城市となっていく。

「稲城」という地名は、稲城村が成立するまで存在していなかった地名で、村が合併時に新たに名付けられた地名。
当社近くに稲毛氏によって小沢城が築城されたように、中世の頃は稲毛氏の所領だった事や、かつては良質の米を産した事、小沢城を始めとして幾つも山城跡が存在する事などから、「稲城」が考案されたと推測されている。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、当時の地図には神社の地図記号が見えないが、この頃には郷社の格式でもあったため、記載漏れであろう。(戦前の地図では見る事ができる)
橙円で囲ったのが旧別当寺の「威光寺」で、この近くに後に当社に合祀される「国安神社」もあったと見られる。
現在も残る矢野口(旧矢野口村)や、稲城村(稲城市の元)の地名も既に見る事ができる。

大正七年(1918)、「国安神社」が合祀。

「国安神社」はかつて「国安権現」「国安宮」とも称された神社で、『江戸名所図会』にも描かれた大己貴命を祀る神社。
社家は当社と同じ山本家であり繋がりが深かったと見られる。
縁結び・開運の神として崇敬を集めた。

昭和五十八年(1983)、神輿庫を建立。
昭和六十一年(1986)、社殿の修復が行われた。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

三沢川沿いに鎮座・表参道は急な石段

最寄駅の京王よみうりランド駅から右手に向かい、三沢川に合流。
三沢川沿いを進むと表参道と鳥居が見えてくる。
「延喜式内穴澤天神社」の社号碑と石鳥居があり、その先に急な石段が続く。

この表参道を使わずにさらに三沢川沿いを奥に行くと、辨天坂がありそちらからも境内に向かう事ができる。坂下では洞窟があり、お水取ができるが、まずは表参道から境内へ向かうのがよいだろう。

鳥居を潜ると急な石段。
手すりが設置されている。
なかなかの急勾配なので足場には気をつける事。

石段を上りきると古い社号碑。
こちらには郷社の文字が見えるため、明治から戦前にかけての社号碑なのが分かる。

多摩丘陵の中腹にある境内

石段を上って左手が境内と続いている。
途中に石碑や境内社が並ぶが、そちらは後述するとして、さらに進むと二之鳥居と社号碑、社号碑には同様に「延喜式内」の文字。

当社の境内は山(多摩丘陵)の中腹にあり、左手は麓、右手は頂へと繋がる。
深い山林に鎮座しているのがよく分かる。
境内から頂への山道もあり、ここから中世の城「小沢城址」へ向かうことも可能。

参道を進むと正面をやや左に折れて社殿。
社殿の手前右手に手水舎。
きれいな水が出て、龍の口より水が流れる。

改修された社殿・社殿の裏手は深い山林

社殿は昭和六十一年(1986)に改修されたもの。
この日は月次祭の朝で祭事が執り行われていた。
山林にひっそりと佇む社殿。
彫刻が見事な扁額には「穴澤天神社」の文字。
拝殿・幣殿・本殿と続く。

この社殿の裏手に回ると、当社が多摩丘陵の中腹に鎮座している事がよく分かる光景。
崖になっていて奥は頂までの深い山林、地層が見える崖には洞窟も幾つか見る事ができる。

江戸後期の狛犬・筆塚・1000年余の旧御神木

社殿の前に一対の狛犬。
彫りの深い凛々しい表情をした狛犬。
台座には梅紋があり、合祀された菅原道真公に対して奉納された事が伺える。
天保十四年(1843)に奉納されたものが現存。

社殿の左手には宝物殿。
その左手前に筆塚が置かれている。
文久三年(1863)、当地で筆学を業とした原田金陵を称えて門弟が建立したもので、稲城市指定文化財となっている。

手水舎よりやや手前、参道右手に旧御神木を安置した東舎。
昭和五十八年(1983)に神輿庫を建築する際、地中から発見された巨木の根元。
古くから御神木と伝えられていた巨木で、樹齢は1000年以上だと云う。

国の重要無形民俗文化財に指定された里神楽

境内には立派な神楽殿。
例祭になるとこの神楽殿で、獅子舞と共に、国の重要無形民俗文化財に指定されている里神楽が奉納される。

当社の社家・山本家を家元とする山本社中による里神楽で、東京都台東区蔵前の若山社中、品川区東大井の間宮社中、荒川区西日暮里の松本社中と共に、この4団体が代表して「江戸の里神楽」として国の重要無形民俗文化財に指定された。

当社の里神楽は、代々神主として仕えてきた山本家に受け継がれてきたものだと云う。
応安六年(1373)に創始され、古くは「国安神社」(大正時代に当社に合祀された)で神楽を舞った事に始まると伝えられている。

『江戸名所図会』には、当社の他に、後に当社に合祀される事になる「国安神社」も描かれている。

(江戸名所図会)

「國安宮」「威光寺」として描かれている1枚。
中央より左下にあるのが「威光寺」で当社の別当寺であった。
その上に描かれているのが「國安社(國安宮)」。

(江戸名所図会)

後に当社に合祀される事となる「国安神社」で、大己貴命が祀られている。

大己貴命(おほむなちのみこと)は、大国主命(おおくにぬしのみこと)という名でも知られる。
当社の古くからの御祭神・少彦名命(すくなびこなのみこと)は、大国主命の国造りに協力した神で、大国主命が「国津神」と云われたのに対して、天より来訪した少彦名命は「天津神」、云われ信仰を集めたように、当社と一対の神とも云える。

社殿の手前には社人と仮殿が設けられていて、社家は当社と同様に山本家であった。
現在も当社の例祭で舞われる「里神楽」は、この山本家に受け継がれてきたもの。
当社と繋がりの深い神社と云えるだろう。

現在の当社の御祭神は、元々の御祭神で天津神(天神)の少彦名命。当社の天神の名から後に合祀される事になった菅原道真公、大正時代に合祀された「国安神社」の大己貴命を相殿神としている。

なお、里神楽と共に奉納される獅子舞は、稲城市指定文化財に指定されている。

境内社や歴史を伝える石碑

社殿の手前右手に境内社の稲荷社。
小さく可愛らしい神狐像が神使として見守る。

二之鳥居の手前に境内社が並ぶ。
神明社と山王社となっている。

その向かいには複数の石碑。
境内には他にも多くの石碑が残り、当地の歴史を伝える。

穴澤の起源2度目の洞窟(辨天社)・お水取り可能な御神水

二之鳥居の手前には辨天坂。
辨天社(洞窟)や御神水はこの下にある。
舗装された階段を下りて行く形。

なお、一之鳥居から表参道の石段を上らず、三沢川沿いを更に奥に進むと、この辨天坂に辿り着く。
鳥居が設けられ奥には辨天の文字。
その右手にあるのが辨天社と、穴澤の起源となった洞窟。
古い洞窟は崩壊し、これが2度目の洞窟であるが、『江戸名所図会』にも描かれていたように、江戸時代以前よりある洞窟である。
この弁財天像は、辨天社周囲整備によって奉納されたもので比較的新しい。

整備される前までは弁財天像ではなく石祠が祀られていた。

その左手に2つの入口がある洞窟。
下には僅かながら水が流れており、飛び石を伝って入っていく形。
奥はそう深くはないが、天井からは水滴が垂れてきたりと、入る際は注意が必要。
先には石祠が置かれていて、かつて弁財天像が置かれる前に置いてあった石祠と思われる。

神仏分離前までは、ここに多くの神仏の石像が安置されていたと云う。
明治四年(1871)、神仏分離の影響を受け、当社の巌窟内に安置されていた仏像は、旧別当寺「威光寺」へ遷された。
この際「威光寺」境内に新たに「弁天洞窟」を設けて仏像を遷しており、この「弁天洞窟」は後に「新東京百景」の1つに選定されている。

この弁天社(洞窟)の左手に、御神水。
「東京の名湧水57選」に選定された湧水が湧き出ている。
お水取りが可能になっていて、お水取りしに来る人が絶えない。
お水取りをする際は、告報を良く読んだ上、マナーを守って利用する事。

飲料用とする場合は、要煮沸との事。

御朱印には延喜式内社の文字

御朱印は境内にある社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

御朱印には「穴澤天神社印」の印。
延喜式内社の墨書きが当社が式内社の格式を持つ古社である事を伝える。

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、小社に列格する「武蔵国多磨郡 穴澤神社」と記載。
『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。
武蔵国多磨郡には式内社が8社あるため、武蔵国多摩郡八座のうちの一社。
御朱印や墨書きはその時や日によって違う事があるので、その点はご理解頂きたい。

所感

関東屈指の古社とされる当社。
古くは土着の信仰があったとも思われ、穴澤の起源が洞窟である事からも、何らかの信仰があったのだろう。
御祭神の少彦名命の「天津神」から「天神」の名が付けられたように、現在「天神」として知られる菅原道真公が生誕するよりずっと昔からある信仰で、江戸時代になって菅公は合祀される事となった。
中世には小沢城が築かれ、当社も繋がりが深かったと思われる。
古代より信仰が続けられた重要な神社で、現在も多くの人々が御神水をお水取りしに来るだけでなく、坂を上り当社まで参拝してから帰る姿を見る事ができ、周辺地域からの信仰が篤い。
水と緑の山林に囲まれた自然溢れる良き古社である。

神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]

[ 石碑・玉垣 ]

[ 表参道 ]


[ 旧社号碑 ]

[ 二之鳥居・社号碑 ]

[ 参道 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]

[ 社殿裏手 ]

[ 狛犬 ]


[ 稲荷社 ]

[ 絵馬掛 ]

[ 石碑 ]

[ 御神木 ]

[ 潔斎所 ]

[ 神輿庫 ]

[ 宝物殿 ]

[ 筆塚 ]


[ 案内板 ]

[ 社務所 ]

[ 神楽殿 ]

[ 参集所 ]

[ 東舎(旧御神木) ]




[ 小沢城址入口 ]


[ 石灯籠 ]

[ 古札納所 ]

[ 石灯籠 ]

[ 石碑 ]


[ 神明社・山王社 ]

[ 辨天坂 ]




[ 辨天社(洞窟) ]







[ 御神水 ]





[ 辨天坂鳥居 ]

[ 案内板 ]


[ 三沢川 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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『穴澤天神社 / 東京都稲城市』へのコメント

  1. 名前:VVSB 投稿日:2018/05/20(日) 09:07:17 ID:39173c4c9 返信

    @jinjamemo, thanks a lot for the post.Really thank you! Much obliged.

  2. 名前:神社メモ 投稿日:2018/05/20(日) 17:28:16 ID:d7b6dcdf6 返信

    @VVSB
    You’re welcome.
    I hope it becomes helpful 🙂