神社情報
尾山台宇佐神社(おやまだいうさじんじゃ)
御祭神:誉田別命(応神天皇)
社格等:─
例大祭:10月第1日曜
所在地:東京都世田谷区尾山台2-11-3
最寄駅:尾山台駅・九品仏駅・田園調布駅
公式サイト:─
御由緒
源頼義公が、永承六年安部一族定のために尾山の地に陣を張り勝利を誓い、そして康平五年(1063年)安部一族を平定し、ここに八幡社を建て神に勝利を報告し感謝したのが当社の起りであります。また境内に五世紀頃の八幡塚古墳があります。(東京都神社庁より)
参拝情報
参拝日:2017/01/13(ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/03/03(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
尾山台鎮守の八幡さま
東京都世田谷区尾山台に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、尾山台(旧小山村)の鎮守。
境内には5世紀頃の八幡塚古墳があり、古墳の上に鎮座する神社となっている。
正式名称は「宇佐神社」だが、他との区別から「尾山台宇佐神社」とさせて頂く。
5世紀頃の古墳である八幡塚古墳の上に鎮座
当地は古くから人の定住があった地で、境内には「八幡塚古墳」と呼ばれる古墳が存在。
社殿の裏手の高台がその八幡塚古墳である。
全長約33m、後円部直径約30m、高さ約4mで、小さな造出と呼ばれる方壇がついた造出付円墳となっている。
尾山台は古墳が多くある地域。
この八幡塚古墳の他に、崖線上に狐塚、八幡塚、天慶塚などといった古墳が点在。
これらは国分寺崖線上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる野毛古墳群と呼ばれる。
これらの古墳は、その当時の首長の墓であったとされる。
直刀、槍鉋、石製模造品、袴帯金具、土師器等が出土。
当地・尾山台(旧小山村)の地名も、当社を中心とした高台であった事による。
この高台が八幡塚古墳であり、尾山台の地名由来はこの古墳群にあったとも云えるだろう。
古墳の上に神社が創建する事は比較的よくある事であり、当社もそうした古い信仰の中で誕生したものと思われる。
源頼義による創建の伝承
社伝によると、康平五年(1062)に源頼義によって創建と伝わる。
永承六年(1051)、陸奥国豪族の安倍氏の反乱が発生。
源頼義が陸奥守となり奥州平定に向かう事となる。
その道中、頼義が当地・小山(尾山)に陣を張った時、空に白雲が八つに分かれて棚引いた。
その姿が源氏の白旗のようであったので大いに喜び、戦勝の暁にはこの地に八幡社を建立することを誓う。
康平五年(1062)、安倍氏を平定した源頼義は、誓約通りこの地に八幡社を建立。
これが当社の創建とされている。
いずれも信憑性はあまり高くなく、伝説的な面も強いのだが、それだけ源氏と八幡信仰の結びつきの強さによるものなのだろう。
当社は上述した八幡塚古墳が古くから信仰対象になっていて、後世になってこうした御由緒が作られたのではないかと思う。
江戸時代の史料から見る当社と境内にあった二本松
中世の史料がほぼ残っておらず不明となっているが、当地は小山村と呼ばれた村であり、その小山村の鎮守として崇敬を集めた。
元禄十二年(1699)、別当寺「伝乗寺」の七世精蓮社進誉貞悦によって社殿が再建。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(小山村)
八幡社
除地二段。村の中央字根通りの内にあり。社九尺に二間、南向、中に又宮作りの社あり。前に鳥居をたつ、両柱の間七尺。元禄十二年の夏七世精蓮社進誉貞悦の時再造せしとみえて、その時の棟札あり。祭礼九月二十三日に行ふ。伝乗寺持。
注連引松。二株あり。向ひて鳥居の右にあり、囲一丈六尺もあるべし。
末社
稲荷社。向て右にあり。上屋一間に一間半。
神明社。本社より東北の角の山にあり。南向なり。
小山村にある「八幡社」と記されているのが当社。
上述したように元禄十二年(1699)に「伝乗寺」の僧によって社殿が再建されたという棟札が見つかっているとある事から、少なくともそれ以前の創建である事が分かる。
現在も当社にほぼ隣接する「伝乗寺」が別当寺となっており、小山村の鎮守となっていた。
また、かつては神社の境内に大きな松が2本あったとある。
注連縄を引いた2本の松で囲一丈六尺(約4.85m)もの大木であった。
遠くからでも目立つ見事なものだったそうで、当地周辺の人々の目印にもなっていたようだ。
また当社境内にある「八幡塚古墳」についてもそれらしき記載が見られる。
大塚
字堂の上にあり。事跡つまびらかならず。
これが「八幡塚古墳」の事であると思われ、当時は由来など不明とされていたものの、当地から埴輪・土偶・刀剣の類が出ており、古代より神聖な地として信仰されていた事が窺える。
明治以降の歩み・大正時代に社殿を再建
明治になり神仏分離。
この頃に「宇佐神社」に改称したものと思われる。
当社は無格社であった。
明治八年(1875)、小山村が尾山村に変更。
当社は尾山村の鎮守となる。
明治後期には、周辺にあった稲荷社・御嶽社を当社境内に境内末社として遷している。
大正七年(1918)、社殿が再建。
これが改修されつつ現存している。
昭和二十年(1945)、東京大空襲による被害を受ける。
社殿の焼失は免れたものの、当社のシンボルでもあった大きな二本松が枯れてしまう。
昭和三十六年(1961)、社殿を改修。
昭和五十三年(1978)、境内社の稲荷社・天慶社・御嶽社を合祀した神明社が境内社として建立。
尾山台周辺の鎮守として現在に至っている。
尾山台の地名由来と変遷
当地は、古くは「小山村(おやまむら)」と呼ばれていた。
明治八年(1875)、小山村が「尾山村」に変更される。
この地名の変更は、現在の品川区にある「武蔵小山」との兼ね合いによるもの。
当時の、東京府(武蔵国)の荏原郡には「小山村」が2つ存在。
それが現在は「武蔵小山」となっている「小山村」と、現在は「尾山台」となっている「小山村」。
同じ荏原郡に同名の村が存在している事は大変紛らわしいため、当地が読み方はそのままに漢字だけ変更し「尾山村(おやまむら)」と改称された。
こうして小山村の紛らわしさは解消。
現在は行政区分が品川区と世田谷区に別れているので、紛らわしい事もないのだが、明治の頃の地名変遷のエピソード。
明治二十二年(1889)、市町村制施行によって、等々力村・尾山村・奥沢村・上野毛村・下野毛村・野良田村・瀬田村・用賀村が合併し、玉川村が成立。
昭和七年(1932)、世田谷区が成立し、世田谷区玉川尾山町となる。
昭和四十五年(1970)、現在の尾山台へと変更され、現在に至っている。
境内案内
高台の上にある境内
最寄駅の尾山台駅からは徒歩15分ほどの距離で、坂の多い住宅街に鎮座している。
立地的に少し分かりにくい場所に鎮座しているので注意が必要。
鳥居の前は神輿庫と参拝者用の駐車場となっている。
鳥居を潜ると緩やかな石段。
石段を上ると右手に境内が広がっており、上がったすぐ右に手水舎。
平日でもしっかりと水が張られており、綺麗に管理されているのが伝わる。
社殿は、大正七年(1918)に再建されたものが現存。
戦後の昭和三十六年(1961)には改修が行われている。
拝殿の彫刻の狛犬や龍の目には色と墨が入れられているのが特徴的。
更に高台(古墳)に鎮座する本殿
特徴的なのは拝殿の裏の高い位置に本殿が置かれている事。
この本殿がある場所がいわゆる「八幡塚古墳」となっており、本殿の裏手に古墳が広がっている。
しかしながらこちらは立入禁止となっているため、現在はその様子を見る事ができない。
なお、昭和五十三年(1978)、境内社の稲荷社・天慶社・御嶽社を合祀した神明社が境内社として建立されたとあるが、境内にはそれらしき境内社を見る事ができない。
社殿左手に古い石仏が置かれるのみとなっている。
この事から境内社は、本殿と同じく「八幡塚古墳」のある古墳にあると思われる。
所感
尾山台の鎮守として地域の方に崇敬される当社。
境内はこぢんまりとしているのだが、手入れされすっきりとした境内。
特に境内にある八幡塚古墳がとても興味深い。
社伝では源頼義による御由緒があり、いかにも八幡信仰らしさであるのだが、古墳の上にある神社という事で、古くからこの地での生活圏や信仰があり、そういった要素も当社の建立の根底にあるのではないかと、推測できると思う。
古代の古墳の上に、神社が建てられる事は非常に多く、そういった面でも興味深い神社である。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿・拝殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 石仏 ]
[ 神楽殿 ]
[ 社務所 ]
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