神社情報
千束八幡神社(せんぞくはちまんじんじゃ)
洗足池八幡宮(せんぞくいけはちまんぐう)
御祭神:応神天皇(品陀和気命)
社格等:村社
例大祭:9月7日に近い土・日曜
所在地:東京都大田区南千束2-23-10
最寄駅:洗足池駅・大岡山駅
公式サイト:─
御由緒
當社は千束八幡神社と稱し、平安前期の貞観二年豊前国宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の總鎮守としてこの巒上に創建せられ、今日に至る。
遠く千百余年の昔より、この地の氏神として尊崇せられ、普く神徳を授けてこらる。
承平五年、平将門の乱が起る。朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり。乱後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき、館が池の上手に当たるに依りて池上氏を呼稱、この九代目の子孫が日蓮を身延から招請す、之池上康光なり。
又八幡太郎義家奥羽征討の砌、この池にて禊を修し、社前に額つき戦勝祈願をなし出陣せりと伝える。源頼朝も亦鎌倉に上る途次、この地を過ぐるに八幡宮なるを知り、大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉、近郷より将兵集まりて、鎌倉に入る事を得、旗挙げ八幡の稱あり。名馬池月を得たるも此処に宿舎の折なりとの傳承あり。
尚境内に武蔵国随一と云われし大松ありしが、大正十三年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし。
古歌の『日が暮れて足もと暗き帰るさに霊に映れる千束の松』と詠まれて居り、老松の偉容が想像されよう。
斯の如く當八幡神社は城南屈指の古社にて亦名社なり。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2018/03/11(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/08/04(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/02/10(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※洗足池公園内にある兼務社「厳嶋神社(洗足池辨財天)」の御朱印も頂ける。
歴史考察
千束郷(洗足池一帯)総鎮守の八幡様
東京都大田区南千束に鎮座する神社。
旧社格は村社で、千束郷(洗足池一帯)の総鎮守。
洗足池の西のほとりに鎮座し、「城南の名勝」とも称される景勝地。
源頼朝旗揚げの地との伝承があり、「旗挙げ八幡」とも称された。
『平家物語』に登場する名馬・池月伝説の由来も伝わっている。
正式名称は「千束八幡神社」だが「洗足池八幡宮」と呼ばれる事も多く、当社もそう称する事が多い。
平安時代に創建・千束の地名由来
社伝によると、貞観二年(860)に創建と伝わる。
八幡信仰の総本社「宇佐神宮」(現・大分県宇佐市)から勧請されたと云う。
武蔵国荏原郡千束郷の総鎮守として創建された。
平安時代末期の史料には「千束」の名を見る事ができるので、古くからこの地に人が住み、当社が総鎮守とされていた事が分かる。
池上氏の祖ともされる藤原忠方が当社を崇敬
承平五年(935)、平将門の乱が発生。
乱を平定のため、藤原忠方が鎮守副将軍として関東へ派遣される。
乱を平定後、忠方は千束池(現・洗足池)の湖畔に居を構えたといい、当社を氏神として崇敬したと伝えられている。
一説では、忠方は後に池上姓を名乗ったとされている。
そのため、池上周辺に住んでいた池上氏の祖だとされる。
(但し、年代的に若干の齟齬は生じる。)
このような事から推測されるのは、池上の地名由来となった池上氏の「池」とは先祖が居を構えた「洗足池(千束池)」の事を指した姓だったのではなかろうか。
源義家(八幡太郎)が戦勝祈願した伝承
その後、源氏の氏神である八幡神を祀る当社は、源氏からの崇敬を集めていく。
後三年の役(1083年-1087年)では、奥州討伐へ向かう源義家(八幡太郎)が千束池(洗足池)で禊をし、戦勝祈願したと伝えられている。
源頼朝と名馬池月の伝承・旗挙げ八幡の別名
源義家の後も、八幡神を氏神とする源氏との縁は深い。
特に源頼朝(みなもとのよりとも)と、名馬・池月(いけづき)の伝説が有名。
鎌倉へ向かう途中、源氏の氏神である八幡神が祀られている当地に宿営。
すると、青き毛並に白き斑点を浮かべ、まるで池に映る月のような姿のたくましい野生の馬が現れた。
この馬を捕らえ、現れた時の姿から「池月(いけづき)」と名付けたとされる。
これが『平家物語』の「宇治川の先陣」で登場する名馬「池月」。
宇治川の先陣では下記のような逸話が描かれている。
「いけずきという当世第一の名馬に乗っていたこともあり、宇治川の流れが速いにもかかわらず、まっすぐにさっと渡って向こう岸に乗り上げた。」と記されている。
当社には池月発祥の地として像や奉納物などが置かれている。この池月を捕らえた際に、頼朝軍の将兵の意気が高まり、旗をあげて盛り上がったという。
これに因んで当社は別名「旗挙げ八幡」と呼ばれたと伝えられている。
日蓮伝説と袈裟掛けの松・洗足の由来
洗足池には、古くから日蓮の伝説が残っている。
弘安五年(1282)、日蓮が身延山から武蔵国の池上宗仲邸(現・「池上本門寺」)に向かう途中に、千束池(洗足池)に差し掛かった。
その際、日蓮はここで休憩を取り、傍の松の木に法衣をかけて、池の水で足を洗った。
後にその松は「袈裟掛けの松」と云われ有名になり、江戸時代には名所とされている。現在も洗足池には三代目とされる「袈裟掛けの松」が残る。
「千束」と呼ばれていた当地が「洗足」になったのは、日蓮伝説が由来と云える。
その由来となったのが、かつて洗足池の池畔にあった日蓮宗「妙福寺」という寺院。幾度かの移転があったものの現在も近くに再建されている。
江戸時代には名勝として名を馳せる
江戸時代になると洗足池は大変景色のよい名勝地として名を馳せた。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(馬込村)
八幡社
地頭免除六畝二十九歩。村の飛地の内千束池の側にあり。古松樹数株繁茂して、社頭を覆ひ、又池に臨みし地なれば、景色もっとも勝れたり。本社は二間四方にして、拝殿二間半に三間。前に石階十六級ありて、其下に鳥居二基をたつ。勧請の年歴詳ならず。今村内の鎮守とせり、祭禮年々九月廿三日。社傍に庵室あり、観行院より僧を置守らしむ。
末社稲荷社。小祠なり。
馬込村の飛地、千束村にあった「八幡社」と記されている。
「今村内の鎮守」とあるように、馬込村・千束村の鎮守であった。
また、「景色もっとも勝れたり」の文字が見える。
名勝として名高い事が記されており「城南の名勝」と書かれた御朱印の文字もしっくりくる。
江戸名所図会に描かれた千束池と当社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「千束池」「袈裟掛末」と記された一枚。
現在は洗足池とされているが、当時は千束池の呼称が一般的であった。
上述の日蓮が法衣を掛けたと伝わる「袈裟掛けの松」は右手に描かれている。
当社は左上に小さくだが描かれている。
当社を中心に拡大したのが上図。
「八まん」の文字が記され、2基の鳥居が見える。
『新編武蔵風土記稿』にも「鳥居二基をたつ」と記されているので、それであろう。
その先に社殿を見る事ができ、配置などは現在とあまり変わらなかった事が窺える。
歌川広重の浮世絵にも描かれた洗足池
さらに洗足池は浮世絵でも描かれている。
浮世絵の題材にされている事からも分かるように、洗足池は江戸近郊の名勝であり人気の高い地であった。
歌川広重が描いた『名所江戸百景』に「千束の池袈裟懸松」として登場する。
やはりメインは「袈裟掛けの松」であり、洗足池と共に江戸の名所の一つであった。
当社は左上に小さな鳥居と社殿が描かれており、そちらで見る事ができる。
構図としては『江戸名所図会』をかなり模した広重の一枚である。
当社周辺を拡大したのが上図。
こちらでは鳥居は1基しか描かれていない。
社殿の右手にある建物は、庵室であろう。
同じく歌川広重が描いたという『絵本江戸土産』にも描かれている。
『絵本江戸土産』は広重の『江戸名所百景』の下絵にもなったと云われる作品。
色付けされており、千束池の姿を俯瞰で見る事ができる。
やはり左上にある当社の鳥居は1基のみで、この年代には1基失われていたのであろう。
明治維新とその後の歩み
明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。
明治二十四年(1891)、洗足池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「千束軒(洗足軒)」が建てられる。
勝海舟は洗足池を大変愛したと伝わり、現在も勝海舟夫妻の墓が洗足池に置かれている。
明治三十九年(1906)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
洗足池の形も今とほぼ同じで、古くからの地形を残しているのが伝わる。
馬込村の千束と呼ばれた一画であった事、さらに上述したような「勝海舟墓」の記載もある。
昭和七年(1932)、東京市(現・東京都)は、隣の5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)を編入して新たに20区を置き東京35区となった。
同年、報知新聞社が新市域の八名勝を市民から募集して選定。洗足池は新東京八名勝に選ばれ、当社の社頭に石碑が残る。
昭和十七年(1942)、社殿を新しく造営。これが戦火を免れ現存している社殿である。
戦後になり、洗足池公園が色々と整備。
平成二十八年(2016)には池月橋が竣工。
当社も崇敬を集め続け、現在に至る。
境内案内
洗足池の西のほとりに鎮座・池月橋と朱色の両部鳥居
洗足池公園内の西側に鎮座する当社。
園内には当社に向かう橋がかけられており、この橋を池月橋と云う。名馬・池月の伝説から名付けられた橋。
平成二十八年(2016)に竣工して、現在は渡る事ができる。
名勝として名高い洗足池の景色を楽しめる一画である。
上画像はボートに乗り撮影した池月橋。
池月橋を渡った先の左手に一之鳥居である朱色の両部鳥居。両部鳥居は「厳島神社」に代表される鳥居であるが、こうした池や湖畔との相性が良い。
二之鳥居の先、石段の上に鎮座
その先に二之鳥居と社号碑。社号碑には「村社 八幡神社」の文字。
鳥居を潜ると石段。『新編武蔵風土記稿』には「前に石階十六級」とあり、古くから小高い場所に鎮座していた事が分かる。
上った右手に手水舎。水も張られて綺麗に管理されていて、社殿は更に石段を上った先となる。
戦前の社殿が現存・江戸後期の狛犬
更に小高い位置に社殿が鎮座。現在の社殿は昭和十七年(1942)に造営されたもの。
戦火を免れ現存している。
拝殿の彫刻は彫りも深く良い出来。
拝殿前には一対の狛犬。狛犬は江戸時代後期のもので古い。
天保丁酉の銘が彫られており、天保八年(1837)に奉納された事が分かる。
9月大安に奉納され、現存している。
池月の大絵馬や池月像・境内社など
社殿の左手には奉納された巨大な絵馬。洗足池は、名馬「池月」が、源頼朝と出会った地とされる。
すると、青き毛並に白き斑点を浮かべ、まるで池に映る月のような姿のたくましい野生の馬が現れたため、この馬を捕らえ、現れた時の姿から「池月(いけづき)」と名付けた。
境内の右手には池月像。『平家物語』の「宇治川の先陣」で登場する名馬「池月」。
「いけずきという当世第一の名馬に乗っていたこともあり、宇治川の流れが速いにもかかわらず、まっすぐにさっと渡って向こう岸に乗り上げた。」と記されている。
境内社は左手に神明社。その右隣に稲荷社。
『新編武蔵風土記稿』には、末社として稲荷社が記されているので、古くから祀られているお稲荷様であろう。
御朱印は千束八幡神社と厳嶋神社の2社を用意
御朱印は社務所にて。社殿左手奥が社務所となっていて、いつも丁寧に対応して下さる。
御朱印は当社こと「千束八幡神社(洗足池八幡宮)」と、洗足池公園内に鎮座する兼務社「厳嶋神社(洗足池辨財天)」の2社を用意。御朱印には「城南の名勝」の文字が書かれ、江戸時代の頃より名勝とされ、戦前にも新東京八名勝に選定されるなど、東京を代表する景勝地である事が伝わる。
洗足池に映える洗足池辨財天(厳嶋神社)
洗足池の敷地内には「洗足池辨財天(厳嶋神社)」という社が鎮座。境外になってしまい別の神社という扱いだが、当社の兼務社であり、上述の通り御朱印も当社にて頂ける。
洗足池の小島に鎮座しているので朱色の橋を渡る形。弁天橋とも称され、この橋の下は貸出ボートで潜る事も可能。
橋の下を潜る機会はあまりないので、ボートで潜ってみるのもよいだろう。
「洗足池辨財天」は「厳島神社」(現・広島県廿日市市)からの勧請になる。池側から見ると、洗足池の小島に鎮座する形。
古来、洗足池の北端の小島に祀られていたが、長い年月より池中に没してしまっていたと云い、昭和の初め、多くの人びとの夢枕に弁財天が現れたため、これを契機として社殿造営。昭和九年(1934)に、鎮座している小島の築島と社殿の造営となった。
扁額には「洗足池辨財天」の文字。
古い手水鉢には「江島神社」にも見れる、向かい波の中の三つの鱗の紋。
神社として再建されたのは昭和九年(1934)と比較的新しいが、以後、洗足池の名所の1つとして崇敬を集めている。大変見事な景観で撮影スポットとしても人気。
池には弁天様が映える。
桜の名所など景勝地として名高い洗足池・ボートも人気
洗足池を含む一帯は大田区立・洗足池公園となっている。
上述した池月橋の他、数々の野鳥も姿を見せ、景勝地として名を馳せる。水生植物園やボート乗り場など多くの見どころが存在。
ボートでは景観のよい地を地上とは違う視点で楽しめるため人気が高い。
日曜祝日にもなると多くのボートが池を漂う。
池には恋や野鳥の姿を多く見る事ができる。
・サイクルボート(大人2人+幼児1人/30分600円)
・スワンボート(大人3人または大人2人+子供2人/30分800円)
・ローボート(大人3人/30分400円)
券売機が置かれていて、発券時間は9時30分-16時30分。
※悪天候や管理の都合で変更になる場合があり。
更に、都内有数の桜の名所としても知られ、春には賑わいを見せる。
勝海舟夫妻の墓と西郷隆盛留魂碑
他にも洗足池には多くの史跡が残っている。
当社とはやや関連が薄くなってしまうがこの場で少し紹介したい。
代表的なのが勝海舟夫妻の墓。
洗足池公園の西側にある当社とは逆の東側にある。この墓所は大田区の文化財に指定されている。
かつては、池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「千束軒(洗足軒)」が存在。勝海舟は洗足池を大変愛したと伝わり、墓はこの地に建てるように遺言されていた。
勝夫妻の墓の隣に「西郷隆盛留魂碑」が鎮座。明治維新後、洗足池を愛した勝が移住し、西郷もここを訪ねて勝と歓談したと伝わる。
西郷隆盛が西南戦争で自刃した後「浄光院」境内に勝海舟が自費で建てたもの。
大正二年(1913)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建された。
江戸総攻撃中止と江戸城無血開城を会談によって決めた勝海舟と西郷隆盛。
勝海舟の墓の隣に、勝が西郷を偲んで自費で建てた留魂碑が並ぶのは、何とも感慨深い。
日蓮伝説が残る・三代目袈裟掛けの松
洗足池の東のほとりには、再建された「妙福寺」。この奥には日蓮伝説が残る袈裟掛け松が三代目として残る。
山門を潜った先、左手にあるのが「袈裟掛けの松」。
江戸時代には名所とされ浮世絵の題材にもなるなどしたが、現在のは三代目「袈裟掛けの松」。
空高く聳え立つ。
その際、日蓮はここで休憩を取り、傍の松の木に法衣をかけて、池の水で足を洗った。
日蓮が、この池の水で足を洗ったため「千束池」と呼ばれていた池が、「洗足池」とも呼ばれるようになったとされている。
所感
洗足池の西のほとりに鎮座する当社。
江戸時代に「景色もっとも勝れたり」と描かれていたように、現在も洗足池の景色は見事。
この洗足池は、池上氏、八幡太郎や源頼朝、日蓮といった伝承の他に、勝海舟が別邸を構えており墓所もあったりと、色々な歴史がつまったエリア。
その中でも当社は千束の鎮守として崇敬を集めており、歴史の詰まった古社である。
今も多くの人が洗足池散策を楽しみつつ、当社に立ち寄り参拝をしていく。
四季折々の素晴らしい景色を散策しながら参拝できるというのは、実に素晴らしい事だと思う。
9月の例大祭には子供の頃によく連れて来てもらった記憶があり、お化け屋敷や見世物小屋など変わったのが出ていた事を覚えていて、何だか懐かしい。
神社画像
[ 池月橋 ]
[ 両部鳥居 ]
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 石段 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 大絵馬 ]
[ 神明社 ]
[ 稲荷社 ]
[ 神楽殿 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 参集所 ]
[ 社務所 ]
[ 石碑 ]
[ 案内板 ]
[ 池月像 ]
[ 洗足池辨財天 ]
[ 妙福寺(袈裟掛けの松) ]
– 以下、2016/08/04撮影 –
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