神社情報
野毛六所神社(のげろくしょじんじゃ)
御祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・誉田和気神・大山都見神・菅原道真命
社格等:村社
例大祭:9月第4土・日曜
所在地:東京都世田谷区野毛2-14-2
最寄駅:等々力駅・上野毛駅
公式サイト:─
御由緒
当神社は、往古より野毛村の総鎮守として現在の野毛三丁目と上野毛二丁目付近に鎮祭されていました。当時の野毛村とは、現在の上野毛、野毛、川向こうの川崎市下野毛のことを言います。
大昔、多摩川の大洪水で川上にある府中市の大国魂神社のご神体が漂着しました。そのご神体を上野毛村と下野毛村で六所明神として鎮守様に祭りました。
明治三十一年六月に現在の場所に遷宮され、昭和四十四年十一月にこのような新社殿が遷宮されました。社殿様式は流れ造りであります。(頒布の資料より)
参拝情報
参拝日:2017/01/13
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
野毛の総鎮守
東京都世田谷区野毛に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧上野毛村・旧下野毛村の鎮守。
正式名称は「六所神社」であるが、他との区別から「野毛六所神社」とさせて頂く。
かつては上野毛と下野毛の村境に鎮座し「六所明神」と称されていたが、明治になって現在地に遷座している。
多摩川の洪水時に府中から祠が漂着
創建は、元和年間(1615-1624)と伝えられる。
社伝によると、多摩川が大洪水した際、川上にある府中の方から祠(御神体)が流されてきて、当地に漂着した。
村人は何の祠か分からなかったと云うが、府中の方から流れてきたため、「六所明神」として崇め祀り、村の鎮守として創建したと云う。
当時は現在の鎮座地よりもやや北東の、上野毛村・下野毛村の村境に鎮座していたとされる。
野毛村(後の上野毛村・下野毛村)の鎮守であった。
現在も上野毛と野毛の境の坂が「明神坂」と呼ばれ、その坂を下った先の橋が「明神橋」と呼ぶように、旧鎮座地近くの地名には名残がある。
江戸時代に成立した野毛村の歴史
野毛には、野毛大塚古墳があることから分かるように古くから人が住んでいた土地ではあった。
しかしながら、そうした繁栄は古代の事であり、江戸初期以前の野毛村はまだ村として成立はしていないほどの部落であった。
上野毛郷といった地名は見る事ができるが、村としての形は整えられていなかったと思われる。
いくつかの古文書を見ると、江戸時代になるまでは野毛村には半四郎という百姓がただ1人住んでいたようであり、当時の荒れた土地であった当地は住むのには適していなかったのであろう。
元禄年間(1688年-1704年)になってようやく村落の体裁を整えてきたと云う。
当地が国分寺崖線にある事から「野毛」と呼ばれていた。
こうした野毛村が村として成立していくと、上野毛村・下野毛村に分村。
当社は両村の鎮守として崇敬を集めた。
江戸時代の史料から見る当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(下野毛村)
六所明神社
除地一段五畝。西北の間上野毛堺にあり。よりて上下野毛村の鎮守とす。上屋九尺二間、本社六尺に八尺西向なり。相傳、此社は昔洪水の時多摩郡府中の方より流れ来るものあり。此所の榎の枝にかかる。取上みればわづかの祠なり。されど何の祠なることもしられず。ただ府中の方より流れ来りぬればとて、土人打よりて六所明神とあがめ、此へ一社を草創して村の鎮守とす。是によればその起る所詳ならず。別に故あるも知べからず。鳥居も西向にたてり。祭礼は九月二十六日なり。別当は善養寺なり。
神明社
除地五畝許。字谷にあり。上屋一間半に二間なり。本社四尺に八尺、南向。鎮座の事歴詳ならず。是も村の鎮守とす。祭礼九月二十六日なり。六所明神と隔年に祭る。別当善養寺なり。
山王社
除地二畝許。字岸の下の方にあり。小祠なり。鳥居共に南西の間に向ふ。鎮座の年代詳ならず。
若宮八幡社
除地四五畝許。字根通に在。鳥居有。共に南に向へり。是も小祠なり。
下野毛村の「六所明神社」と書かれたのが当社。
上野毛村・下野毛村の鎮守と記されており、別当寺は「善養寺」(野毛2丁目)であった。
社伝にも伝わる創建についての話が詳しく記載されており、洪水時に祠が流れてきて榎の枝に引っかかったという事や、何の祠か分からなかったものの、府中の方から流れてきたので「六所明神」と崇めたといった事も記されている。
「神明社」も下野毛村の鎮守であり、当社は上野毛村・下野毛村どちらの鎮守も担ったため、「神明社」は下野毛村のみの鎮守の位置付けであった。
「神明社」は、他の「山王社」「若宮八幡社」などと共に後に当社に合祀される。
明治以降の歩み・当地への遷座
明治に入り神仏分離。
当社は村社に列した。
明治二十二年(1889)、市町村制施行によって、等々力村・尾山村・奥沢村・上野毛村・下野毛村・野良田村・瀬田村・用賀村が合併し、玉川村が成立。
当地は玉川村下野毛であった。
明治二十三年(1890)、当社と共に旧下野毛村の鎮守であった「天祖神社」に山際神社・日枝神社・八幡神社・北野神社が合祀される。
明治三十一年(1898)、その「天祖神社」が当社に合祀された。
その際に当社は現在地に遷座し、現在の「六所神社」に社号を改めている。
昭和七年(1932)、世田ヶ谷町・松沢村・駒沢町・玉川村の区域をもって世田谷区が成立。
当地は玉川野毛町となり、これが戦後に野毛となっていく。
下野毛の地名は世田谷区からは消滅したものの、野毛という名で現在も残る。
これは多摩川の流路変更で川向こうに取り残された地域であり、かつては下野毛村の一画であった地域。
昭和四十四年(1969)、鉄筋コンクリート造にて現在の社殿が造営される。
この際に、神楽殿、手水舎、神輿庫、社務所といったものも新しく造営された。
昭和五十八年(1983)、かつて「水神鼻」というところに祀られていた「水神社」が再建。
野毛周辺の鎮守として崇敬を集めて現在に至っている。
境内案内
静かな住宅街に鎮座する立派な境内
最寄駅は等々力駅だが、徒歩で15分ほどの奥まった住宅街に鎮座している。
高台に鎮座しており立派な石垣・玉垣が綺麗に整備された境内となっている。
鳥居を潜ると広々とした境内。
鬱蒼とした木々ではないが、綺麗に整備され維持されており、何よりとても静かな空間。
参道すぐ右手に手水舎。
残念ながら水は出ていなかったが、参拝者が多い季節は水を張るようだ。
社殿は更に石段の上に鎮座しており、朱色が美しく立派な造り。
昭和四十四年(1969)に鉄筋コンクリート造で造営されたもの。
立派な社殿であり、これだけでも当社への篤い崇敬を感じさせてくれる。
本殿は流造となっている。
屋根が反り、屋根が前に曲線形に長く伸びて向拝となったもの。
全国で最も多い神社本殿形式である。
境内社の水神社の伝承・多摩川の水中御渡
境内社は社殿の左側に二社並ぶ。
右にあるのが北野神社。
当社にも天神様が合祀されているが、その際に古い社殿などをこちらに遷座させたものであろうか。
社殿の造りも古く、鳥居にも文政十年(1827)と記されているように、歴史を感じる一画となっている。
その左手に鎮座するのが水神社。
昭和五十八年(1983)に再建され崇敬の篤い一画。
かつては多摩川沿いに「水神鼻」と呼ばれる場所があり、そちらに祀られていた。
明治四十三年(1910)、多摩川が洪水した際に御神体が流出してしまう。
大正十一年(1922)、多摩川の砂利採掘作業中に御神体が発見され、当社境内に遷座させ祀られていたと云う。
こうして当社では、「水神祭」という祭りが盛大に行われるようになったとされる。
多摩川で水中御渡が行われ、迫力のある祭りであったと伝わっている。
そうした多摩川とも縁の深い水神社は、当社でも篤く崇敬され昭和五十八年(1983)に立派に再建された。
水は張られていないが、神橋が置かれ、さらに左右には川の流れを模した奉納物が置かれる。
右手には魚の置物が置かれている。
手水鉢もとても立派で個性的なもの。
こうした造りからも、大切にされた境内社なのが伝わる。
水神社も洪水によって御神体が流され、発見された後に当社に遷座したもの。
当地と多摩川の洪水は古くから、古くから切って離せぬ存在であり、畏怖し篤い信仰となったのであろう。
所感
野毛の鎮守として崇敬を集めた当社。
明治になって当地に遷座しており、戦後に社殿など境内整備が行われた。
住宅街の一画に鎮座し、とても静かな境内なのが特徴的である。
静かでいながらも立派な境内はとても心地よく落ち着く場所。
かつて行われていた多摩川での水中御渡は現在は行われていないように、地域の祭りやイベントが縮小しつつある中で、当社は今も綺麗に維持されており、地域の鎮守として大切にされているのが伝わる。
個人的にはとても好きな神社である。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 鳥居 ]
[ 手水舎 ]
[ 参道 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 北野神社 ]
[ 水神社 ]
[ 神楽殿 ]
[ 神輿庫 ]
[ 社務所 ]
[ 北鳥居 ]
[ 石碑 ]
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