神社情報
武蔵一宮氷川神社(むさしいちのみやひかわじんじゃ)
御祭神:須佐之男命・稲田姫命・大己貴命
社格等:武蔵国一之宮(三之宮)・延喜式内社(名神大社)・官幣大社・勅祭社・別表神社
例大祭:8月1日
所在地:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407
最寄駅:大宮駅・北大宮駅・大宮公園駅・さいたま新都心駅(一の鳥居最寄駅)
公式サイト:http://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/
御由緒
氷川神社は社記によると今から凡そ二千有余年第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と伝えられます。御祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱の神で大己貴命は須佐之男命の御子に坐して国土を天照大神の御孫瓊々杵命に御譲りになられた国土経営の神であります。稲田姫命は須佐之男命の御妃で大己貴命の御母神であります。この御三神をここにお祀りされたのは国土経営民福安昌祈願の為であって大和朝廷の威光が漸次東方に及ぶにつれて、当神社の地位が益々重くなったのでありましょう。地勢上から見ても氷川神社は見沼をひかえ東西南北に展開し交通の便もよく土地も肥沃で民族は弥々繁栄し今日の基をなすに至ったものと思われます。
第十二代景行天皇の御代日本武尊は当神社に御参拝東夷鎮定の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き格式高く、又今から凡そ千二百年前の聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定せられた延喜式神名帳には名神大社として月次新嘗案上の官幣に預り、又臨時祭にも奉幣に預る等歴朝の崇敬殊の外厚く、又武家時代になっては鎌倉、足利、北条、徳川氏等相継いて尊仰し祭祀は厳重に行われておりました。
明治の御代に至っては明治元年明治天皇は都を東京に遷され、当社を武蔵国の鎮守勅祭の社と御定めになり左の勅書を賜わったのであります。
勅ス、神祇ヲ崇メ、祭祀ヲ重ンズルハ、皇国ノ大典ニシテ政教ノ基本ナリ。然ルニ中世以降、政道漸ク衰エテ、祀典挙ラズ。逐二綱紀ノ不振ヲ馴致セリ。朕深ク之ヲ慨ク。方今更始ノ秋、新二東京ヲ置キ、親臨シテ政ヲ視将こ先ズ祀典ヲ興シ、綱紀ヲ張り、以テ祭政一致ノ道ヲ復サントス。乃チ武蔵国大宮駅氷川神社ヲ以テ当国ノ鎮守ト為シ、親幸シテ之ヲ祭ル。自今以後歳ゴトニ奉幣使ヲ遣シ以テ永例ト為サン。
次で同年十月二十八日明治天皇当神社に行幸、御親ら祭儀を執り行わせられ更に三年十一月一日再び御親祭あらせられました。この時の御行列は非常に荘厳で京都からの御遷都と同様の御盛儀であったといわれます。此の様に明治天皇が御親祭あらせられたのは桓武天皇平安遷都の折賀茂社をお祀りした御例によられたものといわれ、その模様を謹写した山田衛居筆の氷川神社行幸絵巻物は今も当社の社宝として大切に保存されて居ります。次で明治四年五月十四日官幣大社に列せられました。同九年奥羽御巡幸の節には米田侍従番長を御代拝として参向せられ、同十一年八月三十一日三度の行幸御参拝あらせられました。昭和九年昭和天皇の御参拝、昭和三十八年十月には今上陛下が皇太子殿下の御時、御参拝になられております。昭和四十二年十月明治天皇御親祭百年大祭が執り行われ、社殿、その他の諸建物の修復工事が完成、十月二十三日には、昭和天皇・皇后両陛下お揃いにて親しく御参拝を賜りました。昭和六十二年七月には今上陛下が皇太子殿下の御時、同妃殿下とお揃いにて御参拝になられ、平成五年五月には天皇・皇后両陛下の御参拝を賜っております。
又氷川神社名の神社は大宮を中心にして埼玉県下及び東京都下、神奈川県下に及びその数実に数百をかぞえます。今日県下だけでも百六十余社に及ぶことは御神威の高く尊きによるとは申せ武蔵国造の子孫がこの大宮の地を本拠として民族的政治的に著しい発展をしたことを物語って居るものと考えられます。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2017/08/29(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/12/09(御朱印拝受)
参拝日:2015/05/14(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
授与所にて。
御朱印帳
初穂料:1,000円
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意している。
パステル調の生地に青色と桃色の雲が描かれたもの。
裏面には神紋の八雲と社号がデザインされている。
他に神橋や神門がデザインされたものも用意。
詳細は公式サイトの授与品のページにて。
授与品・頒布品
交通安全御守(バイク・自転車用)
初穂料:500円
授与所にて。
歴史考察
武蔵国一之宮・氷川神社の総本社
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町に鎮座する神社。
武蔵国の一之宮または三之宮。
延喜式神名帳に記載された式内社(名神大社)。
旧社格では官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社で、祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる勅祭社であり、宮中の四方拝で遥拝される一社でもある。
東京都・埼玉県に約200社程点在する「氷川神社」の総本社。
地名から「大宮氷川神社」と称される事もあるが、当社では「武蔵一宮氷川神社」を掲げている。
見沼の水神を祀る太古の信仰
社伝によると、第五代孝昭天皇三年(BC473)の創建と伝わる。
見沼は江戸時代中期に開拓されるまで大変広大な沼であり、土着の神を祀っていた太古の信仰であったのだろう。
現在、当社の境内摂社に「門客人神社」が鎮座している。かつて「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた神社で、当地の地主神とされており、古くから当地に祀られていた神というのがこの荒脛巾であった事が窺える。
出雲族の移住で須佐之男命が祀られる・氷川の由来
第十二代景行天皇御代(71年-130年)、出雲族が当地に移住。
出雲の神である現在の御祭神・須佐之男命(すさのおのみこと)を祀ったとされる。
同時代、日本武尊が当社に参拝。
東夷鎮定の祈願をしたと伝わっている。
成務天皇御代(131年-190年)、出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬した。
古くは見沼の水神、荒脛巾(あらはばき)と呼ばれた神を祀る土着の信仰であったと思われるが、出雲族の移住と開拓によって、出雲の神(須佐之男命)を祀る神社となり、武蔵国造からの崇敬など多大なる信仰を集めた。
斐伊川は、古くから度々洪水が起こっており、これがスサノオが討伐したヤマタノオロチ伝説の元になったと云う説もあるように、出雲やスサノオとの繋がりが深い。
東京・埼玉に点在する氷川信仰
当社は氷川神社の総本社であり、当社を中心にして氷川信仰が広まった歴史を持つ。
氷川信仰の神社は、現在も約200社ほど存在。
しかしながら、全国的に見ると東京と埼玉以外ではほぼ見かける事ができない信仰である。
埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして分布しており、荒川流域での開拓の神として勧請されていたものと推測できる。
また、氷川信仰はスサノオに対する信仰の一つであり、信仰圏においても独自の信仰圏を形成。
全国的に見ると、スサノオ信仰は2つに分けられる。
かつて神仏習合時代に牛頭天王を祀っていた祇園信仰の神社。(八坂神社、祇園神社、津島神社など)
氷川信仰はこのいずれとも違い(出雲信仰寄りではある)、独自の色合いが近い。
武蔵国を中心に崇敬を集め、出雲神話と土着の神(見沼の水神・荒脛巾)が融合した、この地にとって重要な独自に発展した信仰だった事が窺える。
一直線に並ぶ三社一体の氷川神社説
広大な見沼付近には、当社の他にも氷川信仰の神社が多数鎮座。
その中でも三氷川とも呼ばれる神社がある。


この三社で一体の「氷川神社」とする説が存在。
これら三社は直線上に鎮座しており、Google Mapsで確認してみても、見事に直線のラインに三社が鎮座しているのが分かる。
太陽は夏至に西北西の当社に沈み、冬至には東南東の「氷川女體神社」から昇る。
稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な配置とも云われる。
また御祭神からも三社一体の姿が窺える。
上述したように出雲の神であり、出雲族によって祀られたと伝えられている。
他に稲田姫命・大己貴命も祀るが、平安時代の『延喜式神名帳』には一座と記されているように、古くは須佐之男命のみ祀られていた可能性が高い。
稲田姫命は須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐之大蛇退治の際に助けて妃にした姫とされており、社号の「女體(にょたい)」は御祭神に由来する。
大己貴命は大国主(おおくにぬし)の別名で「出雲大社」に祀られている神として知られる。
須佐之男命と稲田姫命の間に生まれた息子であり、大黒様と習合し崇敬を集めた。
御祭神で見ると三社の関係はこうなる。
武蔵一宮氷川神社 | 男体社(須佐之男命) | 夫 |
氷川女體神社 | 女体社(稲田姫命) | 妻 |
中山神社 | 簸王子社(大己貴命) | 子 |
以上の事から、三社一体の「氷川神社」が形成されていたという説。
古代はもっと広大だった見沼を神池として三社が配置され、広大な神域を有する「氷川神社」であったとされている。
式内社に列する古社・武蔵国一之宮〜三之宮の変遷
このように見沼を中心に広大な神域を有し、荒川流域に広まった氷川信仰。
その総本社である当社は、古くから朝廷に名前が知られた大社であった。
貞観元年(859)、『日本三代実録』に階位を授かる記述が見られる。
『日本三代実録』には「武蔵国氷川神」として記載されている。
延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』には「氷川神社」として記載。
式内社の中でも最高位である名神大社に列した。
いつしか武蔵国の一之宮として崇敬を集めたとして知られる。現在も武蔵国一之宮の社号碑や扁額を多く見る事ができる。

当社を武蔵国の一之宮と記す古い史料は、室町時代に編纂された『大日本国一宮記』に見る事ができる。
但し、南北朝時代の『神道集』には「小野神社」が一之宮と記されており、当社は三之宮とある。

そのため、当社が一之宮であったか三之宮かという議論は未だになされている。
東国武士から信仰を集めた中世・徳川将軍家からの崇敬
天慶三年(940)、平将門の乱が発生。
討伐に向かった平貞盛は当社で戦勝を祈願し、乱を平定。
治承四年(1180)、源頼朝が社殿を再建。
3,000貫もの社領を寄進し、建久八年(1197)には神馬神剣を奉納している。
天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
武蔵国一之宮であった当社を篤く崇敬し、朱印地三百石が寄進されている。
文禄五年(1596)、家康によって社頭を造営。
寛文七年(1667)、徳川将軍家によって新社殿を造営。
このように徳川将軍家からも篤く庇護された。
大宮の地名由来・江戸時代の大宮宿
さいたま市の「大宮」の地名は、当社に由来する事は知られる。
現在の大宮は、江戸時代に整備された「大宮宿」を基礎としている。
寛永五年(1628)、当地を治めていた関東郡司・伊奈忠治が、当社の参道を街道とする事は恐れ多いとして、西側に街道を付け替えて、当社の参道沿いの宿や家を新設街道沿いに移転。
当社の参道から移転した大宮宿が、現在の大宮の基礎となった。
江戸時代に描かれた当社(男体社・女体社・簸王子社)
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
最初は当社の長い参道の入り口を描いている。
「氷川宮大門前」と描かれており、現在も一の鳥居から約2kmにも及ぶ長い参道があるのだが、当時から長い参道があったのが見て取れる。
「並木十八丁」と描かれており、古くは松の木が並んでいた時期や、杉の木が並んでいた時期もあったようで、戦後になり現在は欅(ケヤキ)の木がメインに植えられている。
当社の境内は3ページに渡り描かれている。
当時から広大で立派な境内であった事が窺える。
境内の配置などは現在と違いも多く、特に顕著なのが3つの社殿であろう。
参道を真っ直ぐ進み神橋の前に鎮座するのが「火王子」と描かれた社殿。
これが「簸王子社」であり、当時の本社の扱いであった。
「簸王子社」の後ろに神橋があり、その先には奥宮と称された「男体社」「女体社」が鎮座。
この当社を形成した「簸王子社」「男体社」「女体社」の三社の他に、少し外れたところに「荒波々畿社」と記された「荒脛巾(あらはばき)社」(橙円で囲った箇所)が鎮座。
これが現在「門客人神社」として祀られている境内摂社であり、古くは当地の地主神であった神社と見られており、出雲の神が祀られるようになった後も、こうして境内に置かれ続けていた。
明治天皇が関東の神社で最初に行幸・戦前の古写真
明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、明治天皇が東京入都。
4日目に明治天皇は、当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めた。
10日目の10月28日、明治天皇は大宮に行幸し、関東の神社の中で最初に当社に親祭を行った。
後に昭和天皇、今上天皇も当社に参拝している。
明治四年(1871)、官幣大社に列する。
明治十五年(1882)、社殿を改造。
『江戸名所図会』にも描かれていた、「簸王子社」と「女体社」を廃して「男体社」に三神を祀るようになり、3つの社殿の形は配され、現在の1つの社殿となった。
明治十七年(1884)、当地の社有林が開かれ「大宮公園」として整備。
戦前の当社の古写真では、当時の当社の様子を知る事ができる。
大正元年(1912)の『埼玉県写真帖』に掲載された当社。
奥に見えるのが明治十五年(1882)に改築された当時の社殿であり、かつての「簸王子社」「女体社」「男体社」がこの社殿に合祀された形となっている。
大正七年(1918)の『日本名勝旧蹟産業写真集』に掲載された当社の参道。
今も昔も変わらぬ長く立派な参道を見る事ができる。
昭和七年(1932)の『東北線赤羽大宮間電気運転設備概要』より、当社の参道。
杉並木と記されているように、当時の参道は杉がメインであった。
江戸時代の頃は松が多く植えられ、戦前は杉、戦後になり現在は欅(ケヤキ)の木がメインに植えられていて、参道の木にも様々な変遷を見る事ができる。
こちらは当時の本殿で、この少し後に改築される事となる。
昭和十五年(1940)、国費で社殿・楼門等を改築。こうして現在の姿に整備された。
戦後に入り、神社本庁の別表神社に指定。
現在は宮中の四方拝で遥拝される一社に数えられる。
平成二十九年には明治天皇御親祭150年祭が斎行
平成二十九年(2017)、10月28日に「明治天皇御親祭150年祭」が斎行。現在はそれに向け境内整備が行われている。
4日目に明治天皇は、当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めた。
10日目の10月28日、明治天皇は大宮に行幸し、関東の神社の中で最初に当社に親祭を行った。
大正六年(1917)に50年祭を行い、昭和四十二年(1967)に100年祭が行われた。
平成二十九年(2017)は、記念すべき150年祭であり、厳粛かつ盛大な祭りが予定されている。
境内案内
一之鳥居から三之鳥居までの約2kmにも及ぶ氷川参道
当社の参道は約2kmにも及ぶ氷川参道。
そのため一之鳥居は、社頭の三之鳥居からかなり離れている。一之鳥居の先の参道は、一方通行の車道となっていて、車で潜る事も可能。
近年、車道と歩道が完全に分離されるように整備された。
参道の途中には天満神社などの摂社が鎮座している。
一之鳥居からの長い参道を進むと、二之鳥居が見えてくる。二之鳥居は元々は「明治神宮」の大鳥居だったもの。
昭和四十一年(1966)の落雷によって「明治神宮」の破損し、新たな鳥居を建立しており、落雷した旧大鳥居を昭和五十一年(1976)に、当社の二の鳥居として移設した。
二之鳥居からの長く広い参道を進むと、三之鳥居。神域となりやや南東に向かって参道が伸びる。
広大な境内は江戸時代の配置の面影も残している。
神橋と神池・立派な朱色の楼門
参道を進むと神橋が見えてくる。江戸時代の頃は神橋の前に「簸王子社」が鎮座し、それが本社の扱いで、神橋より奥は奥宮であった。
現在は神橋の先に社殿となる。
神橋の左右は神池として整備。こうした神池を有する境内は江戸時代の頃から変わらない。
楼門は朱色が映える立派なもの。昭和十五年(1940)、国費で改築されたもので、現在も当社のシンボルの1つとして知られる。
舞殿と国費で改築された社殿
楼門を潜った先には舞殿。楼門と拝殿の間に、神様に舞を見せる舞殿が置かれる形。
この舞殿の奥が社殿となる。
社殿は昭和十五年(1940)に国費で改築されたもの。手前に拝殿があり、奥に本殿。
江戸時代の頃の「男体社」が鎮座していた場所であり、現在は江戸時代の「簸王子社」「女体社」「男体社」の三社がこの本殿に合祀されて、御祭神は須佐之男命・稲田姫命 ・大己貴命の三柱。
楼門・舞殿・社殿の並びが大変美しい。一之宮らしい素晴らしい境内となっている。
御朱印は右手にある授与所にて。オリジナル御朱印帳も2種類用意している。
地主神である門客人神社など多くの境内社
楼門を潜って右手にある東門から出ると、すぐ先に門客人神社が鎮座。かつて「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた神社であり、当地の地主神とされ、出雲族が当地に移住し出雲の神(スサノオ)を祀るより前に、当地に祀られていた神と考えられている。
その隣には御嶽神社が並ぶ。
境内の左手、神池には宗像神社。江戸時代の頃から神池に祀られていた神社。
宗像三神(弁天様)を祀る。
その向かいには稲荷神社。お稲荷さまらしく朱色の奉納鳥居が連なる。
他にも住吉神社・神明神社・山祇神社・愛宕神社・雷神社・石上神社が祀られた六社。天津神社や松尾神社など様々な神が境内社に祀られている。
氷川神社発祥の地「蛇の池」
手水舎の裏手、神池よりも裏手に「蛇の池」と呼ばれる整備された一画がある。本殿の左手あたりにあたる場所に出て境内の外れの位置。
「蛇の池」と呼ばれ、賽銭箱より先は立入禁止。
当社発祥の地とも伝えられる神聖な地であり、穴場で人が殆ど訪れない静かな空間なので足を運ぶのもよいだろう。
古来、蛇は水神の化身とされ、ご祭神の須佐之男命はその大蛇(八岐大蛇)を退治した伝承に因り、水を治める神とされる。ご祭神の神威神徳に由来し、この池は蛇の池とされる。蛇の池は、境内の神池やその先に広がる見沼の水源の一つで、現在でも地中深くより水が湧き出ている。この神秘的な湧水があった為に、この地に氷川神社が鎮座したとも伝えられ、氷川神社発祥の地と云われる。(境内の掲示より)
戦艦武蔵の碑・武蔵の艦内神社は当社からの分祀
三之鳥居を潜ってすぐ左手には戦艦武蔵の碑。平成二十七年(2015)に整備され置かれたばかりの新しい碑となっている。
昭和十七年(1942)、広島県呉で行われた竣工式には、当社より6名の神職が出向し、武蔵の艦内神社は、当社から分祀されたもので「武蔵神社」と命名された。
武蔵の名前は武蔵国から付けられたもので、武蔵国一之宮の当社より勧請された艦内神社であった。
平成二十六年(2014)、武蔵がフィリピン沖で戦没してから満70年となり、没後70年を節目として有志が集まり、戦艦武蔵顕彰会が設立され、奉納された。
他にも新旧含め多くの建造物や碑が置かれた当社。
見どころが豊富で素晴らしい境内となっている。
所感
氷川神社の総本社として崇敬を集めた当社。
東京や埼玉の一部に点在する氷川信仰は、独自の信仰圏を持ち、調べれば調べる程に興味深い。
武蔵国一之宮として古くから今に至るまで崇敬され続けてきた古社であり、「大宮」の地名由来、町を形成する基礎にもなった地域を代表する神社。
現在も初詣の人出では約200万人を超える人が訪れる日本有数の神社の一つ。
武蔵国において重要な役割をしてきた当社は、現在もなお厳かな雰囲気を保ち、崇敬されているのが伝わってくる。
一之宮らしい大社であり、実に良い神社である。
神社画像
[ 社号碑・一之鳥居 ]
[ 一之鳥居 ]
[ 社号碑 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 三之鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 神橋 ]
[ 手水舎 ]
[ 楼門 ]
[ 舞殿 ]
[ 楼門・舞殿 ]
[ 拝殿 ]
[ 拝殿・本殿 ]
[ 舞殿・社殿 ]
[ 授与所 ]
[ 東門 ]
[ 門客人神社 ]
[ 御嶽神社 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 御神水 ]
[ 御神井 ]
[ 蛇の池 ]
[ 神池 ]
[ 宗像神社 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 猿田彦社 ]
[ 武州一の宮流碑 ]
[ 松尾神社 ]
[ 六社 ]
[ 奉納酒樽 ]
[ 額殿 ]
[ 神楽殿 ]
[ みこ神楽殿 ]
[ 社務所 ]
[ 戦艦武蔵の碑 ]
[ 案内板 ]
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